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7.INCUBO

ー/ー



第7話

 寿司屋「巴」の店内に、クリスマスソングが静かに流れていた。カウンターの上には小さなイルミネーションが飾られ、普段は見られない華やかさが漂う。
 
「まさか、ケイがこんな演出をするなんて」
 
 真智は口元を緩めながら、グラスに注がれた白ワインを傾ける。カウンターの向こうでは、ケイが弟子たちとクリスマスケーキの飾り付けに没頭している。
 
「師匠、これでいいですか?」
「ああ、その調子だ。今日は特別な日だからな」
 
 普段は厳しい表情のケイが、珍しく柔らかな笑みを浮かべている。弟子たちも、緊張から解き放たれたように和やかな雰囲気だ。
 
「どうぞ」
 ケイの握った特別な握りが、朱塗りの小皿に載せられて差し出される。
「クリスマス限定の"雪月花"です」
 真智は箸を取る手を少し震わせた。白身魚の上に散りばめられた銀箔が、店内のイルミネーションを優しく反射している。
 
「綺麗...」
 口に運ぶと、繊細な味わいが広がる。舌の上で溶けていく白身魚、その下に潜む柚子の香り、そして最後に感じる真珠のような粒々した食感。
 
「これは...」
「ふふ、気づきましたか?シャンパンで炊いた米を使っています」
 
 ケイの弟子の一人、若い女の子が嬉しそうに説明する。彼女の黒い前掛けには、小さなヒイラギの飾りが付けられていた。
 
「私たち、一週間かけて練習したんです。師匠に教えてもらいながら」
 
 その言葉に、ケイは少し照れたように包丁を研ぎ始める。その音が心地よく響く。
 
「クリスマスだからって、こんな素敵な演出までして」
「たまにはいいだろう。それに...」
 
 ケイは真智を見つめ、少し声を落として続けた。
 
「明日の招待状のこともある。少しでもリラックスしてほしくてな」
 
 真智は胸が温かくなるのを感じた。普段は決して見せない優しさが、今夜のケイには溢れている。
 店内には他のお客さんもちらほら。みな、いつもより少しだけ着飾っている。カウンターに座る年配のサラリーマンは、いつもの背広ではなく、赤いネクタイを締めていた。
 
「あ、雪が降ってきましたよ」
 弟子の一人が窓の外を指差す。細かな雪が、街灯に照らされてキラキラと輝きながら舞い落ちている。
 
「本当に素敵なクリスマス...」
 
 真智は思わず呟いた。この温かな空気、幸せな時間。どこか遠くに置いてきてしまったような感覚を、今夜は確かに掴んでいる。
 その時――。
 ガラスの砕ける音が、店内に響き渡った。
 
「皆さん、床に伏せて!」
 
 ケイの声が聞こえた瞬間、マシンガンの轟音が空間を引き裂く。イルミネーションが砕け散り、クリスマスソングが銃声に掻き消されていく。
 
 「真智、メリークリスマス」
 
 無表情のダリオが、マシンガンを構えて立っていた。彼の背後では、雪が静かに降り続けている。
 カウンターの向こうで、ケイが倒れている。白いコックコートが、徐々に赤く染まっていく。弟子たちも、床へ横たわったまま微動だにしない。先ほどまでヒイラギの飾りを付けていた少女の黒い前掛けに、大きな穴が開いていた。
 
「なぜ...」
 真智の問いかけに、ダリオは答えない。ただ、銃口をゆっくりと動かす。床に散らばったイルミネーションの破片が、彼の足元で虚しく光っている。
 真智は反射的に身を翻す。マシンガンの掃射が、彼女のいた場所を削り取っていく。寿司カウンターの木材が粉々になり、舞い上がる。
 物陰に隠れる真智。銃弾が壁を抉る音が、徐々に近づいてくる。先ほどまでの幸せな時間が、悪夢へと変わっていく。
 そして、突如として銃声が止んだ。
 
