さて、ユージとサクラの夫婦は遂に中道界のジムルグ国に旅立った。
魔界と中道界を結ぶ連絡船から降り立ち、初めて中道界の外気に触れた時、サクラは空気が重いと感じ、ユージは空気が濃いと感じた。
(もしかして、この空気の圧に耐えられない人がいるのかな)
幸いにも二人ともオオサカ滞在中にこの空気の違いにはすっかり慣れてしまい、二日目の夕方に実施された旅行会社による体調チェックでも全く問題は見つからなかった。
「お二人とも旅行を続けて頂いて問題ございません。どうぞ存分にお楽しみ下さい」
担当の女性ににこやかに告げられ、二人はほっと胸を撫で下ろした。
「ありがとうございます!あの、今夜外出しても大丈夫ですか?」
と、サクラがダメで元々とばかりに確認してみると、
「はい。体調チェックが終了致しましたので、特に行動制限はございません」
とのことだった。
ならばと、サクラはユージを引っ張って、旅行会社から貸与されたスマートフォンを片手にオオサカのB級グルメを求めてホテルを飛び出した。
二人は威勢よく客をあしらっている小さな店の前で足を止めた。もちろん何を喋っているのかはわからない。
(タコヤキ……?)
ユージはスマートフォンの自動翻訳の画面を見ながら首を傾げる。
「サクラ、何だろこれ?自動翻訳通しても全然わかんないんだけど――この中にタコが入ってるのかな?」
「興味あるなら頼んじゃいましょ。不味かったら残しちゃえばいいわ」
早速サクラは身振り手振りで注文し、何やらスマートフォン越しにやり取りをした後で財布から現金を渡し、それと引き換えに商品を受け取って戻って来た。
「ねえ、電子決済しようとしたら、現金しかダメって言われたんだけど。ああもう、面倒くさっ」
戻ってくるなり、サクラは不満を口にした。
ちなみに、魔界では各個人に埋め込まれている生体ICチップによる自動決済が定着しているため、電子機器を介した電子決済さえも手間がかかる支払方法と認識されている。ましてや財布から現金を出すことなど、である。
「あはは、いきなり不便にぶち当たったんだね」
「全くよ――さ、早く食べましょ」
サクラが差し出した容器の中には、ほかほかと湯気が立った一口大の丸いものが8個入っていた。その上にはソースがかけられ、緑色の粉と鰹節が無造作に載せられている。
「これがタコヤキかあ。なんかすごく熱そうだね」
「気を付けてね、ユージ猫舌だから」
二人は爪楊枝で丸い物体を持ち上げ、ふうふうと息をかけてから口に運んだ。途端に口の中にとろとろの熱いものが飛び出した。
「熱っ!」
二人ははふはふ言いながら、しばし口の中の熱いものと格闘する。
「熱いけど、出汁がきいてて美味しいわね」
「う、うん。ちょっとびっくりしたけど」
「オオサカのB級グルメ、ひとつめ、大成功ね」
サクラは用心深く次のタコヤキを頬張り、夫に笑顔を見せた。
早速魔界にはない不便さにぶち当たり、戸惑いながらも二人とも楽しそうにオオサカの夜を満喫していた。
翌朝、オオサカからキョートへは旅行会社がチャーターしたバスで移動した。バスは高速道路に乗ったものの、そこを走る車の数が多くてなかなかスピードに乗ってスムーズに走るというわけにはいかなかった。
(ああ、ここはまだ、全然自動運転が導入されていないんだ。道理で車の流れが悪いわけだ)
バスの車窓から周囲を走る車を眺めつつ、ユージは得心したように頷いた。
予定よりも20分遅れでキョートに到着した二人は宿泊先のホテルに荷物を預けると、早速観光ツアーのバスに乗り込んだ。
この時期のキョートは、新緑が美しい時期だ。これが春先には満開の桜でピンク色に染まり、秋には紅葉で真っ赤に染まるのだ、と添乗員が写真パネルを見せながら説明してくれた。
「桜の花ってたくさん咲いていると凄く奇麗なのね。今度は春先に来てみたいな」
「俺は秋の紅葉が見たいなあ。山が赤や黄色に染まるって圧巻だと思う」
「じゃあ、最低でもあと2回来ないとダメね」
「そうだね――次に来るときには子供と3人で来ることになるんだよね。なんか実感が沸かないというか、不思議な気がするけど」
「子供って何歳から中道界に行けるようになるのかしら。後で確認してみるわね」
ユージとサクラは、バスの窓からキョートの街並みを眺めつつ、いつの間にかジムルグに再び訪れる前提で話をしている。
「ふふっ」
そのことに気が付いたサクラはくすくす笑い出した。
「どうしたの?」
