「なあ、ザラメ」
穏やかな晴れた日の朝。いつものように洗面所で顔を洗っていたキョウは、背後からの声に手を止める。
「どうしたの?」
「これ、着てもいいか?」
鏡に映ったルグの手には、キョウが着なくなったスウェットが握られていた。
「いいよ。でも、ちょっとブカブカかも」
「別に大丈夫。ありがとう」
ルグはそのまま、そそくさと自分の部屋に戻っていってしまった。
「うーん…」
お手伝いを条件に、ルグがキョウの家で暮らすことになってから数日。キョウは、ルグとの距離がなかなか縮まらないことに頭を悩ませていた。廊下やリビングで見かけた時は声をかけ、コミュニケーションを取ろうとしているが、なかなか会話が続かない。
(まあ、ずっと家に籠りきりにさせちゃってるし…)
キョウはルグに対し、しばらくは家の中で過ごすように伝えていた。いくら田舎町とはいえ、獣人が目撃された話など聞いたことがない。誰かと遭遇して騒ぎになってしまう可能性やルグの身の安全を考えてのことだが、本人はストレスを感じているだろう。なかなか心を開いてくれない原因にもなっているはずだ。ちなみに、着衣の概念は人間も獣人も共通のようで、当面の間は押し入れから引っ張り出したキョウのお下がりを着せることにしている。やや身長差があるが、毛皮で着膨れするためオーバーサイズくらいがちょうどいいようだ。
「お菓子は美味しそうに食べてくれるんだけどなぁ…」
そんなルグも、味見のお手伝いや食事の時間は心待ちにしているようだった。食べ盛りなのか、夢中で相変わらずの食べっぷりを披露してくれる。スコーンでのフードファイトの件を気にしているのか、本人は抑えているつもりだが、ゆらゆらと揺れる尻尾が全てを物語っている。
「お菓子…お手伝い……そうだ!」
彼の関心を引きつつ、心を開いてもらうには…。キョウの頭に、一つの案が浮かんだ。
――
キッチンに移動したキョウは、紺色の肩掛けエプロンを身につけ、作業にとりかかる。ボウルにバターを入れて柔らかくなるまで練った後、砂糖を加えて泡立て器ですり混ぜる。誰もいない静かなリビングに、砂糖のジャリジャリと擦れる音が響く。溶き卵を少しずつ加えて混ぜたら、小麦粉をふるい入れてひとまとまりになるまでさっくりと混ぜていく。初めはゴムベラを、ある程度混ざってからは手を使うとまとまりやすい。生地がまとまったら、二つに分けてのばし、ラップで包んで冷蔵庫で一時間ほど休ませる。すぐに次の工程へ進みたいところだが、焦らず待つことで生地が落ち着き綺麗に焼き上がる。
「じゃあ、待ってる間に…」
生地を休ませているうちに、キョウはキッチンを軽く片付けて次の準備にとりかかった。
――
「ルグ、入るね」
「おう」
物置部屋改め、ルグの部屋のドアを開ける。ルグはリビングの棚から持ち出した本を読んで、暇を潰していた。
「お手伝いか?」
「そう。でも今日は…いつもとちょっと違うんだ」
「違うって?」
キョウの言葉に首を傾げながらも、ルグは本を閉じて立ち上がる。
「いいから、とにかく来て?」
「えっ、おい…!」
戸惑うルグの手を引き、キョウはキッチンに向かった。
「じゃーん」
キッチンの作業台の上には、薄く伸ばした二枚の生地と、大きさも形も様々なクッキーの抜き型が並んでいた。丸や四角といったオーソドックスなものから、花や動物をかたどったもの、アルファベットなど…その数は数十個に渡る。
「今日はクッキーを作ろうと思って。せっかくだから、今うちにある抜き型を全部並べてみたんだ」
「こんなにたくさん…」
「すごいでしょ。これは最近買ったやつで、こっちはアルバイト先のカフェで譲ってもらったやつで…。まさか僕も、こんなに持ってるなんて思わなかったよ」
雑貨屋やオンラインショッピングで、一つ数百円で買えるクッキーの抜き型。その手軽さと可愛らしさに惹かれて集めるうちに、ちょっとしたキョウのコレクションになっていた。初めて見るクッキー型の数々に、ルグも興味津々のようだ。
「もしかして、ちょっと違うって…」
「うん。食べるのもそうだけど、今日は作るのも手伝ってほしくて」
一味違うお手伝いを持ちかけられたルグ。だが、その表情には期待と不安が入り交じっていた。
