サクラは、待ち合わせ場所に息を弾ませて現れた夫に駆け寄ると、むくれ顔を突きつけた。
「もー、遅い!連絡船出ちゃうわよ」
「ごめんごめん。途中で安全確認が入って、電車が遅れちゃったんだ」
ユージは言い訳しながらサクラの背中を押し、連絡船に急ぐ。
「荷物は?」
「旅行会社の人が船に積んでくれたわ」
「そっか」
魔界行きの連絡船の搭乗手続きは、魔界人であれば生体認証するだけなので、あってないようなものだ。
「旅行、終わっちゃうのね」
サクラは連絡船内の座席に座ると、名残惜しそうに窓の外を見つめた。
「そうだね」
ユージはそれへ、明らかな生返事をした。
「?何してるの?」
サクラが訝しんで振り返ると、夫は本に夢中になっている。
「え、ユージ、ジムルグで本なんか買ったの?」
サクラは驚きの声を上げた。
「あ、うん」
ユージは顔を上げて、サクラにはにかむような笑顔を向けた。
「もしかしたら、研究対象が見つかったかも」
「うそ。ジムルグで?」
「そうなんだよ。俺もびっくりしたんだけど」
ユージは、手にした本をサクラに見せた。
「これ、ジムルグの古語で書かれた歌なんだけど、この子達は俺が指でなぞると動いてくれるんだ」
と、ユージはまたサクラには理解出来ない世界の話をする。
「ただ、俺の勘違いだったら困るから、帰ってからもっと詳しく調べてみるつもり。それで確証が取れたら、ジムルグから昔の書物を取り寄せて研究することになると思う」
「あたし、ユージの話してることはよくわからないけど、やっと研究の糸口が見えそうってことよね」
サクラは、熱っぽく語るユージの手をそっと握った。
「ずっと先に進めなくて悩んでたもんね。良かったじゃない」
「ありがとう、サクラ。もし、俺の予想通りだったら、本当に君のお陰だ」
(だって、俺一人だったら絶対にジムルグに行こうとは思わなかったから)
今回のようにサクラが強引に引っ張ってくれなかったら、このことに気づけぬままこの後も先の見えない事態に苦しみ続けたかもしれないのだ。
「ふふっ、大袈裟ね。お礼は美味しいアイスでいいわよ」
と、サクラは悪戯っぽく笑って見せる。
「アイスでいいの?」
「うん。美味しいアイス。二人で食べましょ」
ユージはサクラに口づけしたくなったが、既の所で我慢した。
ところが。
魔界に戻ったユージは、思いもよらない事態に直面する。
否、この事態は、これまで彼が魔界で何に苦しんでいたのかを考えれば、当然のように起こりうることだったとも言える。
ユージは魔界に帰るや否や、荷解きもそこそこに書斎で万葉集を開いた。高ぶる気持ちがどうしても抑えられなかったのだ。
本を開いたとき、目にした文字の感じが何となくジムルグで見た時と違う気がしたが、その違和感はすぐに頭から消えた。
そして、
「さあ、君の想いを聞かせてくれ」
と、歌を指でなぞる。
しかし。
(あれ……?何も来ない……)
ジムルグではあんなに雄弁に心に飛び込んできた万葉集の歌たちが、何の反応も示さない。
(そんな馬鹿な)
ユージは焦りを押さえつつ何度も試してみたが、歌からの応答は得られないままだ。
(まさか)
嫌な予感がした。
(……いや、でも)
ユージはかろうじて気を取り直し、改めて歌をじっくりと読み返す。ジムルグでは歌を指でなぞらずとも、そうすることで何となく大雑把な意味が取れていた。そこに一縷の望みを掛けたのだ。
しかし、願い空しく。
(ダメだ……全然意味が取れない)
そこにあるのは、最早ジムルグの古語で書かれただけの、ただの無味乾燥な文字の羅列に過ぎなかった。
「……なんてことだ……」
ユージはがっくりと机に突っ伏した。
まさに天国から地獄に突き落とされたような気分だった。
やはり、魔界では、言葉が動かない。
「どうしたの?」
サクラは、リビングにやって来た夫の姿に仰天した。
