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六話"風邪の日"のレモネード

ー/ー



 ぽたぽたと木々の隙間から零れ落ちる雨粒が、一定のリズムで頭を叩く。
 その冷たさとくすぐったさに、しばらくうずくまっていたルグは目を開けた。いつの間にか眠ってしまっていたようだ。激しく降り続いていた雨は、少し弱まっていた。空を埋め尽くす真っ黒の雲。さらわれてしまった月の行方を尋ねるようにして、腹の虫が虚しく鳴き声を上げる。
「腹、減ったな…」
 ルグはお腹をさすりながら、食卓に並ぶ色とりどりの料理と、向かいの椅子に座る青年の姿を思い浮かべる。
 今頃、彼はどうしているだろうか。二人分作った夕飯を取り分けて、自分の帰りを待っているだろうか。お風呂から上がり、温かい紅茶を淹れてくつろいでいるだろうか。それとも、自分のことなど気にも留めず、ふかふかのベッドで眠っているだろうか。
 クールダウンした頭で、自身の身勝手な言動を振り返る。帰ろう。帰って、ちゃんと謝らなければ。ルグは決意を固めて立ち上がり、服に付いた泥を軽く払うと、キョウの家へと足を動かした。
 
――
 
 小雨の中、玄関のドアの前で一人の狼が立ち尽くしている。
「……よし」
 ルグは掛け声とともにドアの取っ手に触れる。しかし、その手に力が込められることはない。
 ここに辿り着くまでに、何度もシミュレーションしていた。玄関のドアを開けたら、まずは「ただいま」と呼びかける。そして彼に会ったら、「ごめんなさい」と伝える。約束を破ってしまったことを、心無い言葉を投げつけてしまったことを謝って、仲直りする。頭の中では完璧だった。
 だが、いざ家の前に立つと、あとひと匙の勇気が出なかった。それに、勇気だけではない。心のどこかで謝りたくないと意地を張る自分がいることに、ルグは気づいていた。せっかく手伝ったのに、どうして褒めてくれなかったのか。どうしてありがとうと言ってくれなかったのか。すぐにこちらの非を認め、それらがうやむやになってしまうのは、納得いかなかった。
「…いや、しっかりしろ!ちゃんと謝るって決めたんだろ」
 一抹の不安とちっぽけなプライドを振り払うように、ぶんぶん首を振る。小さく息を吐き、ルグはゆっくりとドアを開けた。
 
――
 
「ただいま…」
 鍵は開いたままだった。明かりのついていない廊下の先で、誰かが倒れている。
「ザラメ?」
 呼びかけるが、反応は無い。恐る恐る近づくと、湿った床に臥した家主の姿があった。
「ザラメ!おい、大丈夫か!?」
 青年の顔はやや赤く、額に汗を浮かべ、荒い呼吸を繰り返している。ぐっしょりと濡れた床と彼の衣服が雨水によるものだと理解するのに、時間はかからなかった。
「もしかして、こんなになるまで、オレのこと探して…」
 その姿を目の当たりにし、ルグは自責の念に駆られる。あの時、自分が家を飛び出さなければ、きっとこんなことにはならなかった。いっときの感情で動いたことによって、キョウを危険に晒してしまった。
「オレが、助けなきゃ」
 今彼を助けられるのは自分しかいない。いや、自分が助けなければならない。先ほどまでの不安やプライドも忘れて、ルグはリビングに積み上げられた洗濯物から、バスタオルを引きずり出した。
 
――
 
「よい、しょっ」
 バスタオルで体を拭いた後、キョウを抱えて、そのまま寝室へ運ぶ。狼獣人のルグが力持ちなのか、それともキョウの体重が軽すぎるのか、ぐったりとした成人男性の体は、五歳年下のルグでも運ぶことができた。
「とりあえず、これで…」
 衣服をなんとか着せ替えてベッドに寝かせた後、棚から持ち出した救急箱を開き、体温計を取り出す。
「確か、こうやって使うんだよな」
 体温計をキョウの体に忍ばせて、布団を被せる。
 
