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4 桟原香織③

ー/ー



  それからの結衣は本当にいまの姿の方が素であるかのように振る舞うようになった。気が強く、はっきりと自分の意見を言って堂々としている少女。当然、クラスメイト達に限らず結衣のことを知っている人達はその変わり様に戸惑っていたと思う。それでも以前よりも話しやすくなった結衣が学校生活に溶け込むのにはそう時間はかからず、むしろ興味を持たれてあっという間に学校でも存在感のある生徒の一人になっていった。そんな結衣を見てどこか寂しくもあり、安心して嬉しくもあった。
 そんな結衣の変化にも慣れ切った頃、私たちは高校一年生になった。高校は中学と同じ敷地内にあり、校舎が変わるだけということもあって校内で見る顔ぶれはほとんど変わらない。強いて言えば高校から入ってきた生徒も何人かはいたが、両手で数えれば充分足りる程度だ。
 そういうわけで高校に上がったからと言って新しい出会いやら何やらがあるというわけでもなく、相変わらず時間の過ぎていく実感をあまり感じないままだった。
 だけど、その中でも少し嬉しかったことがある。何故だか分からないが、綾奈が三人でいることに積極的になったことだ。
 中学二年生の秋頃から私たちは少しずつ一緒に帰るということが減っていった。決して仲が悪くなったとかそういうわけではない。その証拠に一週間に何回かは必ず一緒に帰っていた。ただ、中学で出来た新しい友人たちと遊んだりということをしているとどうしても毎日というわけにはいかなくなる。そうしていくうちに誰かが一人欠けたり、一人で帰ったりということが増えていった。最初のうちには寂しさを感じていた心もいつしか慣れ、それが当たり前になって三人でいる方が珍しくなった。少しずつだけど確実に薄くなっていく関係に気付きながらも何もできないことがもどかしくて。でも仕方ないのだと言ってそれから目を背けることも嫌で、まだ私は大人になれないななんて思ったりもした。
 だから、理由が何であれ以前にも増して学校内でも一緒に過ごすことが嬉しくて、私の心の隙間を埋めてくれるような気がしていたのだ。もし、綾奈が急に積極的に関わるようになったわけを知っていたとしたら、そうやって純粋に喜ぶことが出来なかったかもしれない。だが、あの時の私は理由なんてどうでもよくて、一度関係が薄くなってもまたこうして一緒にいられるのだという事実にいくらか浮かれていたのだと思う。そうでなければ結衣に感じた違和感を見過ごすはずがない。
 五月のある日、多分下旬だったと思う。そのころの私たちは、放課後に学校近くのカフェで談笑してから帰るのが日課になっていた。
 住宅街の路地を入ったところにある隠れ家的なカフェで、隣にはギャラリーがありアート作品の展示などが行われている。目印と言えるのは道路沿いにぽつんと置かれた小さい看板のみ。パッと見ただけでは分かりにくく入るのに少し勇気がいるかもしれないが、いざ入ってみると落ち着いたインテリアと照明が出迎えてくれて居心地がいい。こんな場所をよく見つけたものだと綾奈に訊いてみると、この辺りで暮らしている彼女の叔父が教えてくれた店なのだそうだ。
 私たちはいつも通り奥の方の席に座って飲み物を頼む。それを待っている間、綾奈が口を開いた。
「あのね」
 店内に置いてあった雑誌の表紙を眺めるのを止めて綾奈の方を見る。別に普段と変わったことをしているわけではないが、綾奈は気まずそうに私たちから目を逸らしてテーブルの上をじっと見た。
「前から言おうと思ってたんだけど……私の夢って二人とも知ってるよね?」
「もちろん。写真家だよね。それがどうしたの?」
 私が訊くと、綾奈は置いてあったコップを手に取って水を口に運んだ。
「実はね、最近写真撮ったりしてて。賞に応募してるんだ」
「え!?なんて賞?」
「そんな大したものじゃないよ」
 綾奈は誤魔化すように笑うと頬にかかった髪をいじった。
「そっか。まあ、いつか教えてよね」
「うん……」
 再び水を飲むと空になったコップをテーブルの上に置いた。
「それでね……もし賞を取れたら家を出ようと思ってるの」
 学校帰りでぼんやりとした頭には店の奥で調理する音だけがはっきりと聞こえてくる。
「凄いじゃん!一人暮らしってこと?」
「まあ、まだ全然分からないんだけどね」
 髪の毛をくるくると指で巻いて遊んでいる綾奈が見える。私は自分が冗談気な態度をとって何か目を逸らそうとしている気がした。
「高校はどうするの?」
 結衣の言葉でそれが確信に変わった。
「家を出てこの辺で暮らすってこと?叔父さんの家が近くにあるって言ってたよね。そこから通うの?」
 次から次へと出る隣に座る結衣からの質問に綾奈は困ったように眉が八の字になった。
「言ったでしょ?まだ分からないって……でも、多分高校は辞めることになるかな」
 脳天から電流が走ったようだという表現はよく使われているが、まさしく今、この感覚のことを言うのだろう。小説などを読んで想像したときは一気に目が覚めるという感じなのかと思っていた。しかし、実際に自分自身で感じたそれはそういうのとは少し違う気がした。
 確かに、それまで頭の中を埋めていたぼんやりとしたものは消し飛んだと思う。間違いなくすっきりしてはいる。でも、その衝撃が鮮明な分、重いなにかが圧し掛かって、空いた部分に流れ込んできたようだった。頭はさっきよりも動いているのにどこか鈍い。
