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いつか魂の彼方で

ー/ー



 目の前には、ただ、暗闇があった。それはひどく曖昧で、身体の感覚すらなく、どこかまどろみめいた、暗黒の闇。
 自分は、なにをしているのか。ここはどこなのか。
 あの人は、どこにいるのだろう。自分が、守りたかったもの。守りたかった笑顔。いつまでも、胸にあった憧憬。
 それは、今もこの胸にある。まどろむようなこの闇の中で、唯一、確かなもの。
「――――唯一?」
 自分の思いに、不意に疑問を抱く。唯一、確かなものがこの思いならば、自分は何者なのか。自分自身の存在すら、定かではない己は、一体、何者であったか。
 それは、思い出さなくてはいけないことのような。
 あるいは、思い出してはいけないことのような。
 それは、燃え上がるような強い思いであったような。
 あるいは、凍てつくような冷たい行為であったような。

 身体が、震える。それを止めようとするかのように、両腕が自然に己を抱いた。
 恐ろしい。ただ、ひどく恐ろしい。
「――――そうだ」
 唐突に、それは記憶の中に現れた。それは、あの人の笑顔。
 ――――血に濡れた、最期の、笑顔。
 赤く染まった、自分の両手。
 最後に聞いた、あの人の声。
 それは、確かに、自分を呼んでいた。自分を、呼び覚まそうと。自分を、取り戻そうと。
「――――行かなければ」
 この感じ。あの人は、まだそこにいる。行かなければ、あの人のところへ。
 ――――そして、このまどろみに、終焉を。
「――――終わっ……た?」
 倒れたザムエルを見下ろし、紅香がつぶやく。
 そこにいる全員、言葉もない。だがそれは、言葉なき肯定の意のように、紅香には思えた。
 徐々に、周囲の景色も、紅香の姿も、元のものへと戻って行く。それがどうやら、すべてが終わった証なのだということに気づき、紅香は静かに息をついた。
「……ザム……」
 もう一度、倒れた彼の姿を顧みて、紅香はつぶやく。
 アネッタのことを知ったといっても、自分がその頃の自分――――アネッタになったわけではない。それは、自分とよく似た人の、過去の記憶。それが蘇ったからといって、自分は自分―――火ノ宮紅香だ。
 だが、倒れた彼を見ると、ただ記憶があるというだけでは説明がつかないほど、ひどく胸が締め付けられた。
「だから……言ったのに。苦しむ覚悟はあるか……って。……ばか」
 小さくつぶやき、紅香は前を向く。
 ――――刹那。
「馬鹿だなんて……ひどいなぁ……聖女様」
 ゆらり、と。
 闇が、立ち上った。

「……紅香!」
 静馬の叫び声に、紅香は反射的に振り返る。
 そこには、まるで闇そのものと化した、人の形をした影があった。そのシルエットは、確かにザムエルのそれと酷似している。
「……ザムエルっ!?」
 再び剣を構えなおす紅香に、その影の顔に三日月のような亀裂が入る。
 ――――笑っている。
嘲り、愉悦、侮蔑――――それらをこれ以上ないほど込めて、その影は笑っていた。
「おやァ? 聖女様――――案外、鈍いんですねェ? まあ、その方がかわいげがあるってもんですが」
 その笑いに、紅香がぐっと歯を噛みしめる。
「どういうこと!?」
「ザムエル=ミューラーなんて人物が……さっきまで生きていたと、本当に思っているのですか?」
 息を飲む紅香に、影の顔に今度は目が現れる。細く、ぐにゃりと歪められたそれは、困惑する紅香たちをさも愉快げに見る。正体のわからないその姿とあいまって、それは不気味に見るものたちの心を突き刺した。

「500年前、ザムエル=ミューラーはとうに死んでいた。悪魔にその魂を食われてね。聖女、アネッタ――――お前を殺したのは……その姿をした、この……俺だ」
「あんた……じゃあ、いったい誰なのよっ!」
 紅香がその表情を怒りに染め、影に向かって大剣を構える。
「俺は……悪魔、バル・ヴェリト」
「……悪魔……?」
 困惑に身を硬くする紅香に、背後から水葉の声が飛ぶ。
「バル・ヴェリト!? 『バアル』の名を冠する悪魔が、なぜこんな場所に!?」
「水葉、知ってるのか?」
 翔悟の問いに、水葉がうなずく。
「……バル・ヴェリトは地獄の大悪魔の一人。悪魔の将の一人である、『バアル』の名を継ぐものです。奸計を巡らし、人間を殺人という行為へと誘惑する力を持っていると言われています……そして、500年前……聖女アネッタが、あの山頂の教会へと封じたはずの、悪魔……」
 動揺を隠し切れない表情で説明する水葉に、バル・ヴェリトがおどけた様子でぱちぱちと拍手をする。
「はい、シスター、よくできました。そういうことだ、聖女様ァ……。ザムエルのことは思い出したのに、俺のことを忘れてるなんて、悲しいなァ?」

「……あんたが、全部やったの?」
 静かに、だが確実に。その言葉に燃える怒りをこめて、紅香が言う。
「ザムにとり憑いてアネッタを殺させたのも、ベルリンで多くの人を殺したのも、村を悪魔たちに襲撃させたのも、全部、あんたが――――!」
「……そうさ。だが、ひとつ、ちょっと違うな。ザムエルにお前を殺させたんじゃない。ほんとはそうしたかったんだが、こいつ、以外に頑固でねェ。決してお前を殺そうとしなかった。それどころか、いつか俺の誘惑に負けることを恐れて、お前と決別することを選んだのさ。泣かせるよなァ? ……ひひひ、ひゃひゃひゃひゃ!」
 徐々に、バル・ヴェリトの姿が人間のそれを成していく。それは黒服に身を包んだ、冷酷な、そしてそれ以上に狂気を秘めた笑みの、青年の姿。
「仕方ないから、俺が自らザムエルの姿でやってやったのさ。あの時のお前の顔、ぐっと来たぜェ? くくくくく……」
「う……うおおおおおあああぁぁぁぁっ!」
 不意に、紅香が駆けた。沸点を超えた怒りを胸に、大剣を掲げて、その元凶である、悪魔の元へ。
 だが、その剣戟を悪魔は片手で止める。