ジムルグから家に帰るまであんなにうきうきしていたユージが、打って変わってまるでこの世の終わりのような暗い顔をして肩を落としているのだ。
「うん……珈琲淹れるけど、飲む?」
ユージはぼそぼそと呟くように声を掛けてきた。
「そうね。淹れてくれるなら」
サクラが回答すると、ユージは無言のままキッチンへ消えていった。
ゴリゴリと豆を挽く音と、お湯を沸かす音が聞こえる。どうやら真面目に珈琲を淹れるつもりのようだ。
ややあって、ユージはマグカップを手にリビングに戻って来た。
「おまたせ」
と、一方をサクラの前に置く。
「ありがと。今日はちゃんと淹れたのね」
「うん。そういうのが飲みたい気分だったから」
ユージはゆっくりと珈琲を飲むと、ふーっ、と息をついた。
「さっきの話なんだけど」
ユージはマグカップを持ったまま、俯き加減で言葉を継いだ。
「どうも、俺が思ってたのと違うみたいでさ――それでちょっとがっかりした」
(どう見てもちょっとがっかりしたどころの顔じゃないけど)
と、サクラは思ったが、黙って珈琲をこくん、と飲んだ。
下手な言葉を掛けるよりも、ここは聞き役に回った方が良さそうに思えたからだ。
「今度こそ光が見えたと思ったのに……どうしてこうも上手くいかないのかな……」
ユージは茫洋とした表情で、溜息交じりに呟いた。
この時、ユージの中でずっと燻ぶっていたある思いが、あからさまな確信に変わりつつあった。
魔界に居る限り、自分の研究は一ミリも先に進めない。
その後、ユージは気を取り直して、魔界に帰ったらやるつもりだった歌の翻訳に取り掛かった。
ところが、それはすぐに無謀な挑戦だったことを思い知らされる結果になった。考えてみれば、現代ジムルグ語の文法さえ知らないのに、それよりも難解な古語を現代語に直すことなど出来る筈もない。
(うーん、何かないかなあ)
血眼になってジムルグ関係の書物を検索した結果、万葉集の平易な解説本を見つけ出した。それは、意外なことに『エデン』の電子図書館に所蔵されているという。
(げ、『エデン』か……)
はあ、と雄弁な溜息が零れる。
(でも、やるしかない)
ユージは意を決して『エデン』に入り、電子図書館で目当ての本を閲覧した。
紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に我れ恋ひめやも
この歌は有名な歌らしく、すぐに解説文を見つけられた。それによると、
「紫草のように美しいあなたを憎く思うなら、人妻なのにどうして恋焦がれることがあるのでしょうか」
(ちょっとニュアンスは違うけど、意味は合ってそうだな)
ユージはジムルグで心に染み出した言葉を思い浮かべ、大きく頷いた。そして、これが判れば用はないとばかりに、『エデン』からさっさと退出した。
(やっぱり、ジムルグでは指でなぞるだけで意味が取れたんだ――言葉が俺に寄り添ってくれたんだ)
ユージは改めて自分の掌を見つめた。
(俺が探していた「言葉が動く場所」は、魔界でも天界でもなく、中道界だったのか――)
数カ月前、魔界での研究に行き詰って天界の魔法と祈りの言葉に助けを求めてみたものの、今となっては的外れだったことがよくわかる。結局、天界ではジムルグで経験したような、言葉そのものが動くところなど捕まえられなかったからだ。
(もしかして、天界にこの本を持っていったら、意味が取れるだろうか)
そんな考えがふと頭をよぎったが、それはナンセンスなことと打ち消した。既に研究に最適な場所が明確になっているからだ。
その場所とは、中道界のジムルグ国。
「うう……」
ユージは頭をぐしゃぐしゃと掻きむしり、悩まし気な溜息をつく。
(どうして、こんな時に……)
あと2カ月もしないうちに、自分とサクラの子供が産まれる。