第1話 雪の降りたるは
ー/ー
ざああっ、どおおっ、
遠くから波音が聞こえる。今が夕刻なのか早朝なのか、この曇天では見当もつかない。密度の高い低く垂れこめた黒っぽい雲に目をやる。いつ雪が降りだしてもおかしくはない。
後ろから声が聞こえる。楽しそうな多喜の声だ。
「『冬はつとめて』って好き。今朝みたいな『雪の降りたるはいふべきにあらず』なんてホントそう」
その言葉でやっと今は朝なのか、と惠美は気づく。
小山内多喜はいつも楽しそうにしていた。惠美と2人きりの時はいつも。いつだって。
「清少納言かよ…… 寒いだけっしょ…… 雪なんていっつもだし」
西塔惠美は首を縮こまらせて退屈そうに言う。もともと冬が好きではないのは仕方ないにしても、想像力に乏しい自分が今となってはただただ悔しい。
「そそ、枕草子。一昨日授業で前田が言ってたじゃん。中学ん時やってた話。あ、霜柱! 霜柱もいいよね! ほら、ザックザックって…… よっと」
前髪をきれいに揃えた黒いロングヘアを揺らしながら少し飛び跳ね、道の傍らの霜の降りた土を踏みしめる。多喜の言う通り霜柱がザックザックと音を立てながら砕けて潰れる。雪と霜に覆われた白い地面と、濃い土色をした多喜の足跡がコントラストを成す。惠美はそれには碌に目もくれず背後にいるはずの多喜の声を適当に受け流す。
「あー、うん、ザックザクだねー」
「もぉ、ちゃんと聞いてる? 聞いてないよね君?」
ちょっと不貞腐れたような多喜の声が惠実の背後から聞こえる。きっと少しふくれっ面になっているのだろう。多喜は、そんな時の声でも可愛らしかった。
「聞いてる聞いてる……」
やはり少し退屈そうに答える惠実。朝は苦手だ。頭も回らず多喜に気遣いする余裕もない。しかし、大切な恋人相手を少し邪険にしてしまったかな、と惠美なりに少し反省して振り向き自分から声をかけた。
「ああ、枕草子ったらさ、『あけぼの』って」
振り向いて多喜の声がした方を見た惠美の声が上ずる。
「朝、 の 」
惠美の唇は震えながら動きを止め、白い息とともに吐き出された言葉は寒気の中に消え入る。
何気なく多喜に向けたはずの惠美の目は今恐怖で大きく見開かれ、顔貌は氷か雪のごとく蒼白になる。一瞬にして背筋が氷点下に凍り付く。歯の根が合わない。寒さからくるものとは違う凍えが駆け抜ける。爪先から髪の1本1本まで、あたかも電流の様に。
ついさっき多喜が霜柱を踏み砕いて作った土色をした足跡に、小雪がひとひらふたひら舞い落ちている。その多喜の足跡は、確かに、間違いなくそこに、目の前にあるのに、間違いなくあるのに。
どこにもない。
多喜の姿だけがどこにもない。
頭上には低く垂れこめる暗灰色の雲。その雲からはらはらと雪が舞い落ちる寒々とした公園。急に強く降り始めた雪を浴びながら極寒の恐怖に貫かれた惠美。多喜の足跡を食い入るように凝視しながら悚然と立ちすくむ。その足跡も、急に強く降り出した雪によって、みるみるうちに白く塗りつぶされようとしていた。
「はっ! はっ! はっ! うっ! はっ、はぁっはぁ、はぁ…… はぁ……」
気がつくと暗闇に満たされた部屋のベッドから上半身を起こしたまま肩で息をしていた。夢から醒めきれぬまま飛び起きていたのか。夢の中での恐怖心は現実世界に戻ってきても全く変わらないどころかむしろ絶望感が上乗せされ、頭を抱えてありたっけの声で絶叫したい衝動に駆られる。胸元に右手を当てなんとか息を整えようとする。この時期は室内でも凍えるほどの寒さなのに、全身にべったりと汗が張り付いている。その汗も真夜中に浴びた氷雨の様に冷たく不快だ。前下がりのショートヘアからぽたりと一滴、その冷たい汗が零れ落ちる。
ベッドの脇のカーテンを少し開く。仄暗い夜明け前。夢の続きのような雲。低く垂れこめた黒っぽく濃い灰色のそれからも、ちらりちらりと雪が舞い降りていた。
枕元にある古臭くてそっけないデザインの電波時計で時刻を確かめる。液晶画面の数字は06:28。
わけもなくカッとなり電波時計を壁に叩きつけると、布団の上から膝を抱いて顔をそこに埋めた。壁の白い石膏ボードがへこみ、時計から弾け飛んだふたつの冷たい乾電池が、冷たくて寂しい音を静かに部屋に響かせ、冷たいフローリングの床を悲しく転がる。呼吸はもうだいぶ整ってきたが、少し涙が出る。
ゆっくりと深い呼吸を幾度かして、ベッドから降りる。立ち上がってのろのろと時計を拾い乾電池を入れ直すと枕元に放り投げた。立ったままもう一度カーテンを広げて小雪のちらつく暗い灰色の雲を見上げる。夢で見たのと同じ重苦しい空。
「『冬はつとめて』かよ…… 『雪の降りたるは言うべきにあらず』…… どこがだよ…… 最悪」
夢で見たのと寸分違わぬ雲と雪の欠片を目で追いながら何かを怨むように惠美は呟き睨む。
一昨年の2月14日に惠美は多喜と恋人同士になった。去年の2月14日に2人は結ばれ、そして今年の2月14日、今日惠美は1人でこの日を迎えた。
【次回】 虚ろな記念日
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ざああっ、どおおっ、
