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第十六話 激辛

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 真夏の夕暮れ、三神家の台所に立つ美香は、いつもより少し緊張した面持ちだった。
 換気扇をフル回転させ、窓という窓を全開にする。マスク付きの防護服に身を包み、更にゴーグルと厚手のゴム手袋をはめる。まるで危険物を扱う科学者な格好となった美香の目は輝いていた。
 今日こそ、あの「爆弾」に挑戦する日なのだ。
 爆弾――それは日本が誇る世界最強の唐辛子。その辛さは通常の唐辛子の1000倍以上とも言われ、一粒ですり潰すだけで、周辺の大人が気絶するほどの威力を持つと言われている。
 美香はこの日のために一年間かけて辛さへの耐性を鍛えてきた。それだけの期待を爆弾に注ぎ、この日が来ることを今か今かと待ち望んでいた。
 
「ねえ、今日の晩ご飯は何かな?」
 
 リビングから夫の声が聞こえる。美香はマスクの裏で小さく微笑んだ。
 
「今日はね、とても特別なものよ」
 慎重に、ほんの少量の爆弾を分厚い鉄の箱から取り出す。かけら程の少量を、箱から小皿に移しただけで、キッチンに辛さが立ち込めた。これは想定の範囲で完全にガードしている美香の表情は崩れてない。むしろ期待に胸を膨らませているようだった。
 食卓に並べられた料理の前に座った夫と子供たちの表情が引き攣っている。
「ま……まさか……」と夫が震える声で言う。
「そう、爆弾料理よ」そう美香は誇らしげに答えると、料理と美香を交互に見ていた長男の顔がどんどん青ざめていく。

 「僕、今日は友達の家に泊まりに行くよ」
 次女も慌てて立ち上がる。「私も……突然塾が……」
 夫は困惑した表情で美香を見つめた。「美香、本当に大丈夫なのか?」
 
 そんな不安におびえる家族を後目に、彼女の視界にはただ、爆弾だけが存在していた。
 家族が食卓を離れ、次々と退場していく中――。美香は静かにスプーンを手に取った。
 爪の先ほどの大きさの爆弾をすくい上げる。その小さな赤い粒に、美香の全神経が集中している。
 二、三度深呼吸をして、ゆっくりと爆弾が先に引っ付いたスプーンを口に運ぶ。舌を慎重にスプーンの背に這わせ、待ち望んだあの爆弾を、目の前の幸せに震えている喉の奥へと導いた。爆弾が舌の根に設置したのを感じると、その少しだけ触れていた幸せの感触が逃げない内に飲み込んで食道へ送り込んだ。

 静寂――。
 
 「あぁ……」 食卓の真上からLEDの光がスポットライトの如く、美香の顔を集中的に照らしている。光の中心では、この世のものとは思えない恍惚の表情が浮かんでいる。次の瞬間、彼女の胸から「ボグッ!」と何かが爆発したような激しい音が響く。

 「美香!」夫が叫ぶ。

 その声は恍惚の表情のまま硬直している美香には届いていないようだった。
 「ガタン!」そのまま彼女は椅子を倒して崩れ落ちた。胸部から内臓がこぼれ出していが、その顔には至福の笑みが浮かんだままだ。

 「美香!美香!」夫は必死に妻へ呼びかける。
 子供たちは恐怖で声も出せず、その場で震えているだけだ。

 彼女はただ、爆弾がもたらす究極の辛さによって引き起こされる最上級の快感。その世界だけに浸っていた。
 家族の悲鳴と混乱が渦巻く中、美香はゆっくりと瞼を閉じる。その表情はまるで天国へ召されたかのような穏やかなものだ。これが激辛好きとして生きた最高の末路。それは彼女が最も愛するものによって滅ぼされること――。
 そう思わせる最期の表情だった。

 美香の最期を見届けた者たちは皆、最悪の表情を浮かべていた。


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 真夏の夕暮れ、三神家の台所に立つ美香は、いつもより少し緊張した面持ちだった。
 換気扇をフル回転させ、窓という窓を全開にする。マスク付きの防護服に身を包み、更にゴーグルと厚手のゴム手袋をはめる。まるで危険物を扱う科学者な格好となった美香の目は輝いていた。
 今日こそ、あの「爆弾」に挑戦する日なのだ。
 爆弾――それは日本が誇る世界最強の唐辛子。その辛さは通常の唐辛子の1000倍以上とも言われ、一粒ですり潰すだけで、周辺の大人が気絶するほどの威力を持つと言われている。
 美香はこの日のために一年間かけて辛さへの耐性を鍛えてきた。それだけの期待を爆弾に注ぎ、この日が来ることを今か今かと待ち望んでいた。
「ねえ、今日の晩ご飯は何かな?」
 リビングから夫の声が聞こえる。美香はマスクの裏で小さく微笑んだ。
「今日はね、とても特別なものよ」
 慎重に、ほんの少量の爆弾を分厚い鉄の箱から取り出す。かけら程の少量を、箱から小皿に移しただけで、キッチンに辛さが立ち込めた。これは想定の範囲で完全にガードしている美香の表情は崩れてない。むしろ期待に胸を膨らませているようだった。
 食卓に並べられた料理の前に座った夫と子供たちの表情が引き攣っている。
「ま……まさか……」と夫が震える声で言う。
「そう、爆弾料理よ」そう美香は誇らしげに答えると、料理と美香を交互に見ていた長男の顔がどんどん青ざめていく。
 「僕、今日は友達の家に泊まりに行くよ」
 次女も慌てて立ち上がる。「私も……突然塾が……」
 夫は困惑した表情で美香を見つめた。「美香、本当に大丈夫なのか?」
 そんな不安におびえる家族を後目に、彼女の視界にはただ、爆弾だけが存在していた。
 家族が食卓を離れ、次々と退場していく中――。美香は静かにスプーンを手に取った。
 爪の先ほどの大きさの爆弾をすくい上げる。その小さな赤い粒に、美香の全神経が集中している。
 二、三度深呼吸をして、ゆっくりと爆弾が先に引っ付いたスプーンを口に運ぶ。舌を慎重にスプーンの背に這わせ、待ち望んだあの爆弾を、目の前の幸せに震えている喉の奥へと導いた。爆弾が舌の根に設置したのを感じると、その少しだけ触れていた幸せの感触が逃げない内に飲み込んで食道へ送り込んだ。
 静寂――。
 「あぁ……」 食卓の真上からLEDの光がスポットライトの如く、美香の顔を集中的に照らしている。光の中心では、この世のものとは思えない恍惚の表情が浮かんでいる。次の瞬間、彼女の胸から「ボグッ!」と何かが爆発したような激しい音が響く。
 「美香!」夫が叫ぶ。
 その声は恍惚の表情のまま硬直している美香には届いていないようだった。
 「ガタン!」そのまま彼女は椅子を倒して崩れ落ちた。胸部から内臓がこぼれ出していが、その顔には至福の笑みが浮かんだままだ。
 「美香!美香!」夫は必死に妻へ呼びかける。
 子供たちは恐怖で声も出せず、その場で震えているだけだ。
 彼女はただ、爆弾がもたらす究極の辛さによって引き起こされる最上級の快感。その世界だけに浸っていた。
 家族の悲鳴と混乱が渦巻く中、美香はゆっくりと瞼を閉じる。その表情はまるで天国へ召されたかのような穏やかなものだ。これが激辛好きとして生きた最高の末路。それは彼女が最も愛するものによって滅ぼされること――。
 そう思わせる最期の表情だった。
 美香の最期を見届けた者たちは皆、最悪の表情を浮かべていた。