「おっと、メインディッシュにはまだ早いぜ。まずは俺の喜劇のシナリオを狂わせてくれた、人形どもに退場してもらわねえとなァ!」
 悪魔、バル・ヴェリトは紅香の剣を振り払うと同時に、その右手を振り上げる。
「――――ぐっ!?」
 途端、未だワイヤーでバル・ヴェリトを拘束していたウィノナが膝をつく。
「身体が……うごか……な……」
 悪魔の影が、すっと、ウィノナの前に移動した。同時に、ティモやカッシュもがくりと膝をつく。
 それを横目で一瞥すると、バル・ヴェリトは四つんばいになったウィノナのあごを、右手で持ち上げ、上を向かせる。屈辱的なその姿勢に、ウィノナが歯噛みする。
「人形は人形らしく、糸の通りに踊ってりゃあ、こんな惨めに這いつくばらなくて済んだのになァ? お前ら人間は、俺たちからすれば所詮、おもちゃだ。思うとおりに動かなくなったら、捨てられておしまいなんだぜェ? ……こんな、風になァッ!」
 叫びとともに、バル・ヴェリトはウィノナを蹴り上げた。
「あぐッ!」
「人形の分際でッ! この俺の描いた劇のシナリオを狂わせやがって! てめえらは俺の言うとおりに動いてりゃいいんだよッ!」

 叫びながら、バル・ヴェリトはさらにウィノナを蹴ろうと、足を振り上げる。
 だがそれを、阻むものがあった。
 紅い紅い、灼熱の、炎。それは、それを放ったものの怒りを代弁するかのように荒れ狂い、悪魔の動きを止めた。
「……あんた、私が目的なんでしょ。だったら、さっさとかかって来なさいよ。あんたのど下手くそな脚本になんかあと一秒たりとも付き合いたくないから、ちゃっちゃと終わりにしようよ」
 それは、聖女の魂を受け継いだ少女、火ノ宮紅香の炎だった。
「同感だな。人生のうちで5本の指に入る無駄な時間だぜ」
「……あなたとのダンスの次に、無駄な時間ですね」
 そして、その両脇には翔悟と水葉が立つ。
「……どいつもこいつも……うぜェったらねェ……。前世で自分を好いていてくれた男に人形にされてしまう聖女様……ってのが俺の描いた喜劇のシナリオだってのに……もういい。とっとと殺してやるッ!」
 悪魔が吼えると同時に、三人の周囲に彼の操る死者が召喚される。その数、ざっと30。
「またそれかよ、いい加減、見飽きたぜッ!」
 翔悟が叫びながら雪乃を振るう。その剣閃から放射状に、氷の槍が放たれる。

「アンセム、ボウガン!」
 水葉の声とともに、光の矢が周囲を走る。
「静馬、行くよっ!」
「合点、了解!」
 紅香と静馬が、その両手に顕現させた炎を炸裂させる。
 その一瞬で、30人の僧兵たちは消え去っていた。だが、悪魔の嘲笑はそれを見てなおさら深くその顔にしわを刻む。
「おっと、さすが主役級の方々。だが、今度はもうちょっと多いぜェ?」
 ぱちんと、バル・ヴェリトは指を鳴らす。刹那、今度は50人近い数の死霊が召喚された。その中には、先ほど消滅させたはずの兵と同じ顔のものも混ざっている。
「ちっ、ここに来てマジに舞踏会になってやがる。野郎、どうやってあんな大量の死霊を一度に呼び出してんだ」
 さすがに疲れを見せる翔悟が、三人を取り囲む死霊たちをにらんで、うめく。
「……あいつ」
 その翔悟の言葉に、バル・ヴェリトを鋭く見つめていた静馬が、その言葉の端に深い怒りをにじませる。
「さっき……一度消滅させられた魂たちを、むりやり呼び戻して再召喚してる……」
「……どういうこと?」

 紅香の問いに、静馬がめずらしく、その拳を震わせている。それは、彼の名のごとく、ひどく静かな、しかし灼熱の熱さを秘めた、怒り。
「つまり……さっきから彼らは、死んでは呼び出されて、また死の苦痛を味わわされてる……ってことだ。きっと今日、彼に召喚されたのはみんな同じ人々だ……」
「……悪魔め……ッ!」
 静馬の言葉に、水葉が歯噛みする。
 確かに、彼らが今日……いや、あの悪魔が暗躍するたびに犠牲になってきたのだとしたら、その苦痛は想像を絶するものだろう。なにが起きているのかもわからないままに戦わされ、殺され、また呼び出され……。
「それが何だァ? そのとおり、俺は悪魔だよォ? 言ったろ、お前ら人間は俺のおもちゃ、壊れたらポイして、新しいのと取替えりゃいいんだよォ! うひゃひゃひゃひゃ!」
 紅香の思考を、切り裂くように悪魔の嬌声がさえぎる。
「ほらァ……お前らも、さっさと俺のコレクションになっちまえよ! 楽しく人形劇を演じようぜェ!?」
 悪魔の叫びに、操られる死者たちが紅香たちに群がるようにして突進する。あっという間に、翔悟と水葉の姿も見えなくなる。剣戟や叫び声からしてとりあえずは戦っているようだが、これではいつまでも持たない。

