表示設定
表示設定
目次 目次




苦悩(2)

ー/ー



 「……結論から言いますと、ジムルグへの旅行は僕にとって大変有意義なものでした。ずっと探していたものがそこにあったからです。
 ジムルグの書店で偶然手に取った万葉集という本で、僕は言葉が動くところを初めて観察することが出来ました。具体的には、ジムルグの古語など分かるはずもないのに、指でなぞるだけでその歌に隠された思いのようなものが心に染み出して、意味を取ることが出来たんです。
 僕は、ジムルグの古語こそが自分の探していたものだと思い、その本を購入して魔界に持ち帰りました。これがあれば魔界でも研究が出来ると、そう信じていました。――でも、それは違いました。魔界に帰ると、万葉集は何も語らなくなりました。他の本と同様、単なる文字の羅列にしか過ぎないものに変容していたんです」
 ユージは自虐的に唇を歪めた。
 「でも、魔界で僕がこれまで何に悩み、苦しんできたかを思えば、それは十分に予見出来ることでした。僕は、新しく手にしたおもちゃにただただ浮かれてそのことを都合よく忘れていただけなんです。そして、このことで、今まで薄々気づいていながら目を背けてきた事実を認めないわけにはいかなくなりました――魔界に居る限り、僕の研究は一歩も先に進められないことを」
 と、ユージは雄弁な溜息をついた。
 「研究場所としてふさわしいのは、どう考えても中道界です。とっかかりとしては万葉集に出会ったジムルグに行くのが良いと思っています。僕一人であればすぐにでも長期滞在の申請を出して出発してしまうところですが、残念ながらそうはいきません――僕には妻が居ますし、もうすぐ妻との間に子供が産まれます」
 そう言って、こくん、と珈琲を飲んだユージの表情は恐ろしく冷静だった。
 「僕は研究と家庭を両立させる可能性を探りました。でも、調べれば調べるほどそれは無理だということを思い知らされることになりました。家族で中道界に行くには子供が大きくなるまで待たないといけないし、何よりサクラの評価が高すぎて中道界に行かせてもらえるかどうか――彼女は師匠から情報テクノロジーの薫陶を受けたことは誰にも言っていないと言っていますが、魔界政府にはしっかりキャッチされているようで、先日調べたら彼女の今の業務内容では付く筈のない『特S』が設定されていました」
 『特S』レベルとは、技術者の評価としては最高のものだ。
 「なるほどねえ。確かにそんな高評価の技術者が中道界に長期滞在するとなると、魔界政府は難色を示しそうだな。もし許してもらえたとしても、事あるごとに痛くもない腹を探られる事態になりそうだ」
 ユージの言葉を受けて、クワンはしたり顔で頷いた。
 魔界政府は、中道界に提供する技術や各種情報をきめ細かく範囲を決めてきっちり管理している。当然ながら魔界政府が意図しない形での技術の流出には相当神経を尖らせている筈だ。
そんなわけで、魔界政府においては、高い技術力を持った人間が長期間中道界に滞在すること自体がリスクと考えていたとしても不思議ではない。
 「はい。僕もそう思います。僕は、そんなことでサクラを悩ませたくはありません――これはあくまでも僕の問題で、サクラには何の関係もありませんから」
 ユージは再び鼻を啜った。
 「例えば僕が魔界と中道界を短期間で行き来して、子育てと研究を両立する方法もあるかもしれませんが、それだとどちらも中途半端に手を出しているだけで、結局何処かで破綻するような気がして。あれこれ悩んでいるうちに、家庭を取るか、それとも研究を取るかの二択しかないと思うようになりました。両立する道筋が立たない以上、どちらかを選んでどちらかを捨てるしかないですよね」
 ユージは寂しそうな、そして壊れそうな顔で笑った。
 「あはは……それで、そう考えたら家族が邪魔になっちゃったんです。お前たちさえいなければこんなに苦しまずに済むのにって――これって最低ですよね。サクラも、産まれてくる子供もちっとも悪くないのに……」

 「ユージ」
 ここまで黙って話を聞いていたジンは、突然ユージの右手をぎゅっと握った。
 「俺は神官だ。どんな酷い言葉でも全部聞いてやるから、心にあるものを全部さらけ出してみろ――人間には、言葉にして初めてわかることだってあるんだ」
 「ジンさん……」
 ジンはユージと目が合うと、真剣な面持ちで大きく頷いて見せた。
 ユージの目から涙がぽろっと零れた。
 「ジンさん……僕はどうして、こんなに苦しまないといけないんですか?僕は何か悪いことでもしたんですか?」
 「……」
 「僕は、サクラを愛している。サクラとずっと一緒に笑っていたい。でも、そうするためには研究を諦めないといけない。……研究を諦めれば僕はきっとサクラを憎んでしまう。お前さえいなければやりたかったことを諦めずに済んだのにって。同じように僕たちの子供のことも……どうして、どうしてこんなことになっちゃうんですか?僕はそんなに多くを望んだつもりはないのに」
 「ユージ君。残酷なようだが、それが人生というものだよ」
 クワンは冷静な声で告げたが、その表情はとても優しかった。
 「人生は選択の連続だ。その中で大事なものを捨てたり、諦めたりすることだってある。人生とはそういったものなんだ」



スタンプを贈って作者を応援しよう!

