【2】
ー/ー
「先生、名前カッコいいですね! 『鷹司 翼』って!」
初めての授業の日。澪は彼のノートの記名を目にして、考える前に声が出ていた。
よく知らない、ましてや年上の男性と何を話していいのかわからなくて、咄嗟に飛びついてしまったのだ。
「……これ、『翼』って読むんだ。『たかつかさ つばさ』じゃ語呂悪すぎない? 言い難いし」
「あ! す、すみません!」
そういえば母にフルネームも聞かされていたはずなのに、まるで覚えてもいなかった。
「いや、謝ることないよ。普通は『つばさ』って読むしね」
「あの、でもいいお名前ですよね。『鷹の翼』ってすごいセンスいい!」
「そうかな。ありがとう」
お世辞というわけでもなく、スタイリッシュな名前だと思ったのは本当だ。
鷹司のどこか照れたような表情に、どうにか澪の真意は伝わったようで安堵した。
名前を間違えるなんて失礼なのに、自然な笑みと柔らかな雰囲気は崩さなかった彼。
この人なら大丈夫そうだ、とようやく不安が薄まって消えていくのを感じた。
二人でいることにも馴染んで来て、勉強の合間にお茶を飲みながら雑談していたときだった。
「相良に『従妹の家庭教師しない?』って誘われたんだ」
家庭教師に来てくれたきっかけを訊いた澪に鷹司が答えてくれる。相良 七海が従姉のフルネームだ。
「『あんたなら真面目で浮ついたとこないし推薦できるわ』って。やっぱりさ、信頼されてるなら応えたいじゃない?」
こういうことをさらりと口にするのは簡単ではない気がする。本当に誠実な人なのだろう。
そして七海が鷹司を紹介する際、母に「女の子で心当たりの子たちはみんな遠くて、ここからだと帰り遅くなっちゃうんですよ」と言っていたのを思い出した。
「そうなんですね。七海ちゃんとは小さい頃から仲良しで、ホントのお姉さんみたいで大好きなんです。マ、……っと、母も七海ちゃんのお墨付きなら安心だからって。男の人はダメって言ってたんですよ~」
「親御さんの気持ちはわかるよ。大切なお嬢さんが知らない男と二人で、ってそりゃ心配だと思う」
もしかして彼のことを疑っているように取られてしまった!? そんなつもりではなかったのに。
「あ、あの、鷹司先生は全然──」
「大丈夫、何も気にしてないよ。『男は駄目』なのに雇ってもらえたんだから、認めていただいたってことだし」
誤解されたくない、と焦った澪に、彼は穏やかな口調のまま返して来た。
「で、その時相良に釘刺されたんだ。『澪ちゃんはすっごい可憐な美少女で、親戚中のアイドルだから! 万が一なんかしたらうちの兄貴が黙ってないからね!』って……」
──待ってよ、七海ちゃん何言ってくれてんの!?
「いえいえ、そんな! 七海ちゃんは従姉バカ入ってるんですよ。『お兄ちゃんしかいないから、妹欲しかった〜!』って私のことすごい可愛がってくれてますから。そのフィルターです!」
誰が「親戚のアイドル」なのか。肝心の本人が初耳だというのに。
「いやあ、最初は話半分に聞いてたんだ。実際会ったら澪さん本当に綺麗で驚いた」
「……やめてくださいよ~」
こういうとき、どう反応するのが正解なのだろう? 「綺麗」などと言われることもないため挙動不審になりそうだった。
鷹司は、ただ口先だけで軽薄に喋る人ではなさそうだから余計に。
「でもさ、相良の兄さんて確かラグビー選手じゃなかった? 社会人のチームだよね?」
「そうですよ。身体はさすがに大きくて顔も厳つい感じですけど、すごく物静かな人なんです。──ていうか、よくそれで引き受けましたよね」
そんな脅しを掛けられたら、普通なら怒るのではないか?