 だが、紅香もすでに二人を気にしている余裕はなかった。目の前に繰り出される剣や槍から身をかわすので精一杯だ。
「くっ……くそぉっ!」
 徐々に、死者たちの包囲網が紅香をじりじりと追い詰めて行く。剣が、槍が、矢が、その身体を痛みで支配していく。静馬の防御も間に合わない。相手が多すぎるのだ。
「……このっ!」
 思わず、紅香が強引に大剣を薙ごうと一歩踏み出す。
「紅香、だめだっ!」
 静馬の悲痛な叫び声も、その耳に届いたのはすでにそれが起こった後。
「――――え?」
 踏み出したその足を、死者の突き出した槍が――――貫き通していた。
「う……ああああああああっ!」
 痛覚がおかしくなりそうな勢いで、激痛がその身体を駆ける。その苦痛に耐え切れず、紅香は思わず倒れこむ。
 起きなければ。立ち上がらなければ、このまま――――。思考はそこにたどり着いても、身体が痛みに屈服してしまったかのように動かない。
「どうやら、チェックメイトだなァ? 聖女様」
 バル・ヴェリトの声とともに、死者たちがゆっくりと周囲を囲む。

「ちょっと予定と変わったが、これも悪くないな。悪魔に敗北して、人形にされてしまう憐れな聖女様……。くくくっ……いーねえ、なかなか泣ける喜劇だぜェ!? はひゃひゃひゃ!」
 嬌声を響かせ、悪魔が笑う。そして、その瞳が、酷薄に、紅香を見た。
「……やれ」
 その声に、ゆっくりと、死者たちがそれぞれの得物を構える。
 ――――起き上がらなければ……。
 必死の思いで起こした上体の胸ポケットから、それが落ちた。
「……あ」
 それは、アネッタを自分のドッペルと思っていたときに、彼女が落としたペンダント。思わず、紅香がそれに手を伸ばした、刹那。
 ――――すっと、その手に誰かが、ペンダントを握らせた。
 そして、紅香の身体から、光り輝くような、不思議な炎が立ち上った。それとともに、すう、と足から痛みが消える。
 その瞬間、まぶたの裏に、その光景が映った。
――――アネッタ様、これ……受け取ってください。スタールビーっていうんです。炎のお守りだそうですよ。

虚空に浮かぶそれは、きっと、遠い過去の記憶。
少年のザムエルと、アネッタ。
――――私に、炎のお守り? はは、まあいいか。ありがとう。大切に、するよ――――。
それは、一秒にも満たない時間だった。二人の、微笑む姿が、一瞬だけ、まぶたの裏に映った。
次の瞬間には、それは消えていた。代わりに見えたのは、輝く炎に包まれ、消えていく死者たちの姿。それは、炎に焼かれる苦痛とは無縁の、穏やかな笑みに満ちていた。
――――そして、すべての死者たちは、光とともに消えた。
「なっ!? なんでだァ!? なんで消えるッ!?」
 その突然の出来事に、勝利を確信して疑いすらしなかった、悪魔――――バル・ヴェリトの思考は混沌へと堕ちる。
「くそォッ! もう一度、呼び出し……なんでだァ!? 魂がねェ……やつらの魂が、ねェ!!」
「――――そっか。わかったよ、アネッタ。あなたの炎の、使い方」
 紅香が、静かにつぶやく。その手に、今は剣はない。代わりに、あの輝く不思議な炎をまとった拳が、そこにあった。

 ぐっとその拳を握り、紅香は未だ混乱の渦中にある悪魔を鋭くにらんだ。
「――――あんたは、許さない。自分の下らない欲望のために、多くの人々を利用し、あざ笑い、その運命を残酷に歪めたあんたを――――」
 紅香が、駆ける。その拳に、怒りを、悲しみを、そして――――悲劇を繰り返させないという、意思を乗せて。
「――――私の炎が、許さないっ!」
 輝く炎の拳を、悪魔にたたきこんだ。
「……ひ、ぎゃあああああぁぁぁぁッ!」
 刹那、輝く炎が、悪魔を飲み込んだ。静かに、穏やかに消えていった死者たちと違い、それは悪魔を灰にせんとばかりに猛り狂う。
「熱い、熱い熱い熱いッ! 死ぬッ! 死んじまうッ! 嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ! 死にたくないィィィィ……ッ!」
「……それが、あんたがみんなに味わわせてきた苦しみだよ。……じゃあね、悪魔」
 ドン、と。一瞬、一層、炎が爆ぜた。
「……ひ、ぎいいいいぃぃぃぃ……ッ」
 そうして。
 悪魔、バル・ヴェリトは一片の灰へと帰した。

 それは、刹那の幻だったのだと思う。少なくとも、彼があの悪魔の中で耐えてきた500年に比べれば、一瞬にも満たなかったであろう。
 でも、その長くて、永い時を、私たちは越えて、再び出会った。
「――――アネッタ、様……」
 そこに、彼と私は、いた。あの――――遥か昔、私たちがはじめて出会った、あの草原。
「……久しぶり。大変だったね――――長い間」
 違和感なく笑えているのか、少々、自信がない。自分の魂を受け継いでいるとはいえ、自分とは違う少女の身体を借りているのだ。恐らく、彼には違和感があることだろう。
 それでも彼は、その遠い過去を顧みるように、少し悲しげに笑って見せた。
「……すみません。いろいろと」
「なんで謝るのよ。最後、この子にあのお守りを渡してくれたの――――ザムでしょ」
 そう笑って見せると、ザムは、その表情を暗く落とした。
「いえ――――そんなことでは償えないことを、私はしてしまった。悪魔に身体を奪われていたとはいえ――――多くの人を手にかけた……あなた様、さえも」
「そんなの、ザムがやったわけじゃないじゃない。あの悪魔がやったことなんだから」
 だが、その程度の言葉では、彼の悔恨は動かないと分かっていた。
「ですが――――」
「私がもっとしっかりしていれば、でしょ?」

