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壁ドン

ー/ー



 結局のところ、相性がいいのか悪いのかというのは今もわからない。

 奥手で慎重な盟子に対して、南緒は感情のままに即行動するタイプ。
 これまでもずっと振り回され続けてきたのだけれど、南緒は間違いなく盟子にないものを持っていて、だから何だかんだ続いていたんだろう。
 
 あれは中学生の頃。
 他クラスの男子二人とダブルデート形式で初めてカラオケボックスに入った時も、南緒が全部お膳立てしてくれた。
 結局のところ盟子は南緒の隣で曖昧にニコニコしていただけだったけれど、男子と女子のああいう世界があるんだと知れたのは刺激的だった。
 南緒はいつも、少し背伸びした景色を見せてくれる子だった。

「行くぞー。ほら盟子の用事なんだから急ぎなよ」

 昼休み、フレンチピンクに整えられた指先ががっちりと盟子の腕に食い込む。頼んでなんかいないのに、お昼を食べ終わった途端に南緒は盟子を拘束する。既にメイク直しは済ませ、ネクタイを緩め、学校指定外のざっくりとした綿のワイシャツの胸を普段よりボタン一つ多く開襟し、スカートはギリギリの丈を攻めている。それが計算し尽くされた格好であることくらい盟子にも解る。目的地は美術準備室。

 ドアをノックすると、ふぁい、とふやけた返事が聞こえた。
 失礼しまーすと言ったのも、率先して入って行ったのも南緒。盟子の用事だとか言いながら。

「どちら様ー?」
 薄暗い美術準備室の中で、窓から射しこむ逆光の中にほっそりとした輪郭が浮かび上がる。主張の激しいロイヤルブルーのシャツからのぞく白い首筋。その上でうるっとしたローズレッドの唇が怪しく弧を描いた。
「散らかっててごめんねぇ、今部屋片づけてて」
「あー、玲峰センセ、それグロス塗ってる?」
 瞬間移動、にしか見えなかった。
 南緒はあっという間に守谷の懐に滑り込むと、きわどい至近距離まで顔を寄せる。鼻先が唇に触れそうなくらいに。
「ん? ああこれ、ただのリップよー?」
「えー嘘だぁ?」
 小悪魔な上目遣いと鼻にかかった甘え声。あの角度では襟元から谷間やらブラまで見えてるんじゃと盟子はあわあわするしかない。
 けれど守谷は声も顔も平常モードで、オネェさんだとやっぱり女の子の谷間は興味ないのかな?なんてしょうもないことを考えてしまって。だって女子高生にこんなことされたら普通の男性はテンパってもおかしくないはずなのに。

 ふ、と守谷が薄く微笑んだ。
 次の瞬間。

 ばんっという鈍い音と共に、南緒が身を竦ませひっと小さく悲鳴を上げる。
 てっきり石膏像か何かが転がり落ちたのかと思った盟子は、目の前に広がる信じられない光景に呆然とした。
 ロイヤルブルーの両腕がミルクティ色の髪を数本を捕まえたまま、後ろの壁に南緒を縫い付けている。
 もしやこれは壁ドンというやつでは、と盟子は思った。
 リアルな壁ドンを目にするのは生まれて初めてだ。
 しかも、南緒が守谷に壁ドンされているという。
 壁ドン、壁ドン、壁ドン…………

 南緒はぎょっとしたような顔でぽかんと口を開けていて、明らかに計算しつくされた小悪魔ではない、ちょっと間の抜けた顔をしていた。
「……試してみちゃう? ただのリップかどうか」
 そこへにんまり微笑んだローズレッドの唇が迫る。逃げ場のなくなった無防備な南緒の口元に、あと僅かで触れてしまう。

「なーんてね。あははははは」

 ところが、あと数センチというところで守谷はぱっと身を翻す。からっとした笑い声が響く。
 笑いを噛み殺しながら、守谷はぽんと南緒の頭に手を置いた。
「あんた今ちょっと本気にしたね?」
「キスしたってよかったよ! 玲峰先生なら!」
 南緒は慌てて小悪魔モードに戻って頬を膨らませて食い下がる。このまま引きさがるわけない。
 でも今のは完全に守谷に一本取られた。