「ごめんなさい…」
 消え入りそうなキョウの呟きが、静かな部屋に響く。
「僕が全部悪いから…ひとりにしないで…ごめんなさい」
 悪夢を見ているのか、うなされながら謝罪の言葉を呟くキョウ。その姿に、ルグは胸が締め付けられるような痛みを覚える。
「…なんで、ザラメが謝るんだよ」
 ずっと伝えようとしていた言葉。何度も頭の中で練習したはずなのに、先を越されてしまった。
「謝らないといけないのは…オレの方なのに」
 ルグはしゃがんで、キョウの傍に近づく。
「ザラメ…」
 初めて会った日に、握手を拒んでしまったキョウの手。差し伸べてくれたのに握り返せなかったその手に、ルグはそっと触れる。
「大丈夫だぞ。ひとりじゃない。オレがここにいる」
 その時、キョウの体から無機質な電子音が鳴り響いた。握っていた手を解いて、体温計を確認する。異常値を知らせようとするアラームと、その画面に表示された三十八の数字が、ルグの焦りを加速させた。
「大変だ…!」
 先ほどまで廊下に倒れていたとすれば、おそらく夕食はおろか水分も十分にとれていないだろう。
「ちょっと待ってろ、何か持ってくる!」
 ルグは布団をかけ直すと、勢いよく寝室を飛び出した。
 
――
 
「何か、何かないか…?」
 追加のタオルや着替え、ブランケット、氷のう、風邪薬…。家中を駆け回り、とにかく使えそうなものをかき集めるルグ。しかし、肝心の食料品が見当たらない。冷蔵庫や棚をくまなく探したが、調理が不要なスポーツドリンクやゼリー飲料、レトルト食品といった手軽な代物は見当たらなかった。
「こうなったら…」
 ルグは本棚の二段目に並ぶ書籍を片っ端から手に取り、パラパラとページをめくり始めた。ストックがない。自ら調達に行くこともできない。誰かの手を借りることもままならない。八方塞がりに見える状況でルグが行き着いたのは、「自分で作る」という選択肢だった。しかし、まだ料理やお菓子作りの経験が浅く、お手伝い止まりの彼にとっては、レシピ本に載っている簡単な一品料理でさえ作るのは難しいだろう。丸焦げにしてしまったホットケーキが脳裏にちらつき、喉の奥にあの時の苦味が蘇ってくる。だが、やるしかない。
「うわっ!」
 分厚いレシピ本を勢い任せに引っ張り出す。その拍子に、重石を失ったブックエンドがバランスを崩し、支えていた本もろともバサバサと音を立てて落下してしまった。
「こんなことしてる場合じゃ…って、あれ?」
 急いで床に散乱した本を拾い集める。その中で、ひときわ年季の入った薄茶色のノートがルグの目に留まった。表紙には拙い文字で『双目キョウ』と書かれている。
「こんなのあったのか…気づかなかった」
 ノートを開くと、色鉛筆で描かれたお菓子のイラストとともに、材料や調理工程、日付などが記されていた。
「もしかして、ザラメが書いたのか」
 書き留められたレシピの数々。ページが進むにつれて、幼さが感じられる大ぶりな文字は、お手本のような整った文字に変化し、大胆な色使いで奔放に描かれていたイラストも、繊細かつ温かみのあるものへと変わっていく。そして、全てのページの余白は、作る際の注意点や改善点、生地の配合や焼成時間の比較といったメモ書きでびっしりと埋め尽くされていた。
「ホットミルクも、スコーンも、クッキーまで…全部、ザラメのレシピだったんだ」
 出会ってから今に至るまで、自身が口にしてきたキョウのお菓子。その「美味しい」の裏には、もはや趣味の領域を超えた彼のお菓子作りに対する情熱と努力が隠されていた。
 ページをめくるたびに、キョウが追いかけてきた夢の欠片が弾ける。その輝きにルグはしばらく見入っていたが、とあるページに記されたレシピを見て、自身のやるべきことを思い出した。
「……これなら、きっと」
 ルグは見開きにしたノートを台所に置き、準備に取り掛かった。
 
