表示設定
表示設定
目次 目次




氷雪

ー/ー



「津軽平野の雪景色を綺麗だ、という人は、あの地で暮らす人の大変さを知らないだけよ」

昔付き合っていた津軽出身の女に、そう言われたことを思い出した。雪のように肌の白い女だった。
あたり一面、真綿を敷き詰めたような雪景色。深い深い雪は津軽平野を覆い尽くし、他には電信柱と電信柱をつなぐ黒い電線しか見えなかったあの景色を思い出したのは、ひとり祝杯をあげるために立ち寄った居酒屋で熱燗を口にしたとき、ふっとスルメの焼ける匂いがしたかららしい。

 去年の2月、たまたま見つけたJ Rのキャンペーンで、東北2泊3日の旅が格安でできることを知った。元々旅好きな昭男にとって、「これは行くしかない」と即決した。
日頃遅くまで残業して働いているのだから、好きな時に休みくらい取らせてくれ、と年下の上司に圧をかけていうと、気圧されたように「あ、ああ、わかりました」と言われた。ざまあみろ、と思った。

 最寄駅の大宮から米沢へ。バスで仙台に入りまた新幹線で盛岡へ。翌日は、平泉で「奥の細道」をなぞりながら金色堂を訪ねた。その後青森へ入り、弘前城へ。翌日は、この旅最大の目的地である太宰治記念館に行くために、五所川原から津軽鉄道の「ストーブ列車」に乗った。ストーブの上でガイドが焼いてくれるスルメの匂いの記憶が蘇り、昭男の人生を180度変えてしまった旅の思い出を取り出させていた。

 子供の頃から、電車の運転士に憧れていた。しかし、当時は近視だと運転士の試験は受けられないと知って断念し、結局エンジニアとなった。「乗り鉄」とまではいかないものの、電車は日頃から通勤で乗っていたし、鉄道博物館には何度も行き、旅では飛行機ではなく電車を選んでいた。オリジナル旅程表が出来上がると、バツイチ中年男の平凡で面白みのない日々に、浮き立つようなときめきが加わった。

 2月下旬の山形・米沢には、至る所に雪が残っていた。上杉神社に訳もなく惹かれ、米沢まで来たのだ。参道だけは綺麗に除雪されていたが、周囲は一メートルくらいの雪で囲まれている。
「上杉鷹山」の半身の銅像があり、そこにはあのケネデイ大統領が鷹山の言葉を大変気に入っていたと紹介されていた。そのため娘のキャロライン ケネデイが駐日大使だった際、この米沢の上杉神社を訪ねてきていたらしい。

「なせば成る なさねば成らぬ なにごとも なさぬは人のなさぬなりけり」
これが、ケネデイのお気に入りの言葉だと言う。
言葉に聞き覚えはあったが、ケネデイとの縁は全く知らなかったし、上杉謙信と同等に鷹山が、米沢の人にとても尊敬されていることも初めて知った。

空は美しく澄み切っていて、次第に昇ってきた朝の光が固まっている雪の塊にぶつかり、きらめいていた。山形訪問目的の一つである名物の芋煮を駅ナカの店で食べると、仙台行きのバスに乗った。満席のバスに揺られながら、隣町に行くかのように県を跨いで東北一の都会に出ていく人たちと、ところどころに残る雪混じりの風景を眺めていた。1時間半ほどで大宮駅と変わらないくらいの大きさの仙台駅に到着すると、東北新幹線で盛岡へ向かった。

 盛岡では石川啄木と宮沢賢治記念館を訪ね、翌日は平泉の中尊寺金色堂で芭蕉像とその俳句に触れ、「奥の遅道」に思いを馳せると、青森・弘前へと入った。
スーツケースを引きずりながら、雪道の弘前城をシャリシャリ、ズブズブと音を立てて歩いた。青森市内に入ると、駅近くのビジネスホテルにチェックインした。すぐ近くにある物産展に立ち寄り、海鮮丼の有名店に向かった。すでに観光客らしき人が行列を作っていたが、寒さに震えながら足踏みをして待った。

