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苦悩(1)

ー/ー



 サクラは近頃の夫の異変に戸惑っていた。
 旅行から帰ってきてからのユージの様子といえば、何となく元気がなく口数が少ないところから始まり、やがて書斎に閉じ籠ってしまうようになった。
 それでも最初のうちは寝室にやってきていたが、ある日を境にそれもなくなった。どうやら書斎で寝起きしているようだ。
 そんなわけで、一つ屋根の下で暮らしているのに夫婦で顔を合わせるのは食事の時ぐらいになったが、ユージはその時間さえも常に何事か考え事をしているようで、サクラが話し掛けてもまるでうわの空だ。そうかと思えば書斎から苛ついた様子で出てきて、サクラと目も合わせずふらっと何処かへ出かけ、酒の匂いをさせて帰ってきたりする。
 「ユージ、どうしたの?旅行から帰ってからずっと変よ」
 サクラは遂に思い余って、紙袋を持って出かけようとしたユージの腕を掴んで問いかけた。
 「……何でもないよ」
 ユージはサクラの顔を見ずに低い声で答えた。
 「嘘よ。何でもなくないでしょ?何か悩み事があるなら、話してよ。あたしも一緒に考えるから」
 必死で訴えるサクラに、ユージは忌々し気に舌打ちした。そして、
 「うるさいな。何でもないって言ってるだろ」
 と、苛立ちを隠すことなく、乱暴な仕草でサクラの手を振りほどいた。
 「きゃっ」
 小さく悲鳴を上げてよろけたサクラに、ユージはしまった、という顔をして、
 「あっ、ご、ごめん」
 と、慌てた様子で謝罪した。そして、自らの目頭を押さえて深く息をついた後、サクラにこう告げた。
 「……サクラ。悪いけど、俺のことは暫く放っておいてくれないか。お願いだから」
 「ユージ……どうして?」
 不安気に声を掛けたサクラに、ユージはふいっ、と背を向けた。
 「ちょっと出かけてくる。晩御飯はいらない。俺のことは待たないで。先に寝てていいから」
 そう五月雨で言い残し、ユージは逃げるように外へ飛び出した。
 
 
 「ジン。これからユージ君がこちらに来たいと言っているが、構わないかね?」
 クワンはタブレット端末から顔をあげ、机に備え付けの大きな端末とにらめっこしているジンに語り掛けた。
 ここは、『コウノトリ』の地下にある、クワンの私的な研究施設だ。
 「あー、いいよ別に」
 ジンは気のない返事をした。
 「じゃあ、OK出すぞ」
 クワンはユージに返事を出すと、タブレット端末を脇に置いてジンの端末を覗き込んだ。
 「もしかして、何かお悩みかね?」
 「ああ。この先が読みたいんだが」
 と、ジンは画面を指差した。
 「それならこっちのリンク先だと思うぞ」
 「そうか、こっちか」
 ジンは再び端末に没頭する。彼は、魔界で発表された論文を漁りに来ているのだ。
 暫く端末とにらめっこを続けたジンはようやく顔を上げ、
 「クワン。データ貰っていくぞ」
 と、幼馴染に声を掛けた。
 「ああ。念のために言うが、機密情報は避けてくれよ」
 「わかってるって」
 ジンは苦く笑うと、端末にメディアを突っ込み、お目当てのデータを移送した。
 「いつも気になってるんだが、魔界の技術をどうやって天界で生かすのだね?」
 「そうだな。薬だったら成分を分析して似たような薬草を探したり、技術の方は機械でやってるところを魔法に変換して天界仕様にしたり――まあそんなところだ」
 ジンはさらっとした口調で言うが、彼はそういった難しい作業を積み重ねてきているということだ。おそらく天界広しといえど、こんなことをやっている薬師はジンをおいて他にはいないだろう。
 「そんなことまでやっていると、とても神官の方には手が回らなさそうだな」
 と、クワンが冗談半分に口にすると、
 「そうなんだよ。申し訳ないが、近頃そっちはサボってばかりだ」
 ジンは真顔で回答した。そして、
 「そもそも、天界が統一された時点で俺が神官である意味はなくなったしな――そろそろ潮時なのかもって思うことはあるよ」
 と、恐らく暁の宮では誰にも話せないであろう本音を覗かせた。
 ジンにとって、暁の宮の神官という立場は、あくまでも薬師の仕事を円滑に進める上での手段でしかないのだ。
 「そうか。一時は真面目に司祭職を目指していた男の言うこととは思えないが」