「でも…オレ、やったことない」
「大丈夫。やってみようよ」
キョウはエプロンと大きめのポリ手袋を差し出し、優しい眼差しを向ける。ルグは迷いながらもそれらを受け取ると、小さく頷いた。
生地に軽く打ち粉をふったら、端から順に型抜きしていく。生地が適度な固さに冷やされているおかげで、作業しやすくなっている。先ほど生地を冷蔵庫で休ませたのはこのためでもあった。しかし、順調に型抜きを進めるキョウの隣で、ルグはなかなか手を動かせずにいた。一通りやり方は教えてもらったものの、目の前にある無数の選択肢に戸惑いを隠せないようだ。
「そんなに深く考えなくていいよ。正解はないから、ルグのやりたいようにやってみて」
「オレの、やりたいように…」
キョウの言葉に、ルグは丸いクッキー型を手に取り、生地の上に重ねて軽く力を込める。一枚のキャンバスから、満月のように丸い生地がくり抜かれた。
「やった…!」
初めての体験にルグは目を輝かせる。しかし、鋭いツメの生えた手ではくり抜いた生地を掬うことが難しいようで、奮闘するうちに生地がぐにゃぐにゃになってしまった。
「あっ…」
歪になってしまった満月を見てしょんぼりと耳を垂らすルグ。キョウはその生地を受け取り、クッキングシートを敷いた天板にそっと並べる。
「大丈夫。これもちゃんと美味しいクッキーになるよ。もう一回やってみよう?」
その後はルグが型抜き係、キョウがそれらを天板に並べる係を担当した。型抜きできるスペースがなくなったら、生地をひとまとめにして再びのばし、新しいキャンバスをつくる。数十分後、クッキングシートを敷いた天板の上には様々な形のクッキー生地が並んだ。
「すげえ…オレにもできた」
「上手だったよ。どう?お手伝い、楽しかった?」
「おう!楽しかった!これを焼いたら、クッキーになるんだよな?」
打ち粉で頬を少し汚したまま、焼き上がりを思い浮かべて胸を躍らせるルグ。どうやらお手伝い作戦は大成功のようだ。食事の時以外にはほとんど見せたことのない無邪気なその姿に、キョウもつられて微笑んだ。
――
余熱したオーブンでクッキーを焼く間、二人はキッチンの後片付けに取りかかった。キョウ一人で済ませるつもりだったが、最後まで手伝いたいというルグの申し出により、作業台とテーブルの拭き掃除をお願いすることにした。
「ねえ、ルグ」
キョウは洗い物をしながら、ふきんでテーブルを拭くルグに話しかける。
「なんだ?」
「僕、ルグのこともっと知りたいんだ。せっかくこうして一緒に暮らしてるのに、あんまり話せないし、二人で過ごす時間も少ないでしょ?」
お菓子屋さんを夢見て試作を重ねるキョウと、衣食住と引き換えに味見係を担うルグ。食事以外であまり交わることがない、ビジネスライクな二人の関係。少なくともキョウは、これから共に暮らす上でこの現状を変えなければならないと考えていた。
「クッキー作りのお手伝いを『楽しい』って言ってくれた時、嬉しかったんだ。知らないルグの一面が見られて、仲良くなれた気がして。だからルグのこと、もっと教えてくれないかな」
素直に紡がれるキョウの言葉。ルグは少しまごついた様子を見せたが、ふきんを軽く畳んでテーブルの隅に置くと、承諾の返事の代わりに、椅子に腰掛けてキョウの方へ向き直った。
「ずっと聞きたかったことがあって…ルグって、今何歳なの?」
「…十五」
「十五歳か〜。じゃあ僕と五つ離れてるね」
「えっ、じゃあ…ザラメって…」
ルグは指折り数えた後、はっと何かに気づいたように顔を上げる。
「大人…⁉︎」
「そう、二十歳。成人済みです」
「嘘だろ⁉︎」
「あはは、よくそんな反応されるよ」
背は高い方だが、童顔で体の線が細いキョウは、実年齢よりも低く見られることが多い。滅多に飲まないが、酒類の購入時は必ず店員から声をかけられるし、アルバイトの面接でも、店長に履歴書の生年月日と自身の顔を何度も見比べられたほどだ。
「あ、そうそう。もう一つ聞きたいことがあったんだ。ルグって、なんでも食べられるの?好き嫌いとか、アレルギーはない?」
「いや、特に…」
「じゃあ、チョコレートは?」
「好きだぜ」
「ブドウは?」
「食べれる」
「玉ねぎは?」