 ――
 
 冷蔵庫から、レモンと生姜チューブ、蜂蜜を取り出したら、まずはレモンをよく洗って、半分に切る。半分は果汁を絞り、もう半分は薄くスライスする。
「大丈夫、オレならできる」
 まだ危ないから、とキョウに止められていた包丁を握り、慎重にその手を動かしていく。日々キッチンに立つキョウから盗んだ、見よう見まねの包丁さばき。切り口はギザギザとしており厚さも不揃いだが、無事にレモンスライスができあがった。
 白いマグカップに、レシピに書かれた分量の通りに蜂蜜と生姜チューブ、レモン果汁を入れたら、お湯を注いで軽く混ぜ合わせる。最後の仕上げに、先ほどのレモンスライスを二枚浮かべる。
「できた…!」
 リビングに甘酸っぱい香りが広がる。ハニージンジャーレモネードの出来上がりだ。
 
――
 
 さらさらと降る雨音が、ぼんやりした頭に流れ込んでくる。意識を取り戻したキョウは、見慣れた天井を眺めながら、これまでのことを一つずつ思い出していた。
 洗濯物を干したままアルバイトに出かけたこと。店長に売りつけられた雨具を着て、帰路についたこと。帰宅するなり、洗濯物を巡ってルグと言い合いになったこと。彼の気持ちを尊重できずに、傷つけてしまったこと。
 ルグが、家を飛び出してしまったこと。
「そうだ、ルグ…!」
 全てを思い出したキョウ。彼を探そうと慌てて起き上がるが、頭に電流が走り、咄嗟にこめかみを押さえる。頭痛、喉の腫れ、寒気。さらりとした着心地のルームウェアをさすりながら、自身が風邪をひいてしまったことを認識する。
「ザラメ」
 ドアの方から聞こえた呼び声。視線の先には、見覚えのある黒灰色の毛並が立っていた。その両手に握られた白と黒のマグカップからは、ほわほわと湯気が上っている。
「ルグ…!どこに行ってたの?ずっと心配して…」
 ずっと探していたその姿。緊張の糸が緩み、感情のままに言葉が溢れそうになる。しかし、申し訳なさそうに俯くルグを見て、まくし立てようとする自身の口を噤んだ。今かけるべき言葉はきっと、もっと単純で、短くて、何よりも大切な一言だ。
「おかえり、ルグ」
「……ただいま」
 少し掠れているが、いつもと変わらないキョウの優しい声。それに応えるようにして、力なく垂れたルグの尻尾が、ふわりと揺れた。

――
 
「これ、ルグが作ったの?」
 差し出された白いマグカップを受け取りながら、キョウは尋ねる。ルグは空いた片手で、小脇に挟んでいたノートを開いた。
「何かないか探してたら…本棚から見つけたんだ」
 ハニージンジャーレモネードのページには、「体調が悪い時はこれ!」とメモが残されていた。
「あ、いや、勝手に見るつもりはなかったんだ!本当にたまたま見つけて…!包丁を使うのも仕方なかったっていうか、何か用意しないとって必死だったから……えっと…」
 マグカップに浮かぶ不揃いのレモンスライス。その不格好な断面から彼なりの精一杯の努力を読み取ったキョウは、慌てて弁明するルグとは対照的な笑みをこぼす。
「ありがとう。いただきます」
 不安そうなルグに見守られながら、キョウはマグカップに口を近づける。詰まった鼻を抜けていく爽やかなレモンの香りと、蜂蜜の優しい甘み。そして、それらをかき消すように喉を伝う、痺れるような辛み。アクセントにしては強すぎる生姜の風味に、キョウは思わず咳き込む。
「おい、大丈夫か!?」
「ゴホッ……大丈夫。でも…ちょっと生姜が強すぎるかも」
「えっ、ちゃんとレシピ通りに入れたぜ?ほら!」
 ルグはノートを指さしたあと、自身の手を広げて見せる。「生姜:小指の爪くらい」と記載されたレシピ。ルグの鋭い爪を基準にすれば、入れすぎになってしまうのも仕方ないだろう。
「また失敗かよ〜……うまくいったと思ったのに…」
「ルグのせいじゃないよ。これはこれでおいし…ゴホッ!」
 肩を落とすルグを慰めようとするが、再び咳き込んでしまう。キョウは喉の痛みに悶えながら、後でレシピを書き換えようと心に決めたのだった。
 
