電車を降りると1月の冷気が頬を掠めて行く。
「うう。」
短く唸ったのは季節への抗議では無くて、帰り道を歩くことになる自分への励ましだ。同じような人達と共に駅のホームを出口へと急ぐ。歩いての帰り道は10分ほど掛かる。マイホームを購入した時はいい距離だと思ったのだが、歳を取ると共にこんなことを思うようになった。
「もう少し短くならんのか。」
かといって自転車を使おうものなら、冷気の鋭さは半端なくなる。冬の稲妻がごとく、頬だけでなく身体を貫いていくだろう。アリスの名曲を口ずさみながら、家への道へ足を進める。
♪ あなたは稲妻のように 私の身体を 突き抜けた
ヨチヨチと帰り道を急ぐ。ヨチヨチはオーバーだけれどここ2年ほどは両足の脹脛が痛むのと、足裏が痺れるのとで歩くのが難儀なのだ。
家までの道は真っすぐで曲がり角などはない。人に説明するのは簡単な道のりだけれど、誰かを招く事ももうしばらくしていない。昔は何人の同僚がこの道を歩いたことだろう。延べで100人は超えているはずだ。妻は手料理が上手かったのだ。
途中でコンビニに寄ってから、ようやく家にたどり着く。ポケットから鍵を取り出して、玄関の扉を開ける。
「ただいまぁ~。」
お帰りなさい。
妻には生返事を返し、私は急いでストーブの電源を入れる。
相変わらず寒がりね。
揶揄う妻にも答えずにコートを脱いでコート掛けにかけ、洗面所でうがいをしてから手を洗う。私が風邪を引くとすると、いつも喉から調子がおかしくなる。だからうがいは欠かすことが出来ない。
リビングに戻り私は自分でご飯を茶碗によそうと、妻が味噌汁を出してくれる。
お疲れ様でした。
湯気が立つ味噌汁に手をつける。両手で椀を持つと手のひらから温かさが伝わってくる。だがそれは手先を温めてくれるだけで、身体までは温めてはくれない。椀を持ち上げて口元に運ぶ。椀の端を下唇で支え、静かに口の中に流し込む。
「ああ~。」
一瞬は熱いと感じるが、実に美味い。喉を通って腹の中まで温かさが伝わってくる。椀をテーブルに戻し箸を差し入れる。
「なんだ、今日はわかめじゃないのか。」
今日はね、がごめ昆布にしてみました。
不満を伝える私の心に妻の優しい声が響く。一年前、長く連れ添った妻の由美が亡くなった。すい臓癌で唐突に逝ってしまった。由美の四十九日以来、米は夜の内に1号弱炊いておいて朝と晩に食べる。味噌汁も夜のうちに作っておく。
由美に習った通り、煮干しで出汁を取り、味噌を混ぜて汁だけ作っておく。味噌は昔から神州一味噌だ。由美も好きだったし私の好きだ。昔はテレビでもコマーシャルをしていたのだが、最近はとんと見なくなってしまった。時代は流れながら変わって行く。それに付いていけない自分が居る。
味噌汁は朝晩に温めてから、そこに乾燥わかめや乾燥のがごめ昆布、乾燥野菜等を入れる。
チン。
コンビニで買って来たさばの塩焼が温め終わる。副菜としてひじきの煮物を買ってみた。
それじゃ、お野菜が足りないでしょうに。
心に響く由美の声が温かに私を咎める。
「そうね。すいませんねぇ。」
もう私も明日で定年だ。
「永かったなぁ。」
いやですよ。まだこれからじゃないですか。
そうかな。なら味噌汁に温めて貰える季節を、後何度かは経験できるのか。
窓の外に目をやると、チラチラと雪が降って来た。
寒いはずだ。
食事を終えた私はカーテンを閉め、後片付けに入った。
確かに味噌汁は身体を温めてはくれる。だが心の底の部分を温めてくれることは無い。その底の部分には由美が居るからだ。彼女の言葉を想定しての自問自答は、いつまで続けられるだろう。そろそろ記憶の中のボキャブラリーも枯渇してきた。
もっと君の言葉をちゃんと聞いておくべきだったな。
「そうよ、いつも心ここに在らずだったんだから。」
「えっ?」
ハッとして顔を上げる。だが勿論そこには誰も居ない。
ああ、そうなんだな。君はたまにこうして出てきてくれるんだ。
そう思うと私はこれからの人生に楽しみが沸いて来た。本当に極たまにでいい。由美から言葉が貰えるのなら、今後の人生に光が見える。恐らくだが彼女のレシピ通り、味噌汁を作っていれば願いは叶うのではないか。そう思いことに決めて、私は風呂に湯を貯めに行った。
たまにはちゃんと料理してくださいね。
「はいはい、分かったよ。」
由美が生きていた頃は料理など無縁だった。男子厨房に入らず。それを全うしてきたのだ。
じゃあ野菜炒めからでも始めてみようか。
私は明日買うべきものを頭に思い浮かべながら、湯が貯まるのを待つことにした。