 結衣も同じように感じているのか黙り込んでいた。
 そんな私たちの様子を見て、綾奈はポツリと言った。
「ごめんね」
「謝ることじゃないよ!ずっとなりたがってたじゃん、写真家。綾奈ちゃんのしたいことのために必要なことなんでしょ?だったら私たちのことなんて気にしないで頑張ってよ。ね?結衣ちゃん」
「そ、そうよ。どうしても気にしちゃうっていうんだったら友達だってやめてやるわ」
 綾奈はぽかんとした表情をすると笑い始めた。
「あはは……ありがとう。でも友達はやめなくていいかも」
 その言葉にやはりほっとする。
「当たり前でしょ?それでやめるなんて言われたら全然応援しないよ」
「言うわけないじゃん。みんなのこと好きなのにさ」
「ふーん?じゃあ結構大変だったでしょ、決めるの」
「まあね」
「そっか……じゃあ応援しないとね」
「ありがとう」
「有名になったら私たちのこと話してよ?友達が応援してくれてますって。今の話とかも」
「カオちゃん気が早いよ。まだ応募した段階ってだけなのに」
「綾奈ちゃんなら大丈夫だよ。なんだか安心して送りだせる気がする」
「娘を送り出すような言い方やめてよ」
 綾奈が笑うのにつられて私も笑った。
 のんびりした思考の中で、どうしてこんなにもすらすらと言葉が出てくるのだろう。正直、綾奈には学校をやめてほしくない気持ちがある。でも、それと同じくらいに綾奈のことを応援しようという気持ちがあった。むしろそっちの方が強いかもしれない。それとも、まだ私は明るく振る舞うことで誤魔化しているのだろうか。まだ頭の中が整理しきれていないせいか分からない。多分どっちもなのだ。



 こういう話があったからといって、私たちの関係が大きく変わるといったことはなかった。これまで通り話して、遊んで、一緒に過ごす。単純に、これまで以上に何かをするということが思いつかなかっただけかもしれない。既にしたいことはしつくしてしまっていた。だから、結局いつも通り過ごすしかやることがなかった。
 それと同時に、私の中では一日一日を大事にしたいという気持ちが大きくなっていた。別にこれまでを杜撰に扱ってきたというわけではない。ただ、『お別れ』が決まっている相手と過ごす日々に『お別れ』を意識してしまうようになったというだけだ。
 本当はどの相手に対してもそうすべきなのだろう。誰もに『お別れ』は訪れるのだから。でも、多くの場合はその準備ができていないし『お別れ』を引き延ばそうとする。そうするのは当たり前なのだ。しかし、『お別れ』が輪郭を持ってしまってからはそういうわけにはいかない。
 だから私は全力で三人でいることを楽しむようにした。綾奈が賞を取れずに学校に残るということも可能性としてはあったが、それが起こる確率はゼロに等しいと考えていた。この時には応援しようという想いだけが頭の中を埋め尽くしていたし、それでこそこの時間を気兼ねなく過ごせると思っていたからだった。それに、一度離れ離れになってもまた一緒に集まることが出来ることを綾奈が教えてくれたのだ。
 そんな私とは反対に、結衣の顔が曇ることが増えた気がした。綾奈の前ではそんな表情を見せない。いつも通りだ。だが、綾奈がいなくなると表情が暗い時があるように見えた。
 別に私の前だからといって見せているわけでもないと思う。どちらかというと結衣は一人になったときにそういう顔をしている。例えば教室で私たちを待っているときとか体育館裏にいるときとかだ。私も体育館裏のあの場所が気に入って一人で行くことがあるのだが、偶に先客がいるときがある。そういうときの結衣はどこか昔の結衣のようだった。
 相談とかをされているわけでもなく勝手に見てしまったもの。だから自分から声をかけるのも気が引けて出来ずにいた。そうやって悩んでいる間にも時間は流れて、綾奈は賞を取った。
 その報告は三人で集まっていたときに聞いた。いつものカフェでだ。前々から心の準備をしていたつもりだったが、それでもどこかではまだ確定していることではないと淡い期待を寄せていたのかもしれない。季節外れの冷たい風が胸の中を通り過ぎたようだった。もちろん、祝う気持ちがほとんどだったからそう感じたのも一瞬だけだ。
 結衣も安心したような表情をして綾奈に「おめでとう」なんて言っていた。それは心からの言葉のように聞こえたし、綾奈の結果に対してほっとしている様子から、私も喉の奥に引っかかったものが取れたような気がした。もしかしたら、結衣の表情が曇っていたのは綾奈の結果が気がかりだったからなのかもしれない。一人のときにそういう感じだったのも綾奈を不安にさせないようにという気遣いから来たものなのだろう。そう考えれば辻褄が合うように思える。
 その考えが間違いだと分かるのには一週間もかからなかった。授業が早く終わっていつものように校門で二人を待っていると、結衣が校舎から出てくるのが見えた。どこか思い詰めているみたいに俯いていて視線は足元に向けられたまま。壁に寄り掛かってその様子をジーッと見てると、結衣はそのまま校門を通り過ぎようとした。
「結衣ちゃん?」
 声に反応して私を突き刺した彼女の視線が、胸の奥でなにかを崩れさせたように感じた。ハッと私を見つめる結衣はまるで怖いものでも見るかのように怯えた顔をしている。そしてその瞳の奥は見られたくないものを見られたといって後悔の籠った表情で私を映していた。
「香織……」
「どこ行くの?もうすぐ綾奈ちゃん来るよ」
 なるべく平静を装い笑って言った。結衣は再び俯いて地面を見る。
