「じゃあ行ってくるね。夜には帰れると思う。お昼は冷蔵庫に入ってるから、チンして食べてね」
玄関でスニーカーを履きながら、キョウはルグに話しかける。
「おう、行ってらっしゃい」
「留守番よろしくね。外に出ちゃだめだよ」
「わかってるって」
玄関のドアが閉まり、部屋はしんと静まり返る。手を振って家主を見送った後、ルグは軽く伸びをしてリビングへ向かった。
「さて…何するかな〜」
キョウがアルバイトに出かけている間は、ルグの自由時間だ。手始めに本棚から本を数冊引き抜いて、リビングの椅子に腰掛ける。少しずつ読み進めていた十巻以上に渡る長編小説は、もう折り返しを迎えていた。
「冒険かぁ…」
仲間たちとともに、次の街へと歩みを進める主人公。町を越え、海を越え、さらには空を越え…様々な困難にも果敢に立ち向かう。ルグはページを捲りながら、その主人公に自身を重ね合わせ、壮大な冒険の旅に思いを馳せる。
「ん?」
しばらくの間読み耽っていたが、パラパラと屋根を打ち付ける音に、耳をピクリと反応させる。カーテンを少し開けて窓から外を覗くと、分厚い鉛色の雲が空を覆い、いくつもの小さな水滴が窓ガラスに貼り付いていた。
「雨か…」
雨粒は草木を濡らし、地面にポツポツと染みを作っていく。ルグは窓に手をついてその様子をしばらく眺めていたが、庭先で野晒しになっている物干し竿が目に留まった。
「うわっ、ザラメのやつ、出しっぱなしじゃねえか…!」
洗濯バサミやハンガーで整頓された衣類は、雨風を受けてぱたぱたとはためいている。飛ばされるほどではなさそうだが、このままではせっかく綺麗になった洗濯物が台無しだ。とはいえ、取り込むためには外へ出なければならず、キョウとの約束を無視することになってしまう。
「どうしよう…」
悩む間にも、雨はだんだんとその勢いを増していく。ルグは玄関に移ると、ドアを少しだけ開けてそっと顔を出した。辺りを見る限り、人影は無い。
「ちょっとくらい、大丈夫だよな?」
今ならまだ救出できる。それに、取り込んでおけばキョウも少しは見直してくれるかもしれない。今が絶好のチャンスだと言い聞かせながら、ルグは庭へ駆け出し、物干し竿のシャツに手をかけた。
――
「店長、品出し終わりました」
退勤時刻を迎えたキョウは、段ボールを解体しつつ、事務所奥のデスクで作業をしていた小太りの男性に声をかける。キョウの自宅から自転車で約二十分。数年前、何もなかった更地に突如オープンしたこのドラッグストアが、キョウのもう一つのアルバイト先だ。全国展開のドラッグストアの中でも屈指の大型店であり、日用品や食品はもちろん、処方箋受付も備わっており、今では住民たちにとって欠かせない存在となっている。
「おっ、ありがとうね。ザラメくん、もうすぐ上がり?」
店長と刻まれた名札を胸に掲げた男性は、キョウの声に顔を上げる。
「はい。ついでにゴミ出しもして帰りますね」
「ごめんね、助かるよ。そういえば…最近ペット飼い始めたんだって?」
「え…?あぁ、はい!」
「いいなぁ〜、何飼ってるの?」
「えーーっと…」
職場の人には、ルグの存在はペットとして話を通してある。もし正直に「家の前で倒れていた狼獣人を助けて、家に住まわせている」などと口にしてしまえば、頭がおかしくなったと思われるだろう。興味を持たれて探られてしまうのも面倒なので、キョウはうまく誤魔化そうと言葉を探す。
「大きめの犬、ですかね……?」
「いやなんで疑問形なのよ」
中途半端に濁したことで、かえって怪しい回答になってしまった。
「いや〜、でもいいなあ、大きいワンちゃん!家に帰ったら、いつも玄関で尻尾を振って出迎えてくれるんでしょ?」
「まあ、はい…」
そんなことは一度もないが、そういうことにしておこう、とキョウは返事をする。
「いいなぁ〜、僕も癒されたいよ。遅番上がりじゃ、嫁も娘も寝ちゃってるしさ…でも、ワンちゃんが待っててくれたら…ふふっ、おぉ〜よしよし…」