青森を完全になめていた。
本州の最北端の県であること以外に、何もないところだと思っていたが、完全な観光地であり、店も、土産物も十分に揃っていた。 

 翌朝早くにこの旅最大の目的地である、明治の文豪のひとり、「太宰 治」の生家「斜陽館」を目指した。斜陽館の最寄駅である「金木(かなぎ)」までは、雪が風景に組み込まれているような五所川原駅の切符売り場で切符を買う必要がある。
チケット販売機はなく、一人一人窓口で購入する。多くの観光客が、限られた切符を求めて殺到し、ここにも行列ができていた。ようやく名物「津軽鉄道」に乗り込むと、車内は昭和にタイムスリップしたようだった。

木製の肘掛け

ビロードの向かい合わせの椅子

車両番号が打ち込まれた金属のプレート

懐かしい香りがした。
木の床には一両に二つほどの石炭ストーブが置いてある。車掌か機関士なのかはわからないが、制服を着たおじさんが石炭をくべるためにやってくる。ストーブの周りの席はすぐに埋まり、出遅れた昭男はストーブを眺められる席に座った。
乗車前に、駅の売店で干しスルメを買ってきた観光客たちが、やってきた陽気な中年の女性ガイドにそれを渡す。ガイドはビニール袋を破ってスルメを取り出すと、ストーブの上に置いて焼き始める。
このガイドは走り出した車内でマイクを持ち、停車駅やこの鉄道について、面白おかしく案内しながら、スルメの面倒も見ている。津軽弁混じりの陽気で、面白く親しみやすい2名のガイドのもう一人は、これもまた津軽弁混じりのやり取りで、リンゴジュースと日本酒を販売している。

ガイドの案内をBGMに、ほとんどの乗客の目は外の雪景色に奪われている。
これ以上の白さはないくらいの真っ白な雪が、津軽平野を覆い尽くし、隙間はない。良い加減に焼き上がったスルメを受け取ると、乗客は同じく買ってきた日本酒を飲みながら焼きたてのスルメを噛む。スルメとその匂いと雪景色は、最高のつまみだった。

古き良き日本。

貧しいながらも、自分たちに合うように楽しみを考え、作り出していた日本人たち。車内には海外の人も混じっていたが、まさに日本でなければ味わえないこの旅に驚き、感動しているだろうと想像した。
終点まで行く人が大半の中、昭男は目的地金木駅で下車し、迷いようのない何もない道を5分ほど歩けば、そこに突然木造二階建ての「斜陽館」が現れた。

総ヒバ作りの屋敷は、明治40年に建てられた国の重要無形文化財で、現在の価格で5億はするだろうと聞いた。
太宰はとてつもないぼんぼんだったのだ。 
料金を払い、中に入るとそこは完全に「お屋敷」であり、ただただ広く、表示がなければ迷ってしまうほどだった。合計19もある部屋たちは、洋風と和風がうまく組み合わされ、常時30人ほどの使用人たちも一緒に住んでいた、という。

入って右側の上がりこまちのような畳の端に、太宰が執筆で使っていたらしい机が置いてあり、その後ろには太宰の着ていたのと同じコートが掛けてあった。
人もまばらなことを良いことに、昭男は畳の上の座布団に座り、太宰になりきったつもりで机に肘をついてみた。すると、「書けよ」という声がした。
後ろを振り向いたが、誰もいない。
なぜかそこには鏡が置いてあり、そこには昭男の後ろにうっすらと写真で見た太宰が立っている。驚いて瞬きをすると、昭男自身の姿だけが残されていた。
昭男はしばらく呆然とした後、はあーっと大きくため息をつき、年代物の茶色く光る文机の上に突っ伏した。

そうか。
それを確認するためにここにきたのか。

館を出る際、切符売り場に置いてある太宰の姿が描かれた、一個五百円の缶バッジを買い、お気に入りのペンケースにつけた。
青森から大宮までは、あっという間だった。帰り着くとすぐにパソコンを立ち上げ、書き始めた。 

 翌日から、仕事終わりはもちろん、休憩中も、行き帰りの電車の中でもスマホのメモに綴り続けた。それでも長年身についた生活習慣は、思考がなくても自然と体が覚えていて通常通りに日々は進むからか、誰一人、昭男の変化には気づかなかった。
1ヶ月後の桜が咲く頃、初の作品が完成した。
何度も推敲を重ね、持ったことのない我が子の旅立ちを見送るような気持ちで送信ボタンを押した。終わった。取り憑かれたような日々が終わった。 