 うつむく彼の言葉を先回りし、アネッタが言う。その言葉に、ザムエルが思わず顔を上げた。
「私たちは、人間なんだよ。すべてを守ることも、すべてを生かすこともできない。指先一つで奇跡を起こすことなんてできない。だから人間の魂は、出会いと別れを繰り返して、移ろうの」
 アネッタの言わんとしていることがつかめないのか、ザムエルの表情はすっきりとしない。
「そして、いつか人は、誰かを救う。奇跡をつかみとる。――――今日、奇跡は起きたのよ。私の魂を継ぐ少女がここにいたこと。悪魔と戦う力を持つ、少女の仲間がいたこと。悪魔に抗う、強い意志を持つものがいたこと。そのどれが欠けていても、奇跡は起きなかった」
 静かに言うアネッタにザムエルがすがるような視線を送る。それは、500年前――――出会った時の少年となにも変わっていない、無垢な瞳。
「それは、たゆたい続けてきた各々の魂が、ここに行き着いた結果。私たちみんなが、出会い、別れ、その魂の旅を続けてきた結果、起きた奇跡。――――いい? ザム。私たちは、これからも、その旅を続けていくの。産まれ、生き、死に――――その中で、なにか失敗をしたのなら、それを心に刻み込めばいい」
 ザムエルが、再びうつむく。やがて、かすかな嗚咽の声とともに、少しずつ、小さな水滴がぽつぽつと地面を濡らしていく。

「そうすれば、きっと、心は見つけ出す。悲劇を貫き、惨劇を切り伏せる、魂の炎を―――――」
 アネッタが、ザムエルの目の前で拳を作る。その拳を、彼女自身の炎が紅く包んだ。
「その頃に、また会いましょう。その魂の向こう側で――――」
 静かに、音もなく、ザムエルは顔をあげた。その頬に残る涙はまだ乾いていなかったが、その表情は涙を乾かそうとするかのように暖かで。
「……ありがとう。アネ……ッタ……」
 はかなく消えていく彼の姿を、ことさら悲哀の色に染めていた。
 ……そうして、ザムエル=ミューラーの姿は、この世から消えた。
「……ほんとに、ずるいんだから。最後の最後で、ちゃんと名前で呼ぶなんて、さ……」
 そして、アネッタの、どこか紅香とは少し違う大人びた笑みも、徐々に消えていく。自分もそろそろ、この少女の一部に戻らなければならないようだ。
 わずかに皮肉をこめて、アネッタは笑う。いつになるかはわからないけれど。会えるかどうかも定かでないけれど。その時の魂が、自分たちを覚えているかわからないけれど。
「――――いつか、また――――どこかで」
 その言葉を最後に、アネッタとしてのその意識は、深い眠りについた。
「生きたるとき、汝はその魂をかけて悪魔と戦った。汝、たとえその身体が縛られようとも、魂の最期のひとかけらにて、悪魔を打ち砕いた。戦いは終わった。汝の魂の安らかんことを……」
 翌日。昨夜の死闘がまるでただの夢であったかのような、穏やかな午後。
 前崎市の教会で、ザムエル=ミューラーの葬儀が行われていた。500年もの時がすぎてしまった故郷に戻るよりも、例え少しでもアネッタの側にいることを、彼ならば望むだろうというからだった。
「……アーメン……」
 水葉の最後の祈りの言葉に、それぞれが瞳を閉じ、黙祷する。そこにいるのは、紅香らのほかには、ウィノナ、ティモ、カッシュらしかいない、ひどく小さな葬儀だった。
「これで……よかったのかな?」
 静馬が、かすかに悔いるように、目を伏せる。
「……よかったんだよ」
 ゆっくりと瞳を開き、紅香が言う。
「アネッタが言ってた。私たちの魂は、生と死を繰り返し、やがて奇跡を起こすんだって。だから、またいつか、きっとめぐり会うんだよ。それが、きっと二人の……奇跡。私と静馬だって、また出会えたんだから」
「……そうか。そうだね」

 静かに微笑む紅香に、静馬は笑顔を返す。
「……ふう。しっかし、あんたらにはすっかりだまされちまったな。まさか、悪魔の術を解いているとは思わなかったぜ」
 不意に、翔悟がウィノナらに向き直って言う。
「その少女の炎を受けて、わずかずつだが術が解けていったのだ。そのことと500年前の聖女が関わっていることから、私たちはその炎に悪魔の術をはらう力があると推察した。後は、ごらんの通りだ」
 ウィノナが、腕を組みながら言う。
「悪魔より優れた脚本家がいたってわけだな。で、あんたらはどうする? もう、教会へは戻れんだろう」
「祖国へ帰る。我々の国にも、あなた方のように民間で活動するエクソシストが必要だろう」
「……そうか。しかしあんた、悪魔の呪縛が解けたらしゃべり方が全然違うのな」
 翔悟が、ウィノナに肩をすくめて見せる。
「ふふ。私もそれは苦労したさ。あの話し方で演技をするのはな」
「ふくたいちょーはねぇ、ほんとは優しい、みんなのお姉さんみたいな人なんだよ」
「こ、こらティモ! 余計なことを言うんじゃない!」

