「ただいまー」
午後六時。カフェのアルバイトから戻ったキョウは、薄暗い廊下の先へ自身の帰宅を知らせる。しかし、普段なら聞こえてくるはずの返事はない。目を凝らすと、少し開いたリビングのドアの隙間から、部屋の明かりと賑やかな音声が漏れている。
「ルグ?」
ドアを開けて顔を覗かせると、ルグはテレビの前に座り込んで画面に釘付けになっていた。前のめりになって熱心に見ているからか、帰宅した家主の存在には気づいていない。キョウはそのままゆっくりと近づき、今度は背後から声をかける。
「何見てるの?」
「うわっ⁉︎」
不意を突かれたルグは、耳と尻尾をピンと立てながら、ビクッと体を飛び上がらせた。
「帰ってたのかよ!びっくりさせんな!」
「ちゃんと『ただいま』って言ったよ?」
「それは…聞こえてなかった。おかえり」
狼獣人であるからか、普段は物音や人の気配に敏感なルグ。そんな彼が周りに気づかなくなるほど夢中になっていたのは、夕方のニュース番組の料理コーナーだった。料理研究家や管理栄養士、料理上手な芸能人など、毎回異なるゲストがコメンテーターとトークを繰り広げながらテーマに沿った料理を作る。画面右上に表示された今回のテーマは、『料理初心者にもおすすめの簡単スピードごはん』。電子レンジやキッチンばさみなどを駆使した、料理を始めたての人でも失敗しにくいレシピが紹介されていた。
「へえ、電子レンジで時短できるんだ。今度やってみようかな」
普段の料理にも取り入れやすい情報の数々に、キョウは荷物を下ろすのも忘れて、ルグとともにテレビに釘付けになる。
「では最後に、ささっと作れるお手軽スイーツをご紹介します!」
料理コーナーも終盤。ゲストが発したスイーツという言葉に、ルグの耳がピクリと反応する。
「そんなに近づいたら目に悪いよ」
キョウの忠告も無視して、ルグは先ほどよりも一層食い入るように液晶を眺めている。手際よく調理を進めるゲストの姿を見ながら、混ぜる仕草を真似たり、表示されたテロップのワンポイントアドバイスを読み上げたり…。彼がここまで集中した様子を見せるのは初めてだ。
「もしかしてルグ、また作りたいの?」
「えっ?まあ、別に、そういうわけじゃ…」
クッキーの型抜きを経験してから、ルグは食べることだけではなく作ることに対しても興味を示し始めた。これまではキョウがキッチンに立っていても素知らぬ顔をしていたが、最近は作業しているキョウを横目でちらりと見たり、用もなく周りをうろついたりするようになった。さらにリビングの本棚からは、一番上の段に並ぶ長編の冒険小説に加えて、二段目に並べられたレシピ本も度々持ち出されるようになっていた。しかし、自分から何か作りたいと言い出すのは恥ずかしいのか、キョウからお手伝いを頼むまではキッチンに立とうとはしなかった。
「じゃあ、作ってみる?明日の朝ごはん」
「いいのか⁉︎」
「実は、バイトの帰りにマスターからもらった…これを作ろうと思ってたんだ」
キョウはトートバッグの中を探り、カラフルなパッケージの袋を取り出す。
「ホットケーキか…!見たことあるぜ、このでかくて丸いやつ!」
「安売りしてて買ったけど、結局使わないまま賞味期限が近づいてたんだって。これなら材料もシンプルだし、初めてでも作りやすいと思う」
「卵と牛乳とこの粉を混ぜて、フライパンで焼く…確かに簡単そうだな」
ルグは袋の作り方を熱心に読み、期待と喜びに尻尾をふわふわと揺らす。
「なんなら卵もなくていいよ。やろうと思えばこれと水だけでもできる」
「嘘だろ⁉︎やべえな、この粉!」
ルグは興奮しながら、白い粉が入った袋を両手で掲げる。
「いやそういうものだから、ホットケーキミックスって…その言い方は語弊しかないから…」
「じゃあオレ、明日一人で作るから。ザラメは手伝わなくてもいいぜ!」
「えっ、本当に大丈夫?材料測るくらいならやっておくよ?」
「大丈夫だって!ザラメ、いつもオレより早く起きてるだろ?たまにはゆっくり休んでくれ!」
早番出勤のアルバイトがない日も、毎日早起きしてネットショップの注文を確認しつつ、朝食作りや掃除、洗濯といった家事をこなしていたキョウ。ルグは毎朝準備されている食事に舌鼓を打つ一方で、何か力になりたいと考えていたのだった。彼なりの気遣いに胸を打たれ、キョウはルグの善意をありがたく受け取ることにした。
「それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかな。よろしくね」
「おう!任せろ!」
初めての朝ごはん担当を命じられたルグは、胸を叩いて自身に満ちた笑みを浮かべた。
――
翌朝。空にまだうっすらと夜の面影が残る頃、キッチンにはエプロンを身につけて張り切る狼の姿があった。
