*
ー/ー ねえ、と彼女が小さく口を開く。白い息が柔らかく踊って消える。
「どうしたの」
と僕は言った。これまでに彼女に向けたどんな言葉より、それは優しく響いた。今日までずっと、硬く冷え切っていた心が、あたたかい蜜に浸され、ほぐれていくような間隔だった。
「愛なんて、知らずにいたほうが良かったと思う?」
僕は彼女に目をやった。その問いかけの意図を、ほんの僅かでも探ろうとして。
けれど、彼女は僕ではなく、遥か彼方の空、鈍色の雲間から降りる、どこまでも直線的な光を見つめていた。天使の梯子。上向く豊かなまつ毛。僕は、彼女が求めている言葉を必死に考えた。少なくとも、表面上はクールを装いながら。
「僕が知りたくなかったのは、愛に上限がないという事実なんだと思う」
「上限?」
そう言って、彼女はようやく僕の目を覗き込むように見つめた。
「一度満たされたと思っても、気がつけばまた欲しがってしまう。きりがない。終わりが見えない。そのことに気づいてから、なんだか自分が果てのない渦に呑まれてしまっているような気がするんだ」
的を射ていない自分の言葉を、どうにか彼女は咀嚼し、理解しようと努めているように見える。相変わらず、沈黙は苦手だ。優しさの裏に潜む残酷さについて、考えてしまう。木枯らしすらも僕の不安を煽り、落ち着かなくさせる。
「もしも愛に上限があって、完結させることができるものなのだとしたら」
彼女はそこで言葉を切った。そしてそっと息を吸って、なにかを諦めるときのような笑みを浮かべた。
「私たち、こんなところにまで来ていなかったかな?」
かすかな風の音にすらかき消えてしまいそうなほど、弱々しい声だった。いつものように涙を流すこともなく持ちこたえているのが不思議なほど、今の彼女は気丈に振る舞っている。
僕たちは、底が抜けた一対のグラスだ。どれだけ注がれても、満たされることはない。そして、お互いに注ぎ合うことも叶わない。なぜなら、僕たちはただのグラスでしかないから。愛を与えられることを待つことしかできない、どうしようもない存在だから。
だから、僕たちは今、ここにいる。僕にわかるのはそこまでで、愛の定義を歪めてまで存在しないはずの光景に思いを馳せるには、僕のロマンチシズムはあまりにお粗末すぎる。
「僕は後悔していないよ」
本当に伝えたい言葉が、湾曲し、色褪せる。最後の最後まで、僕は自分の言葉を好きになれそうにない。
彼女は曖昧に笑うのみで、頷き返してはくれなかった。
後悔はしていない。眼の前にはらはらと落ちてきた一片の雪に言い聞かせるように、僕は心の中でもう一度復唱する。どうして今の僕が彼女に手を伸ばすことすら叶わないのか、理解できた気がする。
隣から、小さな嚔|《くしゃみ》が聞こえた。それは僕の緊張や覚悟も緩ませる、紛れもない日常の音だった。もう少しで、あの懐かしい匂いさえ鼻先を掠めていきそうな気がした。
「本当に、後悔していないんだ」
置いてきたすべての愛おしいものたちの残像を振り切ろうと、僕はもう一度同じことを言った。それは宣言というより、幼稚で卑屈な駄々のように響く。
「知ってるよ」
――だから嬉しいんじゃない。
その、本来であれば喜ばしいはずの言葉を耳にした瞬間、僕は本当の意味で、自分たちが後戻りのできないほど遠いところまで来てしまったのだと実感した。
後悔はしていない。本当に。何度だって、言い聞かせる。
「そろそろ行こうよ」
と言って彼女が僕の手をとる。そして、「いつまでもぐずぐずしていたくないから」と続けた。普段は秘めている潔さが、叢から小動物が姿を見せるように覗いていた。
「そうだね」
僕たちは互いの瞳を覗き込みながら、まるで鏡写しのように同じ角度だけ口角を上げる。
恐怖や後悔のような感情が、止めどなく湧き溢れてくると思っていた。けれど、心は不思議なほど凪いでいた。そしてそれは彼女の方も同じであるようだった。
歩き始めてしばらくした頃、彼女が口笛を吹き始める。冬の澄んだ空気を震わせる、素敵な音色。
それは僕たちが色々なものを抱えすぎていた頃に二人で聴いていた、あの歌だった。
