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2-8 母娘の会話

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 大学見学が終わってから、麻奈美はいつも通り大夢へ向かった。時間も遅く、大学でもらった資料も多かったので家に帰ろうかと思ったが、大夢へ行くほうが近道だった。
 カランコロン……
 大夢には、もちろん平太郎が住んでいる部分への入口があるが、麻奈美は鍵を持っていないのでいつも店の入り口から入っている。
「あれっ、お母さん、どうしたの」
 なぜか、光恵がカウンターでコーヒーを飲んでいた。奥からは平太郎が覗きながら、調理の合間に話をしているようだ。
「さっき麻奈美とわかれてから、急にコーヒー飲みたくなっちゃって」
 光恵の座る隣の席に、先ほど見た紙袋が置いてあった。
「お母さん、帰ってないの?」
「たまにはいいでしょ。それとねぇ、今日はお父さん遅くなるらしいから、晩ご飯ここで食べようかと思って」
 ふぅん、と相槌をうちながら、麻奈美は店の奥へ荷物を置きに行った。以前は制服のままエプロンをして仕事をしていたが、夏休み前からは平太郎のところに着替えを少し置くようにしていた。適当に着替えて支度をし、麻奈美は店へ出た。
 いつもいる三郎とチヨは、もう帰ったらしい。新学期を迎えた麻奈美にいろんな話を聞きたそうにしていた、と平太郎が言った。
「大学はどうだったの」
「綺麗だったよー。あんなところで集中して勉強できるのかな。気が散るよ」
「やろうと思えば出来るよ。現に、してる人が、ほら」
 平太郎がそう言ったとき、ドアが開いてカランコロン、という音がした。振り返らなくてもそれが芝原だというのは、なんとなくわかった。平太郎の「いらっしゃい」という声に返ってきたのは、やはり、芝原の声だった。
「良かった、間に合った」
 走って来たのだろうか。少し息を切らせて、芝原は珍しくカウンター席に座った。いつも持ち合わせている勉強道具も、今日はない。
 麻奈美は何も言わず、芝原セットの用意を始めた。
「今日は勉強しないのか?」
 コーヒーを淹れながら、平太郎が芝原に聞いた。
「もう五時半ですよ。今日は疲れてるし、やめときます」
「あれ、もうそんな時間か。いつもより大分遅いんだな」
 平太郎は壁に掛けてある時計を見上げた。芝原はいつも講義後すぐに来ているので、今日もその感覚だった。必要単位はわりと取得しているほうで、午後からの講義はほとんど取っていない。
「今日は説明会で教授にこき使われて……」
 ため息をつく芝原に、麻奈美はセットを運んだ。温かいおしぼりで手を拭いて、芝原は少し力を抜いた。
「説明会って、……星城の?」
 聞いたのは光恵だった。すでにコーヒーカップは空になっていて、頬杖をついて芝原と平太郎の会話を聞いていた。光恵の質問には、平太郎が「そうだよ」と答えていた。
「もしかしてあなた、芝原さん?」
「はい、そうですけど、どうして──」
「麻奈美の母親だよ」
 芝原は一瞬、驚いたような顔をした。そしてすぐに光恵に向き直って、簡単な挨拶をしていた。いつも落ち着いている芝原が、ほんの少し挙動不審に見えた。
「前に麻奈美が話してたのよね。そっか、あなたね」
 何を、という目で、芝原は麻奈美を見た。
「なぜか私を知ってる人がいる、ってだけですよ。高校の時におじいちゃんが担任だったんだって」
 前半は芝原に、後半は光恵に向けて言った。
「ふぅん……」
 光恵は芝原を見つめていた。
 ときどき、麻奈美のほうを見ながら。きっと「なかなか男前じゃない、真面目そうだし、お母さんは反対しないわよ」と言いたいのだろう。
「芝原さん、彼女は?」
 突然の光恵の質問に、芝原は飲んでいたコーヒーを危うく落とすところだった。なんとかテーブルの上に戻し、コーヒーカップを手から離した。
「いないです」
「えーほんとに? かっこいいのに、勿体ないわね」
「そういえば今日、説明の時にみんな、かっこいいって言ってましたよ」
 説明が終わった後の自由見学の時に、芝原を探しに行こうと言っている女子生徒たちがいた。結局は、どこにいるのかわからないので諦めていたのだが。
「私がもう少し若かったらなぁ」
「何言ってるの、お母さん」
「ねぇ、もてるでしょ?」
「それは、いえ……」
 もしかしたら、芝原は今日ここに来たことを少し後悔していたかもしれない。光恵がずっと芝原に恋人や好きなタイプの話を聞いていて、ゆっくりコーヒーを飲むことが出来なかった。
「うちの麻奈美だったらいつでも言ってね」
「お母さん!」
 どうすることもできず、芝原はただ笑ってごまかした。光恵が言っていることも、本気かどうか定かではないし、第一、麻奈美の気持ちが最優先だ。
「芝原はな──」
 母娘と芝原の会話に、ようやく平太郎が口をはさんだ。
「ずっと気になってる人がいる。忘れられないそうだよ」
 光恵と麻奈美は、同時に芝原を見た。
「そう、ですね。もう──何年か前からですね」
 騒がしかった大夢のカウンターは、急に静かになった。