「よし、やるか。材料も少ないし、楽勝だろ!」
冷蔵庫から材料を取り出して作業台に並べた後、パッケージの裏面に書かれた作り方を読み進める。
「まずは…ボウルに卵を割り入れてほぐす…」
白い殻に包まれた卵を手に取り、作業台の角にコンコンと打ち付ける。
「確かザラメはいつもこうやって、卵の殻を…」
だが、割れない。
「殻を…」
全く割れない。
「殻、を…………」
僅かなひびすら入らない。
「………………おりゃ!」
痺れを切らしたルグは、力を込めて勢いよく卵を振り下ろす。
「なっ⁉︎」
案の定、卵の殻はあっけなく潰れてしまい、ぐしゃりと中身が溢れてくる。力加減が上手く掴めないようだ。
「うえぇ、ベトベトだ…」
粉々になった殻とともに、黄身と白身が毛皮にまとわりつく。水道でぬめりを洗い落とし、新しい卵を取り出して再挑戦するもうまくいかず、気づけば冷蔵庫の卵ポケットは空っぽになってしまった。
「どうしよう…」
三つしかない調理工程のうち、一つ目ですでに苦戦している。今ならまだ引き返せるが、キョウの手を借りずに一人でやると宣言した手前、彼に助けを求めるのは自身のプライドが許さない。葛藤するルグの頭にふと、昨晩のキョウの言葉が蘇った。
(なんなら卵もなくていいよ。やろうと思えばこれと水だけでもできる)
「卵、なくてもできるって言ってたもんな…」
開き直ったルグは、粉々になった大量の卵をそっと作業台の隅に寄せ、再びパッケージの裏面に視線を移した。
「えっと、次は…牛乳とホットケーキミックスを入れて、泡立て器で混ぜる…」
牛乳をボウルへ入れた後、やばい粉…ではなくホットケーキミックスを加える。普段から飲んでいる牛乳パックは開け慣れており、ホットケーキミックスの袋には切り込みが入っていたため、今回はどちらも無事に開封することができた。泡立て器を握り、羽根の部分をボウルに浸してぐるぐる円を描くと、二つの材料が少しずつ混ざりあっていく。
「お、なんか、これ…」
二十回ほど混ぜ合わせると、シャカシャカと軽快な音を立てていた泡立て器に抵抗が加わり、生地全体が粘り気のある象牙色に染まった。
「楽しいかも…!」
混ぜるという行為に楽しさを見出したルグは、夢中になって泡立て器を動かし続ける。ボウルの縁についた粉が飛び散っても、生地が十分に混ざりあっても、彼の手が止まることはなかった。我に返った頃には既に数分が経過しており、ダマが残ってもったりとしていたはずの生地は、滑らかでサラサラとした液体に変貌していた。
「なんか思ってたのと違う…けど、焼けばなんとかなるだろ」
泡立て器を流しに置いてから、ルグは再びパッケージを手に取り、辺りを見回す。
「最後は…熱したフライパンで生地を両面焼く…。ザラメがいつも使ってるのは…これか?」
視線の先にあったのは、水切りカゴに立てかけられたままのフライパン。コンロの上に乗せて点火すると、ぼうっと燃え上がった青い炎がフライパンを縁まで包み込んだ。十分に温まったら、油を引かずにお玉一杯分の生地を流し入れる。混ぜすぎてゆるくなった生地は、フライパンに着地すると同時にジュっと音を立てながら薄く広がっていく。
「これ、いつひっくり返すんだ…?」
パッケージには『表面にプツプツと穴があいたら』と記載されているが、具体的な数や時間までは言及されていない。パッケージと睨めっこをしているうちに、やや香ばしい匂いがルグの鼻をくすぐった。
「うわっ、もしかして焦げてる⁉︎」
急いでフライ返しを生地の下に滑り込ませるが、その拍子にフライパンの縁に手を触れてしまった。右手に鋭く刺すような痛みが走る。
「あちっ!」
水道で手を冷やす。ヒリヒリとした痛みが落ち着く頃、青い炎に晒され続けたフライパンには、真っ黒の円盤が鎮座していた。
「やっぱり丸焦げだ…くそっ、次は焼きすぎないように…」
気を取り直して、残った生地をフライパンへ流し込む。今度は目を離すことなく、表面に気泡が出てくるタイミングを見計らったが、うまくひっくり返せず不恰好になってしまった。焼き色もまばらで、先ほどよりはましだが所々焦げついてしまっている。
「できた…!あとはテーブルに運んで、飲み物を用意して、それから…」
なんとか完成まで漕ぎ着けたルグは、汗を拭って辺りを見渡す。キッチン一面に散らばった粉と生地、流しに置かれた粉々の卵、フッ素樹脂加工が施されているにもかかわらず焦げついたフライパン。
「準備できたら、後でちゃんと掃除しなきゃな…」
リビングに焦げついた香りが広がる。ホットケーキの出来上がりだ。
――
「おはよう」
テーブルにランチョンマットを敷き、カトラリーの準備も終わった頃、いつもより遅れてキョウがリビングへやって来る。
「おはようザラメ!よく眠れたか?」