「やーめやめ。あたしタイホされちゃうし」
「私、先生のこと好きだもん!」
「やーん、そういうの困っちゃう、玲峰どうしよぉ」

 すごい、と素直に思った。南緒ではない。守谷のことだ。
 こんなふうに、誰も傷つけずに流せるのってすごい。

「私本気だよ!? 玲峰先生になら全部あげてもいいよ?」
「遠慮しとくー」
「はぐらかさないで!」
「はいはーい。なら実力で落としてみ」
「いいよ! 絶対落とす! そしたら付き合ってくれる?」
「落とせたらね。で、ここに来たのは何の用事なの?」

 そう言って、守谷はぱたっとスイッチを切り替えて盟子の方を見た。今までこの部屋の空気と化していた盟子は、存在を守谷に認識されていたことにちょっと驚いた。南緒の取り巻きその7くらいにみなされていると、てっきり思っていたのに。

「そうそう、この子ね、美大受験考えてるみたいなんだけど……」
 当然のように南緒が勝手に口を切った。
 盟子の進路のことなのに、ここに本人がいるというのに。小学生の時に賞を取ったとか予備校を考えているとか、そんなことまで勝手にペラペラとしゃべる。
 盟子の美大進学は、南緒にとって目当ての男性とお近づきになるための足掛かり。共有するにはまたとない話題。
……でも、それってどうなんだろう。私はそれをされて嬉しいのだろうか、嫌なのだろうか。
 わからない。ただ、何となく消化しきれない感情が心の奥底で少しずつ少しずつ重たくなってきている気がする。

 守谷は南緒の話を一通り聞き終えると、まだ皆の名前覚えてなくてごめんねと前置きしながら、隅っこに佇んでいる盟子にむけて名前を尋ねる。梅崎盟子、と応えたのはまたもや南緒だった。

「えーと梅崎さん、あなた絵を描くのが好き、なのかな?」

 それは確かに、まっすぐ盟子に対して投げかけられた問いだった。他者の返答を許さない。そんな緊迫感があった。
 そして、美大に行きたいのね?という決めてかかった聞き方ではなかった。
 小さく頷いて盟子は肯定する。絵を描くこと自体は嫌いではない。

「だよね。このくらいの年齢じゃ専攻とか将来とかまだ決まってないよねぇ。特に美術系なんて将来のこと想像つかないもん。絵を描くのが好き、ってことだよね」

 おずおずと見返した守谷の顔は、ごく普通に真面目な先生のそれだった。
「聞きたいことがあれば何でも聞いちゃって? 答えられる範囲で説明するから」
 守谷は微笑んだ。

「……あの」
 訊いてみたかったことは、あるにはある。
「美大を目指すなら、予備校は必須ですか?」
 美大を受験するとはっきり決めて、その他の可能性を全て排して予備校に行かないといけないのか?ということ。
 それともう一つ。
「必須だとしたら、今この時期からスタートしないとダメなんですか?」
 母は今から始める必要があると言う。

 けれど返ってきた答えは、あっさりと盟子を絶望に突き落としてくれた。

「うーん。まあ普通は行くよね。よっぽどの天才でもない限り」
 ならば天才ではない自分は、母を説き伏せない限りは予備校に行かされることになる。
「時期は……別に決まってないかな」
 もっと早くから、それこそ中学から行く人もいるし高1で行く人もいるし、3年生からの場合もあるし、受験大学にもよるかなぁと守谷は続けた。
「あと美大は浪人も多いから、家の経済状況にもよるよねぇ。美大に限らず浪人てお金かかりますからね。お家の方と相談の上、って答えでいいかしら?」

 貧乏で生活に困っているわけじゃないけれど、お金が有り余ってるってわけでもない。見て見て今日これ半額だったの!なんて母に嬉々として牛肉のパックを見せられることもある。だとしたら、浪人なしで最短コースで入れと暗に要求されているのに等しい。これから行かされようとしているのはそんな道のりだ。
 ひとつだけ確実なのは、けっこう、いや相当大変、ってことだ。

「じゃあさ、とりあえず明日の放課後、2時以降にここ来てくれるかしら?」

 話はそれで終わると思ったら、守谷がそんなことを言い出した。
「オッケー! 連れてくるから!」
 返事をしたのは南緒だった。
 明日また守谷と合える理由ができた南緒だけがひとり、ご機嫌そうな顔をしていた。






