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苦悩(3)

ー/ー



 「え……」
 ユージは涙目のままクワンを見つけた。
 「……ティッシュ、ここに置いておくから思う存分使ってくれたまえ」
 クワンは再びユージにティッシュとゴミ箱を差し出した。
 「あ、すみません」
 ユージは素直にティッシュを使い、鼻をかんだ。
 「珈琲のおかわりはどうだね?」
 「……頂きます」
 「よし。では、ついでにお菓子も用意させよう。ちょっと待っていてくれたまえ」
 と、クワンはタブレット端末を触り始めた。どうやら誰かにメッセージを送っているらしい。

 「さて、ユージ君」
 クワンはタブレット端末を脇に置くと、再びユージに相対した。
 「君の目から見ると、私たちは重要な役職に就いているし、それぞれの得意分野で活躍しているいわば成功者に見えるかもしれない。だが、ここに至るまでの道のりは決して順風満帆というわけではないのだよ」
 クワンは眼鏡を外し、ひとつ息をついた。
 「その中で苦しい選択を迫られて、大事なものを捨てざるをえなくなったり、描いた人生とは別の道を行かざるを得なくなることもあった。その時々においては悲しんだり恨んだり傷ついたりしながらも、私たちは前を向いて生きてきたんだ――その選択をしたのは他ならぬ自分自身であって、誰のせいにも出来ないからね」
 「そうだな。クワンにはユージの気持ちがよくわかるかもしれないな」
 ジンの言葉に、クワンは自虐的に唇を歪めた。
 「ユージ君。私は自分の研究のために実の母親を捨てたのだよ。ここにいるジンに全てを押し付けてね」
 「えっ」
 ユージは目を見開いた。
 「ユージ君。君と同じだよ。君も知っての通り、私は元々は天界の人間だ。母と二人で天界で暮らしていたのだが、生命科学の研究を進めるにあたり、どうしても魔界に移住する必要があってね」
 クワンは淡々とした口調で言葉を繋いだ。
 「その際、母も一緒に連れて行こうとしたのだが、どうしても承諾してくれなくてね。説得を重ねてみたものの、どうにも埒があかない。しまいには母から研究を諦めるよう迫られる事態になってしまってね――それで私は、母のことをジンに押し付けて、置き手紙だけ残して逃げるように魔界へ移住したのさ」
 クワンは眼鏡を掛け直し、淋しそうに目を伏せた。
 「私にはどうしても研究したいテーマがあった。当時の私は肉親よりも自分がやりたいことを選択したというわけだ――そうしないと、自分の行く道を妨害した母を恨んでしまう気がしてね。私は自分が恨む側に回るよりも恨まれる側にいた方がずっとましだと思ったんだ」
 「――その気持ち、わかるような気がします」
 ユージは神妙な面持ちで頷いた。クワンの苦悩に自分の苦悩をそのまま重ねていたのだ。
 「そうかね。今にして思えば、母を捨てた自分に対する言い訳にすぎない気もするがね」
 クワンは薄く笑った。
 「というわけで、母には悪いことをしたし、この選択が絶対的に正しかったとは思わないが、当時の私はそういう選択をしたというわけさ」
 「……クワンさんは、後悔はしなかったんですか?」
 ユージはおずおずとクワンに尋ねた。これを訊くのは酷かもしれないと思ったからだ。
 「したよ。他にもっといい方法はあったんじゃないか、母の命が終わるまでの間、研究をストップしてもよかったんじゃないか。心が弱った時にはそんなことばかり考えていたものだよ」
 クワンは正直に打ち明けた。
 彼は、決断を下してみたものの、やはりそう簡単には割り切れるものではない、と言外に語っていた。
 (俺も今回のことでどんな決断をしたとしても、後悔するんだろうな)
 ユージは自分の心を眺めて、そんなことを考えていた。

