第2話 虚ろな記念日
ー/ー
自分ではどうしようもないほど気が塞いでいるので、両親が出勤した後、学校に電話する。この秋から十数度目の風邪という理由で一日休むことにした。気遣わし気な担任の声がうざい。ほっとけっつの。何もできねぇくせに。
トーストや冷蔵庫の中の余りものを胃袋に放り込んで薬を飲むべきか少し迷ったが、どちらもやめにして冷蔵庫から冷え切ったペットボトルのストレートティーを出してきてがぶ飲みするだけで済ます。正直食欲なんて出るはずもない。それに効いてるかどうかも分からない薬なんてもうどうでも良かった。
寒々と静まり返るキッチンの冷蔵庫の傍らで紅茶のペットボトルを持ったままぼんやりと一時間近くも立ち尽くす。聞こえる音といえば冷蔵庫の微かなモーター音と自分の息遣い。それと時折蛇口から零れ落ちる水滴の音だけ。視界に入るものといったら明かりの消えたリビングだけ。薄暗いぽっかりとしたリビングをキッチンから見つめていると、なにかその空っぽの空間が自分の心に似ているような気がしてならない。主のない居間。芯を失ったがらんどうの心。そんなことに気付いたらますます悲しくなり、目の端に涙をにじませながらペットボトルを握り潰す。ダストボックスに投げ込む。
惠美はもう何日間もある考えが頭を離れず、ぼんやりとした今の状態でもそれが頭を占めている。しかし実行に移す気力がどうにも湧いてこなかった。それでも医者が言うように何か得る事もあるかもしれないし、行ってみるか。ちょうど今日のような二人の記念日こそが実行に相応しい気もする。
そう決めてはみたもののやはり身体は鉛のように重い。その重く軋む身体を引きずるようにしてようやく準備を整える。ありきたりなニットにパウダーデニムとマフラーにダウン。ニットキャップはあまり好きになれないので置いていく。もたもたと普段の三倍以上の時間をかけてこれらを身に纏いどうにかこうにか家を出て、うなだれて背を丸め、まるでカメの如く駅へ歩みを進める。つやのある短い黒髪やダウンに小さくてきれいな雪の結晶がはらはらと落ちては砂糖菓子のようにすうっと溶けて小さな水滴になる。
重たい足をどうにかこうにか動かして駅に着いたところで、自分でも呆れた事に行先がどこなのか記憶が定かでない事に気付いた。あの日も含めた前後かなりの日数は、記憶がひどくぼんやりとしてあいまいで虚ろだ。そして悲しい。ただひたすらに悲しい、涙が出るほど寂しい。
以前はそんなことはなかったが、人がいる待合室はどうしても嫌なので駅のコンコースの奥、雪が吹き込まないあたりで氷点下に冷えきった壁に寄りかかる。大きなため息をついて壁に片足を突き、かじかんで思い通りにならない指をなんとか動かしてスマホを操作する。おぼろげな記憶を頼りに行先を調べルート検索をした。
駅前はバレンタインデー特有の浮ついた喧騒に彩られ、耳障りな安っぽい恋歌があちこちから聞こえてくる。ここ最近の惠美なら耳を塞ぐか叫びだしたくなるのだが、どうした事か今は全く気にならない。いや、全く耳に入ってこない。惠美は時にこういった状態になる。外からの刺激が全く入ってこなくなるのだ。一方でそれとは逆に先ほどのようにちょっとした事で激しい苛立ちや怒りを隠せなくなり癇癪を起す時もある。何か月にもわたって自分でも制御できない感情や感覚の混乱が続き、惠美の心はすっかり疲れ果てていた。
スマホでの検索結果だと、目的地まで電車で数駅、バスで四十五分程度の距離。どうせ一日休んだんだから時間は余裕だし、大した距離でもない。紗子おばさんうちの中でずっと泣いてばかりだったよな…… と、突然その頃の記憶がフラッシュバックしてドキッとする。ドキッとしたその後に胃袋が鷲掴みにされるような、ずしりと重たくなるような感覚がして、脚の力が抜けそうな錯覚を覚えた。悲しくはならなかったが、一瞬だけ何かに絶望する感覚に心が支配される。
スマホでの検索通りに電車に乗り、辿り着いた大きな駅を降りる。駅の階段を降りたところでふと何の気なしに花ぐらいはあった方がいいかもと思い駅前の花屋を覗いてみる。
惠美がそっと身を隠すようにして入った花屋は立地のせいか贈答用から仏花まで様々な種類の花が並べられていて、綺麗で明るい雰囲気の広い空間だった。気温も湿度もちょうどよくて快適な店内。調光も明るく穏やかなBGMが流され気持ちの落ち着く空気に満ちている。
惠美は店内のイメージに自分も無理やり染められていくような違和感と不快感を感じ、店に入った途端花を吟味するのが億劫になる。このまま店を出ようかと思ったものの、ふと白いスプレーカーネーションを見つけ、これを小さいささやかな花束にしてもらう。思い出の花だ。惠美が多喜にこれを渡した時の笑顔は今でも忘れられない。なのに、なぜ。一体なぜ。店員と簡単なやり取りをしているうちに、この明るくはきはきとした女性と何もかも関わりたくなくなる。目も合わせずにそそくさと支払いを済ませると逃げるように小走りで店を出た。
花屋を出たところで、ちょうど目的地行きのバスが停まっているのを見つけそのままの勢いで駆け込む。
【次回】 再会