「……今日、ちょっと用事があるから早く帰らないと」
「そっか」
「……ごめん」
 そう言うと声をかける間もなく結衣は校門を通り過ぎて行った。追いつける距離だった。結衣よりも私の方が足は速いし行く先も分かっている。駐輪場だ。校門から一度出ないといけないところにある。でも、多分追いかけてはいけないような気がした。一人置いて行かれた私は遠ざかっていく背中をただ見ることしかできなかった。
 綾奈が賞を取って以降、結衣は偶にこうやって一人別行動をとるようになった。これまで毎日のように一緒に過ごしていた昼休みの時間も姿を見せないことがあり、あとでそのことについて訊いても誤魔化して答えない。だが、次の日には何事もなかったかのように一緒にいたりする。避けられているのか、避けられていないのか分からない。
 そのままボーっと立っていたらトントンと肩を叩かれた。
「ごめんね。カオちゃん、遅くなって。待たせちゃったよね」
 走ってきたのだろう。肩を上下させて息を整えながら綾奈は私を見上げていた。私の方が背は高く六センチくらい差がある。しかし、綾奈は疲れていたのか私の肩に置いた手を支えにして少し前かがみになっていたから、覗き込むようにして私の顔を見ていた。
「全然!私も今来たとこ」
「そっかー。そうと知っていればゆっくり来たのに」
「酷くない?」
「うそうそ。カオちゃんを待たせるわけにはいかないもんね。どこへだって急いで行くよ!」
「ふーん?」
「信用されてないなあ……そういえばユイちゃんは?私のクラスが最後だったからてっきりもういるのかと思ってたけど。もしかしてまだ?」
 満面の笑みで楽しそうにする綾奈を傷つけたくなくて、なるべく明るく伝えることにした。
「もう来たよ。でもなんか用事があるとかで早く帰らなきゃなんだって」
「そうなんだ……残念」
「多分、結衣ちゃんも同じ気持ちだと思うよ」
「うん……でも用事ってなんだろう。家のかな?言ってくれたら手伝うのに」
「家隣同士だもんね」
「そうそう!よく昔はお互いの家を行き来して遊んでたんだよ」
「へえ……そういえば私、結衣ちゃんの家に行ったことないかも」
「そうなの!?……でも言われてみればユイちゃんが誰かを家に呼んでるの見たことないかも」
「なんかショックだなあ」
「まあ、ユイちゃん恥ずかしがり屋だし」
「でももう何年も一緒にいるんだよ?」
 私が分かりやすく肩を落としているのを見て綾奈は面白そうに笑った。
「それに昔はそうだったけど最近の結衣ちゃんは恥ずかしがり屋って感じじゃないじゃん」
「そう?」
「そうだよ」
「うーん……だけど人を家に呼ぶのって年齢が上がるごとになくなってかない?カオちゃんだって呼んでないでしょ?」
「まあね」
 駐輪場に着くと、私と綾奈の自転車が一台分の間隔を空けて隣り合っていた。肩から下げていた鞄を前かごに詰め込むと、スタンドを上げてハンドルをを引っ張る。通路に出された自転車をうまい具合に方向転換して出口に前を向けた。ガシャンやカラカラと自転車の音が駐輪場のあちこちで聞こえてくる。
 自転車を押して駐輪場を出たらすぐ国道が面している。信号は赤だったがもうすぐ変わるというのが経験上なんとなく分かっていた。スカートが皺にならないように引っ張ってサドルに跨る。
「カオちゃん」
 綾奈の方を向くとまだ自転車を腕で支えていて普段よりも見下ろすような形になった。
「なに?」
「ちょっと寄りたいところがあるんだけどいい?」
「いいけど、どこ?」
「それは内緒」
「えー?」
「そっちの方がワクワクするでしょ?私についてくれば着くから」
「綾奈ちゃんを見失ったら迷っちゃうじゃん」
「うわ!私よりも速く漕げるくせに」
「えへへ」
 綾奈がチラッと足をかけていたペダルの方を見たのに気付いて私はニヤッと笑った。
「でも、多分大丈夫だよ。カオちゃんも知ってる場所だし」
「だったら教えてくれたって……」
「いいから!」
 綾奈が私の言葉を遮るのと同時に信号が青になった。「ほら、行くよ!」と綾奈は言うと、サドルに跨ってギュッとハンドルを握りしめると勢いよくペダルを漕ぎだした。
 自転車に乗っているとき、私たちの間に会話はない。正確に言うと出来ない。だから景色を見たりして退屈を紛らわすことが多いのだが、さすがに四年目ともなると見慣れた場所が多くなってどうしようもなくなってしまう。住宅街を抜けて徐々に辺りが温泉街へと変わり旅館が立ち並ぶ山道に入るとなんとなく目的地が絞れてきた。この道の先は倉石村だ。たしかに私の知っている場所ではあるのだろう。だが、倉石村ということだけでは候補が多すぎて、綾奈を追い抜くなんてことは出来なかった。
 坂を上りきると、あとは蛇行した下り坂に身を任せるだけで、急に来る車や動物に注意だけしておけば楽な道のりだった。生い茂る木々の葉が日光をいくらか遮ってくれて、風を全身で浴びながらシャーッとタイヤが勢いよく回る音を聞くのはとても気持ちがいい。だが、それらに心の底から浸れるような日は来ないだろうと、少しスピードが出たと感じたらブレーキをかけるのを繰り返していた。どうしても頭によぎってしまう。
 そう考えるといまこうやって山の向こうの学校に自転車で通っていることが当たり前ではないように感じた。あの事故を目の前で見て私たちの中には自転車に乗れなくなった子もいた。ハンドルを握ると手が震えてしまって、とてもじゃないが一人でコントロールすることが出来ない。そんな彼女が自転車にまた乗れるようになるように四人で特訓した日々が懐かしい。なんとか中学校の入学には間に合って今では私の前を走っている。
