第十二話 贖網
ー/ー
ジョナサン・クレインは自分の人生が狂い始めた瞬間を鮮明に覚えていた。それは、彼が初めて「贖網」という言葉を耳にした日だった。
「贖網アレルギーですね」
医者の言葉はまるで呪いのように彼の耳に響く。ジョナサンはその聞きなれない奇怪な言葉にすぐに反応した。
「贖網って何ですか?」
ジョナサンは眉をひそめながら尋ねると、医者は少し困惑した表情を浮かべた後、静かに答えた。
「珍しい海産物だと聞いています。私も正直よくはわからないのですが、日本の一部地域でしか採れない幻の食材だとか。あなたの症状から見て、これに対するアレルギー反応だと考えられます」
「でも、そんな幻なんて言われているものを食べたことなんてないはずです」
「時にはそういうこともあるんですよ。このアレルギーは昔からあるんですが、私も食材自体は見たことも無いんです。まあ、こういったものは遺伝的な要因であって……」
その日以来、ジョナサンの人生は変わった。
彼は「贖網」という言葉が頭から離れなくなり、それについて無我夢中で調べ始めた。それは確かに珍しい食材だった。どこの海なのかは断定できるものではないが、決まった温度化の深海で、ごく稀に何かと何かが交配をすると、ごく僅かな確率で産まれる生物であるという漠然とした情報しか出てこない。その味は「天国の味」と称されるほど絶品らしい。その採取は前述のとおり極めて確認が困難な生物であることもあり、贖網が市場に出ると驚くほど高価になるとのことで、一部の関係者のみが手に入れられる非常に稀な食材だ。
最初のうち、ジョナサンはそんな希少な食材である事がわかってから贖網の事を気にしないよう言い聞かせた。どうせ自分には縁のないものだと諦めていたのだが、時が経つにつれ、彼の中に奇妙な深い欲求が芽生え始めた。
「食べたい。贖網を食べたい」
その言葉が彼の心を支配するようになった。夜中に目を覚ますと唾を垂らしながらその言葉を呟いている自分に気づくこともあった。時折、「大丈夫?何か欲しいものでもある?」と妻のサラが心配そうに尋ねてくることもあった。その度にジョナサンは首を振り「いや……なんでもないよ」と応えるが、ジョナサンの贖網への欲求は日に日に強くなっていった。
彼は仕事にも集中できなくなり、家族との会話も減った。ただひたすら、「贖網」のことだけを考える毎日。
「お父さん、大丈夫?」
娘のエミリーが心配そうに声をかけるが、ジョナサンは娘の心配すらも上の空で、うつろな目を天井に向けながらこくこくとうなずくだけ。そんな贖網へ病的にあこがれ続ける毎日の中――彼はついに決心した。
見開き、充血したその眼で再び一心不乱にインターネットで贖網を探し始めた。そして、それをついに見つけた。日本の業者が限定販売しているもので値段を見て彼は息を呑んだ。それは彼の月給の10倍以上だった。
ジョナサンには理性など、とうになかった。サラのクレジットカードを使い、それを思いのままに注文してしていた。それが届くまで約一日の間、玄関先でくるくると回り続けるジョナサンを見て、サラはカウンセラーに電話をしていた。
ジョナサンは焦がれていた、贖網の味。食感。想像するだけで口の中には唾液が溢れ、心が高揚した。永遠とも思える時間ひたすらに玄関先でくるくると回っていると、ノックの音が聞こえる。「天国から天使が贈り物を届けてくれた」と、ジョナサンは子供の様にはしゃぎながら玄関前に置かれた小さな桐の箱を勢いよく持ち上げると自室へ持ち帰った。
自室のドアを勢いよく閉め、震える手で箱の蓋が欠けてしまうほどに乱雑に開けた。中には淡い青色でゼリー状の奇妙な形状をした、塩の匂いがするぶよぶよとしたそれが入っていた。そのところどころ紫色に発光する箇所のつやつやとした光沢はどこか神秘的な美しさすら感じられる。 迷いなど一切なかった。
彼は躊躇なくそれを手に掴んで、どこが何処の部位なのかも確かず、止められない欲望の勢いに任せて口の中に一気に押し込んだ。
ジョナサンの瞳が大きく開く。彼の中で食物の世界が大きく捻じ曲げられる。それは言葉では表現できないほどの味だった。全ての味覚が刺激され、それでいて深淵そのものとも言える味わい。そして歯が贖網に入り込むたび訪れる、えもいわれぬ幸福に包まれる軽やかな食感、ジョナサンは恍惚となり、自分がこの世で初めて生きていると感じた。
だが――そのエクスタシーは長く続かなかった。
ガブガブと野蛮な音を立てながら幸せを味わっていた矢先、喉が締め付けられるような感覚に襲われるジョナサン。呼吸が困難になり、全身に蕁麻疹が現れ始めた。医者の言葉が頭をよぎる――。