「嫌いじゃない…って、なんでそんなピンポイントなんだよ」
「え、だって…犬に食べさせちゃいけないってネットで見たから」
「なっ…オレは犬じゃねぇ!」
犬扱いされてプライドが傷ついたのか、ルグはガタッと椅子から立ち上がり、毛を逆立てて怒りを露わにする。
「ごめんごめん。いつもご飯作る時に気になってたからさ」
いくら人間に通ずる部分が多いとはいえ、ルグはイヌ科の狼獣人だ。キョウは日々の献立を考える上で、彼に食べてはいけないものが存在するのではないかと心配していた。好き嫌いがなくチョコレートやフルーツも問題なく食べられるのであれば、今後のお菓子作りのレパートリーも広がるだろう。
「あっ、ルグは僕に聞きたいことない?」
「へっ?そうだな、うーん…」
突然質問の権利を与えられ、ルグは面食らってしまう。
「えっと…ザラメはいつからお菓子を作ってるんだ?」
「ネットショップは一年くらい前からで、お菓子作りを始めたのは……覚えてないや。でも、記憶にないくらい小さい頃から作ることに興味があったのは確かかな」
「好きだったんだな、お菓子作るの」
「まあね」
調理器具を手際よく洗いながら、キョウはルグからの質問に答えていく。
「あと…ザラメは、ここに一人で住んでるんだよな」
「うん、そうだよ」
「その…家族は、一緒じゃないのか?」
家族。その言葉にぴたりと洗い物の手を止めたキョウ。水道から流れるシャワーがシンクに跳ね、濁った泡が洗い流されていく。聞いてはいけないことを聞いてしまったと、ルグは少年ながらに察する。少しの沈黙を経て、キョウは口を開いた。
「……ひとりだよ。家族とは離れて暮らしてるんだ」
「そ、そうか」
その時、張り詰める空気を断ち切るようにして、オーブンが高らかに焼き上がりを告げた。
「あ、クッキーできたみたい。えーと、ミトンはどこにあったかな…」
独り言をこぼしながら、戸棚や引き出しを開けてミトンを探すキョウ。その表情と声色はいつもと変わらない。しかしルグは、穏やかな彼の目がわずかに揺らいだのを見逃さなかった。キョウがオーブンに手をかけると、庫内からの熱気とともに、黄金色に輝く生地が姿を現した。
リビングに甘い香りが広がる。型抜きクッキーの出来上がりだ。
――
天板に乗せたまま粗熱をとった後、クッキングシートからそっとクッキーを剥がす。
「味見、する?」
ルグは差し出された焼きたてのクッキーを受け取り、口にする。ソフトな食感の生地はまだほんのりと温かく、歯で力を加えると、優しい甘さとともにしっとりと雪のように溶けていく。
「うまい…!」
「よかった。今は焼きたてだから柔らかいけど、冷めたらもっとサクサクすると思うよ」
「あ、これ。オレが型抜きしたやつだ!」
「上手に焼けてるね。ほら見て。このクッキー、ルグみたいじゃない?」
「わぁかっこいい狼…ってこれ犬じゃねぇか!やっぱりからかってるだろ!」
天板に散りばめられたクッキーをあれこれ指差しながら、型抜きの思い出を振り返る二人。お手伝いを通じて、その距離は少し縮まったようだ。
「あ、そうだ!ラッピングの材料取ってこなきゃ」
「ラッピング?誰かにあげるのか?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど…せっかくたくさん作ったし、包むのもやっておこうかなって思って。すぐ戻るから、好きに食べてていいよ」
「おう、わかった!」
自室へ向かうキョウの背中を見送った後、ルグは初めて型抜きをした丸いクッキーを手に取る。オーブンでの焼成を経て、美しく色づいた一枚のクッキー。しかしルグは、やや不安定なその形に、先ほどのキョウの目の揺らぎを重ね合わせる。
キョウはいつも落ち着いた雰囲気で、優しく微笑みながら歩み寄ろうとする。でも、その穏やかな笑顔の中に隠れた見えない何かを感じとるたび、ルグは反射的にそっけない態度を取ってしまうのだった。彼は一体何者なのだろうか。なぜこんな田舎に一人で暮らしているのだろうか。なぜ、素性のわからない自分を住まわせてくれるのか。頬の傷跡を、そっと指でなぞる。
「考えても、しょうがないか…」
もやもやとした感情を飲み込むように、歪んだ満月を口に放り込んだ。