僕が嫌いなもの。まず第一に母。第二にピアノだ。
「あまり遅くならないでね」
「はい。行ってきます」
祖母の言葉に、僕はゆっくりと頷いた。足早に玄関から立ち去る。
「う、さむ」
冬に染まった街は、冷え切っている。
ジャンパーのチャックを上まで引き上げた。
空気は透き通り、空には街頭に遮られることのない、星が瞬いている。そんなところに、僕は一人足を踏み出した。
祖父母の家を抜け出して、夜の街に行くのはこれで何回目だろうか。
ザッザッ
足を地面に下ろすたび、雑音が耳を掠る。
僕の行き先は、学校だ。
夜の学校は暗くて、広くて、寒い。僕にお似合いの場所。
いつものように、フェンスを乗り越え、上履きに履き替える。
冬の夜の空気に染められた上履きは、冷たかった。
学校には、誰もいない。
足音が大きく反響する。
時折窓にぶつかる風の音が、僕の肩を跳ね上がらせた。
そして五階を目指す。
五階には、音楽室がある。
大嫌いな母が愛していた、大嫌いなピアノがある。
いつから僕はピアノが嫌いになったんだろう。
その時一つの記憶が降ってきた。
「ここはスラーだって、何回言わせれば気が済むのよ!」
切り裂くように高い、金切り声が反芻する。
その声の主は母。
不機嫌そうに眉を吊り上げて、皺を寄せて。何かに取り憑くように捲し立てる母に、僕は大きなため息をついていた。
そうだ。
あの頃まではピアノに憧れを抱いていた。
怒りっぽくて笑わない母が、ピアノの前だけでは穏やかな顔をしていたのだから。
ふんわりと眉は弧を描いて、固く結ばれていた唇は小さく微笑んで。まるで薄暗い部屋を照らすように、音色に身を委ねていた。
母をそんなにも夢中にさせるピアノを、僕も奏でてみたかった。
そして言ったんだ、ピアノを教えて欲しいと。
けれどそれが地獄の始まりだった。
ピアノは美しいものなんかではなかった。母のように、旋律を紡ぐことすらできなかった。
何度、母を怒らせただろう。
その度にピアノが嫌になった。
母の僕に怒る、冷たい視線と、捲し立てる言葉が、嫌いになった。
だから、母も、ピアノも嫌いだ。
大嫌いだ。
けれど、あの日から無意識に足がピアノの方へと傾いてしまう。
そして、またいつものように扉を開こうとした時だった。
ポロンッ
「!」
頬の筋肉が強張る。
指先が冷たくなっていくのがわかった。
誰かが、いる。
そう、僕の耳に聞こえてきたのは、大嫌いなピアノの音色。昔の母が弾いていた、柔らかい音色と重なる。
ここには、誰もいないはずなのに。
聞き間違いかもしれない、と扉に耳を寄せる。
すると、そのピアノの音はより一層くっきりと僕の耳に飛び込んできた。
先客だろうか。
もしかしたら……。
喉をゴクリと鳴らす。
非現実的な妄想が広がっていく。暗くて光がないことも相待って、僕の手は震えていた。
けれどこの普通ではない事態に、心が躍っていたことも事実。
気がつけばドアノブに手を添えていた。冬の空気に染まり冷たくなったそれをゆっくりと回す。
ガチャ
綺麗な音色に、雑音が混じる。
そして、扉が広がった先にいたのは、一人の女の子だった。光に当てられて輝くワンピースを纏った少女。
年齢は僕と近しいように見える。
けれど、その顔に見覚えはなかった。
「えーっと、あの、先客ですか?」
気の利くような言葉なんてかけられなくて、僕は視線を外しながら呟く。
その声に、少女が振り返った。
「あ、こん、にちは。……あれ、こんばんはかな?」
「う、うん」
僕の問いには答えず、少女はぎこちない笑顔を浮かべた。
そしてまた音色を奏で出した。
鍵盤に指先を当てて、歌うように、滑らかな旋律を紡ぐ。
大嫌いな、ピアノの音が音楽室に反響していく。
体が小さく蝕まれるような、苦い砂利を食んているような感覚だった。
それでも耳を塞ぐことはできなかった。
少女の横顔が、純粋にピアノを奏でていた母と重なったからだ。