「贖網アレルギーは、最悪の場合、死に至ることもあります」
ジョナサンは床へ倒れ込んだ。意識が遠ざかる中、最後に彼が見たもの――それは転がった桐の箱に残る贖網の欠片だった。
***
その夜――サラは夫が部屋から出てこないことに気づき、不安になっていた。ジョナサンの行動に不安を覚えていた彼女は意を決して彼の部屋へ向かう。
ドアをノックするも返事はない。不安が募る中、恐る恐るドアノブを回して、部屋を覗き込んだ先に息を呑む光景が広がっていた。
最愛のジョナサンが口から青い泡を流しながら床に倒れている。その横には、小さな桐の箱が転がっていて、彼の手はそれを掴もうと伸びていた。サラはすぐに救急車を呼ぶも手遅れで、ジョナサンの呼吸は二度と戻らなかった。
警察が到着して状況を調査する中、一人の警官が桐の箱を手に取った。中に残った欠片を見て驚き混じりにつぶやく――。
「これは……贖網ですね」
「贖網?」
近くで爪を噛みながら扉の前で震えていたサラには、聞き慣れない言葉で今の気持ちでは本当はどうでも良いとさえ感じる事なのに、何故か気になってしまう。
警官は贖網についてサラに説明した。それが珍しい海産物であること。その味が絶品とされること。そして――一部では致命的なアレルギー反応を引き起こす可能性があることも。
サラの胸中へ奇妙な衝動が湧き上がる。それまで抑え込まれていた何かが解放されるようだった。
桐の箱を見ると、まだ少量だけ贖網が残っている。それを見ると、サラは自分でも驚くほど冷静な声でつぶやいていた――。
「美味しそう……」
「駄目です! まだ調べが終わってない……」警官が言い切るまでに、サラはその箱に勢いよく飛びつき、指先で箱の隅までこそぎ落とすように残りの贖網をすくい上げ、それを勢いのまま口へ運ぶ。
サラは理解した。
夫が何故こんなことをしたのか。その理由も、その狂気も、その結末すらも全て飲み込むように全てを理解した。それから――もっと欲しいとも思った。 警官たちが止めようとする前に、サラは部屋から飛び出していた。その目には奇妙な光が宿り、その足取りは非常に軽く速い。
警官はその後姿を見て「あれは酷いアレルギーだな」と呟いた。
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ジョナサン・クレインは自分の人生が狂い始めた瞬間を鮮明に覚えていた。それは、彼が初めて「贖網」という言葉を耳にした日だった。
「贖網アレルギーですね」
医者の言葉はまるで呪いのように彼の耳に響く。ジョナサンはその聞きなれない奇怪な言葉にすぐに反応した。
「贖網って何ですか?」
ジョナサンは眉をひそめながら尋ねると、医者は少し困惑した表情を浮かべた後、静かに答えた。
「珍しい海産物だと聞いています。私も正直よくはわからないのですが、日本の一部地域でしか採れない幻の食材だとか。あなたの症状から見て、これに対するアレルギー反応だと考えられます」
「でも、そんな幻なんて言われているものを食べたことなんてないはずです」
「時にはそういうこともあるんですよ。このアレルギーは昔からあるんですが、私も食材自体は見たことも無いんです。まあ、こういったものは遺伝的な要因であって……」
その日以来、ジョナサンの人生は変わった。
彼は「贖網」という言葉が頭から離れなくなり、それについて無我夢中で調べ始めた。それは確かに珍しい食材だった。どこの海なのかは断定できるものではないが、決まった温度化の深海で、ごく稀に何かと何かが交配をすると、ごく僅かな確率で産まれる生物であるという漠然とした情報しか出てこない。その味は「天国の味」と称されるほど絶品らしい。その採取は前述のとおり極めて確認が困難な生物であることもあり、贖網が市場に出ると驚くほど高価になるとのことで、一部の関係者のみが手に入れられる非常に稀な食材だ。
最初のうち、ジョナサンはそんな希少な食材である事がわかってから贖網の事を気にしないよう言い聞かせた。どうせ自分には縁のないものだと諦めていたのだが、時が経つにつれ、彼の中に奇妙な深い欲求が芽生え始めた。
「食べたい。贖網を食べたい」
その言葉が彼の心を支配するようになった。夜中に目を覚ますと唾を垂らしながらその言葉を呟いている自分に気づくこともあった。時折、「大丈夫?何か欲しいものでもある?」と妻のサラが心配そうに尋ねてくることもあった。その度にジョナサンは首を振り「いや……なんでもないよ」と応えるが、ジョナサンの贖網への欲求は日に日に強くなっていった。