 赤顔して拳骨を振り上げるウィノナと、さっさとカッシュの影に逃げ込むティモに、一同が破顔する。
「と、とにかく! あなたたちには礼を言う。あのザムエル司祭と同じく、我々も悪魔の術で長い時を、魂を縛られて生きてきたのだ。これからは……己の意思で、生きていくことができる。……ありがとう」
 そう言って微笑むと、ウィノナは紅香のほうに向き直った。
「それと……聖女の魂を継ぐ少女よ。悪魔の人形と化していた部下たちの魂を……停滞していた魂を、解放してくれてありがとう」
「ううん、私も許せなかったからさ、そんなの。私がそうしたかっただけなんだから、お礼なんていいってば。そ、それより、私がぶん投げちゃった時のケガとか大丈夫だった?」
 恐る恐る聞く紅香のその言葉に、一瞬、ウィノナはぽかんとした表情を作ってから、さもおかしそうに笑った。
「はははは……おかしな娘だ。つい先日まで殺しあっていた相手のケガの心配をするとはな。……なるほど、聖女の魂を受け継ぐとは、伊達ではないらしいな」
「えっ? えっ? 私、なんか変なこと言った?」
 一人困惑顔で自分の顔を指差す紅香以外の面子が、声をあげて笑う。
「……ふう……停滞する魂、か……」

 ひとしきり笑ったあと、静馬がふと、愁いを帯びた表情で一人ごちた。
「ん? どうしたの?」
 その表情に、紅香が思わず静馬を振り返る。
「停滞してる……っていうなら、僕もそうなのかなあ……なんて思ってさ」
「ええー? そう?」
 その愁いを帯びた表情を、紅香はさらっと疑問符で流す。
「毎日毎日、死霊とどたばたしたり、戦ったり……で、背後にはいつも静馬がいてさ。いつも余計なこと言ってきたり、してきたり。私は、停滞どころかすごく早い流れるプールを泳いでる感じだよ?」
 紅香の言葉に、今度は静馬がぽかんとする。
「その私と一緒にいるんだから、停滞なんて、ないない! 大体、自分で言ってたじゃん。変わらない、大切なものがあればいいみたいなこと言ってたじゃん。だから、静馬はそのままでいいんだよ」
 あっけらかんと笑顔で言う紅香に、静馬がかすかに微笑みながら、嘆息した。それは、これまでに何度も見せ合ってきた、表情。
「あーあ、紅香にそんな風に言われたら、なんか成仏したくなってきちゃったなー。僕も成仏して、生まれ変わっちゃおうかなー」

「ムカー! なんでそうなんのよ! いいから黙ってあんたは私の守護をしなさい! 勝手に死んだりしたんだから、その罪を償うまで成仏などさせーん!」
 がーがーとがなる紅香に、静馬がげんなりとした表情になる。
「それ、悪魔の魂の縛り方より、ある意味、たちが悪いって」
 その言葉に、皆が思わず声をあげて笑った。紅香も、そして、静馬自身も。
 ゆっくりと、流れていく時の中で。
 今は、これでいいのだと感じた。こうして、少しずつ、少しずつ。
 ともに生きていく中で、暖かなほうへ向かっていけばいい。
 それは、きっと。
 いつか起こる奇跡へ向かう、暖かな道筋なのだから。




