第3話 冷たい再会
ー/ー
惠美が乗り込んですぐバスは発車した。それから四十五分と少々は何もない道のり。
窓から見える灰色のアスファルト。無機質な車内表示。ガタガタ揺れる車内。無言で俯く乗客。合成音の車内アナウンス。耳障りなブザー。大きな金属音を立てて開閉する扉。その扉から吹き込む寒気と流れ込む雪片。冷たい手すり。破れて剥がれかけの小さく古びた広告。水滴を浮かべた氷のような窓。小雪のちらつく鼠色の低い雲。ゴムが痛んで嫌な音を立てて回るワイパー。でこぼこした崖地の一車線道路。効かない暖房。車内アナウンス。ブザー。木々の狭間に見える闇色の海。揺れる道路。吹き込む寒気と雪。社内表示。乗客が消え寒々とした車内。海、ワイパー。破れた広告。氷の窓。雲。海。悲しみ。目的地到着を告げる車内アナウンス。
乗客のいないバスから一人でバスを降り、まだ小雪の舞うこの周辺をぐるり見渡して眺めてみても、全く記憶にない。季節の違いによる景色の違いが関係しているだけではないだろう。
もう一度よく辺りを見まわしてみる。夏には茂っていたような気もする木々もばっさりと剪定され、下生えもさっぱりと刈られている。アスファルトやタイルの敷き詰められた床の落ち葉も雪も丁寧に掃き清められており、敷地全体はとても手入れが行き届いている。
丁寧に整備されたそこはまるで静寂に包まれた公園のようだ。しかしここは人が憩うために作られた場所ではない。
ここでまた問題が現れた。肝心の目的の場所がわからない。当時のあらゆる記憶がおそろしくあいまいなのだから、入り口に掲示してある地図を見ても何の助けにもならない。ここはそのおそろしくあいまいな記憶を頼りに見つけるしかない。
しかし、三十分ほど当てもなくさまよってみたところで当然見つかるはずもなかった。あいあまいな記憶なぞを頼りにするものではなかったと、と惠美は腹を括って端から一つ一つ当たることにした。こうなったら見つけてやろうじゃん。そう思うと去年の夏以前の自分の活力がほんの少しだけ蘇ってきたような気がした。
そして一時間。この一帯を見まわしてあるものといえば、岩塊の群体。冷え切った岩、岩、岩…… 似たような色と似たような模様。全て似たような形に成形されている。どれもこれツルツルに磨かれ、一つ一つの端に小さな番号が記されて、すっかり冷たく無表情な花崗岩の塊を整列させた集まり。この中からたった一つの岩塊を探すと考えるといささか途方もない話に思えてきた。これまでの捜索によって正直なところ寒さと疲労でかなり参っている。凍えて手も足も痺れ身体も震えが来そうなほどだ。このままでは低体温症になりかねない。さっき入った売店兼休憩所で休んだ方がいい。先ほどまでの活力はどこ吹く風で、自分の衝動的な行いにうんざりする気持ちがもう惠美の中で生まれつつあった。
その時、ふと目の端に見覚えのある字が見えた、ような気がした。ハッとしてそれが見えた右手後方に振り返り、四歩五歩そこに向かって駆け寄る。そしてそれを見下ろしてその目を大きく見開いてしっかりと確かめてみる。
間違いない。忘れようもない。忘れるものか。横書きで彫られた見慣れた文字。大好きな文字。愛する人の名前。
多喜
群れなして整列する岩塊の一つには大きくそう刻まれていた。
立ち尽くす惠美。その足元には花崗岩でできた洋型横長の墓石。無機質な冷たい再会。
冷え切った石塊から厳然と恋人の死という現実を突き付けられ、惠美は改めて心の奥の奥の奥底まで絶望する。凍った刃物で心が切り裂かれるような心地がする。ふっと足許から地の底に落ちてしまいそうな錯覚を覚える。実際めまいがして倒れそうな感覚さえした。
無機質な恋人の証の冷たさに気圧され、しばらくは何も考えられず何も口に出せない。僅かに震える手で白いスプレーカーネーションを供え売店で買った線香を炊く。身を屈めると震えの止まらない手を合わせる。震えが止まらないのは寒さのせいだけではない。
