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天界・宵の宮(2)

ー/ー



 その夜、ユージは夢を見た。
 立派な身なりをした何処かの王族と思しき男が、自分に向けて何かを必死に訴えかけていた。
 しかし、びゅうびゅうという風の音に邪魔されて、ユージの耳にはその人の声が全く届かなかった。
 「すみません、声が聞こえないのでもっと近くに来てもらえませんか?」
 ユージはその男に呼びかけたが、ユージの声もまた相手には届いていないようだった。
 やがて、己の言葉がユージに全く伝わっていないと悟ったのか、男は苦く笑うと力なく首を横に振った。そして、何とも言えない悲し気な目でユージを見ると、踵を返してとぼとぼと立ち去って行った。
 男の姿が見えなくなった後、ユージの胸には罪悪感が苦く残されただけだった。

 
 翌朝、目が覚めるとジンと水蓮は居なかった。
 (……なんか変な夢見た)
 ユージはベッドに横たわったまま、くしゃくしゃと頭を掻いた。
 身体を動かすと依然としてひりつくような痛みがあるが、それでも昨日より少しは和らいでいるようだ。
 (しかし、参った)
 ユージは雄弁な溜息をついた。
 (こんな状態じゃあ、研究も何もあったもんじゃないな)
 不本意ながら、天界での残りの時間は怪我の回復に充てるしかなさそうだ。
 (それにしても)
 と、ユージは改めて昨日のことを思い返した。
 昨日、ジンには空を飛んでいる最中に遭遇した異変のあらましを聞いてもらった。ジンはいつものようにユージの話を黙って聞いてくれたが、
 「話はわかった」
 と言っただけで、それについて何の見解も示してくれなかった。
 いつもとは違うジンの態度に、ユージは言いようのない不安を感じていた。
 そしてあの時、ユージには見えていた龍が飛天には見えていなかったことも気になっていた。何故なら、飛天は、
 「天界に龍はいないよ?」
 とも言っていたのだ。
 (俺は、居るはずもない龍の幻を見たとでもいうのか?でも)
 龍の咆哮を確かに聞いて意識まで飛ばされた身としては、その姿が幻影とはどうしても思えなかった。
 そこへ、お盆を持ったルシアが顔を見せた。
 「ユージさん、お加減は如何ですか?」
 「あっ、大司祭様」
 ユージは反射的に起き上がろうとして、身体の痛みに息を詰まらせた。
 「あらあら、急に動いてはいけませんよ。それから、わたくしのことはルシアで結構です」
 ルシアは優しい声でユージを諭すと、持参したお盆をサイドテーブルに置いた。見ると、そこには野菜のスープが入った皿と丸いパンが載せられている。
 「何もありませんが、お食事をお持ちしました。ご自分で食べられそうですか?」
 「あ、はい。ゆっくりなら動けますので」
 ルシアの問いに、ユージは即答した。実のところ、この答えは彼の希望的観測だったけれども。
 「わかりました。では、ご自分のペースで無理のない範囲でお召し上がり下さいね」
 にっこりと微笑んで立ち去ろうとしたルシアに、ユージは思い余って問いかけた。
 「ルシア様、教えて下さい。天界に龍はいないのですか?」
 ユージの問いに、ルシアは訝し気に眉根を寄せた。
 「……何故、魔界人のあなたがそのようなことを訊くのです?」
 ユージは昨日、ジンに聞き取ってもらったのと同じ話をルシアに打ち明けた。そして、
 「飛天は天界に龍はいないと言っていました。それなら僕が見たものは何だったのでしょう?」
 と、畳みかけた。
 何でもいいから、このことに対する答えが欲しかった。
 聞き終えたルシアは、
 「そうですか、そのようなことが」
 厳しい表情で細く息をつき、一度目を伏せた。そのまま暫し沈黙した後、
 「……ユージさん。あなたには事実のみをお伝えしますね」
 ルシアは強い意思を込めて真直ぐにユージを見つめた。
 「かつて、龍は天界全土に生息しておりました。しかし、前の戦乱の時代に彼らは滅亡したのです。正確には1体だけ生き残りましたが、その龍は天界を捨てて中道界に降りました。そのため、現在の天界に龍は存在致しません」