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嘲り、愉悦、侮蔑――――それらをこれ以上ないほど込めて、その影は笑っていた。
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 その笑いに、紅香がぐっと歯を噛みしめる。
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「あんた……じゃあ、いったい誰なのよっ!」
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「俺は……悪魔、バル・ヴェリト」
「……悪魔……?」
 困惑に身を硬くする紅香に、背後から水葉の声が飛ぶ。
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 途端、未だワイヤーでバル・ヴェリトを拘束していたウィノナが膝をつく。
「身体が……うごか……な……」
 悪魔の影が、すっと、ウィノナの前に移動した。同時に、ティモやカッシュもがくりと膝をつく。
 それを横目で一瞥すると、バル・ヴェリトは四つんばいになったウィノナのあごを、右手で持ち上げ、上を向かせる。屈辱的なその姿勢に、ウィノナが歯噛みする。
「人形は人形らしく、糸の通りに踊ってりゃあ、こんな惨めに這いつくばらなくて済んだのになァ? お前ら人間は、俺たちからすれば所詮、おもちゃだ。思うとおりに動かなくなったら、捨てられておしまいなんだぜェ? ……こんな、風になァッ!」
 叫びとともに、バル・ヴェリトはウィノナを蹴り上げた。
「あぐッ!」
「人形の分際でッ! この俺の描いた劇のシナリオを狂わせやがって! てめえらは俺の言うとおりに動いてりゃいいんだよッ!」
 叫びながら、バル・ヴェリトはさらにウィノナを蹴ろうと、足を振り上げる。
 だがそれを、阻むものがあった。
 紅い紅い、灼熱の、炎。それは、それを放ったものの怒りを代弁するかのように荒れ狂い、悪魔の動きを止めた。
「……あんた、私が目的なんでしょ。だったら、さっさとかかって来なさいよ。あんたのど下手くそな脚本になんかあと一秒たりとも付き合いたくないから、ちゃっちゃと終わりにしようよ」
 それは、聖女の魂を受け継いだ少女、火ノ宮紅香の炎だった。
「同感だな。人生のうちで5本の指に入る無駄な時間だぜ」
「……あなたとのダンスの次に、無駄な時間ですね」
 そして、その両脇には翔悟と水葉が立つ。
「……どいつもこいつも……うぜェったらねェ……。前世で自分を好いていてくれた男に人形にされてしまう聖女様……ってのが俺の描いた喜劇のシナリオだってのに……もういい。とっとと殺してやるッ!」
 悪魔が吼えると同時に、三人の周囲に彼の操る死者が召喚される。その数、ざっと30。
「またそれかよ、いい加減、見飽きたぜッ!」
 翔悟が叫びながら雪乃を振るう。その剣閃から放射状に、氷の槍が放たれる。
「アンセム、ボウガン!」
 水葉の声とともに、光の矢が周囲を走る。
「静馬、行くよっ!」
「合点、了解!」
 紅香と静馬が、その両手に顕現させた炎を炸裂させる。
 その一瞬で、30人の僧兵たちは消え去っていた。だが、悪魔の嘲笑はそれを見てなおさら深くその顔にしわを刻む。
「おっと、さすが主役級の方々。だが、今度はもうちょっと多いぜェ?」
 ぱちんと、バル・ヴェリトは指を鳴らす。刹那、今度は50人近い数の死霊が召喚された。その中には、先ほど消滅させたはずの兵と同じ顔のものも混ざっている。
「ちっ、ここに来てマジに舞踏会になってやがる。野郎、どうやってあんな大量の死霊を一度に呼び出してんだ」
 さすがに疲れを見せる翔悟が、三人を取り囲む死霊たちをにらんで、うめく。
「……あいつ」
 その翔悟の言葉に、バル・ヴェリトを鋭く見つめていた静馬が、その言葉の端に深い怒りをにじませる。
「さっき……一度消滅させられた魂たちを、むりやり呼び戻して再召喚してる……」
「……どういうこと?」
 紅香の問いに、静馬がめずらしく、その拳を震わせている。それは、彼の名のごとく、ひどく静かな、しかし灼熱の熱さを秘めた、怒り。
「つまり……さっきから彼らは、死んでは呼び出されて、また死の苦痛を味わわされてる……ってことだ。きっと今日、彼に召喚されたのはみんな同じ人々だ……」
「……悪魔め……ッ!」
 静馬の言葉に、水葉が歯噛みする。
 確かに、彼らが今日……いや、あの悪魔が暗躍するたびに犠牲になってきたのだとしたら、その苦痛は想像を絶するものだろう。なにが起きているのかもわからないままに戦わされ、殺され、また呼び出され……。
「それが何だァ? そのとおり、俺は悪魔だよォ? 言ったろ、お前ら人間は俺のおもちゃ、壊れたらポイして、新しいのと取替えりゃいいんだよォ! うひゃひゃひゃひゃ!」
 紅香の思考を、切り裂くように悪魔の嬌声がさえぎる。
「ほらァ……お前らも、さっさと俺のコレクションになっちまえよ! 楽しく人形劇を演じようぜェ!?」
 悪魔の叫びに、操られる死者たちが紅香たちに群がるようにして突進する。あっという間に、翔悟と水葉の姿も見えなくなる。剣戟や叫び声からしてとりあえずは戦っているようだが、これではいつまでも持たない。
 だが、紅香もすでに二人を気にしている余裕はなかった。目の前に繰り出される剣や槍から身をかわすので精一杯だ。
「くっ……くそぉっ!」
 徐々に、死者たちの包囲網が紅香をじりじりと追い詰めて行く。剣が、槍が、矢が、その身体を痛みで支配していく。静馬の防御も間に合わない。相手が多すぎるのだ。
「……このっ!」
 思わず、紅香が強引に大剣を薙ごうと一歩踏み出す。
「紅香、だめだっ!」
 静馬の悲痛な叫び声も、その耳に届いたのはすでにそれが起こった後。
「――――え?」
 踏み出したその足を、死者の突き出した槍が――――貫き通していた。
「う……ああああああああっ!」
 痛覚がおかしくなりそうな勢いで、激痛がその身体を駆ける。その苦痛に耐え切れず、紅香は思わず倒れこむ。
 起きなければ。立ち上がらなければ、このまま――――。思考はそこにたどり着いても、身体が痛みに屈服してしまったかのように動かない。