 ――
 
「懐かしいな…自分で考えたレシピとか、作った時のメモとか、色々書き留めてたんだっけ」
 レモネードを飲み終えた二人は、空のマグカップをサイドテーブルに置いて、ノートを読み返していた。
「ルグ」
「なんだ?」
「ごめんね」
 キョウから発せられた謝罪の言葉は、まっすぐにルグの耳へ届けられる。
「僕、ルグが安心して暮らせるようにって思ってたのに、かえって辛い思いをさせてた」
 言えなかった心の内を、キョウは少しずつ明かしていく。
「怖いんだ。ルグに何かあって、一緒に暮らせなくなるのが。大切な誰かが、いつの間にか僕の周りから居なくなってしまうのが」
 ルグは耳を傾けながら、悪夢にうなされていた彼の姿を思い返す。
「でも、その気持ちだけが先走って、ルグのことを縛り付けてしまってた。洗濯物を取り込んでくれたのだってそう。ルグなりの考えや気持ちがあったはずなのに、自分のことばっかりで…本当にごめん」
 彼の思いを受け取ったルグ。「僕が全部悪い、ひとりにしないで」。彼が呟いたその言葉の真意を知る覚悟も、彼が抱える傷口に触れる勇気も、ルグはまだ持ち合わせていない。
「……オレも」
 でも、心を開示することなら自分にもできる。キョウに続くようにして、ルグは口を開いた。
「オレも、謝りたかった。約束を破って、勝手に飛び出して心配かけて、風邪まで引かせちまって」
 体が熱くなり、声が震えるのを感じながらも、ルグは言葉を紡いでいく。
「ザラメはいつも優しくて、親切で、オレのことを助けてくれるのに…オレはそれを突っぱねて、ひどいこと言った」
 ルグは拳をきゅっと握り、決意を固める。ずっと頭の中で練習した言葉を、喉の奥に詰まって言えなかった六文字を、今度はきちんと届けられるように。
「だから、その…ごめんなさい」
 頭を下げて、キョウの返答を待つ。一瞬のはずの静寂が、今のルグにとっては何分にも何時間にも長く感じられる。
「ルグ、あのね」
 頭を下げたまま動かないルグを見て、キョウは切り出した。
「ルグのことをどうでもいいとか、除け者にしようとか、僕はそんなこと絶対に思ったりしないよ」
 ルグははっとした顔で、キョウを見つめる。
「確かに、一緒に暮らす代わりに味見係をしてほしいって提案したのは僕だし、そう思われて当然かもしれない」
 キョウはノートに視線を落とし、スコーンのページを開く。
「でも、僕のお菓子をあんなに美味しそうに食べてくれるルグを見て、帰るところがないって言っていたルグを見て、助けになりたいって…ここがもうひとつの居場所になったらって思った」
 キョウは再び顔を上げ、柔らかな眼差しを向ける。
「もしネットショップがもっと有名になって、自分の世界が広がったとしても、僕はルグと一緒にいたい。説得力ないかもしれないけど…それだけは、信じていてほしいんだ」
 飾らないまっすぐなキョウの言葉。ルグの胸の奥に、ぽかぽかとした温かさが宿る。
「オレは……」
 初めてキョウと出会ったあの夜と同じ、心地よくて、どこかくすぐったいような、不思議な温もり。
「大人は嫌いだって言ったけど……ザラメのことは、その……嫌いじゃない」
 この温もりはきっと、生姜を入れすぎてしまったせいだ。まだ素直になりきれないルグは、そう言い聞かせながら、ぶっきらぼうに答える。
「うん。ありがとう」
 いつの間にか雨は上がり、夜の静けさが辺りを包み込む。姿を眩ませていた月が雲間から顔を出し、窓に映る雫を照らしていた。


