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スープカップドライブ

ー/ー



「ねぇ」
「海見に行かない?」
 突然そんな言葉が送られてきた。「おはよう」も「久しぶり」も「元気にしてた?」も何もない。このメッセージが届いたのはもう数時間も前のことだから、見つめていたって今更文章が追加されることはない。
 送り主間違えてない? とか、なんでこの時期に? とか、いま何してるの? とか、送りかけた言葉を全部消して、私も「いいね」と一言だけ送り返した。どんな疑問も直接聞かなければ意味がない気がしたのだ。

 たつきは高校生の時の同級生だった。クラスの中で目立つ方ではないけれど、なんとなく目につくような存在。一軍女子のようにメイクをして先生に怒られたり、イベントでみんなを仕切ったりするタイプではなかったけれど、眉毛を整えて唇に色付きリップを塗ったり、話し合いではちゃんと意見を言ったりするような子だった。
 もう社会人として働いていてもいい年だけれど何をしているのかは知らない。惰性で繋がっているインスタでは、向かい側に人が映り込む料理の写真をあげていたりするけれど、それだけ。微かに見える服装から男の人ではないんだろうな、っていうのがわかるくらい。
 そんな彼女がなんで私と冬の海に行きたくなったのか。ラインの文面を眺めているだけだとわかりそうもなかった。



 約束した日の朝、たつきはいきなり私の家にやってきた。
「ついたー」
「開けてー」
 ラインの通知音が来客を告げる。チャイムを無遠慮に鳴らさなかったのは彼女なりの配慮なのか。確かめるために窓から顔を出した私を見て「驚いた?」と唇を引き上げて笑う。白い車を家の前に止めて茶色い髪を風に靡かせる彼女は、なんだか知らない人のようだった。
「あは、寝癖やば」
 慌てて手櫛で髪をとかす。服も髪もメイクも完璧な彼女と比べて私はまだ全然準備ができていない。その様子を笑われたことで気分が下がった。でも仕方がないじゃないか。海を見にいく日は決めていたけれど時間までは決まっていなかった。こっちが何回聞いても既読スルーで返事をしなかったのはそっちなのに。どうして私の方が時間にルーズな人、みたいな扱いを受けているのか。
 もともと楽しみだったわけでもない小旅行がもっと憂鬱なものになった瞬間だった。