 村に近づいて、綾奈が普段とは違う道に逸れたとき私は目的地が分かった。相変わらず舗装がされず、この先にある一軒家の住人が使っているであろうタイヤの跡上にむき出しになった土だけが道を示してくれている。一軒家を通り過ぎてその奥へと迷うことなく進む。少し湿って走りにくい道を感じながら、子供の頃はこんな道をよく何度も行き来したなと我ながら思った。
 いつもの場所に自転車を停めると、今度は急斜面を登らないといけない。しかも歩くための道はなく本当に自然を登るのだ。気合いを入れるように大きく息を吐くと綾奈はむき出しになった岩に足を乗せた。どんどん進んでいくうしろ姿に私も付いていった。
 いざ登り始めてみると意外とどう登ったらいいか覚えているもので、サクサクと目的地に近づいていった。身体が大きくなった分、むしろ昔よりもスムーズに登れているかもしれない。
 登り始めても私たちは何も話さなかった。もちろん集中していたというのも理由の一つだが、それよりもなにかを話すのは着いてからで良いと思っていたからだった。落ちないことにだけ注意を払って一歩一歩上がっていくと、ひらけた空間に聳え立つ見覚えのある大きな木が見えてきた。
 先に着いていた綾奈は私が登ってくるのを待っていたみたいで、スマホを取り出すとパシャリと秘密基地の写真を撮っていた。
 久しぶりの秘密基地はぱっと見ほとんど変わっていないように見えた。草木も時間が経ったわりに荒れてはいなくて、本当にここだけあの頃のまま保管されていたんじゃないかと思うほどだ。あちこちから蝉の合唱が聞こえてきて首筋に触れる空気が蒸し暑い。だというのにピクリとも葉を揺らすことのない木々たちがまるで私たちをじっと見ているような気がして背筋を伝う汗が冷たかった。
「ここが目的地だよね」
「そうだよ。途中から気付いてたでしょ?」
「それはね。あの道に入ったら気付かない人はいないよ」
「……だよね」
 綾奈は陽の光にさらされた大木を眩しそうに目を細めて見るとほんの少し笑みを浮かべた。
 少しして私たちが一歩踏み出すと小さな風が通り抜けていく。サワサワと葉の鳴く音がなんだか少し神聖なものにすら感じた。
 ここに来るのは何年ぶりだろう。最後に来たのは小学校の卒業式の日だったから三年半といったところか。木の根元に置いていった懐かしの品々は、少し汚れていたものの全く変わらずにいる。簡単な屋根を作っていて正解だった。
 示し合わせていたというわけでもなく、私たちは一緒に物を一つ一つ見て懐かしがった。
「あの椅子に座って……」
「これ持ってくるとき……」
 ほとんどすべてのものに共有できる思い出があって、このまま全部見ていたらあっという間に陽が沈んでしまうのは間違いない。私はその辺に転がる石ころにだって話せることがあるような気がした。
「あ!」
 綾奈はなにかを思い出したのだろうか。突然大きな声を出すと、それにまたびっくりしたようで自分の口を片手で押さえた。
「何かあった?」
「いや……」
 そのとき私たちは互いに別々のものを見ていて、綾奈は少し離れた棚の前にいた。口を押えるのとは別の手には何か紙のようなものが親指と人差し指でつままれている。
「こ、このシール懐かしくない?」
 綾奈は駆け足で私に近づいてくると腕をバッと前に出してその紙を私に突き出した。シールには可愛らしいハムスターの様なキャラクターが印刷されていて、切手四枚分くらいとかなりの大きさだ。
「うわあ!一気に記憶が蘇ってきた!シール帳とかいって交換するの流行ってたかも」
「だよね。剥がれかかってて背中の白い部分しか見えなかったからさ。なんだろうと思って少し引っ張ったら取れちゃってびっくりしたよ」
 恥ずかしそうに綾奈が笑った。
 そういえば使わなくなって余ったシールを女子たちで秘密基地のあちこちに貼って回ったことがあった。あまりに貼りすぎたから男子陣から苦情が来ては剥がしたんだっけ。そのときにこっそり何枚か残しておいたのだが、今見つけたものもそのうちの一つだろう。ハムスターのシールは持っていなかった気がするから綾奈か結衣のどちらかだろう。
 何気なく辺りを見回してみると似たようなシールを見つけた。隠れるようにシールが貼ってあって見つけたのも偶々だ。こっちは綺麗に貼られているからか剥がれそうな気配はない。
「綾奈ちゃん、こっちにもあったよ」
「なにが?」
「シール」
 綾奈はものを綺麗に並べなおすのを止めると駆け足で近寄ってきた。シールを見るとほっと溜息をつく。
「これは結衣のだね」
「結衣ちゃんもハムスターのシールだったけ」
「違うよ。ユイちゃんは立体的なシールが好きだったの覚えてない?でもこういう場所にはちょっと貼りにくいから私のをあげたんだ」
 確かに結衣から貰ったシールを貼るとノートのページが浮いて閉じにくいなあなんてふうに思っていたのを思い出した。
 綾奈は元居た場所に戻るとまた棚の中のものを並び変え始めた。
「なにしてるの?」
「ん?ちょっと綺麗に整理したいなって思って」
「手伝うよ」
「大丈夫!もう終わるから……これでよし」
 そういうと手を擦り合わせて指についた汚れを払うと足早にこっちへ来た。棚は最初に見たときよりもちゃんと整頓されていて棚の奥はもう見えない。
「え!それ懐かしくない?」
 綾奈は私が持っていた野球ボールに目がいっていた。まだまだガラクタは転がっていて次から次へと思い出が出てくる。当分終わりそうにない。