そのまま、僕は立ち尽くす。
どうすることもできなくて、ただその指先を見ていた。
丁寧に鍵盤を押して、跳ね返って、また押して。その音色も、表情も、横顔も、あの頃の母とそっくりだ。
しばらく経つと、ゆっくりと鍵盤から手を離す。
僕は小さく拍手を送った。
「ありがとう」
照れくさそうな表情を浮かべる。
その柔らかい線を描く瞳に、なぜか懐かしさを覚えていた。
「どうして立ったままなの? 君もピアノを弾きに来たんでしょ?」
けれど一歩も動かず立ち尽くしてる僕を見ると、不思議そうに目を丸くした。
「え、いやっ」
胸の前で、両手を縦に振る。
ピアノを弾きに来た? 冗談じゃない。
「ほら、こっち! 楽しいよ、ピアノっ」
けれど、そんなことも意味はなくて。
椅子から立ち上がった少女は、僕の手を握って手繰り寄せる。僕の手首を握ったその手は、雪ように冷たかった。
けれど、その線の細い腕は揺らしても離れることはない。
そうやって人の言うことを聞かないところも、母と似ている。
「でも、僕はピアノなんて、弾けないし」
そうだ。僕には弾けない。
あの頃の僕は弾けないくせに、必死にしがみついて馬鹿みたいだった。
押しつぶされるような、はち切れるような頭痛が広がる。
けれど少女は、笑顔を向けたまま。
「そうなの? てっきり好きなのかなって思ったんだけど……。ずっと見てたからさ。本当は弾きたいんじゃない? あ、教えてあげようか?」
にっと口角を上げる。
翳りを微塵も感じさせない、濁りのない笑顔の少女には、強引なところがあった。
けれど否定する気力なんてなくて、僕は口を注ぐんで笑みを貼り付けた。
そして、僕は少女の隣に座った。
眺めるだけだったピアノが、目の前に聳え立つ。
舌がジャリと鳴るような気がした。
もう、全て消化したと思っていたのに。
けれど、それも長くは続かなかった。
少女の周りにはふんわりと、まるで太陽の光を集めた花畑のような、優しい匂いが漂っていたからだ。
不思議と苦みもこの夜に溶けるように鎮まっていく。
頭痛も失せていくような気がした。
「あっ。君、名前は?」
思い出したように、僕を振り返る。一つにまとめられた長い黒髪が僅かに揺れる。
「……奏人」
「いい名前。私にも子供ができたらそんな名前をつけたかったんだぁ」
少女が羨ましそうに僕を眺める。
けれど、僕の名前は呪いだ。
母が付けたこの名前を何度、恨んだことだろう。
何も奏でることのできない人間の名前が、奏人だなんて。名前負けにも程がある。
僅かな苛立ちを覚えた僕は、ぶっきらぼうな言葉を吐いた。
「そっちは? 名前」
「私? 私は理沙。よろしくね、奏人」
「え」
けれど少女の名前が鼓膜に入った時、僕の心臓は大きく鈍く鳴った。
名前だけで大袈裟かもしれない。偶然に過ぎないはずのに。
けれど、その名前は母の名前でもあった。
常に苛立っていて、暴力的な、母親の名前。
もう二度と聞くことなんてないはずだった、母の名前。
「どうしたの? なんか変なこと言った?」
「あ、いや」
そして僕は、その動揺をうまく隠すことができなかったらしい。
少女に、理沙に顔を覗き込まれて口を割る。
「実は……知り合いにも同じ名前がいてさ。偶然とは思うんだけど。びっくりして」
頭を小指で小さく掻きながら、その理由を述べた。母のことを他人に話すのは、初めてだった。
「ふーん、そうなんだ。同じ名前の人なんて会ったことないから、羨ましいな。まさか奏人はその人のことが好きだったり?」
ふふっと笑みを溜めて、理沙は意地悪っぽく笑う。
同じ名前でも、母と理沙じゃ、全く違う。僕は首を振った。
僕は母に、こうやって笑いかけられたことなんて一度もなかったのだから。
そして僕は窓の外を仰いだ。太陽はすっかり闇に溶けて、冬の空気に染まった淡い月の光が差し込んでいた。
「……いいや。その人はもう、死んだから」