 だが、まだ続いていく。そんな予感しかなかった。仕事中にたびたび浮かんでくる小説に、仕事が妨害されるようになった。いっそのこと、仕事を辞めて1年間くらいは小説家になるべく、書き続けてみようか、と何度も思った。50歳からの小説家デビューだって、前例がないわけではない。時折旅に行くたび以外に、ろくにお金も使わないから、ある程度の蓄えはある。それどころか、投資も長年続けていたため、おそらく食べるには困らないだろうと計算し、退職した。

 来る日も来る日も書き続けた。
あまりにも部屋に閉じこもりすぎた時は、フラッと電車に乗り、鎌倉まで足を伸ばした。天気のいい日の鎌倉、由比ヶ浜は、いつ行っても爽快だった。ただ、ぼーっと海を見ているだけで心と頭がほぐれていく。中年男が一人、平日に海にいても誰も気になんてしていない。これからどうなるのかは、不思議と一切考えなかった。ただ浮かんでくるものを文字に、文章にしていく。それだけだった。

毎月のように、何かしらの公募があり、それに出し続けた。結果が出るまで半年以上もかかるものはザラにあったが、それを待つよりも次々に応募した。何かを不安に思ったり、悩む暇もなかった。

書くために生活を変え、書くために心と頭を休ませる。書くために旅に出る。そんな生活を続けて1年ほど経った今日、一つの作品が最終選考に残ったと連絡が入るとすぐに、もう一度東北旅に行こう、と決めた。

今回は、青森だけでいい。
ストーブ列車に乗って、斜陽館に行くだけでいい。
その代わり、あの雪景色は絶対条件だ。
熱燗のつまみに、焼きたてのスルメを食べながら。
そして斜陽館のあの机の前に座り、今度は俺が言うのだ。

「書いてるよ」と。
『買ってきた缶バッジに書いてある「絶望するな。では失敬」という言葉を励みに書いたよ』と。 



スタンプを贈って作者を応援しよう!



みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



「津軽平野の雪景色を綺麗だ、という人は、あの地で暮らす人の大変さを知らないだけよ」
昔付き合っていた津軽出身の女に、そう言われたことを思い出した。雪のように肌の白い女だった。
あたり一面、真綿を敷き詰めたような雪景色。深い深い雪は津軽平野を覆い尽くし、他には電信柱と電信柱をつなぐ黒い電線しか見えなかったあの景色を思い出したのは、ひとり祝杯をあげるために立ち寄った居酒屋で熱燗を口にしたとき、ふっとスルメの焼ける匂いがしたかららしい。
 去年の2月、たまたま見つけたJ Rのキャンペーンで、東北2泊3日の旅が格安でできることを知った。元々旅好きな昭男にとって、「これは行くしかない」と即決した。
日頃遅くまで残業して働いているのだから、好きな時に休みくらい取らせてくれ、と年下の上司に圧をかけていうと、気圧されたように「あ、ああ、わかりました」と言われた。ざまあみろ、と思った。
 最寄駅の大宮から米沢へ。バスで仙台に入りまた新幹線で盛岡へ。翌日は、平泉で「奥の細道」をなぞりながら金色堂を訪ねた。その後青森へ入り、弘前城へ。翌日は、この旅最大の目的地である太宰治記念館に行くために、五所川原から津軽鉄道の「ストーブ列車」に乗った。ストーブの上でガイドが焼いてくれるスルメの匂いの記憶が蘇り、昭男の人生を180度変えてしまった旅の思い出を取り出させていた。
 子供の頃から、電車の運転士に憧れていた。しかし、当時は近視だと運転士の試験は受けられないと知って断念し、結局エンジニアとなった。「乗り鉄」とまではいかないものの、電車は日頃から通勤で乗っていたし、鉄道博物館には何度も行き、旅では飛行機ではなく電車を選んでいた。オリジナル旅程表が出来上がると、バツイチ中年男の平凡で面白みのない日々に、浮き立つようなときめきが加わった。
 2月下旬の山形・米沢には、至る所に雪が残っていた。上杉神社に訳もなく惹かれ、米沢まで来たのだ。参道だけは綺麗に除雪されていたが、周囲は一メートルくらいの雪で囲まれている。
「上杉鷹山」の半身の銅像があり、そこにはあのケネデイ大統領が鷹山の言葉を大変気に入っていたと紹介されていた。そのため娘のキャロライン ケネデイが駐日大使だった際、この米沢の上杉神社を訪ねてきていたらしい。
「なせば成る なさねば成らぬ なにごとも なさぬは人のなさぬなりけり」
これが、ケネデイのお気に入りの言葉だと言う。
言葉に聞き覚えはあったが、ケネデイとの縁は全く知らなかったし、上杉謙信と同等に鷹山が、米沢の人にとても尊敬されていることも初めて知った。
空は美しく澄み切っていて、次第に昇ってきた朝の光が固まっている雪の塊にぶつかり、きらめいていた。山形訪問目的の一つである名物の芋煮を駅ナカの店で食べると、仙台行きのバスに乗った。満席のバスに揺られながら、隣町に行くかのように県を跨いで東北一の都会に出ていく人たちと、ところどころに残る雪混じりの風景を眺めていた。1時間半ほどで大宮駅と変わらないくらいの大きさの仙台駅に到着すると、東北新幹線で盛岡へ向かった。
 盛岡では石川啄木と宮沢賢治記念館を訪ね、翌日は平泉の中尊寺金色堂で芭蕉像とその俳句に触れ、「奥の遅道」に思いを馳せると、青森・弘前へと入った。
スーツケースを引きずりながら、雪道の弘前城をシャリシャリ、ズブズブと音を立てて歩いた。青森市内に入ると、駅近くのビジネスホテルにチェックインした。すぐ近くにある物産展に立ち寄り、海鮮丼の有名店に向かった。すでに観光客らしき人が行列を作っていたが、寒さに震えながら足踏みをして待った。
青森を完全になめていた。
本州の最北端の県であること以外に、何もないところだと思っていたが、完全な観光地であり、店も、土産物も十分に揃っていた。 
 翌朝早くにこの旅最大の目的地である、明治の文豪のひとり、「太宰 治」の生家「斜陽館」を目指した。斜陽館の最寄駅である「金木(かなぎ)」までは、雪が風景に組み込まれているような五所川原駅の切符売り場で切符を買う必要がある。
チケット販売機はなく、一人一人窓口で購入する。多くの観光客が、限られた切符を求めて殺到し、ここにも行列ができていた。ようやく名物「津軽鉄道」に乗り込むと、車内は昭和にタイムスリップしたようだった。
木製の肘掛け
ビロードの向かい合わせの椅子
車両番号が打ち込まれた金属のプレート
懐かしい香りがした。
木の床には一両に二つほどの石炭ストーブが置いてある。車掌か機関士なのかはわからないが、制服を着たおじさんが石炭をくべるためにやってくる。ストーブの周りの席はすぐに埋まり、出遅れた昭男はストーブを眺められる席に座った。
乗車前に、駅の売店で干しスルメを買ってきた観光客たちが、やってきた陽気な中年の女性ガイドにそれを渡す。ガイドはビニール袋を破ってスルメを取り出すと、ストーブの上に置いて焼き始める。