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 ぽたぽたと木々の隙間から零れ落ちる雨粒が、一定のリズムで頭を叩く。
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 今頃、彼はどうしているだろうか。二人分作った夕飯を取り分けて、自分の帰りを待っているだろうか。お風呂から上がり、温かい紅茶を淹れてくつろいでいるだろうか。それとも、自分のことなど気にも留めず、ふかふかのベッドで眠っているだろうか。
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――
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 だが、いざ家の前に立つと、あとひと匙の勇気が出なかった。それに、勇気だけではない。心のどこかで謝りたくないと意地を張る自分がいることに、ルグは気づいていた。せっかく手伝ったのに、どうして褒めてくれなかったのか。どうしてありがとうと言ってくれなかったのか。すぐにこちらの非を認め、それらがうやむやになってしまうのは、納得いかなかった。
「…いや、しっかりしろ!ちゃんと謝るって決めたんだろ」
 一抹の不安とちっぽけなプライドを振り払うように、ぶんぶん首を振る。小さく息を吐き、ルグはゆっくりとドアを開けた。
――
「ただいま…」
 鍵は開いたままだった。明かりのついていない廊下の先で、誰かが倒れている。
「ザラメ?」
 呼びかけるが、反応は無い。恐る恐る近づくと、湿った床に臥した家主の姿があった。
「ザラメ!おい、大丈夫か!?」
 青年の顔はやや赤く、額に汗を浮かべ、荒い呼吸を繰り返している。ぐっしょりと濡れた床と彼の衣服が雨水によるものだと理解するのに、時間はかからなかった。
「もしかして、こんなになるまで、オレのこと探して…」
 その姿を目の当たりにし、ルグは自責の念に駆られる。あの時、自分が家を飛び出さなければ、きっとこんなことにはならなかった。いっときの感情で動いたことによって、キョウを危険に晒してしまった。
「オレが、助けなきゃ」
 今彼を助けられるのは自分しかいない。いや、自分が助けなければならない。先ほどまでの不安やプライドも忘れて、ルグはリビングに積み上げられた洗濯物から、バスタオルを引きずり出した。
――
「よい、しょっ」
 バスタオルで体を拭いた後、キョウを抱えて、そのまま寝室へ運ぶ。狼獣人のルグが力持ちなのか、それともキョウの体重が軽すぎるのか、ぐったりとした成人男性の体は、五歳年下のルグでも運ぶことができた。
「とりあえず、これで…」
 衣服をなんとか着せ替えてベッドに寝かせた後、棚から持ち出した救急箱を開き、体温計を取り出す。
「確か、こうやって使うんだよな」
 体温計をキョウの体に忍ばせて、布団を被せる。
「ごめんなさい…」
 消え入りそうなキョウの呟きが、静かな部屋に響く。
「僕が全部悪いから…ひとりにしないで…ごめんなさい」
 悪夢を見ているのか、うなされながら謝罪の言葉を呟くキョウ。その姿に、ルグは胸が締め付けられるような痛みを覚える。
「…なんで、ザラメが謝るんだよ」
 ずっと伝えようとしていた言葉。何度も頭の中で練習したはずなのに、先を越されてしまった。
「謝らないといけないのは…オレの方なのに」
 ルグはしゃがんで、キョウの傍に近づく。
「ザラメ…」
 初めて会った日に、握手を拒んでしまったキョウの手。差し伸べてくれたのに握り返せなかったその手に、ルグはそっと触れる。
「大丈夫だぞ。ひとりじゃない。オレがここにいる」
 その時、キョウの体から無機質な電子音が鳴り響いた。握っていた手を解いて、体温計を確認する。異常値を知らせようとするアラームと、その画面に表示された三十八の数字が、ルグの焦りを加速させた。
「大変だ…!」
 先ほどまで廊下に倒れていたとすれば、おそらく夕食はおろか水分も十分にとれていないだろう。
「ちょっと待ってろ、何か持ってくる!」
 ルグは布団をかけ直すと、勢いよく寝室を飛び出した。
――
「何か、何かないか…?」
 追加のタオルや着替え、ブランケット、氷のう、風邪薬…。家中を駆け回り、とにかく使えそうなものをかき集めるルグ。しかし、肝心の食料品が見当たらない。冷蔵庫や棚をくまなく探したが、調理が不要なスポーツドリンクやゼリー飲料、レトルト食品といった手軽な代物は見当たらなかった。