次のエピソードへ進む 苦悩(3)


みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



 「……結論から言いますと、ジムルグへの旅行は僕にとって大変有意義なものでした。ずっと探していたものがそこにあったからです。
 ジムルグの書店で偶然手に取った万葉集という本で、僕は言葉が動くところを初めて観察することが出来ました。具体的には、ジムルグの古語など分かるはずもないのに、指でなぞるだけでその歌に隠された思いのようなものが心に染み出して、意味を取ることが出来たんです。
 僕は、ジムルグの古語こそが自分の探していたものだと思い、その本を購入して魔界に持ち帰りました。これがあれば魔界でも研究が出来ると、そう信じていました。――でも、それは違いました。魔界に帰ると、万葉集は何も語らなくなりました。他の本と同様、単なる文字の羅列にしか過ぎないものに変容していたんです」
 ユージは自虐的に唇を歪めた。
 「でも、魔界で僕がこれまで何に悩み、苦しんできたかを思えば、それは十分に予見出来ることでした。僕は、新しく手にしたおもちゃにただただ浮かれてそのことを都合よく忘れていただけなんです。そして、このことで、今まで薄々気づいていながら目を背けてきた事実を認めないわけにはいかなくなりました――魔界に居る限り、僕の研究は一歩も先に進められないことを」
 と、ユージは雄弁な溜息をついた。
 「研究場所としてふさわしいのは、どう考えても中道界です。とっかかりとしては万葉集に出会ったジムルグに行くのが良いと思っています。僕一人であればすぐにでも長期滞在の申請を出して出発してしまうところですが、残念ながらそうはいきません――僕には妻が居ますし、もうすぐ妻との間に子供が産まれます」
 そう言って、こくん、と珈琲を飲んだユージの表情は恐ろしく冷静だった。
 「僕は研究と家庭を両立させる可能性を探りました。でも、調べれば調べるほどそれは無理だということを思い知らされることになりました。家族で中道界に行くには子供が大きくなるまで待たないといけないし、何よりサクラの評価が高すぎて中道界に行かせてもらえるかどうか――彼女は師匠から情報テクノロジーの薫陶を受けたことは誰にも言っていないと言っていますが、魔界政府にはしっかりキャッチされているようで、先日調べたら彼女の今の業務内容では付く筈のない『特S』が設定されていました」
 『特S』レベルとは、技術者の評価としては最高のものだ。
 「なるほどねえ。確かにそんな高評価の技術者が中道界に長期滞在するとなると、魔界政府は難色を示しそうだな。もし許してもらえたとしても、事あるごとに痛くもない腹を探られる事態になりそうだ」
 ユージの言葉を受けて、クワンはしたり顔で頷いた。
 魔界政府は、中道界に提供する技術や各種情報をきめ細かく範囲を決めてきっちり管理している。当然ながら魔界政府が意図しない形での技術の流出には相当神経を尖らせている筈だ。そんなわけで、魔界政府においては、高い技術力を持った人間が長期間中道界に滞在すること自体がリスクと考えていたとしても不思議ではない。
 「はい。僕もそう思います。僕は、そんなことでサクラを悩ませたくはありません――これはあくまでも僕の問題で、サクラには何の関係もありませんから」
 ユージは再び鼻を啜った。
 「例えば僕が魔界と中道界を短期間で行き来して、子育てと研究を両立する方法もあるかもしれませんが、それだとどちらも中途半端に手を出しているだけで、結局何処かで破綻するような気がして。あれこれ悩んでいるうちに、家庭を取るか、それとも研究を取るかの二択しかないと思うようになりました。両立する道筋が立たない以上、どちらかを選んでどちらかを捨てるしかないですよね」
 ユージは寂しそうな、そして壊れそうな顔で笑った。
 「あはは……それで、そう考えたら家族が邪魔になっちゃったんです。お前たちさえいなければこんなに苦しまずに済むのにって――これって最低ですよね。サクラも、産まれてくる子供もちっとも悪くないのに……」
 「ユージ」
 ここまで黙って話を聞いていたジンは、突然ユージの右手をぎゅっと握った。
 「俺は神官だ。どんな酷い言葉でも全部聞いてやるから、心にあるものを全部さらけ出してみろ――人間には、言葉にして初めてわかることだってあるんだ」
 「ジンさん……」
 ジンはユージと目が合うと、真剣な面持ちで大きく頷いて見せた。
 ユージの目から涙がぽろっと零れた。
 「ジンさん……僕はどうして、こんなに苦しまないといけないんですか?僕は何か悪いことでもしたんですか?」
 「……」
 「僕は、サクラを愛している。サクラとずっと一緒に笑っていたい。でも、そうするためには研究を諦めないといけない。……研究を諦めれば僕はきっとサクラを憎んでしまう。お前さえいなければやりたかったことを諦めずに済んだのにって。同じように僕たちの子供のことも……どうして、どうしてこんなことになっちゃうんですか?僕はそんなに多くを望んだつもりはないのに」
 「ユージ君。残酷なようだが、それが人生というものだよ」
 クワンは冷静な声で告げたが、その表情はとても優しかった。
 「人生は選択の連続だ。その中で大事なものを捨てたり、諦めたりすることだってある。人生とはそういったものなんだ」