「え? だって『家庭教師先の子に何もしない』なんて当たり前じゃない? そもそも『なんかやりそう』とか思ってたら、相良も最初から俺に声掛けないだろ。澪さんのこと大事だから念のためだってわかってるし、別に問題ないよ。条件良かったしね」
平然と答えた鷹司に、澪の方が驚いてしまう。
七海がこの人を選んだ理由がわかる気がした。弱って参ってしまっていた澪のことを親身に考えて、いい人を探してくれたのだ、と心の底から思える。
肩書と初期の対応から、鷹司は頭脳明晰で堅苦しい人間に見えた。しかし、親しくなるにつれ明るく気さくな男だとわかって来る。適当になったという意味ではなく、やはり最初は澪の現状を知るからこそ気を配ってくれていたのだろう。
週に二回教えてもらううちに、最初は仄かな好意だけだった澪の鷹司への想いは、加速度的に深まって行ったのだ。
彼は七海と同い年で、澪より五歳上になる。
そのため鷹司が、多少は暇もある院生だったのは澪が大学に入学した年までだった。しかし就職してからも、休日にときどき会ってくれている。
単なる元教え子の相手など、普通なら面倒だし嫌だろう。本当に思いやりのある人なのだ。
澪はずっと彼が好きだった。けれど鷹司にとってそういう対象ではないのもわかっている。最初が高校生で生徒だったのだから、彼には実際の年齢差以上に「子ども」だと思われていても仕方がない。
片想いで十分だった。
澪が合格したときも手放しで喜んで、お祝いだと落ち着いたレストランでご馳走してくれた。大学生になってもたまには会いたい、と無理は承知で頼んだ澪に笑顔で頷いてくれた。
贅沢を言うつもりはない。好きな人と一緒に過ごせる時間のあることが嬉しかった。
本心からそれだけでよかったのに……。
いきなり断ち切られたかのように、何もかもが奪われるのだ。
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「先生、名前カッコいいですね! 『鷹司 |翼《つばさ》』って!」
初めての授業の日。澪は彼のノートの記名を目にして、考える前に声が出ていた。
よく知らない、ましてや年上の男性と何を話していいのかわからなくて、咄嗟に飛びついてしまったのだ。
「……これ、『|翼《よく》』って読むんだ。『たかつかさ つばさ』じゃ語呂悪すぎない? 言い難いし」
「あ! す、すみません!」
そういえば母にフルネームも聞かされていたはずなのに、まるで覚えてもいなかった。
「いや、謝ることないよ。普通は『つばさ』って読むしね」
「あの、でもいいお名前ですよね。『鷹の翼』ってすごいセンスいい!」
「そうかな。ありがとう」
お世辞というわけでもなく、スタイリッシュな名前だと思ったのは本当だ。
鷹司のどこか照れたような表情に、どうにか澪の真意は伝わったようで安堵した。
名前を間違えるなんて失礼なのに、自然な笑みと柔らかな雰囲気は崩さなかった彼。
この人なら大丈夫そうだ、とようやく不安が薄まって消えていくのを感じた。
二人でいることにも馴染んで来て、勉強の合間にお茶を飲みながら雑談していたときだった。
「|相良《さがら》に『従妹の家庭教師しない?』って誘われたんだ」
家庭教師に来てくれたきっかけを訊いた澪に鷹司が答えてくれる。相良 七海が従姉のフルネームだ。
「『あんたなら真面目で|浮《うわ》ついたとこないし推薦できるわ』って。やっぱりさ、信頼されてるなら応えたいじゃない?」
こういうことをさらりと口にするのは簡単ではない気がする。本当に誠実な人なのだろう。
そして七海が鷹司を紹介する際、母に「女の子で心当たりの子たちはみんな遠くて、ここからだと帰り遅くなっちゃうんですよ」と言っていたのを思い出した。
「そうなんですね。七海ちゃんとは小さい頃から仲良しで、ホントのお姉さんみたいで大好きなんです。マ、……っと、母も七海ちゃんのお墨付きなら安心だからって。男の人はダメって言ってたんですよ~」
「親御さんの気持ちはわかるよ。大切なお嬢さんが知らない男と二人で、ってそりゃ心配だと思う」
もしかして彼のことを疑っているように取られてしまった!? そんなつもりではなかったのに。
「あ、あの、鷹司先生は全然──」
「大丈夫、何も気にしてないよ。『男は駄目』なのに雇ってもらえたんだから、認めていただいたってことだし」
誤解されたくない、と焦った澪に、彼は穏やかな口調のまま返して来た。
「で、その時相良に釘刺されたんだ。『澪ちゃんはすっごい可憐な美少女で、親戚中のアイドルだから! 万が一なんかしたらうちの兄貴が黙ってないからね!』って……」
──待ってよ、七海ちゃん何言ってくれてんの!?