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  それからの結衣は本当にいまの姿の方が素であるかのように振る舞うようになった。気が強く、はっきりと自分の意見を言って堂々としている少女。当然、クラスメイト達に限らず結衣のことを知っている人達はその変わり様に戸惑っていたと思う。それでも以前よりも話しやすくなった結衣が学校生活に溶け込むのにはそう時間はかからず、むしろ興味を持たれてあっという間に学校でも存在感のある生徒の一人になっていった。そんな結衣を見てどこか寂しくもあり、安心して嬉しくもあった。
 そんな結衣の変化にも慣れ切った頃、私たちは高校一年生になった。高校は中学と同じ敷地内にあり、校舎が変わるだけということもあって校内で見る顔ぶれはほとんど変わらない。強いて言えば高校から入ってきた生徒も何人かはいたが、両手で数えれば充分足りる程度だ。
 そういうわけで高校に上がったからと言って新しい出会いやら何やらがあるというわけでもなく、相変わらず時間の過ぎていく実感をあまり感じないままだった。
 だけど、その中でも少し嬉しかったことがある。何故だか分からないが、綾奈が三人でいることに積極的になったことだ。
 中学二年生の秋頃から私たちは少しずつ一緒に帰るということが減っていった。決して仲が悪くなったとかそういうわけではない。その証拠に一週間に何回かは必ず一緒に帰っていた。ただ、中学で出来た新しい友人たちと遊んだりということをしているとどうしても毎日というわけにはいかなくなる。そうしていくうちに誰かが一人欠けたり、一人で帰ったりということが増えていった。最初のうちには寂しさを感じていた心もいつしか慣れ、それが当たり前になって三人でいる方が珍しくなった。少しずつだけど確実に薄くなっていく関係に気付きながらも何もできないことがもどかしくて。でも仕方ないのだと言ってそれから目を背けることも嫌で、まだ私は大人になれないななんて思ったりもした。
 だから、理由が何であれ以前にも増して学校内でも一緒に過ごすことが嬉しくて、私の心の隙間を埋めてくれるような気がしていたのだ。もし、綾奈が急に積極的に関わるようになったわけを知っていたとしたら、そうやって純粋に喜ぶことが出来なかったかもしれない。だが、あの時の私は理由なんてどうでもよくて、一度関係が薄くなってもまたこうして一緒にいられるのだという事実にいくらか浮かれていたのだと思う。そうでなければ結衣に感じた違和感を見過ごすはずがない。
 五月のある日、多分下旬だったと思う。そのころの私たちは、放課後に学校近くのカフェで談笑してから帰るのが日課になっていた。
 住宅街の路地を入ったところにある隠れ家的なカフェで、隣にはギャラリーがありアート作品の展示などが行われている。目印と言えるのは道路沿いにぽつんと置かれた小さい看板のみ。パッと見ただけでは分かりにくく入るのに少し勇気がいるかもしれないが、いざ入ってみると落ち着いたインテリアと照明が出迎えてくれて居心地がいい。こんな場所をよく見つけたものだと綾奈に訊いてみると、この辺りで暮らしている彼女の叔父が教えてくれた店なのだそうだ。
 私たちはいつも通り奥の方の席に座って飲み物を頼む。それを待っている間、綾奈が口を開いた。
「あのね」
 店内に置いてあった雑誌の表紙を眺めるのを止めて綾奈の方を見る。別に普段と変わったことをしているわけではないが、綾奈は気まずそうに私たちから目を逸らしてテーブルの上をじっと見た。
「前から言おうと思ってたんだけど……私の夢って二人とも知ってるよね?」
「もちろん。写真家だよね。それがどうしたの?」
 私が訊くと、綾奈は置いてあったコップを手に取って水を口に運んだ。
「実はね、最近写真撮ったりしてて。賞に応募してるんだ」
「え!?なんて賞?」
「そんな大したものじゃないよ」
 綾奈は誤魔化すように笑うと頬にかかった髪をいじった。
「そっか。まあ、いつか教えてよね」
「うん……」
 再び水を飲むと空になったコップをテーブルの上に置いた。
「それでね……もし賞を取れたら家を出ようと思ってるの」
 学校帰りでぼんやりとした頭には店の奥で調理する音だけがはっきりと聞こえてくる。
「凄いじゃん!一人暮らしってこと?」
「まあ、まだ全然分からないんだけどね」
 髪の毛をくるくると指で巻いて遊んでいる綾奈が見える。私は自分が冗談気な態度をとって何か目を逸らそうとしている気がした。
「高校はどうするの?」
 結衣の言葉でそれが確信に変わった。
「家を出てこの辺で暮らすってこと?叔父さんの家が近くにあるって言ってたよね。そこから通うの?」
 次から次へと出る隣に座る結衣からの質問に綾奈は困ったように眉が八の字になった。
「言ったでしょ?まだ分からないって……でも、多分高校は辞めることになるかな」
 脳天から電流が走ったようだという表現はよく使われているが、まさしく今、この感覚のことを言うのだろう。小説などを読んで想像したときは一気に目が覚めるという感じなのかと思っていた。しかし、実際に自分自身で感じたそれはそういうのとは少し違う気がした。
 確かに、それまで頭の中を埋めていたぼんやりとしたものは消し飛んだと思う。間違いなくすっきりしてはいる。でも、その衝撃が鮮明な分、重いなにかが圧し掛かって、空いた部分に流れ込んできたようだった。頭はさっきよりも動いているのにどこか鈍い。