「真智、いつまで逃げているんだ?いつもいつも選択しないで、誰かに差し出されたものを掴むことしかしない。まあ、お前にとっちゃそれが楽なんだろうな」
 
 その言葉が、真智の心を揺さぶる。先ほどまでケイが差し出してくれた幸せな時間。それすらも、誰かに与えられたものなのか。
 
「じゃあ、この俺が差し出す鉛玉でも黙って掴んでおけよぉお!」
 
 再び響き渡るマシンガンの音。熱い粒が次々と体にめり込む感覚。穴から生温かい液体が溢れ出すのを感じる。
 床に散らばった握り寿司が、銃弾で粉々になっていく。銀箔が舞い、イルミネーションの破片が踊る。その光の中で、真智の意識が遠のいていく。
(私は確かに差し出されるものを掴むだけの人間。寿司を出されたらそれを食べるだけ。温かい言葉をかけられれば、それに頷くだけ。私はそれでいいと思ってた)
 
 気がつけば、ダリオが真智の腹にマシンガンを押し付けていた。彼の瞳に、かつての同僚としての温もりは微塵もない。
 言葉を発することができない。この距離で引き金を引かれれば、体は鉛の塊でかき回され、内臓が溢れ出す。この思考も、見えている薄い景色も、全てが途切れ、この世から自分が消えていく――その恐怖が全身を支配する。
 窓の外では、まだ雪が降り続いている。床に散らばったワイングラスの破片に、白い結晶が静かに溶けていく。
 
「ほら、やっぱりお前は与えられたものを貰うだけだ」
 
 ダリオの声と共に、再びマシンガンが火を噴く。体が熱い粒を受けて穴が開いていく感覚。命が消えていく恐怖。目が霞む。
 カウンターの向こうで、ケイの姿が見える。彼の手には、最後に握ろうとしていた寿司が握られたままだ。クリスマスの特別な一貫。誰かのために用意した、その優しさが、今は冷たく凍りついている。
 
(怖い。この恐怖が怖いから、人から与えられるものを掴んでいた。でも、それは...悪いことなのか。ケイは、私に幸せをくれただけなのに...)
 
 考えが及んだ時、真智は目を覚ました。
 寝汗で、シーツが濡れている。窓の外では、クリスマスの夜明け前の東京が、まだ眠りの中にあった。そして、小さな雪が、静かに降り始めていた。