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自分ではどうしようもないほど気が塞いでいるので、両親が出勤した後、学校に電話する。この秋から十数度目の風邪という理由で一日休むことにした。気遣わし気な担任の声がうざい。ほっとけっつの。何もできねぇくせに。
トーストや冷蔵庫の中の余りものを胃袋に放り込んで薬を飲むべきか少し迷ったが、どちらもやめにして冷蔵庫から冷え切ったペットボトルのストレートティーを出してきてがぶ飲みするだけで済ます。正直食欲なんて出るはずもない。それに効いてるかどうかも分からない薬なんてもうどうでも良かった。
寒々と静まり返るキッチンの冷蔵庫の傍らで紅茶のペットボトルを持ったままぼんやりと一時間近くも立ち尽くす。聞こえる音といえば冷蔵庫の微かなモーター音と自分の息遣い。それと時折蛇口から零れ落ちる水滴の音だけ。視界に入るものといったら明かりの消えたリビングだけ。薄暗いぽっかりとしたリビングをキッチンから見つめていると、なにかその空っぽの空間が自分の心に似ているような気がしてならない。主のない居間。芯を失ったがらんどうの心。そんなことに気付いたらますます悲しくなり、目の端に涙をにじませながらペットボトルを握り潰す。ダストボックスに投げ込む。
惠美はもう何日間もある考えが頭を離れず、ぼんやりとした今の状態でもそれが頭を占めている。しかし実行に移す気力がどうにも湧いてこなかった。それでも医者が言うように何か得る事もあるかもしれないし、行ってみるか。ちょうど今日のような二人の記念日こそが実行に相応しい気もする。
そう決めてはみたもののやはり身体は鉛のように重い。その重く軋む身体を引きずるようにしてようやく準備を整える。ありきたりなニットにパウダーデニムとマフラーにダウン。ニットキャップはあまり好きになれないので置いていく。もたもたと普段の三倍以上の時間をかけてこれらを身に纏いどうにかこうにか家を出て、うなだれて背を丸め、まるでカメの如く駅へ歩みを進める。つやのある短い黒髪やダウンに小さくてきれいな雪の結晶がはらはらと落ちては砂糖菓子のようにすうっと溶けて小さな水滴になる。
重たい足をどうにかこうにか動かして駅に着いたところで、自分でも呆れた事に行先がどこなのか記憶が定かでない事に気付いた。あの日も含めた前後かなりの日数は、記憶がひどくぼんやりとしてあいまいで虚ろだ。そして悲しい。ただひたすらに悲しい、涙が出るほど寂しい。
以前はそんなことはなかったが、人がいる待合室はどうしても嫌なので駅のコンコースの奥、雪が吹き込まないあたりで氷点下に冷えきった壁に寄りかかる。大きなため息をついて壁に片足を突き、かじかんで思い通りにならない指をなんとか動かしてスマホを操作する。おぼろげな記憶を頼りに行先を調べルート検索をした。
駅前はバレンタインデー特有の浮ついた喧騒に彩られ、耳障りな安っぽい恋歌があちこちから聞こえてくる。ここ最近の惠美なら耳を塞ぐか叫びだしたくなるのだが、どうした事か今は全く気にならない。いや、全く耳に入ってこない。惠美は時にこういった状態になる。外からの刺激が全く入ってこなくなるのだ。一方でそれとは逆に先ほどのようにちょっとした事で激しい苛立ちや怒りを隠せなくなり|癇癪《かんしゃく》を起す時もある。何か月にもわたって自分でも制御できない感情や感覚の混乱が続き、惠美の心はすっかり疲れ果てていた。
スマホでの検索結果だと、目的地まで電車で数駅、バスで四十五分程度の距離。どうせ一日休んだんだから時間は余裕だし、大した距離でもない。|紗子《さえこ》おばさんうちの中でずっと泣いてばかりだったよな…… と、突然その頃の記憶がフラッシュバックしてドキッとする。ドキッとしたその後に胃袋が鷲掴みにされるような、ずしりと重たくなるような感覚がして、脚の力が抜けそうな錯覚を覚えた。悲しくはならなかったが、一瞬だけ何かに絶望する感覚に心が支配される。
スマホでの検索通りに電車に乗り、辿り着いた大きな駅を降りる。駅の階段を降りたところでふと何の気なしに花ぐらいはあった方がいいかもと思い駅前の花屋を覗いてみる。
惠美がそっと身を隠すようにして入った花屋は立地のせいか贈答用から仏花まで様々な種類の花が並べられていて、綺麗で明るい雰囲気の広い空間だった。気温も湿度もちょうどよくて快適な店内。調光も明るく穏やかなBGMが流され気持ちの落ち着く空気に満ちている。
惠美は店内のイメージに自分も無理やり染められていくような違和感と不快感を感じ、店に入った途端花を吟味するのが億劫になる。このまま店を出ようかと思ったものの、ふと白いスプレーカーネーションを見つけ、これを小さいささやかな花束にしてもらう。思い出の花だ。惠美が多喜にこれを渡した時の笑顔は今でも忘れられない。なのに、なぜ。一体なぜ。店員と簡単なやり取りをしているうちに、この明るくはきはきとした女性と何もかも関わりたくなくなる。目も合わせずにそそくさと支払いを済ませると逃げるように小走りで店を出た。
花屋を出たところで、ちょうど目的地行きのバスが停まっているのを見つけそのままの勢いで駆け込む。
【次回】 再会