 「クワンの話をひとつだけ訂正するが、俺はお袋さんを押し付けられたとは思っていないよ。俺にとっては恩返し出来るいいチャンスだったからな」
 ジンはからりとした声音で言った。
 「ユージ。俺はいわゆる戦災孤児でな。戦のせいで家族を失くして、いわば天涯孤独の身なんだ」
 「えっ……そうなんですか」
 いつも笑顔で頼りがいのあるジンの思わぬ告白に、ユージは息を呑んだ。
 (とてもそんな身の上の人には見えないけど……そうだったんだ)
 「俺はひとりでふらふらしていたところを保護されて、地元の小さな神殿に引き取られた。そこで俺の面倒を見てくれたのがクワンのお袋さんだったんだ――俺がひねくれもせず、道を外すこともなくこうして大人になれたのもお袋さんから愛情を貰ったお陰ってわけなんだよ」
 「母さんは息子の私よりお前の方を気にかけていたからな。お陰でこっちはほったらかしだ」
 「ははっ、そいつは今でも悪かったと思ってるよ」
 ジンはばつが悪そうに頬を掻いた。
 「まあ、だからこそ母さんも大人しくお前を頼ってくれたんだろうがね」
 「そう言ってもらえると有難い」
 幼馴染の二人は顔を見合わせて、小さく笑い合った。
 最近知り合ったばかりのユージには到底推し量ることの出来ない過去と、それに裏打ちされた確かな絆がこの二人の間にはあるようだった。

 
 「そうだ。ユージ、この後時間あるか?」
 突然、ジンがそんなことを言い出した。
 「えっ……あ、はい」
 ユージは逡巡したが、サクラに晩御飯は要らないと言い捨てたことを思い出し、慌てて頷いた。
 「クワン。折角だから、酒でも吞まないか」
 「なるほど、そういうことか」
 クワンはにやりと笑った。
 「わかった。ユージ君に異論はないかね?」
 「はい。ご迷惑でなければ」
 ユージは今度は躊躇なく頷いた。
 兄弟子の心遣いが心に沁みた。
 「よし、決まりだ。ヤンを捕まえてくるから、ちょっと待っててくれ」
 ジンは席を立つと、テラスの外に出た。
 「鏡で呼び出せばいいんじゃないのかね」
 「あいつの場合は直接身柄を確保した方が確実だからな。じゃ、行ってくる」
 ジンは後ろ手で手を振ると、木々の中に消えて行った。
 「あれ?ジンさん、どうして森の中に」
 怪訝そうに首を傾げるユージに、
 「実は、あの先に大きい鏡が仕込んであってね。こっそり天界の『鏡の道』とつなげてあるんだよ」
 と、クワンは何故か得意気に教えてくれた。
 