「いえいえ、そんな! 七海ちゃんは|従姉《あね》バカ入ってるんですよ。『お兄ちゃんしかいないから、妹欲しかった〜!』って私のことすごい可愛がってくれてますから。そのフィルターです!」
誰が「親戚のアイドル」なのか。肝心の本人が初耳だというのに。
「いやあ、最初は話半分に聞いてたんだ。実際会ったら澪さん本当に綺麗で驚いた」
「……やめてくださいよ~」
こういうとき、どう反応するのが正解なのだろう? 「綺麗」などと言われることもないため挙動不審になりそうだった。
鷹司は、ただ口先だけで軽薄に喋る人ではなさそうだから余計に。
「でもさ、相良の兄さんて確か|ラグビー選手《ラガーマン》じゃなかった? 社会人のチームだよね?」
「そうですよ。身体はさすがに大きくて顔も厳つい感じですけど、すごく物静かな人なんです。──ていうか、よくそれで引き受けましたよね」
そんな脅しを掛けられたら、普通なら怒るのではないか?
「え? だって『家庭教師先の子に何もしない』なんて当たり前じゃない? そもそも『なんかやりそう』とか思ってたら、相良も最初から俺に声掛けないだろ。澪さんのこと大事だから念のためだってわかってるし、別に問題ないよ。条件良かったしね」
平然と答えた鷹司に、澪の方が驚いてしまう。
七海がこの人を選んだ理由がわかる気がした。弱って参ってしまっていた澪のことを親身に考えて、いい人を探してくれたのだ、と心の底から思える。
肩書と初期の対応から、鷹司は頭脳明晰で堅苦しい人間に見えた。しかし、親しくなるにつれ明るく気さくな男だとわかって来る。適当になったという意味ではなく、やはり最初は澪の現状を知るからこそ気を配ってくれていたのだろう。
週に二回教えてもらううちに、最初は|仄《ほの》かな好意だけだった澪の鷹司への想いは、加速度的に深まって行ったのだ。
彼は七海と同い年で、澪より五歳上になる。
そのため鷹司が、多少は暇もある院生だったのは澪が大学に入学した年までだった。しかし就職してからも、休日にときどき会ってくれている。
単なる元教え子の相手など、普通なら面倒だし嫌だろう。本当に思いやりのある人なのだ。
澪はずっと彼が好きだった。けれど鷹司にとってそういう対象ではないのもわかっている。最初が高校生で生徒だったのだから、彼には実際の年齢差以上に「子ども」だと思われていても仕方がない。
片想いで十分だった。
澪が合格したときも手放しで喜んで、お祝いだと落ち着いたレストランでご馳走してくれた。大学生になってもたまには会いたい、と無理は承知で頼んだ澪に笑顔で頷いてくれた。
贅沢を言うつもりはない。好きな人と一緒に過ごせる時間のあることが嬉しかった。
本心からそれだけでよかったのに……。
いきなり断ち切られたかのように、何もかもが奪われるのだ。