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 結局のところ、相性がいいのか悪いのかというのは今もわからない。
 奥手で慎重な盟子に対して、南緒は感情のままに即行動するタイプ。
 これまでもずっと振り回され続けてきたのだけれど、南緒は間違いなく盟子にないものを持っていて、だから何だかんだ続いていたんだろう。
 あれは中学生の頃。
 他クラスの男子二人とダブルデート形式で初めてカラオケボックスに入った時も、南緒が全部お膳立てしてくれた。
 結局のところ盟子は南緒の隣で曖昧にニコニコしていただけだったけれど、男子と女子のああいう世界があるんだと知れたのは刺激的だった。
 南緒はいつも、少し背伸びした景色を見せてくれる子だった。
「行くぞー。ほら盟子の用事なんだから急ぎなよ」
 昼休み、フレンチピンクに整えられた指先ががっちりと盟子の腕に食い込む。頼んでなんかいないのに、お昼を食べ終わった途端に南緒は盟子を拘束する。既にメイク直しは済ませ、ネクタイを緩め、学校指定外のざっくりとした綿のワイシャツの胸を普段よりボタン一つ多く開襟し、スカートはギリギリの丈を攻めている。それが計算し尽くされた格好であることくらい盟子にも解る。目的地は美術準備室。
 ドアをノックすると、ふぁい、とふやけた返事が聞こえた。
 失礼しまーすと言ったのも、率先して入って行ったのも南緒。盟子の用事だとか言いながら。
「どちら様ー?」
 薄暗い美術準備室の中で、窓から射しこむ逆光の中にほっそりとした輪郭が浮かび上がる。主張の激しいロイヤルブルーのシャツからのぞく白い首筋。その上でうるっとしたローズレッドの唇が怪しく弧を描いた。
「散らかっててごめんねぇ、今部屋片づけてて」
「あー、玲峰センセ、それグロス塗ってる?」
 瞬間移動、にしか見えなかった。
 南緒はあっという間に守谷の懐に滑り込むと、きわどい至近距離まで顔を寄せる。鼻先が唇に触れそうなくらいに。
「ん? ああこれ、ただのリップよー?」
「えー嘘だぁ?」
 小悪魔な上目遣いと鼻にかかった甘え声。あの角度では襟元から谷間やらブラまで見えてるんじゃと盟子はあわあわするしかない。
 けれど守谷は声も顔も平常モードで、オネェさんだとやっぱり女の子の谷間は興味ないのかな?なんてしょうもないことを考えてしまって。だって女子高生にこんなことされたら普通の男性はテンパってもおかしくないはずなのに。
 ふ、と守谷が薄く微笑んだ。
 次の瞬間。
 ばんっという鈍い音と共に、南緒が身を竦ませひっと小さく悲鳴を上げる。
 てっきり石膏像か何かが転がり落ちたのかと思った盟子は、目の前に広がる信じられない光景に呆然とした。
 ロイヤルブルーの両腕がミルクティ色の髪を数本を捕まえたまま、後ろの壁に南緒を縫い付けている。
 もしやこれは壁ドンというやつでは、と盟子は思った。
 リアルな壁ドンを目にするのは生まれて初めてだ。
 しかも、南緒が守谷に壁ドンされているという。
 壁ドン、壁ドン、壁ドン…………
 南緒はぎょっとしたような顔でぽかんと口を開けていて、明らかに計算しつくされた小悪魔ではない、ちょっと間の抜けた顔をしていた。
「……試してみちゃう? ただのリップかどうか」
 そこへにんまり微笑んだローズレッドの唇が迫る。逃げ場のなくなった無防備な南緒の口元に、あと僅かで触れてしまう。
「なーんてね。あははははは」
 ところが、あと数センチというところで守谷はぱっと身を翻す。からっとした笑い声が響く。
 笑いを噛み殺しながら、守谷はぽんと南緒の頭に手を置いた。
「あんた今ちょっと本気にしたね?」
「キスしたってよかったよ! 玲峰先生なら!」
 南緒は慌てて小悪魔モードに戻って頬を膨らませて食い下がる。このまま引きさがるわけない。
 でも今のは完全に守谷に一本取られた。
「やーめやめ。あたしタイホされちゃうし」
「私、先生のこと好きだもん!」
「やーん、そういうの困っちゃう、玲峰どうしよぉ」