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「うわっ!」
 分厚いレシピ本を勢い任せに引っ張り出す。その拍子に、重石を失ったブックエンドがバランスを崩し、支えていた本もろともバサバサと音を立てて落下してしまった。
「こんなことしてる場合じゃ…って、あれ?」
 急いで床に散乱した本を拾い集める。その中で、ひときわ年季の入った薄茶色のノートがルグの目に留まった。表紙には拙い文字で『双目キョウ』と書かれている。
「こんなのあったのか…気づかなかった」
 ノートを開くと、色鉛筆で描かれたお菓子のイラストとともに、材料や調理工程、日付などが記されていた。
「もしかして、ザラメが書いたのか」
 書き留められたレシピの数々。ページが進むにつれて、幼さが感じられる大ぶりな文字は、お手本のような整った文字に変化し、大胆な色使いで奔放に描かれていたイラストも、繊細かつ温かみのあるものへと変わっていく。そして、全てのページの余白は、作る際の注意点や改善点、生地の配合や焼成時間の比較といったメモ書きでびっしりと埋め尽くされていた。
「ホットミルクも、スコーンも、クッキーまで…全部、ザラメのレシピだったんだ」
 出会ってから今に至るまで、自身が口にしてきたキョウのお菓子。その「美味しい」の裏には、もはや趣味の領域を超えた彼のお菓子作りに対する情熱と努力が隠されていた。
 ページをめくるたびに、キョウが追いかけてきた夢の欠片が弾ける。その輝きにルグはしばらく見入っていたが、とあるページに記されたレシピを見て、自身のやるべきことを思い出した。
「……これなら、きっと」
 ルグは見開きにしたノートを台所に置き、準備に取り掛かった。
 ――
 冷蔵庫から、レモンと生姜チューブ、蜂蜜を取り出したら、まずはレモンをよく洗って、半分に切る。半分は果汁を絞り、もう半分は薄くスライスする。
「大丈夫、オレならできる」
 まだ危ないから、とキョウに止められていた包丁を握り、慎重にその手を動かしていく。日々キッチンに立つキョウから盗んだ、見よう見まねの包丁さばき。切り口はギザギザとしており厚さも不揃いだが、無事にレモンスライスができあがった。
 白いマグカップに、レシピに書かれた分量の通りに蜂蜜と生姜チューブ、レモン果汁を入れたら、お湯を注いで軽く混ぜ合わせる。最後の仕上げに、先ほどのレモンスライスを二枚浮かべる。
「できた…!」
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――
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 ルグが、家を飛び出してしまったこと。
「そうだ、ルグ…!」
 全てを思い出したキョウ。彼を探そうと慌てて起き上がるが、頭に電流が走り、咄嗟にこめかみを押さえる。頭痛、喉の腫れ、寒気。さらりとした着心地のルームウェアをさすりながら、自身が風邪をひいてしまったことを認識する。
「ザラメ」
 ドアの方から聞こえた呼び声。視線の先には、見覚えのある黒灰色の毛並が立っていた。その両手に握られた白と黒のマグカップからは、ほわほわと湯気が上っている。
「ルグ…!どこに行ってたの?ずっと心配して…」
 ずっと探していたその姿。緊張の糸が緩み、感情のままに言葉が溢れそうになる。しかし、申し訳なさそうに俯くルグを見て、まくし立てようとする自身の口を噤んだ。今かけるべき言葉はきっと、もっと単純で、短くて、何よりも大切な一言だ。
「おかえり、ルグ」
「……ただいま」
 少し掠れているが、いつもと変わらないキョウの優しい声。それに応えるようにして、力なく垂れたルグの尻尾が、ふわりと揺れた。
――
「これ、ルグが作ったの?」
 差し出された白いマグカップを受け取りながら、キョウは尋ねる。ルグは空いた片手で、小脇に挟んでいたノートを開いた。
「何かないか探してたら…本棚から見つけたんだ」
 ハニージンジャーレモネードのページには、「体調が悪い時はこれ!」とメモが残されていた。
「あ、いや、勝手に見るつもりはなかったんだ!本当にたまたま見つけて…!包丁を使うのも仕方なかったっていうか、何か用意しないとって必死だったから……えっと…」
 マグカップに浮かぶ不揃いのレモンスライス。その不格好な断面から彼なりの精一杯の努力を読み取ったキョウは、慌てて弁明するルグとは対照的な笑みをこぼす。