「はーついたねぇ」
 適当に目についたパーキングに車を止めて、たつきが大きく伸びをする。その隣で小さく息を吸ったとき、嗅ぎ慣れない潮の匂いがしてようやく海に来ているという実感が湧いた。
 彼女が運転している車はレンタカーだった。私の家からもたつきの家からも電車で行ける距離の海なのに、わざわざ借りたらしい。絶対電車代の方が安いのにそこまでする理由が全くもって理解できなかった。
 ここに着くまでの車内に会話は特になく、今流行りの曲だけが虚しく響いていた。選んで曲をかけているはずのたつきさえつまらなそうにただじっと前だけを見据えていて、ここに私がいる必要性はやっぱり感じられなかった。海になんて一人でも行けるし、そもそも私よりももっと親しい友人がいっぱいいるだろうに。
 階段を降りて砂浜に足を踏み入れる。アスファルトとも違う足裏の感触が面白かった。歩くごとに砂が動くけれど、足がとられるほどではない。規則的に波が押し寄せて砂を崩してどこかへ運んでいた。
 海の方に目を向けると、冬だというのに海には複数のサーファーが浮かんでいた。灰色にも見える青い海に、黒い点々が浮き沈みしている。なにかそういうおもちゃを見ているみたいだった。何が彼らをそこまでさせるのだろうか。冬に山に登るのはまだわかるような気がする。そこに山があるから夏だろうと冬だろうと登るのだろう。景色だって、そこから感じ取るものだって多分違う。けれど海があるからといって冬に波に乗りたくなるものなのだろうか。さっぱりわからなかった。冷たいだけで何も変わらない気がするのに。
 でも、私だって同じなのかもしれない。泳ぎもしないのにたつきからのたった一言で海に来ている私のことも彼らには理解できないだろう。
 サーファーから目を逸らして、波打ち際ギリギリのところで遊んでいるたつきの後ろ姿をぼんやり眺める。スカートの裾をひらひら遊ばせながら描いた文字を波に消させてみたり、流れ着いている海藻を突いてみたり、何が楽しいのかわからない動きをずっと繰り返していた。
 ねぇ、とたつきの背中に呼びかける。波の音が充満していてもきちんと届いたようで、彼女が私を見る。遮るもののない瞳と目が合って、メガネをかけていないことに今更気づいた。
「なんでさ、私を誘ったの?」
 私たちそんなに仲良くなかったじゃん。と言外に含ませる。たつきとは高校一年から二年にかけて同じグループに所属していた。卒アルを開くと仲良さそうに写っている写真を見つけることもできる。でもそれだってほかにもう三人いたから成り立っていた関係だった。私たち二人きりでどこかに遊びに行ったことなんていままで一回もない。それに三年生の時にクラスが別れるともっと疎遠になった。私は美代子と、たつきは優香とそれぞれつるんでいた。すれ違ったら少し話すくらいはしたかもしれない。もうあんまり覚えてないけど。
 沖から強い風が吹いてくる。たつきの長い髪が後ろから煽られて、表情が隠れた。かろうじて見えた口元はうっすら弧を描いているようだった。
「なんでだと思う?」
 わからないから聞いているのに、めんどくさい質問で返されて少しむっとする。こういう、質問に質問で返してくるのは好きじゃない。睨みつけるように見つめても、たつきはそれきり口を開かなかった。しばらく無言で向かい合っていたけれど、ふいに興味を失ったようにたつきが海に向き直る。その時また沖から風が吹いて砂を巻き上げた。細かい礫が襲ってくる。顔を腕で庇っている間にたつきは海の中に足を進めていた。
 スニーカーが見えなくなって、くるぶしが見えなくなって、ふくらはぎの辺りまで見えなくなった。ついさっきまで揺れ動いていたはずのスカートが窮屈そうに足に絡まっていく。
「たつき」
 何かの冗談だと思って咎めるような声で呼んだ。たつきは少し止まって私の方を見たけどすぐ沖に向き合ってまた歩きだす。
「たつき!」
 私の声が思ったより響いたのか、遠くの方で浮かんでいたサーファーたちが何事か、と岸の方に近寄ってきた。それなのにたつきはどんどん私から離れていく。
 厚手のコートを着ていても寒い冬の日に海に入るだなんて信じられない。ここでやっと私の足はたつきを追うために動き出した。それでも波打ち際ギリギリで躊躇う。だって嫌だった。雨で靴が濡れるのも嫌なのに、どうして自分から冬の海に足を踏み入れなきゃいけないのか。
 たつきは波打ち際で立ち止まった私を見ながら後ろ向きに進んでいく。その姿はもう腰のあたりまで波に埋まっていた。彼女が着ているショート丈のアウターが水面ギリギリのところで揺れ動く。やはり寒いのだろう、顔は真っ白で唇は紫色に染まっていた。
(バッカじゃないの!?)
 湧き上がった怒りに任せて足を一歩前に踏み出した。足元で音を立てて水が浮き上がった。あっという間に海水が染み込んでくる。凍えるような冷たさだ。靴下が水を吸って重たく張り付く。
(絶対に新しい靴を買わせてやる)
 波をかき分けるように歩かないと進めない。砂浜と違って大きい石でもあるのか、足元がひどく不安定だった。一歩がどんどん重くなる。お気に入りの靴だったのに。靴どころかズボンの裾も張り付いてきて不快だった。
 たつきを睨みつけながら一歩ずつ足を進めていく。どんどん深くなる上に、波もどんどん高くなっていくように感じる。足の先の方なんてもう感覚がない。それでもどうにか足の付け根から動かすようにして、無理矢理たつきのところまでたどり着いた。どうして私がこんなことをしているのか。たつきからの誘いに軽率に「いいね」と応えた過去の自分を呪う。
「帰るよ」
 びっくりしたような顔のたつきの手を引きながら砂浜の方へ戻る。軽く水面に浸かっていた手は氷のように冷たくて、私の熱が吸い取られていくようだった。後ろから波に押されて何回か転びそうになったけど、意地で耐えた。このたつきの前でみっともないところは見せたくなかった。
 信じられないくらい自分で足を動かしている感覚がない。脳からの指令はきちんと通っているようで動くことには動く。が、足が地面に着いた途端、力が抜けて崩れ落ちそうになる。私よりも長く浸かっているたつきも同じみたいで、波に触れないところまで戻るのにものすごい時間がかかった。さらに追い討ちをかけるように冷たい風が吹いて、体の震えが止まらない。様子を窺っていたらしいサーファーが追いついてきて、着替えが買える場所とか体を温められる場所とか色々教えてきた。ついでに説教のようなものまでしてくる。善意で伝えてくれていることなんてわかりきっていたけれど、どう見ても修羅場なんだから放っておいてほしかった。今この状況で何か言えるのは私だけのはずだ。口を挟まないでほしかった。
 濡れた靴と服で車まで戻る。一歩踏み出すごとにグチュ、だとか、ガポッ、だとか音が聞こえてきて煩わしかった。
「次やるときは私を巻き込まないでね」
 後ろも見ないまま話しかける。何も答えないかと思ったけど予想に反して、馬鹿みたいに明るい声が返ってきた。
「そこはさァ! こんなことはやめて! って引き留める場面じゃないの?」
 寒いからなのか、声が震えているように聞こえた。
「そんなことしてほしいんだったら私じゃない子を誘えばよかったじゃん」
「もう、誘った」
「へぇ?」
「予定が合えば行きたいね、とか、冬の海なんて嫌、とかそんなんばっか! いっつも私の都合も考えずに誘ってくるくせに!」
「ははは! じゃあアンタが望む言葉なんてどこにもないじゃん!!」
 かわいそうに! と笑い飛ばす。普段全く連絡を取らない私に声をかけるくらい切羽詰まっていたのに、求める言葉は得られない。この子が憐れで、かわいそうで、かわいかった。