このガイドは走り出した車内でマイクを持ち、停車駅やこの鉄道について、面白おかしく案内しながら、スルメの面倒も見ている。津軽弁混じりの陽気で、面白く親しみやすい2名のガイドのもう一人は、これもまた津軽弁混じりのやり取りで、リンゴジュースと日本酒を販売している。
ガイドの案内をBGMに、ほとんどの乗客の目は外の雪景色に奪われている。
これ以上の白さはないくらいの真っ白な雪が、津軽平野を覆い尽くし、隙間はない。良い加減に焼き上がったスルメを受け取ると、乗客は同じく買ってきた日本酒を飲みながら焼きたてのスルメを噛む。スルメとその匂いと雪景色は、最高のつまみだった。
古き良き日本。
貧しいながらも、自分たちに合うように楽しみを考え、作り出していた日本人たち。車内には海外の人も混じっていたが、まさに日本でなければ味わえないこの旅に驚き、感動しているだろうと想像した。
終点まで行く人が大半の中、昭男は目的地金木駅で下車し、迷いようのない何もない道を5分ほど歩けば、そこに突然木造二階建ての「斜陽館」が現れた。
総ヒバ作りの屋敷は、明治40年に建てられた国の重要無形文化財で、現在の価格で5億はするだろうと聞いた。
太宰はとてつもないぼんぼんだったのだ。 
料金を払い、中に入るとそこは完全に「お屋敷」であり、ただただ広く、表示がなければ迷ってしまうほどだった。合計19もある部屋たちは、洋風と和風がうまく組み合わされ、常時30人ほどの使用人たちも一緒に住んでいた、という。
入って右側の上がりこまちのような畳の端に、太宰が執筆で使っていたらしい机が置いてあり、その後ろには太宰の着ていたのと同じコートが掛けてあった。
人もまばらなことを良いことに、昭男は畳の上の座布団に座り、太宰になりきったつもりで机に肘をついてみた。すると、「書けよ」という声がした。
後ろを振り向いたが、誰もいない。
なぜかそこには鏡が置いてあり、そこには昭男の後ろにうっすらと写真で見た太宰が立っている。驚いて瞬きをすると、昭男自身の姿だけが残されていた。
昭男はしばらく呆然とした後、はあーっと大きくため息をつき、年代物の茶色く光る文机の上に突っ伏した。
そうか。
それを確認するためにここにきたのか。
館を出る際、切符売り場に置いてある太宰の姿が描かれた、一個五百円の缶バッジを買い、お気に入りのペンケースにつけた。
青森から大宮までは、あっという間だった。帰り着くとすぐにパソコンを立ち上げ、書き始めた。 
 翌日から、仕事終わりはもちろん、休憩中も、行き帰りの電車の中でもスマホのメモに綴り続けた。それでも長年身についた生活習慣は、思考がなくても自然と体が覚えていて通常通りに日々は進むからか、誰一人、昭男の変化には気づかなかった。
1ヶ月後の桜が咲く頃、初の作品が完成した。
何度も推敲を重ね、持ったことのない我が子の旅立ちを見送るような気持ちで送信ボタンを押した。終わった。取り憑かれたような日々が終わった。 
 だが、まだ続いていく。そんな予感しかなかった。仕事中にたびたび浮かんでくる小説に、仕事が妨害されるようになった。いっそのこと、仕事を辞めて1年間くらいは小説家になるべく、書き続けてみようか、と何度も思った。50歳からの小説家デビューだって、前例がないわけではない。時折旅に行くたび以外に、ろくにお金も使わないから、ある程度の蓄えはある。それどころか、投資も長年続けていたため、おそらく食べるには困らないだろうと計算し、退職した。
 来る日も来る日も書き続けた。
あまりにも部屋に閉じこもりすぎた時は、フラッと電車に乗り、鎌倉まで足を伸ばした。天気のいい日の鎌倉、由比ヶ浜は、いつ行っても爽快だった。ただ、ぼーっと海を見ているだけで心と頭がほぐれていく。中年男が一人、平日に海にいても誰も気になんてしていない。これからどうなるのかは、不思議と一切考えなかった。ただ浮かんでくるものを文字に、文章にしていく。それだけだった。
毎月のように、何かしらの公募があり、それに出し続けた。結果が出るまで半年以上もかかるものはザラにあったが、それを待つよりも次々に応募した。何かを不安に思ったり、悩む暇もなかった。
書くために生活を変え、書くために心と頭を休ませる。書くために旅に出る。そんな生活を続けて1年ほど経った今日、一つの作品が最終選考に残ったと連絡が入るとすぐに、もう一度東北旅に行こう、と決めた。
今回は、青森だけでいい。
ストーブ列車に乗って、斜陽館に行くだけでいい。
その代わり、あの雪景色は絶対条件だ。
熱燗のつまみに、焼きたてのスルメを食べながら。
そして斜陽館のあの机の前に座り、今度は俺が言うのだ。
「書いてるよ」と。
『買ってきた缶バッジに書いてある「絶望するな。では失敬」という言葉を励みに書いたよ』と。