「どうしたの」
と僕は言った。これまでに彼女に向けたどんな言葉より、それは優しく響いた。今日までずっと、硬く冷え切っていた心が、あたたかい蜜に浸され、ほぐれていくような間隔だった。
「愛なんて、知らずにいたほうが良かったと思う?」
僕は彼女に目をやった。その問いかけの意図を、ほんの僅かでも探ろうとして。
けれど、彼女は僕ではなく、遥か彼方の空、鈍色の雲間から降りる、どこまでも直線的な光を見つめていた。天使の梯子。上向く豊かなまつ毛。僕は、彼女が求めている言葉を必死に考えた。少なくとも、表面上はクールを装いながら。
「僕が知りたくなかったのは、愛に上限がないという事実なんだと思う」
「上限?」
そう言って、彼女はようやく僕の目を覗き込むように見つめた。
「一度満たされたと思っても、気がつけばまた欲しがってしまう。きりがない。終わりが見えない。そのことに気づいてから、なんだか自分が果てのない渦に呑まれてしまっているような気がするんだ」
的を射ていない自分の言葉を、どうにか彼女は咀嚼し、理解しようと努めているように見える。相変わらず、沈黙は苦手だ。優しさの裏に潜む残酷さについて、考えてしまう。木枯らしすらも僕の不安を煽り、落ち着かなくさせる。
「もしも愛に上限があって、完結させることができるものなのだとしたら」
彼女はそこで言葉を切った。そしてそっと息を吸って、なにかを諦めるときのような笑みを浮かべた。
「私たち、こんなところにまで来ていなかったかな?」
かすかな風の音にすらかき消えてしまいそうなほど、弱々しい声だった。いつものように涙を流すこともなく持ちこたえているのが不思議なほど、今の彼女は気丈に振る舞っている。
僕たちは、底が抜けた一対のグラスだ。どれだけ注がれても、満たされることはない。そして、お互いに注ぎ合うことも叶わない。なぜなら、僕たちはただのグラスでしかないから。愛を与えられることを待つことしかできない、どうしようもない存在だから。
だから、僕たちは今、ここにいる。僕にわかるのはそこまでで、愛の定義を歪めてまで存在しないはずの光景に思いを馳せるには、僕のロマンチシズムはあまりにお粗末すぎる。
「僕は後悔していないよ」
本当に伝えたい言葉が、湾曲し、色褪せる。最後の最後まで、僕は自分の言葉を好きになれそうにない。
彼女は曖昧に笑うのみで、頷き返してはくれなかった。
後悔はしていない。眼の前にはらはらと落ちてきた一片の雪に言い聞かせるように、僕は心の中でもう一度復唱する。どうして今の僕が彼女に手を伸ばすことすら叶わないのか、理解できた気がする。
隣から、小さな嚔|《くしゃみ》が聞こえた。それは僕の緊張や覚悟も緩ませる、紛れもない日常の音だった。もう少しで、あの懐かしい匂いさえ鼻先を掠めていきそうな気がした。
「本当に、後悔していないんだ」
置いてきたすべての愛おしいものたちの残像を振り切ろうと、僕はもう一度同じことを言った。それは宣言というより、幼稚で卑屈な駄々のように響く。
「知ってるよ」
――だから嬉しいんじゃない。
その、本来であれば喜ばしいはずの言葉を耳にした瞬間、僕は本当の意味で、自分たちが後戻りのできないほど遠いところまで来てしまったのだと実感した。
後悔はしていない。本当に。何度だって、言い聞かせる。
「そろそろ行こうよ」
と言って彼女が僕の手をとる。そして、「いつまでもぐずぐずしていたくないから」と続けた。普段は秘めている潔さが、叢から小動物が姿を見せるように覗いていた。
「そうだね」
僕たちは互いの瞳を覗き込みながら、まるで鏡写しのように同じ角度だけ口角を上げる。
恐怖や後悔のような感情が、止めどなく湧き溢れてくると思っていた。けれど、心は不思議なほど凪いでいた。そしてそれは彼女の方も同じであるようだった。
歩き始めてしばらくした頃、彼女が口笛を吹き始める。冬の澄んだ空気を震わせる、素敵な音色。
それは僕たちが色々なものを抱えすぎていた頃に二人で聴いていた、あの歌だった。