「性格わる!」
「アンタのあんな一言でついてきてあげた私に言う言葉じゃなくない?」
 愉快だった。

 車に戻ると後部座席からブランケットやカイロや着替え、USBでつくタイプのストーブが出てきた。魔法瓶に入ったスープも。全部、二人分。
 なんだ、死ぬ気なんて初めからなかったのか。安心したような呆れたような感情がため息になって出ていった。
 後部座席の部分を全部フラットにして座り込む。暖房を最大風力でかけているうえに、たつきのスマホと車内スピーカーがブルートゥースで接続されて曲がかかり、少しうるさかった。
「てか関係ない私に八つ当たりしないでよ」
「え?」
 居心地のいい座り方を模索していたたつきがきょとんとした顔で聞き返してきた。
「傷ついたから傷つけたくなったんでしょ? 面倒な性格してんね、アンタ」
「……私、そこまで考えてなかったんだけど……」
 こわ……、となぜか私が引かれた。物理的にも距離を取られる。解せなかった。
「はぁ!? 考えなしにあそこまでしでかしたアンタの方が怖いでしょうが!!」
 殴る真似をすると、きゃーと声をあげながら避ける。なんだか高校生の時に戻ったようなノリに二人で顔を見合わせて小さく笑った。

「ねぇ、なんでこの曲の並びなの?」
 ガンガンに暖房を効かせているのに全然あたたかくなってる気がしない。魔法瓶に入っているスープだけがあたたかそうに湯気を立てている。冷えた体には熱すぎてまだ飲めそうになかった。ブランケットの中に手足をぜんぶ隠しながら、行きの時から気になっていたことを聞く。
「え? 知らない」
「アンタの好きな曲とかじゃないの?」
「全然。デイリーランキングトップ百とか流してる」
「……なんだ。じゃあ私が聞きたい曲にしていい?」
「いいよ」
 私のスマホとスピーカーを接続して、高校生の時に流行っていてよく聞いていた曲を流す。
 軽く口遊むたつきの表情は少しほころんでいるように見えて。

(曲の趣味が変わったわけじゃなかったのか)