 クワンの言葉に、ジンは大仰に肩を竦めた。
 「ま、あれこそ、そもそもの動機が不純だったからな」
 「それは知っているが……」
 クワンは顔を曇らせた。
 「クワン」
 それを見たジンは例の顔で微笑むと、幼馴染の肩を抱いた。
 「言いたいことはわかるが、俺を憐れまないでくれ。俺は後悔なんかしていないし、したくもないんだよ」
 カラッとした声音で言うと、クワンの肩をポン、と叩いた。そして、
 「ユージ、そろそろ来るかな」
 さりげなく話題を変えた。
 「そうだな。来てもいい頃だ」
 その時、クワンのタブレット端末にユージ来訪の知らせが届いた。
 「お、噂をすれば影だ。ジン、君はテラスで待っていてくれたまえ」
 「わかった」
 ジンは、クワンを見送りながら、うーん、と大きく伸びをする。
 「今日はここまでにしとくかあ」
 ジンは端末をログオフし、データを抽出したメディアを肩掛け鞄にしまい込んだ。


 ややあって、クワンに連れられてユージがやってきた。初めて招かれるクワンの研究施設に興味津々の様子だ。
 (『コウノトリ』の地下にこんなところがあるなんて)
 いかにも研究施設といった地上の『コウノトリ』に対し、ここは地下であるにも関わらず、廊下に配された大きな窓の外には豊かな緑が広がっている。
 「私も元は天界の人間なもので、人工物ばかりに囲まれていると気が滅入ってね。それで、ここには木をたくさん植えてみたんだ」
 「へえ」
 「ここを右側に行くと私の住まいがあるのだが、今日は緑の中で語らうとしよう。こっちだ」
 「はい、是非」
 近頃鬱々としているユージにとっても、そちらの方が有難い。
 そして。
 廊下の突き当りにある広いテラスで、思いがけない人物が例の笑顔で立っていた。
 「久し振りだな、ユージ。元気そうで何よりだ」
 「ジン……さん?」
 ユージは、何故か戸惑ったようにクワンを振り返った。
 「ジンは時々、魔界の論文を読みに私のところに来るんだよ。今日はたまたまその日だったというわけさ」
 「そうだったんですね」
 クワンの説明にユージは頷き、ジンに笑いかけて何か言おうとしたところで、固まった。
 慌てて俯いたその肩が小刻みに震えた。
 「ユージ?」
 ジンは怪訝そうにユージを覗き込んだ。
 ユージは、顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。
 クワンとジンは顔を見合わせた。ユージに何か異変があったのは明白だった。
 「ユージ君。とにかく座りなさい」
 クワンはユージの背中を押してゆっくり歩かせ、ゆったりとした椅子に座らせた。クワンとジンもそれぞれ同じデザインの椅子に腰かけた。
 「ご、ごめんなさい」
 ユージはポケットからハンドタオルを取り出し、顔を押さえた。
 「泣きたいときには泣けばいいさ。我慢してもいいことないぞ」
 そんなユージに、ジンは穏やかに声を掛けた。
 「そうそう、思い切り泣いた後の珈琲もまた格別なものだよ」
 と、クワンはサイフォンから珈琲を注ぎ、ユージの前に置いた。
 二人の兄弟子は、黙って珈琲を飲みながら弟弟子が落ち着くのを待った。

 「……はあ」
 ひとしきり泣いて落ち着いたのか、ユージは大きく息をついた。そして、クワンが差し出したティッシュで鼻をかみ、これまたクワンが差し出したごみ箱に捨てた。
 「落ち着いたかね?」
 クワンの問いに、ユージは頷いた。そして、
 「すみません。泣くつもりなんかなかったんですけど」
 と、小さな声で謝罪した。
 「それは構わんが、一体どうしたのだね」
 クワンの問いかけに、ユージは持っていた紙袋をテーブルの上に置き、クワンの方に押し出した。
 「その前に、これ、ジムルグのお土産です」
 「ジムルグの?」
 「この前、妻と旅行に」
 袋を開けて見ると、中には袋入りの珈琲豆と缶入りの緑茶が2つずつ入っていた。
 「おお、これは――ありがとう。大事に飲ませてもらうよ」
 クワンが口元を綻ばせると、ユージの硬い表情が幾分和らいだように見えた。
 「しかし、どう見ても旅行に行って楽しかったって感じじゃないな――よかったら、ユージの心にあるものを聞かせてくれないか?」
 ジンはユージを気遣いながら声を掛けた。
 「はい。わかりました」
 ユージは鼻を啜ると、二人の兄弟子にぽつぽつと語り始めた。