店長は椅子に座ったまま屈むと、何もない空間に向かって犬を撫でるような動作を繰り返す。おそらく彼の虚ろな目には、もふもふの大型犬が見えているのだろう。目の下のクマの濃さと無精髭の伸び具合から推測するに、五連勤は軽く超えているはずだ。
「あの…無理しないでくださいね。もし必要なら追加でシフト入るので、連絡ください」
しばらくの間イマジナリーワンちゃんと戯れていた店長は、キョウの声で我に返り、メガネをくいと指で押し上げる。
「あ、いやいや、大丈夫!ごめんね引き止めちゃって。お疲れ様!雨降ってるから気をつけてね!」
「はい、お疲れ様です…って、雨降ってるんですか⁉︎」
キョウは事務所の窓に視線を移す。
「うん。今日は午後から雨予報だったよ?もうすっかり梅雨って感じだよね〜」
事務所のカレンダーに描かれた紫陽花のイラスト。ルグとの出会いをきっかけに目まぐるしく過ぎていく日々は、早くも一ヶ月以上が経過していた。キョウは家を出る前に天気予報を確認しなかったことを悔やむと同時に、道中立ち寄ったコンビニエンスストアに雨具売り場が展開されていたのを思い出す。
「あ、もしかして雨具忘れた?」
「雨具もそうなんですけど、洗濯物干してきちゃいました…最悪です」
「あちゃー、もう手遅れかもね。いや待てよ…もしかしたら、ワンちゃんが取り込んでくれてたりして!」
おどける店長に、キョウは首を横に振る。
「いやいや、そんなわけないじゃないですか。とにかく、帰りますね!」
「ザラメくん!」
「何ですか!」
キョウは荷物とゴミ袋をまとめて事務所から出ようとするも、再び店長に呼び止められる。
「雨具、買わなくていいの?安くしとくよ?」
にやりと笑う店長の手には、ストック棚から取り出されたレインコートと、売場で使うために印刷したであろう『特売品』のポップ。本部から販売ノルマが課せられているのか、店長は身内にも容赦ないセールスを仕掛けてくる。
「……買います」
「毎度あり〜!」
普段は断るが、今回ばかりは購入せざるを得ない。観念したキョウは、トートバッグから渋々財布を取り出した。
――
雨の中、急いで自転車のペダルを漕ぐ。じめじめとした六月のぬるい空気は、新品特有の匂いを放つレインコートとともに肌に纏わりついてきて、より蒸し暑さを感じさせる。
「…あれ?」
自宅が近づくにつれ、キョウは違和感を覚える。出勤前に庭に干したはずの洗濯物がどこにもない。強風でさらわれてしまったのかと思ったが、飛ばされるには風が弱すぎる。自転車を軒先に止めてレインコートを剥ぎ取り、急いで家の鍵を開ける。
「ただいまー」
雨水を吸ったスニーカーを脱ぎ、ぐっしょりと濡れた靴下を洗濯カゴへ放り投げると、そのままリビングへ向かう。
「ねえルグ、外に干してた洗濯物知らな…」
「おかえり」
ルグは本を閉じて椅子から立ち上がる。その隣には、行方を探していた衣類やタオルが積み上げられていた。
「…それ、どうしたの」
「これか?ザラメ、バイトに行く前に干してただろ。濡れたら困ると思って、オレが取り込んでおいたぜ!」
胸を張り、誇らしげな表情を浮かべるルグ。その一方で、キョウは顔を曇らせる。
「取り込んだって…外に出たの?」
「うっ、それは、まあ、仕方なかったっていうか…」
「約束したよね、家の中にいるって」
「でも、ちょっとだけだって!誰にも見られてねえし、大丈夫だろ」
「絶対に誰にも見られてないって言い切れる?」
「言い切れる!と、思う……」
下を向いて言い淀むルグに、キョウはため息をついて、雨に濡れた頭を掻く。
「あれだけ言ったのに…」
期待していたものとは全く違う、彼のリアクション。
せっかく手伝ったのに。喜んでもらうはずだったのに。
「……何だよ」
初めは申し訳なさを感じていたルグだが、次第に体の奥底からふつふつと不満が込み上げてくる。
「ありがとうの一言もねえのかよ」
「えっ?」
「そんなにオレのこと信用できないのか?」
「信用とか、そういう話じゃなくて…」
「喜んでくれると思ったのに、褒めてもらえると思ったのに…なんでこんなに怒られないといけねえんだ」