 ルシアは、きっぱりと言い切った。そして、ユージに重ねての質問を許さなかった。


 夕方になって、ジンは暁の宮の神官たちを伴って姿を見せた。見ると、神官のひとりが担架を持参している。
 「痛みはどうだ?少しはましになったか?」
 ジンの問いかけに、ユージは大きく頷いた。
 「正直まだ動くと痛いですけど、食事もとれましたし、昨日よりはいいと思います」
 「よし。じゃあ、暁の宮に移動しよう」
 ジンの合図で、神官たちはユージを慎重に担架に乗せた。
 「暁の宮へは『鏡の道』で移動します。何かありましたら遠慮なく声を掛けて下さい」
 「はい。お手数をおかけします」
 介添の神官の気遣いに、ユージは少し頭を動かして会釈した。
 ユージを乗せた担架が救護室を出て廊下を進むと、そこにルシアの姿があった。その姿を認めた暁の宮の神官たちは皆一斉に首を垂れた。
 「皆さま、ご苦労様です」
 ルシアは神官たちに微笑みで応じ、ユージにも優しく声を掛けた。
 「ユージさん。どうぞお大事に」
 「はい。ルシア様、色々ありがとうございました」
 ルシアはユージに頷いて見せると、暁の宮の神官たちに目で合図した。それを受けて、再び神官たちは歩き始める。
 ジンもまた、ルシアに向けて右手を胸に当てて深く頭を垂れた後、仲間たちを追って足早に立ち去ろうとしていた。
 しかし、
 「ジン。少しいいですか?」
 思いがけず、ルシアに呼び止められた。
 「?はい」
 ジンは、神官たちに先に行くように指示を出すと、遠慮がちにルシアの傍らに立った。
 ちらりとルシアの顔を窺うと、いつもの穏やかな彼女とは全く異なる、厳しい表情を見せている。
 「……ルシア様。如何されましたか?」
 おずおずと問いかけると、ルシアは静かに口を開いた。
 「今朝、ユージさんから龍のお話を伺いました」
 その言葉で、ジンは全てを理解した。
 「そうですか、ルシア様のお耳にも」
 「あなたは、どう考えますか?」
 ルシアの問いに、ジンは微かに首を横に振った。
 「正直なところ、信じ難い思いです。しかし、ユージがいい加減な話をしているとも思えません――これはあくまでも私の印象ですが」
 ジンの言葉に、ルシアは同意するように頷いた。
 「このことは天導師様もご存じでしょうか」
 「はい。勝手ながら昨晩私から連絡を入れました。こういうことは、まずはヤンの耳に入れた方がよいと思いまして」
 「流石ですね。良い判断です」
 ジンの報告に、ようやくルシアの表情がほころんだ。ジンは自分の顔が紅潮するのを意識し、誤魔化すようにそっぽを向いた。
 「あの、それで、ヤンが言うには、魔法庁の方で龍の谷を調べてくれるそうです。その結果、もし問題があれば対処するとも」
 「そうですか。魔法庁が動いて下さるのは有難いことです」
 ルシアはほっとしたようにひとつ息をついた。
 「では、わたくし達宵の宮は魔法庁の報告を待ちながら、念のため空の動向に注視するように致しましょう」
 「ありがとうございます。暁の宮としての対応はサウル大司祭様の指示を仰ぎたいと思います」
 「わかりました。そちらはお任せします」
 「はっ」
 ジンは右手を胸に当て、深く頭を垂れた。
 「それにしても、ただ空を飛んでいただけの方に何者かが危害を加えたとしたならば、これは前代未聞の由々しき事態です――あの戦乱の時代でさえ空の安全だけは固く守られていたというのに」
 ルシアは再び厳しい表情で言葉を継いだ。
 「天界の空は誰もが安心して利用出来る場所。これは古の時代から変わらぬ我々天界人の誇りです。何としても守り通さなければ……」
 

 一方、魔法庁ではヤンの指示の下、人手をかけて丁寧に龍の谷の調査を行っていた。
 龍の谷はその名が示す通り龍の本拠地にして、前の戦乱の折に龍の全数が王族もろとも生命を落とした場所として知られていた。
 龍は聖なる獣とも呼ばれ、神に近い存在と言われていた生き物だ。誇り高く美しいその姿で天界の空を悠々と渡る様は、まさに神の姿そのもののようでもあった。
 共存関係であったはずの人間の手によって理不尽にも滅ぼされた彼らの怒りと悲しみは凄まじく、彼らがいなくなった龍の谷は強大な怨嗟のエネルギーが幾重にも渦巻くばかりの危険な場所になっていた。この事態を憂えた魔法庁の魔法使いと二大神殿の神官たちが力を合わせ、長い時間をかけて龍の魂を慰め、少しずつ怨嗟を解いてきた歴史があった。
