「うう、寒…」
従業員入口を出て、帰路につく。コートのポケットからスマートフォンを取り出すと、ぼうっと光るロック画面には零が四つ並んでいた。スーツの隙間から入り込む冷気に、体をぶるっと震わせる。
「腹減ったな…おっ?」
信号待ちをする視界の端で、夜道を明るく照らす建物が目についた。自宅と会社の間にあるコンビニエンスストア。いつもは早足で通り過ぎるだけの看板が、今は寒さと空腹感で魅力的に見える。今夜は自炊をするのも面倒だし、少し寄り道することにしよう。ゆっくりと開いた自動ドアをくぐると、店内の暖房で温められた空気が体を包み込んだ。
「あぁ…生き返る…」
遅い時間帯ということもあり、店内には他の客は見当たらなかった。さて……何を買おうか。ホットスナックを買い食いするか?いや、家に帰って食べるなら冷凍食品はどうだろう。割引シールが貼られたおにぎりやパンも悪くない。頭の中であれこれ考えているうちに、どこからか優しい匂いが漂ってくる。匂いの元を辿ると、レジ横に鎮座する銀色の箱が目に留まった。透き通ったつゆの中で、とりどりの具材たちがぐつぐつと音を立てながら踊っている。
「おでん、か……」
五感を刺激され、ぐう、と腹が鳴る。無数の選択肢があったはずなのに、もうおでんのことしか考えられない。そのまま吸い寄せられるようにレジへ向かうと、チェック柄の制服に身を包み、研修中の名札を下げた若い男性が迎えてくれた。
「いらっしゃいませー」
おそらく夜勤の学生なのだろう。こんな時間までお疲れ様です、と声をかけたくなるが、完全に不審者なので心の中に留めておく。
「あの、おでん買いたいんですけど」
「かしこまりました」
「えっと…大根と、ちくわと、牛すじと……あと、こんにゃくで」
セルフサービスの店舗も多いが、ここでは店員が容器へよそってくれるようだ。残業明けの疲弊した俺には、この優しさだけでも心に染みる。指定した具材を容器に入れ終えて、あとはつゆをすくうだけ…と思いきや、ふと、店員は顔を上げる。
「玉子の黄身が黄色じゃなかったら、面白いと思いませんか?」
「……は?」
すっかりカラシの要否を尋ねられると思っていたため、不可解な言葉に面食らってしまう。店員はただ、にこ、と笑うだけ。
「玉子の黄身が黄色じゃなかったら、面白いと思いませんか?」
一言一句違わず、今度は訴えかけるように問いかけられる。
「え、いや、玉子は頼んでないですけど」
店員は何も言わず、大きめのお玉を手に取る。何なんだ一体。
「すぐご用意しますね」
何事も無かったかのように、店員はつゆを容器に注ぐ。結局玉子は入っていない。四種の具材が、透き通った薄茶色のつゆに浸されていく。
「決済方法はいかがなさいますか?」
レジ打ちを終える店員。
「カードで。あ、袋はいらないです」
「手が塞がりませんか?」
「はい?」
誰がアツアツのおでんを容器のまま持ち歩くと思ってんだ。いや、レジ袋有料化のこのご時世、そういう人もいるか…。って、何の心配をしているんだ俺は。
「いや、エコバッグあるんで…」
ポケットから畳んでいたエコバッグを取り出す。マチ付きの黒い袋をちらりと見た店員は、小袋に入ったカラシを一つ取り、テープで容器に固定する。気遣いは有難いが、辛党の俺には足りないので多めに貰うことにする。
「あ、カラシもう一つ貰えますか?」
「…業が、深いですね」
「………っ」
いやいやいや何なんだあんた。失礼な奴だな。別にカラシを一個多く貰うくらいいいだろ。俺は辛いのが好きなんだよ。おでんはカラシの付けすぎで涙目になるくらいがちょうどいいじゃねぇか。段々と腹立たしくなってきたが、カスタマーハラスメントが騒がれる昨今、店員を怒鳴りつけるなんてご法度だ。自分に言い聞かせ、グッとこらえる。
「ところで、今日は寒いですね」
「え?ああ、まあそうですね」
俺の苛立ちなど露知らず、呑気に気候の話まで始める店員。
「後ろにあるカイロ、結構売れてるんですよ」
後ろ?背後を振り返り、スナック菓子が並ぶ什器のさらに奥、日用品のコーナーに目をやる。だが、レジからでは遠すぎてよく見えない。ギリギリ赤いパッケージが視認できるくらいだ。
「へえ、やっぱりみんな使うんですね」
そこまで真剣になって見るほどでもないので、適当に流すことにした。
「特に貼らないタイプが売れ筋なんですよ」
「はあ、そうですか」
「今は在庫ありますけど、すぐ品切れになるんです」
いやカイロの話しつこくないか。後半の畳み掛けがすごいな。貼らないカイロの在庫状況は別にどうでもいいんだが。まあ、深夜のコンビニでおでんを買ってるくらいだから、寒がりだと思われても仕方ないだろう。機会があれば今度見てみるか。
「レジ横におしぼりあるので、ご自由にお取りください」
店員はまた、にこ、と俺に笑いかける。ここまでやってくれるのにおしぼりはセルフなのか、と思ってしまった俺は、やはり業が深いのかもしれない。エコバッグにおでんの容器とおしぼりを二つ入れたあと、俺は店員に尋ねる。