 結衣も同じように感じているのか黙り込んでいた。
 そんな私たちの様子を見て、綾奈はポツリと言った。
「ごめんね」
「謝ることじゃないよ!ずっとなりたがってたじゃん、写真家。綾奈ちゃんのしたいことのために必要なことなんでしょ?だったら私たちのことなんて気にしないで頑張ってよ。ね?結衣ちゃん」
「そ、そうよ。どうしても気にしちゃうっていうんだったら友達だってやめてやるわ」
 綾奈はぽかんとした表情をすると笑い始めた。
「あはは……ありがとう。でも友達はやめなくていいかも」
 その言葉にやはりほっとする。
「当たり前でしょ?それでやめるなんて言われたら全然応援しないよ」
「言うわけないじゃん。みんなのこと好きなのにさ」
「ふーん?じゃあ結構大変だったでしょ、決めるの」
「まあね」
「そっか……じゃあ応援しないとね」
「ありがとう」
「有名になったら私たちのこと話してよ?友達が応援してくれてますって。今の話とかも」
「カオちゃん気が早いよ。まだ応募した段階ってだけなのに」
「綾奈ちゃんなら大丈夫だよ。なんだか安心して送りだせる気がする」
「娘を送り出すような言い方やめてよ」
 綾奈が笑うのにつられて私も笑った。
 のんびりした思考の中で、どうしてこんなにもすらすらと言葉が出てくるのだろう。正直、綾奈には学校をやめてほしくない気持ちがある。でも、それと同じくらいに綾奈のことを応援しようという気持ちがあった。むしろそっちの方が強いかもしれない。それとも、まだ私は明るく振る舞うことで誤魔化しているのだろうか。まだ頭の中が整理しきれていないせいか分からない。多分どっちもなのだ。
 こういう話があったからといって、私たちの関係が大きく変わるといったことはなかった。これまで通り話して、遊んで、一緒に過ごす。単純に、これまで以上に何かをするということが思いつかなかっただけかもしれない。既にしたいことはしつくしてしまっていた。だから、結局いつも通り過ごすしかやることがなかった。
 それと同時に、私の中では一日一日を大事にしたいという気持ちが大きくなっていた。別にこれまでを杜撰に扱ってきたというわけではない。ただ、『お別れ』が決まっている相手と過ごす日々に『お別れ』を意識してしまうようになったというだけだ。
 本当はどの相手に対してもそうすべきなのだろう。誰もに『お別れ』は訪れるのだから。でも、多くの場合はその準備ができていないし『お別れ』を引き延ばそうとする。そうするのは当たり前なのだ。しかし、『お別れ』が輪郭を持ってしまってからはそういうわけにはいかない。
 だから私は全力で三人でいることを楽しむようにした。綾奈が賞を取れずに学校に残るということも可能性としてはあったが、それが起こる確率はゼロに等しいと考えていた。この時には応援しようという想いだけが頭の中を埋め尽くしていたし、それでこそこの時間を気兼ねなく過ごせると思っていたからだった。それに、一度離れ離れになってもまた一緒に集まることが出来ることを綾奈が教えてくれたのだ。
 そんな私とは反対に、結衣の顔が曇ることが増えた気がした。綾奈の前ではそんな表情を見せない。いつも通りだ。だが、綾奈がいなくなると表情が暗い時があるように見えた。
 別に私の前だからといって見せているわけでもないと思う。どちらかというと結衣は一人になったときにそういう顔をしている。例えば教室で私たちを待っているときとか体育館裏にいるときとかだ。私も体育館裏のあの場所が気に入って一人で行くことがあるのだが、偶に先客がいるときがある。そういうときの結衣はどこか昔の結衣のようだった。
 相談とかをされているわけでもなく勝手に見てしまったもの。だから自分から声をかけるのも気が引けて出来ずにいた。そうやって悩んでいる間にも時間は流れて、綾奈は賞を取った。
 その報告は三人で集まっていたときに聞いた。いつものカフェでだ。前々から心の準備をしていたつもりだったが、それでもどこかではまだ確定していることではないと淡い期待を寄せていたのかもしれない。季節外れの冷たい風が胸の中を通り過ぎたようだった。もちろん、祝う気持ちがほとんどだったからそう感じたのも一瞬だけだ。
 結衣も安心したような表情をして綾奈に「おめでとう」なんて言っていた。それは心からの言葉のように聞こえたし、綾奈の結果に対してほっとしている様子から、私も喉の奥に引っかかったものが取れたような気がした。もしかしたら、結衣の表情が曇っていたのは綾奈の結果が気がかりだったからなのかもしれない。一人のときにそういう感じだったのも綾奈を不安にさせないようにという気遣いから来たものなのだろう。そう考えれば辻褄が合うように思える。
 その考えが間違いだと分かるのには一週間もかからなかった。授業が早く終わっていつものように校門で二人を待っていると、結衣が校舎から出てくるのが見えた。どこか思い詰めているみたいに俯いていて視線は足元に向けられたまま。壁に寄り掛かってその様子をジーッと見てると、結衣はそのまま校門を通り過ぎようとした。
「結衣ちゃん?」
 声に反応して私を突き刺した彼女の視線が、胸の奥でなにかを崩れさせたように感じた。ハッと私を見つめる結衣はまるで怖いものでも見るかのように怯えた顔をしている。そしてその瞳の奥は見られたくないものを見られたといって後悔の籠った表情で私を映していた。
「香織……」
「どこ行くの?もうすぐ綾奈ちゃん来るよ」
 なるべく平静を装い笑って言った。結衣は再び俯いて地面を見る。