「どうやら、チェックメイトだなァ? 聖女様」
 バル・ヴェリトの声とともに、死者たちがゆっくりと周囲を囲む。
「ちょっと予定と変わったが、これも悪くないな。悪魔に敗北して、人形にされてしまう憐れな聖女様……。くくくっ……いーねえ、なかなか泣ける喜劇だぜェ!? はひゃひゃひゃ!」
 嬌声を響かせ、悪魔が笑う。そして、その瞳が、酷薄に、紅香を見た。
「……やれ」
 その声に、ゆっくりと、死者たちがそれぞれの得物を構える。
 ――――起き上がらなければ……。
 必死の思いで起こした上体の胸ポケットから、それが落ちた。
「……あ」
 それは、アネッタを自分のドッペルと思っていたときに、彼女が落としたペンダント。思わず、紅香がそれに手を伸ばした、刹那。
 ――――すっと、その手に誰かが、ペンダントを握らせた。
 そして、紅香の身体から、光り輝くような、不思議な炎が立ち上った。それとともに、すう、と足から痛みが消える。
 その瞬間、まぶたの裏に、その光景が映った。
――――アネッタ様、これ……受け取ってください。スタールビーっていうんです。炎のお守りだそうですよ。
虚空に浮かぶそれは、きっと、遠い過去の記憶。
少年のザムエルと、アネッタ。
――――私に、炎のお守り? はは、まあいいか。ありがとう。大切に、するよ――――。
それは、一秒にも満たない時間だった。二人の、微笑む姿が、一瞬だけ、まぶたの裏に映った。
次の瞬間には、それは消えていた。代わりに見えたのは、輝く炎に包まれ、消えていく死者たちの姿。それは、炎に焼かれる苦痛とは無縁の、穏やかな笑みに満ちていた。
――――そして、すべての死者たちは、光とともに消えた。
「なっ!? なんでだァ!? なんで消えるッ!?」
 その突然の出来事に、勝利を確信して疑いすらしなかった、悪魔――――バル・ヴェリトの思考は混沌へと堕ちる。
「くそォッ! もう一度、呼び出し……なんでだァ!? 魂がねェ……やつらの魂が、ねェ!!」
「――――そっか。わかったよ、アネッタ。あなたの炎の、使い方」
 紅香が、静かにつぶやく。その手に、今は剣はない。代わりに、あの輝く不思議な炎をまとった拳が、そこにあった。
 ぐっとその拳を握り、紅香は未だ混乱の渦中にある悪魔を鋭くにらんだ。
「――――あんたは、許さない。自分の下らない欲望のために、多くの人々を利用し、あざ笑い、その運命を残酷に歪めたあんたを――――」
 紅香が、駆ける。その拳に、怒りを、悲しみを、そして――――悲劇を繰り返させないという、意思を乗せて。
「――――私の炎が、許さないっ!」
 輝く炎の拳を、悪魔にたたきこんだ。
「……ひ、ぎゃあああああぁぁぁぁッ!」
 刹那、輝く炎が、悪魔を飲み込んだ。静かに、穏やかに消えていった死者たちと違い、それは悪魔を灰にせんとばかりに猛り狂う。
「熱い、熱い熱い熱いッ! 死ぬッ! 死んじまうッ! 嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ! 死にたくないィィィィ……ッ!」
「……それが、あんたがみんなに味わわせてきた苦しみだよ。……じゃあね、悪魔」
 ドン、と。一瞬、一層、炎が爆ぜた。
「……ひ、ぎいいいいぃぃぃぃ……ッ」
 そうして。
 悪魔、バル・ヴェリトは一片の灰へと帰した。
 それは、刹那の幻だったのだと思う。少なくとも、彼があの悪魔の中で耐えてきた500年に比べれば、一瞬にも満たなかったであろう。
 でも、その長くて、永い時を、私たちは越えて、再び出会った。
「――――アネッタ、様……」
 そこに、彼と私は、いた。あの――――遥か昔、私たちがはじめて出会った、あの草原。
「……久しぶり。大変だったね――――長い間」
 違和感なく笑えているのか、少々、自信がない。自分の魂を受け継いでいるとはいえ、自分とは違う少女の身体を借りているのだ。恐らく、彼には違和感があることだろう。
 それでも彼は、その遠い過去を顧みるように、少し悲しげに笑って見せた。
「……すみません。いろいろと」
「なんで謝るのよ。最後、この子にあのお守りを渡してくれたの――――ザムでしょ」
 そう笑って見せると、ザムは、その表情を暗く落とした。
「いえ――――そんなことでは償えないことを、私はしてしまった。悪魔に身体を奪われていたとはいえ――――多くの人を手にかけた……あなた様、さえも」
「そんなの、ザムがやったわけじゃないじゃない。あの悪魔がやったことなんだから」
 だが、その程度の言葉では、彼の悔恨は動かないと分かっていた。
「ですが――――」
「私がもっとしっかりしていれば、でしょ?」
 うつむく彼の言葉を先回りし、アネッタが言う。その言葉に、ザムエルが思わず顔を上げた。
「私たちは、人間なんだよ。すべてを守ることも、すべてを生かすこともできない。指先一つで奇跡を起こすことなんてできない。だから人間の魂は、出会いと別れを繰り返して、移ろうの」
 アネッタの言わんとしていることがつかめないのか、ザムエルの表情はすっきりとしない。
「そして、いつか人は、誰かを救う。奇跡をつかみとる。――――今日、奇跡は起きたのよ。私の魂を継ぐ少女がここにいたこと。悪魔と戦う力を持つ、少女の仲間がいたこと。悪魔に抗う、強い意志を持つものがいたこと。そのどれが欠けていても、奇跡は起きなかった」
 静かに言うアネッタにザムエルがすがるような視線を送る。それは、500年前――――出会った時の少年となにも変わっていない、無垢な瞳。
「それは、たゆたい続けてきた各々の魂が、ここに行き着いた結果。私たちみんなが、出会い、別れ、その魂の旅を続けてきた結果、起きた奇跡。――――いい? ザム。私たちは、これからも、その旅を続けていくの。産まれ、生き、死に――――その中で、なにか失敗をしたのなら、それを心に刻み込めばいい」
 ザムエルが、再びうつむく。やがて、かすかな嗚咽の声とともに、少しずつ、小さな水滴がぽつぽつと地面を濡らしていく。
「そうすれば、きっと、心は見つけ出す。悲劇を貫き、惨劇を切り伏せる、魂の炎を―――――」
 アネッタが、ザムエルの目の前で拳を作る。その拳を、彼女自身の炎が紅く包んだ。