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 大学見学が終わってから、麻奈美はいつも通り大夢へ向かった。時間も遅く、大学でもらった資料も多かったので家に帰ろうかと思ったが、大夢へ行くほうが近道だった。
 カランコロン……
 大夢には、もちろん平太郎が住んでいる部分への入口があるが、麻奈美は鍵を持っていないのでいつも店の入り口から入っている。
「あれっ、お母さん、どうしたの」
 なぜか、光恵がカウンターでコーヒーを飲んでいた。奥からは平太郎が覗きながら、調理の合間に話をしているようだ。
「さっき麻奈美とわかれてから、急にコーヒー飲みたくなっちゃって」
 光恵の座る隣の席に、先ほど見た紙袋が置いてあった。
「お母さん、帰ってないの?」
「たまにはいいでしょ。それとねぇ、今日はお父さん遅くなるらしいから、晩ご飯ここで食べようかと思って」
 ふぅん、と相槌をうちながら、麻奈美は店の奥へ荷物を置きに行った。以前は制服のままエプロンをして仕事をしていたが、夏休み前からは平太郎のところに着替えを少し置くようにしていた。適当に着替えて支度をし、麻奈美は店へ出た。
 いつもいる三郎とチヨは、もう帰ったらしい。新学期を迎えた麻奈美にいろんな話を聞きたそうにしていた、と平太郎が言った。
「大学はどうだったの」
「綺麗だったよー。あんなところで集中して勉強できるのかな。気が散るよ」
「やろうと思えば出来るよ。現に、してる人が、ほら」
 平太郎がそう言ったとき、ドアが開いてカランコロン、という音がした。振り返らなくてもそれが芝原だというのは、なんとなくわかった。平太郎の「いらっしゃい」という声に返ってきたのは、やはり、芝原の声だった。
「良かった、間に合った」
 走って来たのだろうか。少し息を切らせて、芝原は珍しくカウンター席に座った。いつも持ち合わせている勉強道具も、今日はない。
 麻奈美は何も言わず、芝原セットの用意を始めた。
「今日は勉強しないのか?」
 コーヒーを淹れながら、平太郎が芝原に聞いた。
「もう五時半ですよ。今日は疲れてるし、やめときます」
「あれ、もうそんな時間か。いつもより大分遅いんだな」
 平太郎は壁に掛けてある時計を見上げた。芝原はいつも講義後すぐに来ているので、今日もその感覚だった。必要単位はわりと取得しているほうで、午後からの講義はほとんど取っていない。
「今日は説明会で教授にこき使われて……」
 ため息をつく芝原に、麻奈美はセットを運んだ。温かいおしぼりで手を拭いて、芝原は少し力を抜いた。
「説明会って、……星城の?」
 聞いたのは光恵だった。すでにコーヒーカップは空になっていて、頬杖をついて芝原と平太郎の会話を聞いていた。光恵の質問には、平太郎が「そうだよ」と答えていた。
「もしかしてあなた、芝原さん?」
「はい、そうですけど、どうして──」
「麻奈美の母親だよ」
 芝原は一瞬、驚いたような顔をした。そしてすぐに光恵に向き直って、簡単な挨拶をしていた。いつも落ち着いている芝原が、ほんの少し挙動不審に見えた。
「前に麻奈美が話してたのよね。そっか、あなたね」
 何を、という目で、芝原は麻奈美を見た。
「なぜか私を知ってる人がいる、ってだけですよ。高校の時におじいちゃんが担任だったんだって」
 前半は芝原に、後半は光恵に向けて言った。
「ふぅん……」
 光恵は芝原を見つめていた。
 ときどき、麻奈美のほうを見ながら。きっと「なかなか男前じゃない、真面目そうだし、お母さんは反対しないわよ」と言いたいのだろう。
「芝原さん、彼女は?」
 突然の光恵の質問に、芝原は飲んでいたコーヒーを危うく落とすところだった。なんとかテーブルの上に戻し、コーヒーカップを手から離した。
「いないです」
「えーほんとに? かっこいいのに、勿体ないわね」
「そういえば今日、説明の時にみんな、かっこいいって言ってましたよ」
 説明が終わった後の自由見学の時に、芝原を探しに行こうと言っている女子生徒たちがいた。結局は、どこにいるのかわからないので諦めていたのだが。
「私がもう少し若かったらなぁ」
「何言ってるの、お母さん」
「ねぇ、もてるでしょ?」
「それは、いえ……」
 もしかしたら、芝原は今日ここに来たことを少し後悔していたかもしれない。光恵がずっと芝原に恋人や好きなタイプの話を聞いていて、ゆっくりコーヒーを飲むことが出来なかった。
「うちの麻奈美だったらいつでも言ってね」
「お母さん!」
 どうすることもできず、芝原はただ笑ってごまかした。光恵が言っていることも、本気かどうか定かではないし、第一、麻奈美の気持ちが最優先だ。
「芝原はな──」
 母娘と芝原の会話に、ようやく平太郎が口をはさんだ。
「ずっと気になってる人がいる。忘れられないそうだよ」
 光恵と麻奈美は、同時に芝原を見た。
「そう、ですね。もう──何年か前からですね」
 騒がしかった大夢のカウンターは、急に静かになった。


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