「……今日、ちょっと用事があるから早く帰らないと」
「そっか」
「……ごめん」
 そう言うと声をかける間もなく結衣は校門を通り過ぎて行った。追いつける距離だった。結衣よりも私の方が足は速いし行く先も分かっている。駐輪場だ。校門から一度出ないといけないところにある。でも、多分追いかけてはいけないような気がした。一人置いて行かれた私は遠ざかっていく背中をただ見ることしかできなかった。
 綾奈が賞を取って以降、結衣は偶にこうやって一人別行動をとるようになった。これまで毎日のように一緒に過ごしていた昼休みの時間も姿を見せないことがあり、あとでそのことについて訊いても誤魔化して答えない。だが、次の日には何事もなかったかのように一緒にいたりする。避けられているのか、避けられていないのか分からない。
 そのままボーっと立っていたらトントンと肩を叩かれた。
「ごめんね。カオちゃん、遅くなって。待たせちゃったよね」
 走ってきたのだろう。肩を上下させて息を整えながら綾奈は私を見上げていた。私の方が背は高く六センチくらい差がある。しかし、綾奈は疲れていたのか私の肩に置いた手を支えにして少し前かがみになっていたから、覗き込むようにして私の顔を見ていた。
「全然!私も今来たとこ」
「そっかー。そうと知っていればゆっくり来たのに」
「酷くない?」
「うそうそ。カオちゃんを待たせるわけにはいかないもんね。どこへだって急いで行くよ!」
「ふーん?」
「信用されてないなあ……そういえばユイちゃんは?私のクラスが最後だったからてっきりもういるのかと思ってたけど。もしかしてまだ?」
 満面の笑みで楽しそうにする綾奈を傷つけたくなくて、なるべく明るく伝えることにした。
「もう来たよ。でもなんか用事があるとかで早く帰らなきゃなんだって」
「そうなんだ……残念」
「多分、結衣ちゃんも同じ気持ちだと思うよ」
「うん……でも用事ってなんだろう。家のかな?言ってくれたら手伝うのに」
「家隣同士だもんね」
「そうそう!よく昔はお互いの家を行き来して遊んでたんだよ」
「へえ……そういえば私、結衣ちゃんの家に行ったことないかも」
「そうなの!?……でも言われてみればユイちゃんが誰かを家に呼んでるの見たことないかも」
「なんかショックだなあ」
「まあ、ユイちゃん恥ずかしがり屋だし」
「でももう何年も一緒にいるんだよ?」
 私が分かりやすく肩を落としているのを見て綾奈は面白そうに笑った。
「それに昔はそうだったけど最近の結衣ちゃんは恥ずかしがり屋って感じじゃないじゃん」
「そう?」
「そうだよ」
「うーん……だけど人を家に呼ぶのって年齢が上がるごとになくなってかない?カオちゃんだって呼んでないでしょ?」
「まあね」
 駐輪場に着くと、私と綾奈の自転車が一台分の間隔を空けて隣り合っていた。肩から下げていた鞄を前かごに詰め込むと、スタンドを上げてハンドルをを引っ張る。通路に出された自転車をうまい具合に方向転換して出口に前を向けた。ガシャンやカラカラと自転車の音が駐輪場のあちこちで聞こえてくる。
 自転車を押して駐輪場を出たらすぐ国道が面している。信号は赤だったがもうすぐ変わるというのが経験上なんとなく分かっていた。スカートが皺にならないように引っ張ってサドルに跨る。
「カオちゃん」
 綾奈の方を向くとまだ自転車を腕で支えていて普段よりも見下ろすような形になった。
「なに?」
「ちょっと寄りたいところがあるんだけどいい?」
「いいけど、どこ?」
「それは内緒」
「えー?」
「そっちの方がワクワクするでしょ?私についてくれば着くから」
「綾奈ちゃんを見失ったら迷っちゃうじゃん」
「うわ!私よりも速く漕げるくせに」
「えへへ」
 綾奈がチラッと足をかけていたペダルの方を見たのに気付いて私はニヤッと笑った。
「でも、多分大丈夫だよ。カオちゃんも知ってる場所だし」
「だったら教えてくれたって……」
「いいから!」
 綾奈が私の言葉を遮るのと同時に信号が青になった。「ほら、行くよ!」と綾奈は言うと、サドルに跨ってギュッとハンドルを握りしめると勢いよくペダルを漕ぎだした。
 自転車に乗っているとき、私たちの間に会話はない。正確に言うと出来ない。だから景色を見たりして退屈を紛らわすことが多いのだが、さすがに四年目ともなると見慣れた場所が多くなってどうしようもなくなってしまう。住宅街を抜けて徐々に辺りが温泉街へと変わり旅館が立ち並ぶ山道に入るとなんとなく目的地が絞れてきた。この道の先は倉石村だ。たしかに私の知っている場所ではあるのだろう。だが、倉石村ということだけでは候補が多すぎて、綾奈を追い抜くなんてことは出来なかった。
 坂を上りきると、あとは蛇行した下り坂に身を任せるだけで、急に来る車や動物に注意だけしておけば楽な道のりだった。生い茂る木々の葉が日光をいくらか遮ってくれて、風を全身で浴びながらシャーッとタイヤが勢いよく回る音を聞くのはとても気持ちがいい。だが、それらに心の底から浸れるような日は来ないだろうと、少しスピードが出たと感じたらブレーキをかけるのを繰り返していた。どうしても頭によぎってしまう。
 そう考えるといまこうやって山の向こうの学校に自転車で通っていることが当たり前ではないように感じた。あの事故を目の前で見て私たちの中には自転車に乗れなくなった子もいた。ハンドルを握ると手が震えてしまって、とてもじゃないが一人でコントロールすることが出来ない。そんな彼女が自転車にまた乗れるようになるように四人で特訓した日々が懐かしい。なんとか中学校の入学には間に合って今では私の前を走っている。