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 サクラは近頃の夫の異変に戸惑っていた。
 旅行から帰ってきてからのユージの様子といえば、何となく元気がなく口数が少ないところから始まり、やがて書斎に閉じ籠ってしまうようになった。
 それでも最初のうちは寝室にやってきていたが、ある日を境にそれもなくなった。どうやら書斎で寝起きしているようだ。
 そんなわけで、一つ屋根の下で暮らしているのに夫婦で顔を合わせるのは食事の時ぐらいになったが、ユージはその時間さえも常に何事か考え事をしているようで、サクラが話し掛けてもまるでうわの空だ。そうかと思えば書斎から苛ついた様子で出てきて、サクラと目も合わせずふらっと何処かへ出かけ、酒の匂いをさせて帰ってきたりする。
 「ユージ、どうしたの?旅行から帰ってからずっと変よ」
 サクラは遂に思い余って、紙袋を持って出かけようとしたユージの腕を掴んで問いかけた。
 「……何でもないよ」
 ユージはサクラの顔を見ずに低い声で答えた。
 「嘘よ。何でもなくないでしょ?何か悩み事があるなら、話してよ。あたしも一緒に考えるから」
 必死で訴えるサクラに、ユージは忌々し気に舌打ちした。そして、
 「うるさいな。何でもないって言ってるだろ」
 と、苛立ちを隠すことなく、乱暴な仕草でサクラの手を振りほどいた。
 「きゃっ」
 小さく悲鳴を上げてよろけたサクラに、ユージはしまった、という顔をして、
 「あっ、ご、ごめん」
 と、慌てた様子で謝罪した。そして、自らの目頭を押さえて深く息をついた後、サクラにこう告げた。
 「……サクラ。悪いけど、俺のことは暫く放っておいてくれないか。お願いだから」
 「ユージ……どうして?」
 不安気に声を掛けたサクラに、ユージはふいっ、と背を向けた。
 「ちょっと出かけてくる。晩御飯はいらない。俺のことは待たないで。先に寝てていいから」
 そう五月雨で言い残し、ユージは逃げるように外へ飛び出した。
 「ジン。これからユージ君がこちらに来たいと言っているが、構わないかね?」
 クワンはタブレット端末から顔をあげ、机に備え付けの大きな端末とにらめっこしているジンに語り掛けた。
 ここは、『コウノトリ』の地下にある、クワンの私的な研究施設だ。
 「あー、いいよ別に」
 ジンは気のない返事をした。
 「じゃあ、OK出すぞ」
 クワンはユージに返事を出すと、タブレット端末を脇に置いてジンの端末を覗き込んだ。
 「もしかして、何かお悩みかね?」
 「ああ。この先が読みたいんだが」
 と、ジンは画面を指差した。
 「それならこっちのリンク先だと思うぞ」
 「そうか、こっちか」
 ジンは再び端末に没頭する。彼は、魔界で発表された論文を漁りに来ているのだ。
 暫く端末とにらめっこを続けたジンはようやく顔を上げ、
 「クワン。データ貰っていくぞ」
 と、幼馴染に声を掛けた。
 「ああ。念のために言うが、機密情報は避けてくれよ」
 「わかってるって」
 ジンは苦く笑うと、端末にメディアを突っ込み、お目当てのデータを移送した。
 「いつも気になってるんだが、魔界の技術をどうやって天界で生かすのだね?」
 「そうだな。薬だったら成分を分析して似たような薬草を探したり、技術の方は機械でやってるところを魔法に変換して天界仕様にしたり――まあそんなところだ」
 ジンはさらっとした口調で言うが、彼はそういった難しい作業を積み重ねてきているということだ。おそらく天界広しといえど、こんなことをやっている薬師はジンをおいて他にはいないだろう。
 「そんなことまでやっていると、とても神官の方には手が回らなさそうだな」
 と、クワンが冗談半分に口にすると、
 「そうなんだよ。申し訳ないが、近頃そっちはサボってばかりだ」
 ジンは真顔で回答した。そして、
 「そもそも、天界が統一された時点で俺が神官である意味はなくなったしな――そろそろ潮時なのかもって思うことはあるよ」
 と、恐らく暁の宮では誰にも話せないであろう本音を覗かせた。
 ジンにとって、暁の宮の神官という立場は、あくまでも薬師の仕事を円滑に進める上での手段でしかないのだ。
 「そうか。一時は真面目に司祭職を目指していた男の言うこととは思えないが」