遠くから波音が聞こえる。今が夕刻なのか早朝なのか、この|曇天《どんてん》では見当もつかない。密度の高い低く垂れこめた黒っぽい雲に目をやる。いつ雪が降りだしてもおかしくはない。
後ろから声が聞こえる。楽しそうな多喜の声だ。
「『冬はつとめて』って好き。今朝みたいな『雪の降りたるはいふべきにあらず』なんてホントそう」
その言葉でやっと今は朝なのか、と惠美は気づく。
小山内《おさない》多喜《たき》はいつも楽しそうにしていた。惠美と2人きりの時はいつも。いつだって。
「清少納言かよ…… 寒いだけっしょ…… 雪なんていっつもだし」
|西塔《さいとう》|惠美《えみ》は首を縮こまらせて退屈そうに言う。もともと冬が好きではないのは仕方ないにしても、想像力に乏しい自分が今となってはただただ悔しい。
「そそ、枕草子。一昨日授業で前田が言ってたじゃん。中学ん時やってた話。あ、霜柱! 霜柱もいいよね! ほら、ザックザックって…… よっと」
前髪をきれいに揃えた黒いロングヘアを揺らしながら少し飛び跳ね、道の|傍《かたわ》らの霜の降りた土を踏みしめる。多喜の言う通り霜柱がザックザックと音を立てながら砕けて潰れる。雪と霜に覆われた白い地面と、濃い土色をした多喜の足跡がコントラストを成す。惠美はそれには|碌《ろく》に目もくれず背後にいるはずの多喜の声を適当に受け流す。
「あー、うん、ザックザクだねー」
「もぉ、ちゃんと聞いてる? 聞いてないよね君?」
ちょっと不貞腐れたような多喜の声が惠実の背後から聞こえる。きっと少しふくれっ面になっているのだろう。多喜は、そんな時の声でも可愛らしかった。
「聞いてる聞いてる……」
やはり少し退屈そうに答える惠実。朝は苦手だ。頭も回らず多喜に気遣いする余裕もない。しかし、大切な恋人相手を少し邪険にしてしまったかな、と惠美なりに少し反省して振り向き自分から声をかけた。
「ああ、枕草子ったらさ、『あけぼの』って」
振り向いて多喜の声がした方を見た惠美の声が上ずる。
「朝、 の 」
惠美の唇は震えながら動きを止め、白い息とともに吐き出された言葉は寒気の中に消え入る。
何気なく多喜に向けたはずの惠美の目は今恐怖で大きく見開かれ、顔貌は氷か雪のごとく蒼白になる。一瞬にして背筋が氷点下に凍り付く。歯の根が合わない。寒さからくるものとは違う凍えが駆け抜ける。爪先から髪の1本1本まで、あたかも電流の様に。
ついさっき多喜が霜柱を踏み砕いて作った土色をした足跡に、小雪がひとひらふたひら舞い落ちている。その多喜の足跡は、確かに、間違いなくそこに、目の前にあるのに、間違いなくあるのに。
どこにもない。
多喜の姿だけがどこにもない。
頭上には低く垂れこめる暗灰色の雲。その雲からはらはらと雪が舞い落ちる寒々とした公園。急に強く降り始めた雪を浴びながら極寒の恐怖に貫かれた惠美。多喜の足跡を食い入るように凝視しながら|悚然《しょうぜん》と立ちすくむ。その足跡も、急に強く降り出した雪によって、みるみるうちに白く塗りつぶされようとしていた。
「はっ! はっ! はっ! うっ! はっ、はぁっはぁ、はぁ…… はぁ……」
気がつくと暗闇に満たされた部屋のベッドから上半身を起こしたまま肩で息をしていた。夢から醒めきれぬまま飛び起きていたのか。夢の中での恐怖心は現実世界に戻ってきても全く変わらないどころかむしろ絶望感が上乗せされ、頭を抱えてありたっけの声で絶叫したい衝動に駆られる。胸元に右手を当てなんとか息を整えようとする。この時期は室内でも凍えるほどの寒さなのに、全身にべったりと汗が張り付いている。その汗も真夜中に浴びた|氷雨《ひさめ》の様に冷たく不快だ。前下がりのショートヘアからぽたりと一滴、その冷たい汗が|零《こぼ》れ落ちる。
ベッドの脇のカーテンを少し開く。|仄暗《ほのぐら》い夜明け前。夢の続きのような雲。低く垂れこめた黒っぽく濃い灰色のそれからも、ちらりちらりと雪が舞い降りていた。
枕元にある古臭くてそっけないデザインの電波時計で時刻を確かめる。液晶画面の数字は06:28。
わけもなくカッとなり電波時計を壁に叩きつけると、布団の上から膝を抱いて顔をそこに埋めた。壁の白い石膏ボードがへこみ、時計から弾け飛んだふたつの冷たい乾電池が、冷たくて寂しい音を静かに部屋に響かせ、冷たいフローリングの床を悲しく転がる。呼吸はもうだいぶ整ってきたが、少し涙が出る。
ゆっくりと深い呼吸を幾度かして、ベッドから降りる。立ち上がってのろのろと時計を拾い乾電池を入れ直すと枕元に放り投げた。立ったままもう一度カーテンを広げて小雪のちらつく暗い灰色の雲を見上げる。夢で見たのと同じ重苦しい空。
「『冬はつとめて』かよ…… 『雪の降りたるは言うべきにあらず』…… どこがだよ…… 最悪」
夢で見たのと寸分違わぬ雲と雪の欠片を目で追いながら何かを怨むように惠美は呟き|睨《にら》む。
一昨年の2月14日に惠美は多喜と恋人同士になった。去年の2月14日に2人は結ばれ、そして今年の2月14日、今日惠美は1人でこの日を迎えた。
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