真冬の母獅子
ー/ー 西暦(ユリウス暦)一一九四年、冬を迎えたヨーロッパは寒さの中にあった。中でも、その日のマインツは殊の外、寒かった。その日とは、いつなのか? それは囚われのイングランド国王リチャード一世が、彼を幽閉している神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ六世と会談した日だ。大広間の室温は昼になっても十度を下回ったままで、厚着をしているにもかかわらずハインリヒ六世は薪が燃え盛る暖炉前から離れようとしなかった。
その様子を見てリチャード一世はニヤリと笑った。
「この程度の寒さで震え上がるとは、鍛え方が足りないようだな。教えてやろう。筋肉は熱を生む。筋肉が足りないから、寒さに打ち勝つ熱が不足するのだ」
講釈を垂れたリチャード一世は肌着の袖を捲り力瘤を作って見せた。マッチョ自慢なので、ことある毎に鍛えた体を見せつける癖がある。それは相手が、自分を捕らえている人間でも変わらない。彼を拘禁中の神聖ローマ皇帝は言った。
「それだけのパワーがあって捕まるんだから世の中はおかしいね」
リチャード一世は、それを認めつつ、自分なりの別の考えを主張した。
「世の中が変なのは確かだが、これだけのパワーがあっても捕まったというのには反論したい。あのとき俺は、変装のために体の肉を減らしていたんだ。筋骨隆々の巨漢は目立つ。俺を狙っていると噂のオーストリア公レオポルト五世の領内を通過するのだから、見つからないようにしなければならなかった。そこで、あえて鍛錬を中断していたのさ、あえてね」
第三回十字軍の際リチャード一世に恥をかかされたレオポルト五世は復讐の機会を窺っていた。そんなときにまんまと自領内を通りかかっただから、これを逃す手はない。第三回十字軍の英雄で獅子心王を謳われたリチャード一世でも鍛えていない状態の筋肉だとレオポルト五世の部下たちの襲撃に対応しきれなかった。かくしてリチャード一世はレオポルト五世の虜囚となり、そこからハインリヒ六世へ譲渡されたのである。
しかし、その虜囚生活が終わる時が来た。リチャード一世の母、イングランド王妃アリエノール・ダキテーヌが、多額の身代金を持ってマインツを訪れたのだ。
繰り返しになるが、この年のヨーロッパは非常に寒かった。とりわけマインツ周辺は酷く冷たく、さらにリチャード一世解放の日は朝から大雪だった。その雪の中を馬に乗り、御年七十二歳の老婆は進んだ。溺愛する息子、獅子心王リチャード一世のために彼女は必至の思いで目の飛び出るような身代金を用意してきている。その苦労が、もうすぐ報われるのだ。彼女は馬を急がせた。
人質と身代金の交換が終わった。無事に解放されたリチャード一世は、大柄な体を屈め母に礼を言った。
「母上様、助かりました。ありがとうございます」
最後まで言うか言わないか、ギリギリのところでアリエノール・ダキテーヌは息子の頬を引っ叩いた。反十字軍の英雄サラディンからも武勇を賞賛された獅子心王は半回転して転び、雪の中に頭を突っ込んで倒れた。顔を雪だらけにして起き上がった息子に、母は言った。
「いつまで寝ているの。寒いんだから、早く帰りますよ」
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西暦(ユリウス暦)一一九四年、冬を迎えたヨーロッパは寒さの中にあった。中でも、その日のマインツは殊の外、寒かった。その日とは、いつなのか? それは囚われのイングランド国王リチャード一世が、彼を幽閉している神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ六世と会談した日だ。大広間の室温は昼になっても十度を下回ったままで、厚着をしているにもかかわらずハインリヒ六世は薪が燃え盛る暖炉前から離れようとしなかった。
その様子を見てリチャード一世はニヤリと笑った。
「この程度の寒さで震え上がるとは、鍛え方が足りないようだな。教えてやろう。筋肉は熱を生む。筋肉が足りないから、寒さに打ち勝つ熱が不足するのだ」
講釈を垂れたリチャード一世は肌着の袖を捲り力瘤を作って見せた。マッチョ自慢なので、ことある毎に鍛えた体を見せつける癖がある。それは相手が、自分を捕らえている人間でも変わらない。彼を拘禁中の神聖ローマ皇帝は言った。
「それだけのパワーがあって捕まるんだから世の中はおかしいね」
リチャード一世は、それを認めつつ、自分なりの別の考えを主張した。
「世の中が変なのは確かだが、これだけのパワーがあっても捕まったというのには反論したい。あのとき俺は、変装のために体の肉を減らしていたんだ。筋骨隆々の巨漢は目立つ。俺を狙っていると噂のオーストリア公レオポルト五世の領内を通過するのだから、見つからないようにしなければならなかった。そこで、あえて鍛錬を中断していたのさ、あえてね」
第三回十字軍の際リチャード一世に恥をかかされたレオポルト五世は復讐の機会を窺っていた。そんなときにまんまと自領内を通りかかっただから、これを逃す手はない。第三回十字軍の英雄で獅子心王を謳われたリチャード一世でも鍛えていない状態の筋肉だとレオポルト五世の部下たちの襲撃に対応しきれなかった。かくしてリチャード一世はレオポルト五世の虜囚となり、そこからハインリヒ六世へ譲渡されたのである。
しかし、その虜囚生活が終わる時が来た。リチャード一世の母、イングランド王妃アリエノール・ダキテーヌが、多額の身代金を持ってマインツを訪れたのだ。
繰り返しになるが、この年のヨーロッパは非常に寒かった。とりわけマインツ周辺は酷く冷たく、さらにリチャード一世解放の日は朝から大雪だった。その雪の中を馬に乗り、御年七十二歳の老婆は進んだ。溺愛する息子、獅子心王リチャード一世のために彼女は必至の思いで目の飛び出るような身代金を用意してきている。その苦労が、もうすぐ報われるのだ。彼女は馬を急がせた。
人質と身代金の交換が終わった。無事に解放されたリチャード一世は、大柄な体を屈め母に礼を言った。
「母上様、助かりました。ありがとうございます」
最後まで言うか言わないか、ギリギリのところでアリエノール・ダキテーヌは息子の頬を引っ叩いた。反十字軍の英雄サラディンからも武勇を賞賛された獅子心王は半回転して転び、雪の中に頭を突っ込んで倒れた。顔を雪だらけにして起き上がった息子に、母は言った。
「いつまで寝ているの。寒いんだから、早く帰りますよ」