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
ねえ、と彼女が小さく口を開く。白い息が柔らかく踊って消える。
「どうしたの」
と僕は言った。これまでに彼女に向けたどんな言葉より、それは優しく響いた。今日までずっと、硬く冷え切っていた心が、あたたかい蜜に浸され、ほぐれていくような間隔だった。
「愛なんて、知らずにいたほうが良かったと思う?」
僕は彼女に目をやった。その問いかけの意図を、ほんの僅かでも探ろうとして。
けれど、彼女は僕ではなく、遥か彼方の空、鈍色の雲間から降りる、どこまでも直線的な光を見つめていた。天使の梯子。上向く豊かなまつ毛。僕は、彼女が求めている言葉を必死に考えた。少なくとも、表面上はクールを装いながら。
「僕が知りたくなかったのは、愛に上限がないという事実なんだと思う」
「上限?」
そう言って、彼女はようやく僕の目を覗き込むように見つめた。
「一度満たされたと思っても、気がつけばまた欲しがってしまう。きりがない。終わりが見えない。そのことに気づいてから、なんだか自分が果てのない渦に呑まれてしまっているような気がするんだ」
的を射ていない自分の言葉を、どうにか彼女は咀嚼し、理解しようと努めているように見える。相変わらず、沈黙は苦手だ。優しさの裏に潜む残酷さについて、考えてしまう。木枯らしすらも僕の不安を煽り、落ち着かなくさせる。
「もしも愛に上限があって、完結させることができるものなのだとしたら」
彼女はそこで言葉を切った。そしてそっと息を吸って、なにかを諦めるときのような笑みを浮かべた。
「私たち、こんなところにまで来ていなかったかな?」
かすかな風の音にすらかき消えてしまいそうなほど、弱々しい声だった。いつものように涙を流すこともなく持ちこたえているのが不思議なほど、今の彼女は気丈に振る舞っている。
僕たちは、底が抜けた一対のグラスだ。どれだけ注がれても、満たされることはない。そして、お互いに注ぎ合うことも叶わない。なぜなら、僕たちはただのグラスでしかないから。愛を与えられることを待つことしかできない、どうしようもない存在だから。
だから、僕たちは今、ここにいる。僕にわかるのはそこまでで、愛の定義を歪めてまで存在しないはずの光景に思いを馳せるには、僕のロマンチシズムはあまりにお粗末すぎる。
「僕は後悔していないよ」
本当に伝えたい言葉が、湾曲し、色褪せる。最後の最後まで、僕は自分の言葉を好きになれそうにない。
彼女は曖昧に笑うのみで、頷き返してはくれなかった。
後悔はしていない。眼の前にはらはらと落ちてきた一片の雪に言い聞かせるように、僕は心の中でもう一度復唱する。どうして今の僕が彼女に手を伸ばすことすら叶わないのか、理解できた気がする。
隣から、小さな嚔|《くしゃみ》が聞こえた。それは僕の緊張や覚悟も緩ませる、紛れもない日常の音だった。もう少しで、あの懐かしい匂いさえ鼻先を掠めていきそうな気がした。
「本当に、後悔していないんだ」
置いてきたすべての愛おしいものたちの残像を振り切ろうと、僕はもう一度同じことを言った。それは宣言というより、幼稚で卑屈な駄々のように響く。
「知ってるよ」
――だから嬉しいんじゃない。
その、本来であれば喜ばしいはずの言葉を耳にした瞬間、僕は本当の意味で、自分たちが後戻りのできないほど遠いところまで来てしまったのだと実感した。
後悔はしていない。本当に。何度だって、言い聞かせる。
「そろそろ行こうよ」
と言って彼女が僕の手をとる。そして、「いつまでもぐずぐずしていたくないから」と続けた。普段は秘めている潔さが、叢から小動物が姿を見せるように覗いていた。
「そうだね」
僕たちは互いの瞳を覗き込みながら、まるで鏡写しのように同じ角度だけ口角を上げる。
恐怖や後悔のような感情が、止めどなく湧き溢れてくると思っていた。けれど、心は不思議なほど凪いでいた。そしてそれは彼女の方も同じであるようだった。
歩き始めてしばらくした頃、彼女が口笛を吹き始める。冬の澄んだ空気を震わせる、素敵な音色。
