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両国橋ラプソディ

ー/ー



「一緒に入っていくかい?」

 両国橋近くの稲荷神社の軒先。雨宿りをしている浪人に傘を傾けると、

「人を待っておるのだ」

 つれない返事が返って来る。

「この雨ですもん、待ち人は来やしませんよ。そうだ、袖振り合うもなんとやら。あたしはこの先の小料理屋の女将で()()()って言うんですけど、うちで少し飲んで行きませんか」

 最初は愛想がなくてもあたしが甘い声で袖を引き胸を押しつければ、男は皆あたしの虜になる。

 案の定、この侍も同じだった。ころっと態度を翻し、すっかり鼻の下を伸ばしている。

「では、一杯飲んでいこう」

 男と女の相合傘。

 通りを歩く人はいない。

 二人きり雨の町に繰り出した。

「皆は嫌いだって言うけど、あたしは雨が好きなんですよ。全てを洗い流してくれるじゃありませんか。いやァな気持ちも昔の男も全部」

「昔の男に嫌なやつがいたのか」

「でも今日は旦那と出会っちまったから、嫌なこと全部忘れられるかもね」

 あたしは男の横顔を盗み見て紙入れの中を値踏みする。

 顔は悪くないが、うだつが上がらなそうな侍だ。恐らく大した金は持っていまい。しかし腰のものはいい値がつきそうだ。

 というのも小料理屋の女将というのは表向き、あたしの本業は美人局。馬鹿な男と交わったところで、「あたしには実は夫がいる」と脅しをかける。男女の密通は死罪であるから男は刀を売ってでも示談金を払うという寸法だ。

「あたしはからきし男運が悪くてね。好いた男はいつも誰かの男でさ、あたしの恋が報われたことなんてただの一度もないんだよ。可哀相だろ?」

「俺を誘っているのか」

「あたしは自分の気持ちに正直なのさ。ねぇ、旦那。誰か好い人はいるのかい?」

「いないと言ったら?」

「本気になるだけさ」

 男の腕があたしの腰に伸びたのを合図に、あたしは逞しい胸に顔を寄せた。

 傘を打つ雨音だけがあたしたちを包んでいる。

 こうして橋を渡っていると、ふと昔の記憶が目蓋の奥に甦ったがそれも一時のことですぐに消える。

「旦那の名前を教えてよ」

「両国橋仙太」

「おかしな名前」

 あたしは男の放った冗談に噴き出した。

 これは本物の恋になるかもしれない。

 そんな予感が頭を過ぎったのは話が弾むうちに生国が同じだとわかったからだ。

 そういえば、昨日若い娘から買った辻占に「夫婦の契りをする相手に巡り合う」とあったことを思い出し、年甲斐もなく胸が高鳴った。

 失った半身を取り戻したかのような、長年生き別れになっていた肉親にようやく出会えたかのような不思議な感覚が湧き起こってくる。

「俺はおまきを待っていたのだ」

「あたしもだよ」

 あたしたちは傘の下、互いの隙間を埋めるように唇を求め合った。

 出会ったばかりの男と共に生きていきたい。

 他人が聞いたら浅はかと笑うだろうが、あたしの決意は固かった。もうこの稼業から足を洗い、新しく生き直そう。男と江戸を出て、故郷へ帰り、田畑を耕し、子を産んで、人並みの幸せを手に入れよう。本当はそんなささやかな営みをずっと夢見ていたのだ。