蓋をしていた感情が、口をついて溢れ出す。
「ルグ?」
「それに、ずっと家の中で留守番なんて。オレをガキ扱いしやがって」
「ガキなんて、そんなこと思ってない!僕はルグのためを思って…!」
「もういい」
諭そうとしたキョウの言葉は遮られる。ルグは全身の毛を逆立てて、ぽつぽつと言葉を零していく。
「もう聞き飽きたんだよ……。いつも全部わかったような顔して、にこにこ笑って…でも、どうせザラメだって、いつかオレのこと捨てるんだろ」
「捨てるって…どういうこと?」
「自分の夢が叶ったら、それでいいんだろ!」
俯いたままの彼の目から雫が滴り、フローリングに弾けた。
「みんなそうだ。心配って言いながら、オレのためって言いながら、散々オレのこと縛り付けるくせに…そのうち要らなくなったら除け者にされるんだ」
「ルグ、ちょっと落ち着いて…」
「うるさい…!だから大人は嫌いなんだ…!」
吐き捨てるようなルグの声は、震えていた。そのままリビングを飛び出して走り去っていく。
「ルグ!待って!」
キョウは慌てて後を追いかけるが、既に彼の気配は消え、開け放たれたままの玄関のドアから生ぬるい風が吹き抜けていた。
「探さなきゃ…!」
隅に置いていたサンダルを履き、自転車にかけたレインコートの存在も忘れて家を飛び出す。軒下、庭、家の裏……。どこを探しても、彼の姿は無い。
「ルグ…どこ?」
捜索範囲を広げてしらみ潰しに探し回るが、手がかりすら見つからない。濡れて重くなった衣服が歩みを阻害し、激しさを増す雨によって、無情にも時間と体温だけが奪われていく。
「もう、駄目だ……」
雨に打たれ続け、体力の限界を感じたキョウは、やむを得ず来た道を引き返す。
もしルグがまたどこかで倒れてしまっていたら。もし道中で誰かに見つかってしまっていたら。もし事故に遭って怪我をしてしまっていたら。
もし、もう二度と帰ってこなかったら。
キョウの頭を、最悪の結末がよぎる。
「っくしゅん!」
なんとか玄関までたどり着いたキョウ。大きなくしゃみが、誰もいない廊下に響く。どうやら自分が思っているよりもずっと冷えてしまっているようだ。朝が来て明るくなったら、もう一度探しに行こう。視界が開ければ何か手がかりも見つかるはずだ。明日に備えて、今は奪われた体力を回復しなければ。
「まずは、お風呂を沸かして…それから…えっと、どうしたらいいんだっけ…」
頭が上手く回らず、まっすぐ歩けない。疲弊した両足を引きずるようにして、ふらふらと廊下を進む。
「あれ…」
視界が歪み、頭がぼうっとしてくる。キョウはそのまま薄暗い廊下に倒れ込んでしまった。
「ルグ…」
ルグの顔を思い浮かべ、彼の無事を祈り続ける。強さを増していく雨音のノイズの中で、キョウの意識は途絶えた。
――
「はあっ、はあっ…」
降りしきる雨をものともせず、黒灰色の毛並は一心不乱に山道を駆け抜ける。目的も、行くあてもない。どうして走っているのかさえ、自分にも分からない。しかし、ルグは次々と押し寄せてくる感情に耐えられなかった。少しでも立ち止まれば、それらに飲み込まれてしまう。自身を縛り付ける見えない鎖から逃れようと、思い出したくない言葉を上書きしようと、足を動かし続ける。しばらく走り続けていたが、体力が底をついたルグは次第に減速し、近くの木陰にもたれかかる。
「もう、嫌だ…」
手で胸を押さえながら、何度も大きく肩で息をする。
「お願いだから、放っておいてくれよ」
なかなか呼吸が整えられない。もう塞がっているはずなのに、頬の傷跡がじくじくと疼く。
「あいつなんか……ザラメなんかっ……!」
その後に続く言葉は、ぐぅ、と鳴ったお腹の音に遮られた。ぐちゃぐちゃになっていた頭の中に浮かぶのは、初めて出会った日の記憶。大きめの黒いマグカップに入った甘いホットミルクと、差し伸べられた手。そして、青年の優しい微笑み。
「……っ!」
地面にできた水溜りを蹴り、そのまま力なくうずくまる。
「なんで、思い出すんだよ……」
藍色の瞳から零れた雫が、濁った水面を揺らした。