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 「え……」
 ユージは涙目のままクワンを見つけた。
 「……ティッシュ、ここに置いておくから思う存分使ってくれたまえ」
 クワンは再びユージにティッシュとゴミ箱を差し出した。
 「あ、すみません」
 ユージは素直にティッシュを使い、鼻をかんだ。
 「珈琲のおかわりはどうだね?」
 「……頂きます」
 「よし。では、ついでにお菓子も用意させよう。ちょっと待っていてくれたまえ」
 と、クワンはタブレット端末を触り始めた。どうやら誰かにメッセージを送っているらしい。
 「さて、ユージ君」
 クワンはタブレット端末を脇に置くと、再びユージに相対した。
 「君の目から見ると、私たちは重要な役職に就いているし、それぞれの得意分野で活躍しているいわば成功者に見えるかもしれない。だが、ここに至るまでの道のりは決して順風満帆というわけではないのだよ」
 クワンは眼鏡を外し、ひとつ息をついた。
 「その中で苦しい選択を迫られて、大事なものを捨てざるをえなくなったり、描いた人生とは別の道を行かざるを得なくなることもあった。その時々においては悲しんだり恨んだり傷ついたりしながらも、私たちは前を向いて生きてきたんだ――その選択をしたのは他ならぬ自分自身であって、誰のせいにも出来ないからね」
 「そうだな。クワンにはユージの気持ちがよくわかるかもしれないな」
 ジンの言葉に、クワンは自虐的に唇を歪めた。
 「ユージ君。私は自分の研究のために実の母親を捨てたのだよ。ここにいるジンに全てを押し付けてね」
 「えっ」
 ユージは目を見開いた。
 「ユージ君。君と同じだよ。君も知っての通り、私は元々は天界の人間だ。母と二人で天界で暮らしていたのだが、生命科学の研究を進めるにあたり、どうしても魔界に移住する必要があってね」
 クワンは淡々とした口調で言葉を繋いだ。
 「その際、母も一緒に連れて行こうとしたのだが、どうしても承諾してくれなくてね。説得を重ねてみたものの、どうにも埒があかない。しまいには母から研究を諦めるよう迫られる事態になってしまってね――それで私は、母のことをジンに押し付けて、置き手紙だけ残して逃げるように魔界へ移住したのさ」
 クワンは眼鏡を掛け直し、淋しそうに目を伏せた。
 「私にはどうしても研究したいテーマがあった。当時の私は肉親よりも自分がやりたいことを選択したというわけだ――そうしないと、自分の行く道を妨害した母を恨んでしまう気がしてね。私は自分が恨む側に回るよりも恨まれる側にいた方がずっとましだと思ったんだ」
 「――その気持ち、わかるような気がします」
 ユージは神妙な面持ちで頷いた。クワンの苦悩に自分の苦悩をそのまま重ねていたのだ。
 「そうかね。今にして思えば、母を捨てた自分に対する言い訳にすぎない気もするがね」
 クワンは薄く笑った。
 「というわけで、母には悪いことをしたし、この選択が絶対的に正しかったとは思わないが、当時の私はそういう選択をしたというわけさ」
 「……クワンさんは、後悔はしなかったんですか?」
 ユージはおずおずとクワンに尋ねた。これを訊くのは酷かもしれないと思ったからだ。
 「したよ。他にもっといい方法はあったんじゃないか、母の命が終わるまでの間、研究をストップしてもよかったんじゃないか。心が弱った時にはそんなことばかり考えていたものだよ」
 クワンは正直に打ち明けた。
 彼は、決断を下してみたものの、やはりそう簡単には割り切れるものではない、と言外に語っていた。
 (俺も今回のことでどんな決断をしたとしても、後悔するんだろうな)
 ユージは自分の心を眺めて、そんなことを考えていた。
 「クワンの話をひとつだけ訂正するが、俺はお袋さんを押し付けられたとは思っていないよ。俺にとっては恩返し出来るいいチャンスだったからな」
 ジンはからりとした声音で言った。
 「ユージ。俺はいわゆる戦災孤児でな。戦のせいで家族を失くして、いわば天涯孤独の身なんだ」
 「えっ……そうなんですか」
 いつも笑顔で頼りがいのあるジンの思わぬ告白に、ユージは息を呑んだ。
 (とてもそんな身の上の人には見えないけど……そうだったんだ)
 「俺はひとりでふらふらしていたところを保護されて、地元の小さな神殿に引き取られた。そこで俺の面倒を見てくれたのがクワンのお袋さんだったんだ――俺がひねくれもせず、道を外すこともなくこうして大人になれたのもお袋さんから愛情を貰ったお陰ってわけなんだよ」
 「母さんは息子の私よりお前の方を気にかけていたからな。お陰でこっちはほったらかしだ」
 「ははっ、そいつは今でも悪かったと思ってるよ」
 ジンはばつが悪そうに頬を掻いた。
 「まあ、だからこそ母さんも大人しくお前を頼ってくれたんだろうがね」
 「そう言ってもらえると有難い」
 幼馴染の二人は顔を見合わせて、小さく笑い合った。
 最近知り合ったばかりのユージには到底推し量ることの出来ない過去と、それに裏打ちされた確かな絆がこの二人の間にはあるようだった。
 「そうだ。ユージ、この後時間あるか?」
 突然、ジンがそんなことを言い出した。
 「えっ……あ、はい」
 ユージは逡巡したが、サクラに晩御飯は要らないと言い捨てたことを思い出し、慌てて頷いた。
 「クワン。折角だから、酒でも吞まないか」
 「なるほど、そういうことか」
 クワンはにやりと笑った。
 「わかった。ユージ君に異論はないかね?」
 「はい。ご迷惑でなければ」
 ユージは今度は躊躇なく頷いた。
 兄弟子の心遣いが心に沁みた。
 「よし、決まりだ。ヤンを捕まえてくるから、ちょっと待っててくれ」
 ジンは席を立つと、テラスの外に出た。
 「鏡で呼び出せばいいんじゃないのかね」
 「あいつの場合は直接身柄を確保した方が確実だからな。じゃ、行ってくる」
 ジンは後ろ手で手を振ると、木々の中に消えて行った。
 「あれ?ジンさん、どうして森の中に」
 怪訝そうに首を傾げるユージに、
 「実は、あの先に大きい鏡が仕込んであってね。こっそり天界の『鏡の道』とつなげてあるんだよ」
 と、クワンは何故か得意気に教えてくれた。