 村に近づいて、綾奈が普段とは違う道に逸れたとき私は目的地が分かった。相変わらず舗装がされず、この先にある一軒家の住人が使っているであろうタイヤの跡上にむき出しになった土だけが道を示してくれている。一軒家を通り過ぎてその奥へと迷うことなく進む。少し湿って走りにくい道を感じながら、子供の頃はこんな道をよく何度も行き来したなと我ながら思った。
 いつもの場所に自転車を停めると、今度は急斜面を登らないといけない。しかも歩くための道はなく本当に自然を登るのだ。気合いを入れるように大きく息を吐くと綾奈はむき出しになった岩に足を乗せた。どんどん進んでいくうしろ姿に私も付いていった。
 いざ登り始めてみると意外とどう登ったらいいか覚えているもので、サクサクと目的地に近づいていった。身体が大きくなった分、むしろ昔よりもスムーズに登れているかもしれない。
 登り始めても私たちは何も話さなかった。もちろん集中していたというのも理由の一つだが、それよりもなにかを話すのは着いてからで良いと思っていたからだった。落ちないことにだけ注意を払って一歩一歩上がっていくと、ひらけた空間に聳え立つ見覚えのある大きな木が見えてきた。
 先に着いていた綾奈は私が登ってくるのを待っていたみたいで、スマホを取り出すとパシャリと秘密基地の写真を撮っていた。
 久しぶりの秘密基地はぱっと見ほとんど変わっていないように見えた。草木も時間が経ったわりに荒れてはいなくて、本当にここだけあの頃のまま保管されていたんじゃないかと思うほどだ。あちこちから蝉の合唱が聞こえてきて首筋に触れる空気が蒸し暑い。だというのにピクリとも葉を揺らすことのない木々たちがまるで私たちをじっと見ているような気がして背筋を伝う汗が冷たかった。
「ここが目的地だよね」
「そうだよ。途中から気付いてたでしょ?」
「それはね。あの道に入ったら気付かない人はいないよ」
「……だよね」
 綾奈は陽の光にさらされた大木を眩しそうに目を細めて見るとほんの少し笑みを浮かべた。
 少しして私たちが一歩踏み出すと小さな風が通り抜けていく。サワサワと葉の鳴く音がなんだか少し神聖なものにすら感じた。
 ここに来るのは何年ぶりだろう。最後に来たのは小学校の卒業式の日だったから三年半といったところか。木の根元に置いていった懐かしの品々は、少し汚れていたものの全く変わらずにいる。簡単な屋根を作っていて正解だった。
 示し合わせていたというわけでもなく、私たちは一緒に物を一つ一つ見て懐かしがった。
「あの椅子に座って……」
「これ持ってくるとき……」
 ほとんどすべてのものに共有できる思い出があって、このまま全部見ていたらあっという間に陽が沈んでしまうのは間違いない。私はその辺に転がる石ころにだって話せることがあるような気がした。
「あ!」
 綾奈はなにかを思い出したのだろうか。突然大きな声を出すと、それにまたびっくりしたようで自分の口を片手で押さえた。
「何かあった?」
「いや……」
 そのとき私たちは互いに別々のものを見ていて、綾奈は少し離れた棚の前にいた。口を押えるのとは別の手には何か紙のようなものが親指と人差し指でつままれている。
「こ、このシール懐かしくない?」
 綾奈は駆け足で私に近づいてくると腕をバッと前に出してその紙を私に突き出した。シールには可愛らしいハムスターの様なキャラクターが印刷されていて、切手四枚分くらいとかなりの大きさだ。
「うわあ!一気に記憶が蘇ってきた!シール帳とかいって交換するの流行ってたかも」
「だよね。剥がれかかってて背中の白い部分しか見えなかったからさ。なんだろうと思って少し引っ張ったら取れちゃってびっくりしたよ」
 恥ずかしそうに綾奈が笑った。
 そういえば使わなくなって余ったシールを女子たちで秘密基地のあちこちに貼って回ったことがあった。あまりに貼りすぎたから男子陣から苦情が来ては剥がしたんだっけ。そのときにこっそり何枚か残しておいたのだが、今見つけたものもそのうちの一つだろう。ハムスターのシールは持っていなかった気がするから綾奈か結衣のどちらかだろう。
 何気なく辺りを見回してみると似たようなシールを見つけた。隠れるようにシールが貼ってあって見つけたのも偶々だ。こっちは綺麗に貼られているからか剥がれそうな気配はない。
「綾奈ちゃん、こっちにもあったよ」
「なにが?」
「シール」
 綾奈はものを綺麗に並べなおすのを止めると駆け足で近寄ってきた。シールを見るとほっと溜息をつく。
「これは結衣のだね」
「結衣ちゃんもハムスターのシールだったけ」
「違うよ。ユイちゃんは立体的なシールが好きだったの覚えてない?でもこういう場所にはちょっと貼りにくいから私のをあげたんだ」
 確かに結衣から貰ったシールを貼るとノートのページが浮いて閉じにくいなあなんてふうに思っていたのを思い出した。
 綾奈は元居た場所に戻るとまた棚の中のものを並び変え始めた。
「なにしてるの?」
「ん?ちょっと綺麗に整理したいなって思って」
「手伝うよ」
「大丈夫!もう終わるから……これでよし」
 そういうと手を擦り合わせて指についた汚れを払うと足早にこっちへ来た。棚は最初に見たときよりもちゃんと整頓されていて棚の奥はもう見えない。
「え!それ懐かしくない?」
 綾奈は私が持っていた野球ボールに目がいっていた。まだまだガラクタは転がっていて次から次へと思い出が出てくる。当分終わりそうにない。