頭の中の混乱はあの頃とほとんど変わっていない。次第に多喜の記憶が惠美の思考を支配しはじめる。
くるくると動いたと思ったらこちらをじっと見つめる大きな黒い瞳。長くて細い黒髪。小さな白い花が咲いたかのような笑顔。本の話が止まらなくなった時の少し興奮してワクワクした感じの声。眩しい笑い声。そっと握るときゅっと握り返してくれた手と細くて長い指。大好きだった読書に耽る時のまつ毛。口元から時折姿を見せる白く形の整った歯。背が低くて痩せぎすの身体。人目につかないところで急に後ろからしがみ付いてきた時の腕。そして薄い胸の感触。柔らかくて滑らかな肌。口づけを待つ艶やかな唇。額に口づけた時の髪の香り。抱きしめた細い腰。熱を帯びた身体。鎖骨につけた印。
瞳も、唇も、肌も、髪も手も指も爪もまつ毛も汗も笑顔も笑い声も心も愛も――
今はもうただの骨だ。
合わせた手を解き、膝と手をついて白い岩を見つめる惠美の瞳がみるみる潤む。囁き声が意図せず勝手に呻くように漏れ出す。
「骨、骨に、なっちゃった…… なく、なっちゃ、っ……っっ…… ほ……ね…………っ」
止まらない、涙が止まらない。あの日の海の途方もない絶望感にどこかしら似た、止めどない涙で溺れ死ぬんじゃないか、そう思わせるこの猛烈な胸の鈍痛は、本当に惠美を殺そうとしているかもしれない。
いや、いっそ殺して欲しい。
もし死んで多喜に逢えるのだとしたら、惠美は躊躇なく今ここで自ら命を絶つだろう。
あるいは、もう一生多喜には逢えないという苦悩を胸に抱き続ける定めなら、いっその事自分も死んで楽になりたい。何もない暗闇に消えていきたい。たとえそこに多喜がいなくても、今惠実が抱えるこの苦悩も一緒に消えてくれるだろうから。
【次回】 第4話 慟哭
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惠美が乗り込んですぐバスは発車した。それから四十五分と少々は何もない道のり。
窓から見える灰色のアスファルト。無機質な車内表示。ガタガタ揺れる車内。無言で俯く乗客。合成音の車内アナウンス。耳障りなブザー。大きな金属音を立てて開閉する扉。その扉から吹き込む寒気と流れ込む雪片。冷たい手すり。破れて剥がれかけの小さく古びた広告。水滴を浮かべた氷のような窓。小雪のちらつく鼠色の低い雲。ゴムが痛んで嫌な音を立てて回るワイパー。でこぼこした崖地の一車線道路。効かない暖房。車内アナウンス。ブザー。木々の狭間に見える闇色の海。揺れる道路。吹き込む寒気と雪。社内表示。乗客が消え寒々とした車内。海、ワイパー。破れた広告。氷の窓。雲。海。悲しみ。目的地到着を告げる車内アナウンス。
乗客のいないバスから一人でバスを降り、まだ小雪の舞うこの周辺をぐるり見渡して眺めてみても、全く記憶にない。季節の違いによる景色の違いが関係しているだけではないだろう。
もう一度よく辺りを見まわしてみる。夏には茂っていたような気もする木々もばっさりと剪定され、下生えもさっぱりと刈られている。アスファルトやタイルの敷き詰められた床の落ち葉も雪も丁寧に掃き清められており、敷地全体はとても手入れが行き届いている。
丁寧に整備されたそこはまるで静寂に包まれた公園のようだ。しかしここは人が|憩《いこ》うために作られた場所ではない。
ここでまた問題が現れた。肝心の目的の場所がわからない。当時のあらゆる記憶がおそろしくあいまいなのだから、入り口に掲示してある地図を見ても何の助けにもならない。ここはそのおそろしくあいまいな記憶を頼りに見つけるしかない。
しかし、三十分ほど当てもなくさまよってみたところで当然見つかるはずもなかった。あいあまいな記憶なぞを頼りにするものではなかったと、と惠美は腹を|括《くく》って端から一つ一つ当たることにした。こうなったら見つけてやろうじゃん。そう思うと去年の夏以前の自分の活力がほんの少しだけ蘇ってきたような気がした。