それは僕たちが色々なものを抱えすぎていた頃に二人で聴いていた、あの歌だった。
「どうしたの」
と僕は言った。これまでに彼女に向けたどんな言葉より、それは優しく響いた。今日までずっと、硬く冷え切っていた心が、あたたかい蜜に浸され、ほぐれていくような間隔だった。
「愛なんて、知らずにいたほうが良かったと思う?」
僕は彼女に目をやった。その問いかけの意図を、ほんの僅かでも探ろうとして。
けれど、彼女は僕ではなく、遥か彼方の空、鈍色の雲間から降りる、どこまでも直線的な光を見つめていた。天使の梯子。上向く豊かなまつ毛。僕は、彼女が求めている言葉を必死に考えた。少なくとも、表面上はクールを装いながら。
「僕が知りたくなかったのは、愛に上限がないという事実なんだと思う」
「上限?」
そう言って、彼女はようやく僕の目を覗き込むように見つめた。
「一度満たされたと思っても、気がつけばまた欲しがってしまう。きりがない。終わりが見えない。そのことに気づいてから、なんだか自分が果てのない渦に呑まれてしまっているような気がするんだ」
的を射ていない自分の言葉を、どうにか彼女は咀嚼し、理解しようと努めているように見える。相変わらず、沈黙は苦手だ。優しさの裏に潜む残酷さについて、考えてしまう。木枯らしすらも僕の不安を煽り、落ち着かなくさせる。
「もしも愛に上限があって、完結させることができるものなのだとしたら」
彼女はそこで言葉を切った。そしてそっと息を吸って、なにかを諦めるときのような笑みを浮かべた。
「私たち、こんなところにまで来ていなかったかな?」
かすかな風の音にすらかき消えてしまいそうなほど、弱々しい声だった。いつものように涙を流すこともなく持ちこたえているのが不思議なほど、今の彼女は気丈に振る舞っている。
僕たちは、底が抜けた一対のグラスだ。どれだけ注がれても、満たされることはない。そして、お互いに注ぎ合うことも叶わない。なぜなら、僕たちはただのグラスでしかないから。愛を与えられることを待つことしかできない、どうしようもない存在だから。
だから、僕たちは今、ここにいる。僕にわかるのはそこまでで、愛の定義を歪めてまで存在しないはずの光景に思いを馳せるには、僕のロマンチシズムはあまりにお粗末すぎる。
「僕は後悔していないよ」
本当に伝えたい言葉が、湾曲し、色褪せる。最後の最後まで、僕は自分の言葉を好きになれそうにない。
彼女は曖昧に笑うのみで、頷き返してはくれなかった。
後悔はしていない。眼の前にはらはらと落ちてきた一片の雪に言い聞かせるように、僕は心の中でもう一度復唱する。どうして今の僕が彼女に手を伸ばすことすら叶わないのか、理解できた気がする。
隣から、小さな嚔|《くしゃみ》が聞こえた。それは僕の緊張や覚悟も緩ませる、紛れもない日常の音だった。もう少しで、あの懐かしい匂いさえ鼻先を掠めていきそうな気がした。
「本当に、後悔していないんだ」
置いてきたすべての愛おしいものたちの残像を振り切ろうと、僕はもう一度同じことを言った。それは宣言というより、幼稚で卑屈な駄々のように響く。
「知ってるよ」
――だから嬉しいんじゃない。
その、本来であれば喜ばしいはずの言葉を耳にした瞬間、僕は本当の意味で、自分たちが後戻りのできないほど遠いところまで来てしまったのだと実感した。
後悔はしていない。本当に。何度だって、言い聞かせる。
「そろそろ行こうよ」
と言って彼女が僕の手をとる。そして、「いつまでもぐずぐずしていたくないから」と続けた。普段は秘めている潔さが、叢から小動物が姿を見せるように覗いていた。
「そうだね」
僕たちは互いの瞳を覗き込みながら、まるで鏡写しのように同じ角度だけ口角を上げる。
恐怖や後悔のような感情が、止めどなく湧き溢れてくると思っていた。けれど、心は不思議なほど凪いでいた。そしてそれは彼女の方も同じであるようだった。
歩き始めてしばらくした頃、彼女が口笛を吹き始める。冬の澄んだ空気を震わせる、素敵な音色。
それは僕たちが色々なものを抱えすぎていた頃に二人で聴いていた、あの歌だった。