「ありがとう。いただきます」
 不安そうなルグに見守られながら、キョウはマグカップに口を近づける。詰まった鼻を抜けていく爽やかなレモンの香りと、蜂蜜の優しい甘み。そして、それらをかき消すように喉を伝う、痺れるような辛み。アクセントにしては強すぎる生姜の風味に、キョウは思わず咳き込む。
「おい、大丈夫か!?」
「ゴホッ……大丈夫。でも…ちょっと生姜が強すぎるかも」
「えっ、ちゃんとレシピ通りに入れたぜ?ほら!」
 ルグはノートを指さしたあと、自身の手を広げて見せる。「生姜:小指の爪くらい」と記載されたレシピ。ルグの鋭い爪を基準にすれば、入れすぎになってしまうのも仕方ないだろう。
「また失敗かよ〜……うまくいったと思ったのに…」
「ルグのせいじゃないよ。これはこれでおいし…ゴホッ!」
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 ――
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「ルグ」
「なんだ?」
「ごめんね」
 キョウから発せられた謝罪の言葉は、まっすぐにルグの耳へ届けられる。
「僕、ルグが安心して暮らせるようにって思ってたのに、かえって辛い思いをさせてた」
 言えなかった心の内を、キョウは少しずつ明かしていく。
「怖いんだ。ルグに何かあって、一緒に暮らせなくなるのが。大切な誰かが、いつの間にか僕の周りから居なくなってしまうのが」
 ルグは耳を傾けながら、悪夢にうなされていた彼の姿を思い返す。
「でも、その気持ちだけが先走って、ルグのことを縛り付けてしまってた。洗濯物を取り込んでくれたのだってそう。ルグなりの考えや気持ちがあったはずなのに、自分のことばっかりで…本当にごめん」
 彼の思いを受け取ったルグ。「僕が全部悪い、ひとりにしないで」。彼が呟いたその言葉の真意を知る覚悟も、彼が抱える傷口に触れる勇気も、ルグはまだ持ち合わせていない。
「……オレも」
 でも、心を開示することなら自分にもできる。キョウに続くようにして、ルグは口を開いた。
「オレも、謝りたかった。約束を破って、勝手に飛び出して心配かけて、風邪まで引かせちまって」
 体が熱くなり、声が震えるのを感じながらも、ルグは言葉を紡いでいく。
「ザラメはいつも優しくて、親切で、オレのことを助けてくれるのに…オレはそれを突っぱねて、ひどいこと言った」
 ルグは拳をきゅっと握り、決意を固める。ずっと頭の中で練習した言葉を、喉の奥に詰まって言えなかった六文字を、今度はきちんと届けられるように。
「だから、その…ごめんなさい」
 頭を下げて、キョウの返答を待つ。一瞬のはずの静寂が、今のルグにとっては何分にも何時間にも長く感じられる。
「ルグ、あのね」
 頭を下げたまま動かないルグを見て、キョウは切り出した。
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 ルグははっとした顔で、キョウを見つめる。
「確かに、一緒に暮らす代わりに味見係をしてほしいって提案したのは僕だし、そう思われて当然かもしれない」
 キョウはノートに視線を落とし、スコーンのページを開く。
「でも、僕のお菓子をあんなに美味しそうに食べてくれるルグを見て、帰るところがないって言っていたルグを見て、助けになりたいって…ここがもうひとつの居場所になったらって思った」
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「もしネットショップがもっと有名になって、自分の世界が広がったとしても、僕はルグと一緒にいたい。説得力ないかもしれないけど…それだけは、信じていてほしいんだ」
 飾らないまっすぐなキョウの言葉。ルグの胸の奥に、ぽかぽかとした温かさが宿る。
「オレは……」
 初めてキョウと出会ったあの夜と同じ、心地よくて、どこかくすぐったいような、不思議な温もり。
「大人は嫌いだって言ったけど……ザラメのことは、その……嫌いじゃない」
 この温もりはきっと、生姜を入れすぎてしまったせいだ。まだ素直になりきれないルグは、そう言い聞かせながら、ぶっきらぼうに答える。
「うん。ありがとう」
 いつの間にか雨は上がり、夜の静けさが辺りを包み込む。姿を眩ませていた月が雲間から顔を出し、窓に映る雫を照らしていた。