 すごい、と素直に思った。南緒ではない。守谷のことだ。
 こんなふうに、誰も傷つけずに流せるのってすごい。
「私本気だよ!? 玲峰先生になら全部あげてもいいよ?」
「遠慮しとくー」
「はぐらかさないで!」
「はいはーい。なら実力で落としてみ」
「いいよ! 絶対落とす! そしたら付き合ってくれる?」
「落とせたらね。で、ここに来たのは何の用事なの?」
 そう言って、守谷はぱたっとスイッチを切り替えて盟子の方を見た。今までこの部屋の空気と化していた盟子は、存在を守谷に認識されていたことにちょっと驚いた。南緒の取り巻きその7くらいにみなされていると、てっきり思っていたのに。
「そうそう、この子ね、美大受験考えてるみたいなんだけど……」
 当然のように南緒が勝手に口を切った。
 盟子の進路のことなのに、ここに本人がいるというのに。小学生の時に賞を取ったとか予備校を考えているとか、そんなことまで勝手にペラペラとしゃべる。
 盟子の美大進学は、南緒にとって目当ての男性とお近づきになるための足掛かり。共有するにはまたとない話題。
……でも、それってどうなんだろう。私はそれをされて嬉しいのだろうか、嫌なのだろうか。
 わからない。ただ、何となく消化しきれない感情が心の奥底で少しずつ少しずつ重たくなってきている気がする。
 守谷は南緒の話を一通り聞き終えると、まだ皆の名前覚えてなくてごめんねと前置きしながら、隅っこに佇んでいる盟子にむけて名前を尋ねる。梅崎盟子、と応えたのはまたもや南緒だった。
「えーと梅崎さん、あなた絵を描くのが好き、なのかな?」
 それは確かに、まっすぐ盟子に対して投げかけられた問いだった。他者の返答を許さない。そんな緊迫感があった。
 そして、美大に行きたいのね?という決めてかかった聞き方ではなかった。
 小さく頷いて盟子は肯定する。絵を描くこと自体は嫌いではない。
「だよね。このくらいの年齢じゃ専攻とか将来とかまだ決まってないよねぇ。特に美術系なんて将来のこと想像つかないもん。絵を描くのが好き、ってことだよね」
 おずおずと見返した守谷の顔は、ごく普通に真面目な先生のそれだった。
「聞きたいことがあれば何でも聞いちゃって? 答えられる範囲で説明するから」
 守谷は微笑んだ。
「……あの」
 訊いてみたかったことは、あるにはある。
「美大を目指すなら、予備校は必須ですか?」
 美大を受験するとはっきり決めて、その他の可能性を全て排して予備校に行かないといけないのか?ということ。
 それともう一つ。
「必須だとしたら、今この時期からスタートしないとダメなんですか?」
 母は今から始める必要があると言う。
 けれど返ってきた答えは、あっさりと盟子を絶望に突き落としてくれた。
「うーん。まあ普通は行くよね。よっぽどの天才でもない限り」
 ならば天才ではない自分は、母を説き伏せない限りは予備校に行かされることになる。
「時期は……別に決まってないかな」
 もっと早くから、それこそ中学から行く人もいるし高1で行く人もいるし、3年生からの場合もあるし、受験大学にもよるかなぁと守谷は続けた。
「あと美大は浪人も多いから、家の経済状況にもよるよねぇ。美大に限らず浪人てお金かかりますからね。お家の方と相談の上、って答えでいいかしら?」
 貧乏で生活に困っているわけじゃないけれど、お金が有り余ってるってわけでもない。見て見て今日これ半額だったの!なんて母に嬉々として牛肉のパックを見せられることもある。だとしたら、浪人なしで最短コースで入れと暗に要求されているのに等しい。これから行かされようとしているのはそんな道のりだ。
 ひとつだけ確実なのは、けっこう、いや相当大変、ってことだ。
「じゃあさ、とりあえず明日の放課後、2時以降にここ来てくれるかしら?」
 話はそれで終わると思ったら、守谷がそんなことを言い出した。
「オッケー! 連れてくるから!」
 返事をしたのは南緒だった。
 明日また守谷と合える理由ができた南緒だけがひとり、ご機嫌そうな顔をしていた。