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 寿司屋「巴」の店内に、クリスマスソングが静かに流れていた。カウンターの上には小さなイルミネーションが飾られ、普段は見られない華やかさが漂う。
「まさか、ケイがこんな演出をするなんて」
 真智は口元を緩めながら、グラスに注がれた白ワインを傾ける。カウンターの向こうでは、ケイが弟子たちとクリスマスケーキの飾り付けに没頭している。
「師匠、これでいいですか?」
「ああ、その調子だ。今日は特別な日だからな」
 普段は厳しい表情のケイが、珍しく柔らかな笑みを浮かべている。弟子たちも、緊張から解き放たれたように和やかな雰囲気だ。
「どうぞ」
 ケイの握った特別な握りが、朱塗りの小皿に載せられて差し出される。
「クリスマス限定の"雪月花"です」
 真智は箸を取る手を少し震わせた。白身魚の上に散りばめられた銀箔が、店内のイルミネーションを優しく反射している。
「綺麗...」
 口に運ぶと、繊細な味わいが広がる。舌の上で溶けていく白身魚、その下に潜む柚子の香り、そして最後に感じる真珠のような粒々した食感。
「これは...」
「ふふ、気づきましたか?シャンパンで炊いた米を使っています」
 ケイの弟子の一人、若い女の子が嬉しそうに説明する。彼女の黒い前掛けには、小さなヒイラギの飾りが付けられていた。
「私たち、一週間かけて練習したんです。師匠に教えてもらいながら」
 その言葉に、ケイは少し照れたように包丁を研ぎ始める。その音が心地よく響く。
「クリスマスだからって、こんな素敵な演出までして」
「たまにはいいだろう。それに...」
 ケイは真智を見つめ、少し声を落として続けた。
「明日の招待状のこともある。少しでもリラックスしてほしくてな」
 真智は胸が温かくなるのを感じた。普段は決して見せない優しさが、今夜のケイには溢れている。
 店内には他のお客さんもちらほら。みな、いつもより少しだけ着飾っている。カウンターに座る年配のサラリーマンは、いつもの背広ではなく、赤いネクタイを締めていた。
「あ、雪が降ってきましたよ」
 弟子の一人が窓の外を指差す。細かな雪が、街灯に照らされてキラキラと輝きながら舞い落ちている。
「本当に素敵なクリスマス...」
 真智は思わず呟いた。この温かな空気、幸せな時間。どこか遠くに置いてきてしまったような感覚を、今夜は確かに掴んでいる。
 その時――。
 ガラスの砕ける音が、店内に響き渡った。
「皆さん、床に伏せて!」
 ケイの声が聞こえた瞬間、マシンガンの轟音が空間を引き裂く。イルミネーションが砕け散り、クリスマスソングが銃声に掻き消されていく。
 「真智、メリークリスマス」
 無表情のダリオが、マシンガンを構えて立っていた。彼の背後では、雪が静かに降り続けている。
 カウンターの向こうで、ケイが倒れている。白いコックコートが、徐々に赤く染まっていく。弟子たちも、床へ横たわったまま微動だにしない。先ほどまでヒイラギの飾りを付けていた少女の黒い前掛けに、大きな穴が開いていた。
「なぜ...」
 真智の問いかけに、ダリオは答えない。ただ、銃口をゆっくりと動かす。床に散らばったイルミネーションの破片が、彼の足元で虚しく光っている。
 真智は反射的に身を翻す。マシンガンの掃射が、彼女のいた場所を削り取っていく。寿司カウンターの木材が粉々になり、舞い上がる。
 物陰に隠れる真智。銃弾が壁を抉る音が、徐々に近づいてくる。先ほどまでの幸せな時間が、悪夢へと変わっていく。
 そして、突如として銃声が止んだ。
「真智、いつまで逃げているんだ?いつもいつも選択しないで、誰かに差し出されたものを掴むことしかしない。まあ、お前にとっちゃそれが楽なんだろうな」
 その言葉が、真智の心を揺さぶる。先ほどまでケイが差し出してくれた幸せな時間。それすらも、誰かに与えられたものなのか。
「じゃあ、この俺が差し出す鉛玉でも黙って掴んでおけよぉお!」
 再び響き渡るマシンガンの音。熱い粒が次々と体にめり込む感覚。穴から生温かい液体が溢れ出すのを感じる。
 床に散らばった握り寿司が、銃弾で粉々になっていく。銀箔が舞い、イルミネーションの破片が踊る。その光の中で、真智の意識が遠のいていく。
(私は確かに差し出されるものを掴むだけの人間。寿司を出されたらそれを食べるだけ。温かい言葉をかけられれば、それに頷くだけ。私はそれでいいと思ってた)
 気がつけば、ダリオが真智の腹にマシンガンを押し付けていた。彼の瞳に、かつての同僚としての温もりは微塵もない。
 言葉を発することができない。この距離で引き金を引かれれば、体は鉛の塊でかき回され、内臓が溢れ出す。この思考も、見えている薄い景色も、全てが途切れ、この世から自分が消えていく――その恐怖が全身を支配する。
 窓の外では、まだ雪が降り続いている。床に散らばったワイングラスの破片に、白い結晶が静かに溶けていく。
「ほら、やっぱりお前は与えられたものを貰うだけだ」
 ダリオの声と共に、再びマシンガンが火を噴く。体が熱い粒を受けて穴が開いていく感覚。命が消えていく恐怖。目が霞む。
 カウンターの向こうで、ケイの姿が見える。彼の手には、最後に握ろうとしていた寿司が握られたままだ。クリスマスの特別な一貫。誰かのために用意した、その優しさが、今は冷たく凍りついている。
(怖い。この恐怖が怖いから、人から与えられるものを掴んでいた。でも、それは...悪いことなのか。ケイは、私に幸せをくれただけなのに...)
 考えが及んだ時、真智は目を覚ました。
 寝汗で、シーツが濡れている。窓の外では、クリスマスの夜明け前の東京が、まだ眠りの中にあった。そして、小さな雪が、静かに降り始めていた。