 そのことがなんだか少し気分良かった。


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 海の方に目を向けると、冬だというのに海には複数のサーファーが浮かんでいた。灰色にも見える青い海に、黒い点々が浮き沈みしている。なにかそういうおもちゃを見ているみたいだった。何が彼らをそこまでさせるのだろうか。冬に山に登るのはまだわかるような気がする。そこに山があるから夏だろうと冬だろうと登るのだろう。景色だって、そこから感じ取るものだって多分違う。けれど海があるからといって冬に波に乗りたくなるものなのだろうか。さっぱりわからなかった。冷たいだけで何も変わらない気がするのに。
 でも、私だって同じなのかもしれない。泳ぎもしないのにたつきからのたった一言で海に来ている私のことも彼らには理解できないだろう。
 サーファーから目を逸らして、波打ち際ギリギリのところで遊んでいるたつきの後ろ姿をぼんやり眺める。スカートの裾をひらひら遊ばせながら描いた文字を波に消させてみたり、流れ着いている海藻を突いてみたり、何が楽しいのかわからない動きをずっと繰り返していた。
 ねぇ、とたつきの背中に呼びかける。波の音が充満していてもきちんと届いたようで、彼女が私を見る。遮るもののない瞳と目が合って、メガネをかけていないことに今更気づいた。
「なんでさ、私を誘ったの?」
 私たちそんなに仲良くなかったじゃん。と言外に含ませる。たつきとは高校一年から二年にかけて同じグループに所属していた。卒アルを開くと仲良さそうに写っている写真を見つけることもできる。でもそれだってほかにもう三人いたから成り立っていた関係だった。私たち二人きりでどこかに遊びに行ったことなんていままで一回もない。それに三年生の時にクラスが別れるともっと疎遠になった。私は美代子と、たつきは優香とそれぞれつるんでいた。すれ違ったら少し話すくらいはしたかもしれない。もうあんまり覚えてないけど。
 沖から強い風が吹いてくる。たつきの長い髪が後ろから煽られて、表情が隠れた。かろうじて見えた口元はうっすら弧を描いているようだった。
「なんでだと思う?」
 わからないから聞いているのに、めんどくさい質問で返されて少しむっとする。こういう、質問に質問で返してくるのは好きじゃない。睨みつけるように見つめても、たつきはそれきり口を開かなかった。しばらく無言で向かい合っていたけれど、ふいに興味を失ったようにたつきが海に向き直る。その時また沖から風が吹いて砂を巻き上げた。細かい礫が襲ってくる。顔を腕で庇っている間にたつきは海の中に足を進めていた。
 スニーカーが見えなくなって、くるぶしが見えなくなって、ふくらはぎの辺りまで見えなくなった。ついさっきまで揺れ動いていたはずのスカートが窮屈そうに足に絡まっていく。
「たつき」
 何かの冗談だと思って咎めるような声で呼んだ。たつきは少し止まって私の方を見たけどすぐ沖に向き合ってまた歩きだす。
「たつき!」
 私の声が思ったより響いたのか、遠くの方で浮かんでいたサーファーたちが何事か、と岸の方に近寄ってきた。それなのにたつきはどんどん私から離れていく。
 厚手のコートを着ていても寒い冬の日に海に入るだなんて信じられない。ここでやっと私の足はたつきを追うために動き出した。それでも波打ち際ギリギリで躊躇う。だって嫌だった。雨で靴が濡れるのも嫌なのに、どうして自分から冬の海に足を踏み入れなきゃいけないのか。
 たつきは波打ち際で立ち止まった私を見ながら後ろ向きに進んでいく。その姿はもう腰のあたりまで波に埋まっていた。彼女が着ているショート丈のアウターが水面ギリギリのところで揺れ動く。やはり寒いのだろう、顔は真っ白で唇は紫色に染まっていた。
(バッカじゃないの!?)
 湧き上がった怒りに任せて足を一歩前に踏み出した。足元で音を立てて水が浮き上がった。あっという間に海水が染み込んでくる。凍えるような冷たさだ。靴下が水を吸って重たく張り付く。
(絶対に新しい靴を買わせてやる)
 波をかき分けるように歩かないと進めない。砂浜と違って大きい石でもあるのか、足元がひどく不安定だった。一歩がどんどん重くなる。お気に入りの靴だったのに。靴どころかズボンの裾も張り付いてきて不快だった。
