楽しかったジムルグ旅行もあっという間に最終日を迎えた。
サクラの提案で、この日の午後は別行動を取ることにした。それぞれ自由に気になるところに行ってみる、というものだ。
「じゃあ、ハネダの連絡船乗り場で待ち合わせね。遅れちゃだめよ」
と、サクラは元気よく手を振りながら雑踏に消えていった。二人の荷物は、旅行会社の担当者がハネダまで運んでくれることになっていた。
(さて、俺はどうするかな)
ユージはスマートフォンの地図アプリを見ながらしばし考える。
(あ、お城がある。江戸城?――へえ、昔将軍が住んでたところに、今は皇帝が住んでいるのか。皇居って言うんだ)
ユージは一般公開されている皇居東御苑に向かい、小一時間ほど散策した。ここも人が多いが、キョートの観光地ほどではない。
(昔はここがジムルグの政治の中心だったんだな)
現在のジムルグの政治の主役は国民が選んだ議員たちで、皇帝は政治には一切タッチしていないと聞く。
(ここにサムライが居た頃はどんな賑わいを見せていたんだろう)
皇居東御苑の散策を終えたユージは、東京駅近くの複合商業施設に入った。
流石に歩き回って疲れたので、まずは喫茶店を探して暫しの休息を取った。
(ジムルグの珈琲もこれで飲み納めか)
ユージはゆっくり味わうように、丁寧に淹れられた珈琲の風味を愉しんだ。
クワンが言った通り、ジムルグは食べ物も飲み物も美味だった。
やがて、店の外に空席待ちの行列が出来ていることに気づいたユージは、あっさりと席を立った。
(まだちょっと時間があるな。適当に店を冷かすか)
早速スマートフォン越しにフロアガイドを見てみる。
(あ、本屋さんがあるんだ)
ユージは何かに導かれるように書店に入り、散策気分で広い店内をそぞろ歩きした。
(おおー、本がたくさんある。テンション上がってきた!)
言葉について研究しているせいか、彼は本そのものが好きなのだ。
ユージは数ある本棚から何となく気になった1冊を手に取り、タイトルを自動翻訳にかけた。
(万葉集……?)
調べてみると、どうやら古代のジムルグ人が詠んだ歌が集められたものらしい。
「へえ」
どうせ言葉も意味も分からないと思いながら、ページをめくってみる。
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に我れ恋ひめやも
(あ、恋の歌だ――しかも、不倫してるのかな?)
ユージはこの二つの歌を何度も読み返してみる。
(前の歌は、男の人が自分に向かって手を振っているのを諫めているのかな。他人が見てるでしょ、って。そうなると、次の歌は……)
ユージは、無意識のうちにその歌を指でなぞり、こう呟いていた。
「さあ、君の想いを聞かせてくれ」
やがて、その歌に隠された詠み人の思いが、ユージの心の中に染み入るように伝わって来た。
(きたきた。私の許から去っていった美しいあなたを憎むどころか、他人の妻となった今も恋焦がれています、か。未練たらたらだなあ)
ふふっ、とユージの口元がほころんだ。
(古代の人もままならぬ恋をしてたんだな。この二人、どんな関係なんだろ)
ユージは他の歌を見てみる気になり、ページをめくる。
そして。
(あれ?俺、今、この本を読んでた……?)
そのことに気づいたユージはその場に凍り付いた。
(自動翻訳かけてないのに、どうして意味がわかったんだ)
ユージの手から、万葉集が滑り落ちた。
ユージは書店内を歩き回り、片っ端から本を手に取って検証を始めた。
その結果、スマートフォンの自動翻訳機能で公用語に訳せる言葉で書かれた文章は理解できず、自動翻訳を掛けるとエラーになる言葉で書かれた文章であればなんとなく意味が取れることがわかった。
(ってことは――もしかして、ジムルグの現代語はダメで、古語ならわかるってことか――)
念のため店員を捕まえて確認してみると、先ほどの万葉集の歌は確かにジムルグの古語で書かれたものだという。
それならばと、ユージは自分の財布と相談し、最初に手にした万葉集1冊とジムルグ語の古語辞典を購入した。
ジムルグの古語なら意味が取れる、というのはあくまでもユージの感覚であって、本当にそうなのかは調べてみないとわからない。先ほどの万葉集の歌の意味も同様で、心に染み出した内容と公用語に翻訳してみた結果が一致するかどうかを確かめる必要があると考えたのだ。古語を現代ジムルグ語に翻訳出来れば、そこから公用語への変換は魔界の端末を使えば容易いものだ。
(とりあえず、とっかかりはこれで十分だ。魔界に帰ったら、ジムルグの書物を扱ってる店を探そう)
ユージは本が入った紙袋を手に、大きく頷いた。そして、自分の掌を改めて見つめ直す。
(確かに、あの歌を指でなぞった時、言葉が動いた。まさか、ジムルグでこんな体験が出来るなんて)
指でなぞった言葉の意味が心に染み出す事象は、師匠にこの課題をもらってから初めての経験だった。
(俺が突き詰める相手は、ジムルグの古語なのかもしれない――いや、決めつけるのはまだ早いか)
ユージの考え事を、スマートフォンのアラームが遮った。ハネダへの移動時間のリミットに合わせて設定していたものだ。
「あ、やべ。急がなきゃ」
ユージは弾かれたように駅に向かって走り出した。