 そんな彼らの長年の努力が実を結び、近年では龍を懐かしむ天界人たちが龍の谷を訪問し、花を手向けることが出来るまでに浄化が進んでいたのだ。
 その矢先の、今回の『事件』だ。
 ヤンは昨夜、中道界に降りた天界最後の龍に連絡を取り、今回の異変について意見を求めた。すると、
 「そんなの、ありえないす」
 と、きっぱり言われてしまった。
 「生きてる龍は俺しかいませんし、亡くなった方で残留思念を顕在化させられるのって、王族の方々ぐらいなもんだと思うんすよね。でも、そうだとしてもあん時からかなり時間経ってますし、よほどのきっかけがない限りそんな風にはならないんじゃないすかね」
 ここで龍は言葉を区切った。
 「それに、ヤンさんのお話だと、飛んでた人って魔界人だっていうじゃないですか。魔界の人が俺たちに干渉出来る力があるとは思えませんし、ましてやただ飛んでただけの人に誇り高い龍が吼えかけるとか、ますますありえないす」
 完全否定である。
 (状況的には確かにあいつの言う通りなんだが、ユージも嘘を言ってはおるまいよ)
 ヤンはひとり上空から龍の谷を見下ろし、調査の様子を見守っている。
 (龍の側が何もないとすれば、残る可能性としてはユージが魔界人にしては感性の強い子で、たまたま龍の残り香を拾った、といったところか――でもなあ)
 それだと、ユージだけが龍の幻を見たところまでは合点がいくが、その後の咆哮の衝撃を食らった点にはどうしても繋がらない。
 「ううむ」
 ヤンは小さく唸り、自らの顎を撫でた。
 正直なところ、ヤン自身も考えてみたところで結局よくわからない、としか言いようがないのだ。
 (ともあれ、ここまで皆で頑張って来たものが、後戻りするような事態だけは避けねばなるまい)
 ヤンの胸の中にあるのは、そのことだ。
 それゆえに今回の異変を魔界人の気のせいで片付けることは、彼には出来なかったのだ。

 魔法使いたちの調査はユージが魔界に帰った後も続けられたが、結局何の異変も発見出来なかった。
 そして、天界の空は、昔と変わらず自由で安全な場所であり続けている。
 


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 「すみません、声が聞こえないのでもっと近くに来てもらえませんか?」
 ユージはその男に呼びかけたが、ユージの声もまた相手には届いていないようだった。
 やがて、己の言葉がユージに全く伝わっていないと悟ったのか、男は苦く笑うと力なく首を横に振った。そして、何とも言えない悲し気な目でユージを見ると、踵を返してとぼとぼと立ち去って行った。
 男の姿が見えなくなった後、ユージの胸には罪悪感が苦く残されただけだった。
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 (しかし、参った)
 ユージは雄弁な溜息をついた。
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 不本意ながら、天界での残りの時間は怪我の回復に充てるしかなさそうだ。
 (それにしても)
 と、ユージは改めて昨日のことを思い返した。
 昨日、ジンには空を飛んでいる最中に遭遇した異変のあらましを聞いてもらった。ジンはいつものようにユージの話を黙って聞いてくれたが、
 「話はわかった」
 と言っただけで、それについて何の見解も示してくれなかった。
 いつもとは違うジンの態度に、ユージは言いようのない不安を感じていた。
 そしてあの時、ユージには見えていた龍が飛天には見えていなかったことも気になっていた。何故なら、飛天は、
 「天界に龍はいないよ?」
 とも言っていたのだ。
 (俺は、居るはずもない龍の幻を見たとでもいうのか?でも)
 龍の咆哮を確かに聞いて意識まで飛ばされた身としては、その姿が幻影とはどうしても思えなかった。
 そこへ、お盆を持ったルシアが顔を見せた。
 「ユージさん、お加減は如何ですか?」