 クワンの言葉に、ジンは大仰に肩を竦めた。
 「ま、あれこそ、そもそもの動機が不純だったからな」
 「それは知っているが……」
 クワンは顔を曇らせた。
 「クワン」
 それを見たジンは例の顔で微笑むと、幼馴染の肩を抱いた。
 「言いたいことはわかるが、俺を憐れまないでくれ。俺は後悔なんかしていないし、したくもないんだよ」
 カラッとした声音で言うと、クワンの肩をポン、と叩いた。そして、
 「ユージ、そろそろ来るかな」
 さりげなく話題を変えた。
 「そうだな。来てもいい頃だ」
 その時、クワンのタブレット端末にユージ来訪の知らせが届いた。
 「お、噂をすれば影だ。ジン、君はテラスで待っていてくれたまえ」
 「わかった」
 ジンは、クワンを見送りながら、うーん、と大きく伸びをする。
 「今日はここまでにしとくかあ」
 ジンは端末をログオフし、データを抽出したメディアを肩掛け鞄にしまい込んだ。
 ややあって、クワンに連れられてユージがやってきた。初めて招かれるクワンの研究施設に興味津々の様子だ。
 (『コウノトリ』の地下にこんなところがあるなんて)
 いかにも研究施設といった地上の『コウノトリ』に対し、ここは地下であるにも関わらず、廊下に配された大きな窓の外には豊かな緑が広がっている。
 「私も元は天界の人間なもので、人工物ばかりに囲まれていると気が滅入ってね。それで、ここには木をたくさん植えてみたんだ」
 「へえ」
 「ここを右側に行くと私の住まいがあるのだが、今日は緑の中で語らうとしよう。こっちだ」
 「はい、是非」
 近頃鬱々としているユージにとっても、そちらの方が有難い。
 そして。
 廊下の突き当りにある広いテラスで、思いがけない人物が例の笑顔で立っていた。
 「久し振りだな、ユージ。元気そうで何よりだ」
 「ジン……さん?」
 ユージは、何故か戸惑ったようにクワンを振り返った。
 「ジンは時々、魔界の論文を読みに私のところに来るんだよ。今日はたまたまその日だったというわけさ」
 「そうだったんですね」
 クワンの説明にユージは頷き、ジンに笑いかけて何か言おうとしたところで、固まった。
 慌てて俯いたその肩が小刻みに震えた。
 「ユージ?」
 ジンは怪訝そうにユージを覗き込んだ。
 ユージは、顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。
 クワンとジンは顔を見合わせた。ユージに何か異変があったのは明白だった。
 「ユージ君。とにかく座りなさい」
 クワンはユージの背中を押してゆっくり歩かせ、ゆったりとした椅子に座らせた。クワンとジンもそれぞれ同じデザインの椅子に腰かけた。
 「ご、ごめんなさい」
 ユージはポケットからハンドタオルを取り出し、顔を押さえた。
 「泣きたいときには泣けばいいさ。我慢してもいいことないぞ」
 そんなユージに、ジンは穏やかに声を掛けた。
 「そうそう、思い切り泣いた後の珈琲もまた格別なものだよ」
 と、クワンはサイフォンから珈琲を注ぎ、ユージの前に置いた。
 二人の兄弟子は、黙って珈琲を飲みながら弟弟子が落ち着くのを待った。
 「……はあ」
 ひとしきり泣いて落ち着いたのか、ユージは大きく息をついた。そして、クワンが差し出したティッシュで鼻をかみ、これまたクワンが差し出したごみ箱に捨てた。
 「落ち着いたかね?」
 クワンの問いに、ユージは頷いた。そして、
 「すみません。泣くつもりなんかなかったんですけど」
 と、小さな声で謝罪した。
 「それは構わんが、一体どうしたのだね」
 クワンの問いかけに、ユージは持っていた紙袋をテーブルの上に置き、クワンの方に押し出した。
 「その前に、これ、ジムルグのお土産です」
 「ジムルグの?」
 「この前、妻と旅行に」
 袋を開けて見ると、中には袋入りの珈琲豆と缶入りの緑茶が2つずつ入っていた。
 「おお、これは――ありがとう。大事に飲ませてもらうよ」
 クワンが口元を綻ばせると、ユージの硬い表情が幾分和らいだように見えた。
 「しかし、どう見ても旅行に行って楽しかったって感じじゃないな――よかったら、ユージの心にあるものを聞かせてくれないか?」
 ジンはユージを気遣いながら声を掛けた。
 「はい。わかりました」
 ユージは鼻を啜ると、二人の兄弟子にぽつぽつと語り始めた。