「ユージもジムルグにまた来たいって思ってるんだなあって。旅行の相談したときはあんなに嫌そうだったのに」
サクラの指摘に、ユージはもごもごと口ごもった。そして、
「……中道界に何か価値があるかどうかはまだわからないけど、たまに旅行する分にはいいかも、とは、思う」
と、面映ゆそうに打ち明けた。
「それも中道界の価値として計上していいと思うけど?」
(……確かに、そうだ)
何気ないサクラの言葉が、ユージの心を揺らした。
(そもそもどうして俺はこんなにも中道界を認めたくないんだろう。中道界の事なんか噂話程度のことしか知らないのに)
本当ならサクラのように、初めてのジムルグで見たもの聞いたものに素直に心を動かされるものなのだろうが、でも。
「ユージ?」
サクラは、黙ってしまった夫の顔を覗き込んだ。
「あ――そうだね。サクラの言うとおりだ」
ユージはそう呟くと、窓の外に視線を移した。
キョートでの3日間、ユージとサクラは精力的に行動した。
1日目は清水寺を始めとする東山エリアを回り、2日目は金閣寺周辺と京都御所から二条城、その後はキョート中心部の街歩きをし、最終日は嵐山・嵯峨野エリアをゆっくりと堪能した。何処に行っても観光客が多かったが、それだけ人気の観光地ということなのだろう。
(天界はレア神とイル神だけだったけど、ジムルグには色んな神様がいるんだな)
風景の素晴らしさや歴史的建造物の見事さにはしゃぐサクラをよそに、ほんの数カ月前に天界で神への信仰のかたちに触れたばかりのユージは、その点を興味深く捉えていた。
(神社で神様が祀られているかと思えば、お寺には仏様っていう別の存在が尊ばれている。しかも、施設によって祀られている対象がバラバラだ――ここには一体どれぐらいの数の神様がいるんだろう)
神の存在が否定されている魔界で生まれ育ったユージには、相変わらず人間が特別な対象を信仰することの意味はよくわからないままだ。
(でも、この雰囲気は好きだな)
境内の喧騒の中でふと目を閉じると、ふわあっ、と優しい風がユージを包み、通り過ぎていく。
(優しくて、哀しくて。それから、なんだろうな……何故かとても懐かしい)
嵐山ではサクラにせがまれて、追加料金を払って人力車にも乗った。ジムルグ人の車夫の説明はスマートフォンの自動翻訳機能を通しても半分ぐらいしか理解出来なかったが、言葉が通じなくとも懸命にもてなそうとしてくれている姿勢に二人とも大きく満足していた。
「今度は着物をレンタルして、人力車でもっと遠くまで行きたいな」
ホテルへ戻る観光バスの車窓から、着物姿で人力車に乗っている若いカップルを見かけたサクラは、そんなことを呟いた。
(着物といえば、師匠は何処で何をしてるんだろ)
ユージの方はといえば、妻の言葉とは何の脈絡もなくそんなことを考えていたりする。
「この3日間で結構色んなところに行ったつもりだったけど、こうして見るとまだまだ全然だあ」
ホテルに戻ったユージは、観光案内所でもらった紙の観光マップを見ながら雄弁な溜息をついた。
「本当、この辺なんか全然だもの」
サクラは北のエリアを指差した。
「次は事前にもっと調べて、自分たちでルートを決められるといいね」
ユージの言葉に、サクラも同意した。
「そうね。今度は穴場とまでは言わないけど、もうちょっと人が少ない所がいいわ」
やはり二人とも、行く先々での人の多さに辟易していたのだ。
「でも、すっごく楽しかったあ。ご飯もスイーツも全部美味しかったし、行ったところ全てがホントに素敵だったわ――ユージはどうだった?」
サクラは、屈託のない笑顔を夫に向けた。
「うん。思っていたよりずっと面白かった」
ユージは、今度は素直に答えた。
「自分でも不思議なんだけど、日を追う毎にだんだん居心地が良くなっちゃってさ。そしたら、中道界の価値なんてどうでもいいじゃん、って気になったんだ」
「ふうん」
「知らない文化に触れることが出来て興味深かったし――来てみて良かったよ」
と、ユージははにかむような笑顔を見せた。
「良かった……あたし、ユージのこと無理矢理引っ張って来ちゃったから、ホントはちょっと気にしてたの」
「無理矢理だったかもだけど、サクラは俺の思い込みの壁を壊してくれたんだよ」
もじもじと告白した妻をユージはそっと抱きしめる。
「……トーキョーも楽しいといいわね」
サクラはユージの背中に両手を回し、その胸に体重を預けた。
「そうだね。きっと楽しいよ」
サクラ。君と一緒なら。