 「あっ、大司祭様」
 ユージは反射的に起き上がろうとして、身体の痛みに息を詰まらせた。
 「あらあら、急に動いてはいけませんよ。それから、わたくしのことはルシアで結構です」
 ルシアは優しい声でユージを諭すと、持参したお盆をサイドテーブルに置いた。見ると、そこには野菜のスープが入った皿と丸いパンが載せられている。
 「何もありませんが、お食事をお持ちしました。ご自分で食べられそうですか?」
 「あ、はい。ゆっくりなら動けますので」
 ルシアの問いに、ユージは即答した。実のところ、この答えは彼の希望的観測だったけれども。
 「わかりました。では、ご自分のペースで無理のない範囲でお召し上がり下さいね」
 にっこりと微笑んで立ち去ろうとしたルシアに、ユージは思い余って問いかけた。
 「ルシア様、教えて下さい。天界に龍はいないのですか?」
 ユージの問いに、ルシアは訝し気に眉根を寄せた。
 「……何故、魔界人のあなたがそのようなことを訊くのです?」
 ユージは昨日、ジンに聞き取ってもらったのと同じ話をルシアに打ち明けた。そして、
 「飛天は天界に龍はいないと言っていました。それなら僕が見たものは何だったのでしょう?」
 と、畳みかけた。
 何でもいいから、このことに対する答えが欲しかった。
 聞き終えたルシアは、
 「そうですか、そのようなことが」
 厳しい表情で細く息をつき、一度目を伏せた。そのまま暫し沈黙した後、
 「……ユージさん。あなたには事実のみをお伝えしますね」
 ルシアは強い意思を込めて真直ぐにユージを見つめた。
 「かつて、龍は天界全土に生息しておりました。しかし、前の戦乱の時代に彼らは滅亡したのです。正確には1体だけ生き残りましたが、その龍は天界を捨てて中道界に降りました。そのため、現在の天界に龍は存在致しません」
 ルシアは、きっぱりと言い切った。そして、ユージに重ねての質問を許さなかった。
 夕方になって、ジンは暁の宮の神官たちを伴って姿を見せた。見ると、神官のひとりが担架を持参している。
 「痛みはどうだ?少しはましになったか?」
 ジンの問いかけに、ユージは大きく頷いた。
 「正直まだ動くと痛いですけど、食事もとれましたし、昨日よりはいいと思います」
 「よし。じゃあ、暁の宮に移動しよう」
 ジンの合図で、神官たちはユージを慎重に担架に乗せた。
 「暁の宮へは『鏡の道』で移動します。何かありましたら遠慮なく声を掛けて下さい」
 「はい。お手数をおかけします」
 介添の神官の気遣いに、ユージは少し頭を動かして会釈した。
 ユージを乗せた担架が救護室を出て廊下を進むと、そこにルシアの姿があった。その姿を認めた暁の宮の神官たちは皆一斉に首を垂れた。
 「皆さま、ご苦労様です」
 ルシアは神官たちに微笑みで応じ、ユージにも優しく声を掛けた。
 「ユージさん。どうぞお大事に」
 「はい。ルシア様、色々ありがとうございました」
 ルシアはユージに頷いて見せると、暁の宮の神官たちに目で合図した。それを受けて、再び神官たちは歩き始める。
 ジンもまた、ルシアに向けて右手を胸に当てて深く頭を垂れた後、仲間たちを追って足早に立ち去ろうとしていた。
 しかし、
 「ジン。少しいいですか?」
 思いがけず、ルシアに呼び止められた。
 「?はい」
 ジンは、神官たちに先に行くように指示を出すと、遠慮がちにルシアの傍らに立った。
 ちらりとルシアの顔を窺うと、いつもの穏やかな彼女とは全く異なる、厳しい表情を見せている。
 「……ルシア様。如何されましたか?」
 おずおずと問いかけると、ルシアは静かに口を開いた。
 「今朝、ユージさんから龍のお話を伺いました」
 その言葉で、ジンは全てを理解した。
 「そうですか、ルシア様のお耳にも」
 「あなたは、どう考えますか?」
 ルシアの問いに、ジンは微かに首を横に振った。
 「正直なところ、信じ難い思いです。しかし、ユージがいい加減な話をしているとも思えません――これはあくまでも私の印象ですが」
 ジンの言葉に、ルシアは同意するように頷いた。
 「このことは天導師様もご存じでしょうか」