そして一時間。この一帯を見まわしてあるものといえば、岩塊の群体。冷え切った岩、岩、岩…… 似たような色と似たような模様。全て似たような形に成形されている。どれもこれツルツルに磨かれ、一つ一つの端に小さな番号が記されて、すっかり冷たく無表情な花崗岩の塊を整列させた集まり。この中からたった一つの岩塊を探すと考えるといささか途方もない話に思えてきた。これまでの捜索によって正直なところ寒さと疲労でかなり参っている。凍えて手も足も痺れ身体も震えが来そうなほどだ。このままでは低体温症になりかねない。さっき入った売店兼休憩所で休んだ方がいい。先ほどまでの活力はどこ吹く風で、自分の衝動的な行いにうんざりする気持ちがもう惠美の中で生まれつつあった。
その時、ふと目の端に見覚えのある字が見えた、ような気がした。ハッとしてそれが見えた右手後方に振り返り、四歩五歩そこに向かって駆け寄る。そしてそれを見下ろしてその目を大きく見開いてしっかりと確かめてみる。
間違いない。忘れようもない。忘れるものか。横書きで彫られた見慣れた文字。大好きな文字。愛する人の名前。
多喜
群れなして整列する岩塊の一つには大きくそう刻まれていた。
立ち尽くす惠美。その足元には花崗岩でできた洋型横長の墓石。無機質な冷たい再会。
冷え切った石塊から厳然と恋人の死という現実を突き付けられ、惠美は改めて心の奥の奥の奥底まで絶望する。凍った刃物で心が切り裂かれるような心地がする。ふっと足許から地の底に落ちてしまいそうな錯覚を覚える。実際めまいがして倒れそうな感覚さえした。
無機質な恋人の証の冷たさに気圧され、しばらくは何も考えられず何も口に出せない。僅かに震える手で白いスプレーカーネーションを供え売店で買った線香を炊く。身を屈めると震えの止まらない手を合わせる。震えが止まらないのは寒さのせいだけではない。
頭の中の混乱はあの頃とほとんど変わっていない。次第に多喜の記憶が惠美の思考を支配しはじめる。
くるくると動いたと思ったらこちらをじっと見つめる大きな黒い瞳。長くて細い黒髪。小さな白い花が咲いたかのような笑顔。本の話が止まらなくなった時の少し興奮してワクワクした感じの声。|眩《まぶ》しい笑い声。そっと握るときゅっと握り返してくれた手と細くて長い指。大好きだった読書に|耽《ふけ》る時のまつ毛。口元から時折姿を見せる白く形の整った歯。背が低くて痩せぎすの身体。人目につかないところで急に後ろからしがみ付いてきた時の腕。そして薄い胸の感触。柔らかくて滑らかな肌。口づけを待つ|艶《つや》やかな唇。額に口づけた時の髪の香り。抱きしめた細い腰。熱を帯びた身体。鎖骨につけた印。
瞳も、唇も、肌も、髪も手も指も爪もまつ毛も汗も笑顔も笑い声も心も愛も――
今はもうただの骨だ。
合わせた手を解き、膝と手をついて白い岩を見つめる惠美の瞳がみるみる潤む。囁き声が意図せず勝手に呻くように漏れ出す。
「骨、骨に、なっちゃった…… なく、なっちゃ、っ……っっ…… ほ……ね…………っ」
止まらない、涙が止まらない。あの日の海の途方もない絶望感にどこかしら似た、止めどない涙で溺れ死ぬんじゃないか、そう思わせるこの猛烈な胸の鈍痛は、本当に惠美を殺そうとしているかもしれない。
いや、いっそ殺して欲しい。
もし死んで多喜に逢えるのだとしたら、惠美は|躊躇《ちゅうちょ》なく今ここで自ら命を絶つだろう。
あるいは、もう一生多喜には逢えないという苦悩を胸に抱き続ける定めなら、いっその事自分も死んで楽になりたい。何もない暗闇に消えていきたい。たとえそこに多喜がいなくても、今惠実が抱えるこの苦悩も一緒に消えてくれるだろうから。
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