 人はしくじったって新たに生き直すことができる。望みがあれば、何度でも──。

 見上げれば、男の澄んだ眼にあたしの顔が映っていた。眼の中の女は幸せそうな微笑みをあたしに向け、そこでふと視界が開けた。

 男が傘を放ったのだ。雨が止んだようだ。

 あたしたちの前途を祝した清々しい空が両国橋から臨める──はずだったが、にわかに周囲は闇と化してしまった。

『どうしちまったんだい。真っ暗で何も見えないよ』

 雨足が強まる中、カランカランと男の下駄が近づいてくる。

「三年前、両国橋で男の身投げがあったのを覚えているか。男の名前は仙太。あんたの美人局の被害にあった男だ」

『そんな男、知らないったら!』

 しかし、あたしの言葉は唇がかたどっただけで声にならず、荒い息とともに雨に混ざる。

「あんた仙太と夫婦になる契りを交わしたらしいな。だがあんたは裏切り、雨のほぞ降る両国橋から仙太を突き落とした」

『あたしは背中を押しただけ。あいつが勝手に落ちたんだよ!』

 男の不気味なほど落ち着いた声に恐怖を覚え、大きく首を左右に振ると、雨がますます飛沫を上げて吹きつけてくる。

『これじゃあ、惨めな濡れ鼠じゃないか!』

 声にならぬ声は草笛のような音色を発し、あたしは気づいた。

 雨の冷たさと共に感じるもうひとつの熱の正体に震え上がる。

 それは己の血の生温かさ。

 あたしは男に喉笛を斬られ橋の上で斃れたのだ。

「俺は仙太の妹に仇を打ってくれと頼まれた刺客なんだ。大好きな雨に、買った恨みを綺麗にしてもらえよ。そうだ、あんたの生娘みたいな望みだが」

 男の息が今にも事切れそうなあたしの耳に優しくかかる。

「俺が叶えてやってもいいぜ。十万億土でまた会おう。それまでいい子でおねんねしてな」

 悪運がつきたね。

 あたしの笑みが男に届いたかどうかわからない。

 ただ、雨が上がりの両国橋に架かるえも言われぬ美しい虹の橋がいつまでも目蓋に焼きついていた。


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「一緒に入っていくかい?」
 両国橋近くの稲荷神社の軒先。雨宿りをしている浪人に傘を傾けると、
「人を待っておるのだ」
 つれない返事が返って来る。
「この雨ですもん、待ち人は来やしませんよ。そうだ、袖振り合うもなんとやら。あたしはこの先の小料理屋の女将で|お《・》|ま《・》|き《・》って言うんですけど、うちで少し飲んで行きませんか」
 最初は愛想がなくてもあたしが甘い声で袖を引き胸を押しつければ、男は皆あたしの虜になる。
 案の定、この侍も同じだった。ころっと態度を翻し、すっかり鼻の下を伸ばしている。
「では、一杯飲んでいこう」
 男と女の相合傘。
 通りを歩く人はいない。
 二人きり雨の町に繰り出した。
「皆は嫌いだって言うけど、あたしは雨が好きなんですよ。全てを洗い流してくれるじゃありませんか。いやァな気持ちも昔の男も全部」
「昔の男に嫌なやつがいたのか」
「でも今日は旦那と出会っちまったから、嫌なこと全部忘れられるかもね」
 あたしは男の横顔を盗み見て紙入れの中を値踏みする。
 顔は悪くないが、うだつが上がらなそうな侍だ。恐らく大した金は持っていまい。しかし腰のものはいい値がつきそうだ。
 というのも小料理屋の女将というのは表向き、あたしの本業は美人局。馬鹿な男と交わったところで、「あたしには実は夫がいる」と脅しをかける。男女の密通は死罪であるから男は刀を売ってでも示談金を払うという寸法だ。
「あたしはからきし男運が悪くてね。好いた男はいつも誰かの男でさ、あたしの恋が報われたことなんてただの一度もないんだよ。可哀相だろ?」
「俺を誘っているのか」
「あたしは自分の気持ちに正直なのさ。ねぇ、旦那。誰か好い人はいるのかい?」
「いないと言ったら?」
「本気になるだけさ」
 男の腕があたしの腰に伸びたのを合図に、あたしは逞しい胸に顔を寄せた。
 傘を打つ雨音だけがあたしたちを包んでいる。
 こうして橋を渡っていると、ふと昔の記憶が目蓋の奥に甦ったがそれも一時のことですぐに消える。
「旦那の名前を教えてよ」
「両国橋仙太」
「おかしな名前」
 あたしは男の放った冗談に噴き出した。
 これは本物の恋になるかもしれない。
 そんな予感が頭を過ぎったのは話が弾むうちに生国が同じだとわかったからだ。
 そういえば、昨日若い娘から買った辻占に「夫婦の契りをする相手に巡り合う」とあったことを思い出し、年甲斐もなく胸が高鳴った。
 失った半身を取り戻したかのような、長年生き別れになっていた肉親にようやく出会えたかのような不思議な感覚が湧き起こってくる。
「俺はおまきを待っていたのだ」
「あたしもだよ」
 あたしたちは傘の下、互いの隙間を埋めるように唇を求め合った。
 出会ったばかりの男と共に生きていきたい。
 他人が聞いたら浅はかと笑うだろうが、あたしの決意は固かった。もうこの稼業から足を洗い、新しく生き直そう。男と江戸を出て、故郷へ帰り、田畑を耕し、子を産んで、人並みの幸せを手に入れよう。本当はそんなささやかな営みをずっと夢見ていたのだ。
 人はしくじったって新たに生き直すことができる。望みがあれば、何度でも──。
 見上げれば、男の澄んだ眼にあたしの顔が映っていた。眼の中の女は幸せそうな微笑みをあたしに向け、そこでふと視界が開けた。
 男が傘を放ったのだ。雨が止んだようだ。
 あたしたちの前途を祝した清々しい空が両国橋から臨める──はずだったが、にわかに周囲は闇と化してしまった。
『どうしちまったんだい。真っ暗で何も見えないよ』
 雨足が強まる中、カランカランと男の下駄が近づいてくる。
「三年前、両国橋で男の身投げがあったのを覚えているか。男の名前は仙太。あんたの美人局の被害にあった男だ」
『そんな男、知らないったら!』
 しかし、あたしの言葉は唇がかたどっただけで声にならず、荒い息とともに雨に混ざる。
「あんた仙太と夫婦になる契りを交わしたらしいな。だがあんたは裏切り、雨のほぞ降る両国橋から仙太を突き落とした」
『あたしは背中を押しただけ。あいつが勝手に落ちたんだよ!』
 男の不気味なほど落ち着いた声に恐怖を覚え、大きく首を左右に振ると、雨がますます飛沫を上げて吹きつけてくる。
『これじゃあ、惨めな濡れ鼠じゃないか!』
 声にならぬ声は草笛のような音色を発し、あたしは気づいた。
 雨の冷たさと共に感じるもうひとつの熱の正体に震え上がる。
 それは己の血の生温かさ。
 あたしは男に喉笛を斬られ橋の上で斃れたのだ。
「俺は仙太の妹に仇を打ってくれと頼まれた刺客なんだ。大好きな雨に、買った恨みを綺麗にしてもらえよ。そうだ、あんたの生娘みたいな望みだが」
 男の息が今にも事切れそうなあたしの耳に優しくかかる。
「俺が叶えてやってもいいぜ。十万億土でまた会おう。それまでいい子でおねんねしてな」
 悪運がつきたね。
 あたしの笑みが男に届いたかどうかわからない。
 ただ、雨が上がりの両国橋に架かるえも言われぬ美しい虹の橋がいつまでも目蓋に焼きついていた。