「すみません、トイレを使いたいんですけど」
「はい。……あっ、今、トイレ使用禁止なんですよ。ちょうど業者がメンテナンスしてまして」
「……そうですか。わかりました」
店員は俺に目を合わせたまま、ぺこりと軽く頭を下げる。いくら暖房が効いているとはいえ、やはり彼も寒いのだろう。体の前で組んだ手はやや赤く、小刻みに震えている。
「あの…こんな時間に、お疲れ様です」
つい、口をついて出てしまった。突然の労いに店員ははっとした様子を見せたが、何も言わず、再びにこ、と笑った。
「ありがとうございましたー」
店員の挨拶を背に、オアシスを後にする。ちょうど青信号に切り替わった横断歩道を渡り、脇道に逸れてしばらく歩くと、いつの間にか鮮やかな色の光は途絶え、コンビニエンスストアの看板も見えなくなった。暖房で温まったはずの身体は、深夜の空気に晒されてあっという間に冷えきってしまう。
「……うぅ、やっぱり寒すぎる」
ポケットからスマートフォンを取り出す。時刻は零時四十分。歩いた時間を差し引いても、おでんを買うだけなのにかなりの時間を費やしていたようだ。
「もしもし」
番号をダイヤルし、端末を耳元に近づける。話す度に、白い息が暗闇に溶けていく。
「……よし、帰るか」
スマートフォンをポケットにしまい、再び早足で歩き出す。
さあ、おでんが冷めてしまう前に、早く帰ろう。
「あー、やっぱ寒い…」
数日後。従業員入口を出て帰路につく。部下の書類チェックをしていたら、また残業になってしまった。一体何をどうしたら文書のインデントがあんなにバラバラになるんだ。今日は忙しくてお昼もろくにとれなかったし、心身ともに疲弊している。寒さと苛立ちで自然と早足になるが、横断歩道を渡る寸前、休業していたはずのコンビニエンスストアの前でふと足を止める。いつの間にか営業を再開していたようだ。
「……おでん、買うか」
踵を返し、流れるように自動ドアをくぐる。俺と同じ残業明けなのだろうか、今回は数名の客が買い物をしていた。勝手に仲間意識を抱きつつ、そのままぐるっと店内を物色し、日用品コーナーを覗く。カイロだと思っていた赤いパッケージは、ポケットティッシュだった。トイレに貼られた『ご自由にお使いください』の貼り紙を横目に、レジへ向かう。
「いらっしゃいませ」
レジに立っていたのは、以前と同じ男子学生の店員。
「おでんお願いします。大根と、牛すじと、はんぺんと……あと、餅巾着で」
「かしこまりました」
お玉で具材をすくい終えた店員は、数日前と同じように、ふと顔を上げる。
「あの…先日は、ありがとうございました」
「ああ、いえいえ」
「びっくりしましたよ。おでんの補充をしていたら、突然レジに直行してきて。怖くて、慌ててつゆもこぼしてしまって」
店員は跡が残った手をさする。
「お客様がレジに来る度に話しかけてたんですけど、無視されて全然気づいてもらえなくて。通報ボタンも教えられてなかったし、新人なのにワンオペで他にスタッフもいないし……もう駄目かと思いました」
「うわぁ…それはとんだ災難でしたね」
「ちなみに、どのあたりで気づきました?」
店員は、後に続く言葉が他の客に聞こえないように身をかがめて、俺に尋ねる。
「強盗がトイレの中にいる、って」
「あー、初めの玉子の時点で何か引っかかってたんですけど、確信したのは……カラシですかね」
「やっぱり!色々考えてたんですが、中々思い浮かばなくて。我ながら攻めた発言だったので…その節は失礼しました」
「いえそんな。おかげで気づけましたから」
店員は手際よく具材をすくい入れ、お玉でつゆを容器に注ぐ。五種の具材が、透き通った薄茶色のつゆに浸されていく。
「…あの、玉子頼んでないです」
つゆに浮かぶ玉子。店員は容器の蓋を閉め、レジを打ち始める。
「サービスですよ。せめてものお礼です」
四点分の合計金額が画面に表示された。新人スタッフなのに勝手なことをして大丈夫なのかと心配しつつも、ありがたくいただくことにする。
「いいんですか、ありがとうございます」
「あ、カラシもいっぱいつけておきますね」
店員はカラシの小袋を適当に掴み、長めに切り取ったテープで無理やり固定する。いや流石にそれは多いだろ、と言いたくなるが、健気な店員の気持ちを無碍にはできない。
「お支払いはいかがなさいますか?」
「カードで。袋いらないです」
「かしこまりました」
タッチで決済を済ませた後、おでんの容器が入ったエコバッグを下げ、自動ドアへ向かう。
「あ、お客様!」
店を出る寸前、呼び止められて振り返る。忘れ物でもしたのかと思ったが、床やレジカウンターには何も落ちていない。店員と目が合う。
「黄身の色は、割ってからのお楽しみですよ」
店員は、にこ、と笑う。
「……ははっ、楽しみにしてます」
つられて吹き出してしまった。そのまま会釈をして、店を後にする。
さあ、おでんが冷めてしまう前に、早く帰ろう。
―了―