 たつきを睨みつけながら一歩ずつ足を進めていく。どんどん深くなる上に、波もどんどん高くなっていくように感じる。足の先の方なんてもう感覚がない。それでもどうにか足の付け根から動かすようにして、無理矢理たつきのところまでたどり着いた。どうして私がこんなことをしているのか。たつきからの誘いに軽率に「いいね」と応えた過去の自分を呪う。
「帰るよ」
 びっくりしたような顔のたつきの手を引きながら砂浜の方へ戻る。軽く水面に浸かっていた手は氷のように冷たくて、私の熱が吸い取られていくようだった。後ろから波に押されて何回か転びそうになったけど、意地で耐えた。このたつきの前でみっともないところは見せたくなかった。
 信じられないくらい自分で足を動かしている感覚がない。脳からの指令はきちんと通っているようで動くことには動く。が、足が地面に着いた途端、力が抜けて崩れ落ちそうになる。私よりも長く浸かっているたつきも同じみたいで、波に触れないところまで戻るのにものすごい時間がかかった。さらに追い討ちをかけるように冷たい風が吹いて、体の震えが止まらない。様子を窺っていたらしいサーファーが追いついてきて、着替えが買える場所とか体を温められる場所とか色々教えてきた。ついでに説教のようなものまでしてくる。善意で伝えてくれていることなんてわかりきっていたけれど、どう見ても修羅場なんだから放っておいてほしかった。今この状況で何か言えるのは私だけのはずだ。口を挟まないでほしかった。
 濡れた靴と服で車まで戻る。一歩踏み出すごとにグチュ、だとか、ガポッ、だとか音が聞こえてきて煩わしかった。
「次やるときは私を巻き込まないでね」
 後ろも見ないまま話しかける。何も答えないかと思ったけど予想に反して、馬鹿みたいに明るい声が返ってきた。
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 寒いからなのか、声が震えているように聞こえた。
「そんなことしてほしいんだったら私じゃない子を誘えばよかったじゃん」
「もう、誘った」
「へぇ?」
「予定が合えば行きたいね、とか、冬の海なんて嫌、とかそんなんばっか! いっつも私の都合も考えずに誘ってくるくせに!」
「ははは! じゃあアンタが望む言葉なんてどこにもないじゃん!!」
 かわいそうに! と笑い飛ばす。普段全く連絡を取らない私に声をかけるくらい切羽詰まっていたのに、求める言葉は得られない。この子が憐れで、かわいそうで、かわいかった。
「性格わる!」
「アンタのあんな一言でついてきてあげた私に言う言葉じゃなくない?」
 愉快だった。
 車に戻ると後部座席からブランケットやカイロや着替え、USBでつくタイプのストーブが出てきた。魔法瓶に入ったスープも。全部、二人分。
 なんだ、死ぬ気なんて初めからなかったのか。安心したような呆れたような感情がため息になって出ていった。
 後部座席の部分を全部フラットにして座り込む。暖房を最大風力でかけているうえに、たつきのスマホと車内スピーカーがブルートゥースで接続されて曲がかかり、少しうるさかった。
「てか関係ない私に八つ当たりしないでよ」
「え?」
 居心地のいい座り方を模索していたたつきがきょとんとした顔で聞き返してきた。
「傷ついたから傷つけたくなったんでしょ? 面倒な性格してんね、アンタ」
「……私、そこまで考えてなかったんだけど……」
 こわ……、となぜか私が引かれた。物理的にも距離を取られる。解せなかった。
「はぁ!? 考えなしにあそこまでしでかしたアンタの方が怖いでしょうが!!」
 殴る真似をすると、きゃーと声をあげながら避ける。なんだか高校生の時に戻ったようなノリに二人で顔を見合わせて小さく笑った。
「ねぇ、なんでこの曲の並びなの?」
 ガンガンに暖房を効かせているのに全然あたたかくなってる気がしない。魔法瓶に入っているスープだけがあたたかそうに湯気を立てている。冷えた体には熱すぎてまだ飲めそうになかった。ブランケットの中に手足をぜんぶ隠しながら、行きの時から気になっていたことを聞く。
「え? 知らない」
「アンタの好きな曲とかじゃないの?」
「全然。デイリーランキングトップ百とか流してる」
「……なんだ。じゃあ私が聞きたい曲にしていい?」
「いいよ」
 私のスマホとスピーカーを接続して、高校生の時に流行っていてよく聞いていた曲を流す。
 軽く口遊むたつきの表情は少しほころんでいるように見えて。
(曲の趣味が変わったわけじゃなかったのか)
 そのことがなんだか少し気分良かった。