「うん、おかげさまで。どう?ホットケーキ、できた?」
「おう!準備もできてるぜ」
ルグはキッチンを隠すようにして立ったまま、キョウをテーブルの方へ誘導する。
「これは…えっと………」
少しシワになったランチョンマットに置かれたプレート。その上には、パッケージに記載されていた『ふんわり、もっちり!』のキャッチコピーとはあまりにもかけ離れた、のっぺりとした焦茶色の何かが乗せられている。
「その、ほ、ほら!なんか薄いし、ちょっと焦げてるけど、こういうのも悪くないと思うぜ!」
「そう、だね…。いただきます」
お世辞にも美味しそうとは言えないビジュアルだが、初めてルグが一人で作った努力の結晶を無駄にするわけにはいかない。ナイフで切り分けて、口に運ぶ。空気が抜けて膨らみが弱く、パサパサとした生地。口の中の水分と引き換えに、全身まで駆け巡るような苦味が広がっていく。キョウは無言でしばらく咀嚼した後、コップに注がれた牛乳を一口飲み、ルグの方へやや引き攣った笑みを向けた。
「…………………おいしいよ」
「絶対思ってないだろ」
微妙なリアクションを見て、ルグは肩を落とす。やはり自身も失敗したと感じていたようだ。
「無理に食べなくていいぞ、オレが代わりに食べるから」
ルグは拗ねた様子で皿を下げようとするが、伸ばされた彼の手の一部が赤くなっていることに気づき、キョウは声をかける。
「どうしたの、その手」
はっとして右手を体の後ろに隠すルグ。
「なんでもねえよ」
「見せて」
「本当にいいから、っ!」
誤魔化そうとするが、火傷した部分もろとも手を握られ、ルグは顔を歪ませる。
「火傷したの?」
「このくらい、大したことねえし」
そっぽを向いて誤魔化すルグとは対照的に、キョウは真剣な面持ちで患部の状態を確かめている。
「もっとちゃんと冷やさないと。氷取ってくる」
「氷…あ!待て!ザラメ!」
氷のありかを思い出したルグはキョウを呼び止めようと立ち上がる。しかし、もう遅かった。冷凍庫に手をかける寸前、キョウはキッチンの惨状を目の当たりにし、自身がゆっくり寝ていた間に何が起こったのかを理解する。全てを悟られてしまったルグは、そのまましょんぼりと力なく椅子に腰掛けた。
――
ルグが氷のうで手を冷やしている間に、キョウは荒れたキッチンを片付け、棚から救急箱を持ってくる。患部に軟膏を塗った後、手際よく包帯を巻き付け、テープで固定する。処置は数分で完了した。
「…よし、これで大丈夫。すぐ良くなるよ」
「……」
「ねえ、どうして言ってくれなかったの?途中で起こしてくれてもよかったんだよ?」
ルグは俯き、包帯が巻かれた手を見たまま黙り込んでいる。
「言ってくれたら卵も割ってあげられたし、火傷しないで済んだかもしれないのに」
「…オレだって」
ぽつり、とルグの口から小さな声が漏れる。
「オレだって、やればできるって……。一人でできるってところを、ザラメに見せたかったんだ」
「ルグ…」
「テレビもそうだし、ザラメが作ってるのも近くで見てたから、できるって思ってた。でも…見てるのと自分でやるのとじゃ全然違った」
ルグは毛皮に覆われた拳をきゅっと握りしめる。
「……オレ、もっとうまくできるように、ちゃんとできるようになりたい」
そのまま、顔を上げてキョウに訴える。
「ザラメみたいに、うまいお菓子が作れるようになりたい」
その目は、僅かに潤んでいた。
「…ちゃんと伝わってるよ、ルグの気持ち」
悔しさ、後悔、悲しみ、怒り、もどかしさ。ルグの眼差しから、キョウは様々な感情を拾い上げる。それらと重ね合わせるようにして脳裏に浮かぶのは、幼少期から手探りでお菓子作りに奮闘してきた、これまでの自身の記憶。
「初めは上手にできなくて当たり前だよ。僕もお菓子作りを始めた頃は、たくさん失敗した」
「本当か?」
「うん。真っ黒に焦げちゃったり、逆に生焼けになったり、砂糖と塩を間違えた!なんてベタな失敗をしたこともあるよ。それから……」
指折り数えながら、これまでの失敗を振り返るキョウ。
「それに、小さい時だけじゃない。大人になった今だって…うまくいっていないことだらけだから」
「今も…?」
少し含みのある言い方が引っ掛かり、ルグは聞き返す。しかしキョウは誤魔化すようにして、救急箱の蓋を閉じた。
「なんでもない。ルグなら絶対できるようになるよ。僕も手伝うから、一緒に頑張ろう?」
いつもと変わらないキョウの優しい言葉。ルグは、切り分けられたホットケーキのひとかけらを口にする。
「……苦い」
初めて一人で挑戦したお菓子作りは、悔しさが残る結果となった。次はうまくできるように。いつか、一人でも美味しいお菓子を作れるように。口に広がる苦味とともに、ルグは決意を自身の胸に刻んだ。