 「はい。勝手ながら昨晩私から連絡を入れました。こういうことは、まずはヤンの耳に入れた方がよいと思いまして」
 「流石ですね。良い判断です」
 ジンの報告に、ようやくルシアの表情がほころんだ。ジンは自分の顔が紅潮するのを意識し、誤魔化すようにそっぽを向いた。
 「あの、それで、ヤンが言うには、魔法庁の方で龍の谷を調べてくれるそうです。その結果、もし問題があれば対処するとも」
 「そうですか。魔法庁が動いて下さるのは有難いことです」
 ルシアはほっとしたようにひとつ息をついた。
 「では、わたくし達宵の宮は魔法庁の報告を待ちながら、念のため空の動向に注視するように致しましょう」
 「ありがとうございます。暁の宮としての対応はサウル大司祭様の指示を仰ぎたいと思います」
 「わかりました。そちらはお任せします」
 「はっ」
 ジンは右手を胸に当て、深く頭を垂れた。
 「それにしても、ただ空を飛んでいただけの方に何者かが危害を加えたとしたならば、これは前代未聞の由々しき事態です――あの戦乱の時代でさえ空の安全だけは固く守られていたというのに」
 ルシアは再び厳しい表情で言葉を継いだ。
 「天界の空は誰もが安心して利用出来る場所。これは古の時代から変わらぬ我々天界人の誇りです。何としても守り通さなければ……」
 一方、魔法庁ではヤンの指示の下、人手をかけて丁寧に龍の谷の調査を行っていた。
 龍の谷はその名が示す通り龍の本拠地にして、前の戦乱の折に龍の全数が王族もろとも生命を落とした場所として知られていた。
 龍は聖なる獣とも呼ばれ、神に近い存在と言われていた生き物だ。誇り高く美しいその姿で天界の空を悠々と渡る様は、まさに神の姿そのもののようでもあった。
 共存関係であったはずの人間の手によって理不尽にも滅ぼされた彼らの怒りと悲しみは凄まじく、彼らがいなくなった龍の谷は強大な怨嗟のエネルギーが幾重にも渦巻くばかりの危険な場所になっていた。この事態を憂えた魔法庁の魔法使いと二大神殿の神官たちが力を合わせ、長い時間をかけて龍の魂を慰め、少しずつ怨嗟を解いてきた歴史があった。
 そんな彼らの長年の努力が実を結び、近年では龍を懐かしむ天界人たちが龍の谷を訪問し、花を手向けることが出来るまでに浄化が進んでいたのだ。
 その矢先の、今回の『事件』だ。
 ヤンは昨夜、中道界に降りた天界最後の龍に連絡を取り、今回の異変について意見を求めた。すると、
 「そんなの、ありえないす」
 と、きっぱり言われてしまった。
 「生きてる龍は俺しかいませんし、亡くなった方で残留思念を顕在化させられるのって、王族の方々ぐらいなもんだと思うんすよね。でも、そうだとしてもあん時からかなり時間経ってますし、よほどのきっかけがない限りそんな風にはならないんじゃないすかね」
 ここで龍は言葉を区切った。
 「それに、ヤンさんのお話だと、飛んでた人って魔界人だっていうじゃないですか。魔界の人が俺たちに干渉出来る力があるとは思えませんし、ましてやただ飛んでただけの人に誇り高い龍が吼えかけるとか、ますますありえないす」
 完全否定である。
 (状況的には確かにあいつの言う通りなんだが、ユージも嘘を言ってはおるまいよ)
 ヤンはひとり上空から龍の谷を見下ろし、調査の様子を見守っている。
 (龍の側が何もないとすれば、残る可能性としてはユージが魔界人にしては感性の強い子で、たまたま龍の残り香を拾った、といったところか――でもなあ)
 それだと、ユージだけが龍の幻を見たところまでは合点がいくが、その後の咆哮の衝撃を食らった点にはどうしても繋がらない。
 「ううむ」
 ヤンは小さく唸り、自らの顎を撫でた。
 正直なところ、ヤン自身も考えてみたところで結局よくわからない、としか言いようがないのだ。
 (ともあれ、ここまで皆で頑張って来たものが、後戻りするような事態だけは避けねばなるまい)
 ヤンの胸の中にあるのは、そのことだ。
 それゆえに今回の異変を魔界人の気のせいで片付けることは、彼には出来なかったのだ。
 魔法使いたちの調査はユージが魔界に帰った後も続けられたが、結局何の異変も発見出来なかった。
 そして、天界の空は、昔と変わらず自由で安全な場所であり続けている。