彼は仕事にも集中できなくなり、家族との会話も減った。ただひたすら、「贖網」のことだけを考える毎日。
「お父さん、大丈夫?」
娘のエミリーが心配そうに声をかけるが、ジョナサンは娘の心配すらも上の空で、うつろな目を天井に向けながらこくこくとうなずくだけ。そんな贖網へ病的にあこがれ続ける毎日の中――彼はついに決心した。
見開き、充血したその眼で再び一心不乱にインターネットで贖網を探し始めた。そして、それをついに見つけた。日本の業者が限定販売しているもので値段を見て彼は息を呑んだ。それは彼の月給の10倍以上だった。
ジョナサンには理性など、とうになかった。サラのクレジットカードを使い、それを思いのままに注文してしていた。それが届くまで約一日の間、玄関先でくるくると回り続けるジョナサンを見て、サラはカウンセラーに電話をしていた。
ジョナサンは焦がれていた、贖網の味。食感。想像するだけで口の中には唾液が溢れ、心が高揚した。永遠とも思える時間ひたすらに玄関先でくるくると回っていると、ノックの音が聞こえる。「天国から天使が贈り物を届けてくれた」と、ジョナサンは子供の様にはしゃぎながら玄関前に置かれた小さな桐の箱を勢いよく持ち上げると自室へ持ち帰った。
自室のドアを勢いよく閉め、震える手で箱の蓋が欠けてしまうほどに乱雑に開けた。中には淡い青色でゼリー状の奇妙な形状をした、塩の匂いがするぶよぶよとしたそれが入っていた。そのところどころ紫色に発光する箇所のつやつやとした光沢はどこか神秘的な美しさすら感じられる。 迷いなど一切なかった。
彼は躊躇なくそれを手に掴んで、どこが何処の部位なのかも確かず、止められない欲望の勢いに任せて口の中に一気に押し込んだ。
ジョナサンの瞳が大きく開く。彼の中で食物の世界が大きく捻じ曲げられる。それは言葉では表現できないほどの味だった。全ての味覚が刺激され、それでいて深淵そのものとも言える味わい。そして歯が贖網に入り込むたび訪れる、えもいわれぬ幸福に包まれる軽やかな食感、ジョナサンは恍惚となり、自分がこの世で初めて生きていると感じた。
だが――そのエクスタシーは長く続かなかった。
ガブガブと野蛮な音を立てながら幸せを味わっていた矢先、喉が締め付けられるような感覚に襲われるジョナサン。呼吸が困難になり、全身に蕁麻疹が現れ始めた。医者の言葉が頭をよぎる――。
「贖網アレルギーは、最悪の場合、死に至ることもあります」
ジョナサンは床へ倒れ込んだ。意識が遠ざかる中、最後に彼が見たもの――それは転がった桐の箱に残る贖網の欠片だった。
***
その夜――サラは夫が部屋から出てこないことに気づき、不安になっていた。ジョナサンの行動に不安を覚えていた彼女は意を決して彼の部屋へ向かう。
ドアをノックするも返事はない。不安が募る中、恐る恐るドアノブを回して、部屋を覗き込んだ先に息を呑む光景が広がっていた。
最愛のジョナサンが口から青い泡を流しながら床に倒れている。その横には、小さな桐の箱が転がっていて、彼の手はそれを掴もうと伸びていた。サラはすぐに救急車を呼ぶも手遅れで、ジョナサンの呼吸は二度と戻らなかった。
警察が到着して状況を調査する中、一人の警官が桐の箱を手に取った。中に残った欠片を見て驚き混じりにつぶやく――。
「これは……贖網ですね」
「贖網?」
近くで爪を噛みながら扉の前で震えていたサラには、聞き慣れない言葉で今の気持ちでは本当はどうでも良いとさえ感じる事なのに、何故か気になってしまう。
警官は贖網についてサラに説明した。それが珍しい海産物であること。その味が絶品とされること。そして――一部では致命的なアレルギー反応を引き起こす可能性があることも。
サラの胸中へ奇妙な衝動が湧き上がる。それまで抑え込まれていた何かが解放されるようだった。
桐の箱を見ると、まだ少量だけ贖網が残っている。それを見ると、サラは自分でも驚くほど冷静な声でつぶやいていた――。
「美味しそう……」
「駄目です! まだ調べが終わってない……」警官が言い切るまでに、サラはその箱に勢いよく飛びつき、指先で箱の隅までこそぎ落とすように残りの贖網をすくい上げ、それを勢いのまま口へ運ぶ。
サラは理解した。
夫が何故こんなことをしたのか。その理由も、その狂気も、その結末すらも全て飲み込むように全てを理解した。それから――もっと欲しいとも思った。 警官たちが止めようとする前に、サラは部屋から飛び出していた。その目には奇妙な光が宿り、その足取りは非常に軽く速い。
警官はその後姿を見て「あれは酷いアレルギーだな」と呟いた。