「その頃に、また会いましょう。その魂の向こう側で――――」
 静かに、音もなく、ザムエルは顔をあげた。その頬に残る涙はまだ乾いていなかったが、その表情は涙を乾かそうとするかのように暖かで。
「……ありがとう。アネ……ッタ……」
 はかなく消えていく彼の姿を、ことさら悲哀の色に染めていた。
 ……そうして、ザムエル=ミューラーの姿は、この世から消えた。
「……ほんとに、ずるいんだから。最後の最後で、ちゃんと名前で呼ぶなんて、さ……」
 そして、アネッタの、どこか紅香とは少し違う大人びた笑みも、徐々に消えていく。自分もそろそろ、この少女の一部に戻らなければならないようだ。
 わずかに皮肉をこめて、アネッタは笑う。いつになるかはわからないけれど。会えるかどうかも定かでないけれど。その時の魂が、自分たちを覚えているかわからないけれど。
「――――いつか、また――――どこかで」
 その言葉を最後に、アネッタとしてのその意識は、深い眠りについた。
「生きたるとき、汝はその魂をかけて悪魔と戦った。汝、たとえその身体が縛られようとも、魂の最期のひとかけらにて、悪魔を打ち砕いた。戦いは終わった。汝の魂の安らかんことを……」
 翌日。昨夜の死闘がまるでただの夢であったかのような、穏やかな午後。
 前崎市の教会で、ザムエル=ミューラーの葬儀が行われていた。500年もの時がすぎてしまった故郷に戻るよりも、例え少しでもアネッタの側にいることを、彼ならば望むだろうというからだった。
「……アーメン……」
 水葉の最後の祈りの言葉に、それぞれが瞳を閉じ、黙祷する。そこにいるのは、紅香らのほかには、ウィノナ、ティモ、カッシュらしかいない、ひどく小さな葬儀だった。
「これで……よかったのかな?」
 静馬が、かすかに悔いるように、目を伏せる。
「……よかったんだよ」
 ゆっくりと瞳を開き、紅香が言う。
「アネッタが言ってた。私たちの魂は、生と死を繰り返し、やがて奇跡を起こすんだって。だから、またいつか、きっとめぐり会うんだよ。それが、きっと二人の……奇跡。私と静馬だって、また出会えたんだから」
「……そうか。そうだね」
 静かに微笑む紅香に、静馬は笑顔を返す。
「……ふう。しっかし、あんたらにはすっかりだまされちまったな。まさか、悪魔の術を解いているとは思わなかったぜ」
 不意に、翔悟がウィノナらに向き直って言う。
「その少女の炎を受けて、わずかずつだが術が解けていったのだ。そのことと500年前の聖女が関わっていることから、私たちはその炎に悪魔の術をはらう力があると推察した。後は、ごらんの通りだ」
 ウィノナが、腕を組みながら言う。
「悪魔より優れた脚本家がいたってわけだな。で、あんたらはどうする? もう、教会へは戻れんだろう」
「祖国へ帰る。我々の国にも、あなた方のように民間で活動するエクソシストが必要だろう」
「……そうか。しかしあんた、悪魔の呪縛が解けたらしゃべり方が全然違うのな」
 翔悟が、ウィノナに肩をすくめて見せる。
「ふふ。私もそれは苦労したさ。あの話し方で演技をするのはな」
「ふくたいちょーはねぇ、ほんとは優しい、みんなのお姉さんみたいな人なんだよ」
「こ、こらティモ! 余計なことを言うんじゃない!」
 赤顔して拳骨を振り上げるウィノナと、さっさとカッシュの影に逃げ込むティモに、一同が破顔する。
「と、とにかく! あなたたちには礼を言う。あのザムエル司祭と同じく、我々も悪魔の術で長い時を、魂を縛られて生きてきたのだ。これからは……己の意思で、生きていくことができる。……ありがとう」
 そう言って微笑むと、ウィノナは紅香のほうに向き直った。
「それと……聖女の魂を継ぐ少女よ。悪魔の人形と化していた部下たちの魂を……停滞していた魂を、解放してくれてありがとう」
「ううん、私も許せなかったからさ、そんなの。私がそうしたかっただけなんだから、お礼なんていいってば。そ、それより、私がぶん投げちゃった時のケガとか大丈夫だった?」
 恐る恐る聞く紅香のその言葉に、一瞬、ウィノナはぽかんとした表情を作ってから、さもおかしそうに笑った。
「はははは……おかしな娘だ。つい先日まで殺しあっていた相手のケガの心配をするとはな。……なるほど、聖女の魂を受け継ぐとは、伊達ではないらしいな」
「えっ? えっ? 私、なんか変なこと言った?」
 一人困惑顔で自分の顔を指差す紅香以外の面子が、声をあげて笑う。
「……ふう……停滞する魂、か……」
 ひとしきり笑ったあと、静馬がふと、愁いを帯びた表情で一人ごちた。
「ん? どうしたの?」
 その表情に、紅香が思わず静馬を振り返る。
「停滞してる……っていうなら、僕もそうなのかなあ……なんて思ってさ」
「ええー? そう?」
 その愁いを帯びた表情を、紅香はさらっと疑問符で流す。
「毎日毎日、死霊とどたばたしたり、戦ったり……で、背後にはいつも静馬がいてさ。いつも余計なこと言ってきたり、してきたり。私は、停滞どころかすごく早い流れるプールを泳いでる感じだよ?」
 紅香の言葉に、今度は静馬がぽかんとする。
「その私と一緒にいるんだから、停滞なんて、ないない! 大体、自分で言ってたじゃん。変わらない、大切なものがあればいいみたいなこと言ってたじゃん。だから、静馬はそのままでいいんだよ」
 あっけらかんと笑顔で言う紅香に、静馬がかすかに微笑みながら、嘆息した。それは、これまでに何度も見せ合ってきた、表情。
「あーあ、紅香にそんな風に言われたら、なんか成仏したくなってきちゃったなー。僕も成仏して、生まれ変わっちゃおうかなー」
「ムカー! なんでそうなんのよ! いいから黙ってあんたは私の守護をしなさい! 勝手に死んだりしたんだから、その罪を償うまで成仏などさせーん!」
 がーがーとがなる紅香に、静馬がげんなりとした表情になる。
「それ、悪魔の魂の縛り方より、ある意味、たちが悪いって」
 その言葉に、皆が思わず声をあげて笑った。紅香も、そして、静馬自身も。
 ゆっくりと、流れていく時の中で。
 今は、これでいいのだと感じた。こうして、少しずつ、少しずつ。
 ともに生きていく中で、暖かなほうへ向かっていけばいい。
 それは、きっと。
 いつか起こる奇跡へ向かう、暖かな道筋なのだから。