「……ん」
屋根を叩く雨音で、狼の少年は目を覚ました。知らない天井と、知らない匂い。
「どこだ、ここ…」
ゆっくりと起き上がり、辺りを見回す。部屋の隅にはダンボールが積み上げられ、自分が着ていたはずの衣服はハンガーに掛けられている。敷き布団と布団と掛け布団の間にはバスタオルが挟まれ、雨に濡れた毛皮と同様に湿り気を帯びていた。
「初めまして、オオカミさん」
何者かの声がすると同時に、部屋の明かりがつく。開いたドアの先には、見知らぬ人間の青年が立っていた。
「なっ⁉︎何だよお前!」
「それはどちらかといえば、僕が聞きたいんだけど…君こそ、どこから来たの?」
狼は何も答えず、青年を睨みつける。
(僕、一応、命の恩人なんだけどな…)
明らかに友好的ではない様子だが、突然見知らぬ場所で目覚め、見知らぬ人間が目の前に現れたのだ。警戒するのも無理はない。
その時、ぐぅ、と気の抜けるような音が響いた。
「あ……」
お腹の辺りに手を当て、顔を背ける狼。
「お腹、すいてるの?」
「べ、別に…!」
ごまかそうとするが、ぐうぅと再び音が鳴る。
「えーっと……。ちょっと待ってて」
青年は何かを思いた様子で、狼のいる部屋を後にした。
――
「さて…」
リビングの一角。エプロンを身に着けた青年は、キッチンに立ち、思考を巡らせる。時刻は二十三時。ベッドにはお腹を空かせた狼。空腹を満たせるものがあればいいが、あいにくすぐに出せるようなものが無い。常備菜や冷凍食品のストックも切らしてしまっているし、彼を置いて大雨の中買い出しに行くのも非現実的だ。そもそも、彼が何を食べられるかさえ検討がつかない。冷蔵庫を見回していると、ドアポケットの牛乳パックが目に止まった。
「……そうだ!」
二人分の牛乳を小鍋に入れて火にかけ、焦がさないように木ベラで混ぜながら温めていく。温めるだけなら電子レンジで十分だし、その方が手軽だ。しかし、火にかけてゆっくりと仕上げることで、なんとなく美味しくなる気がする。
「そろそろかな」
沸騰しきる前に火を止め、隠し味にメープルシロップをひとさじ回し入れる。軽くかき混ぜて溶かしたら、こぼれないように注いでいく。ひとつは、愛用の白いマグカップに。もうひとつは、食器棚の奥で眠っていた、大きめの黒いマグカップに。
リビングに甘い香りが広がる。ホットミルクの出来上がりだ。
――
「はい、どうぞ」
青年は部屋に戻り、狼にマグカップを差し出す。
「ホットミルク。牛乳、飲める?」
「…いらねぇ」
狼は突然の施しに驚いた様子を見せたが、すぐにそっぽを向いてしまった。しかし甘い香りに刺激されたのか、彼のお腹が再び鳴り始める。
「冷める前に、飲んでほしいな」
「…っ」
狼はしぶしぶマグカップを受け取り、口元に運んだ。温かいミルクが、冷えきった空っぽの体に染み渡っていく。
「…うまい」
「でしょ?メープルシロップが入ってるんだ。お鍋でじっくりコトコト温めたんだよ」
青年の話も、口元が汚れるのも気にせず、夢中でマグカップをあおる狼。よほどお腹が空いていたのだろう。その姿を、青年は再び絵本の「オオカミさん」と重ね合わせる。
「ぷはっ」
大きめのマグカップは、あっという間に空になった。狼はしばらく甘さと温かさの余韻に浸っていたが、はっと我に返ると、マグカップを青年に突き返す。
「美味しかった?」
「…………ん」
狼はそっぽを向いたまま、ぶっきらぼうに答えた。
――
ホットミルクを飲み終えた二人。再び流れた沈黙を破ったのは、青年の言葉だった。
「ねえ、オオカミさん」
「……」
「こんな天気だし、今日は泊まっていきなよ」
「え……」
狼は、思わず青年の方へ顔を向ける。
「無理にとは言わないけど…でも、朝までずっと雨らしいし、また倒れちゃったら大変じゃないかなと思って」
青年はゆっくりと膝をつき、驚いて硬直したままの狼に目線を合わせる。
「僕は双目キョウ。双つの目って書いて、"ザラメ"って読むんだ」
「ザラメ……?」
「そう、"ザラメ"キョウ。甘そうな名前でしょ?それで…オオカミさんの名前は?」
「……………ルグ」
少しの間を置いて、狼は自身の名前を呟いた。
「ルグ、はじめまして」
キョウは優しく微笑み、手を差し伸べる。しかしルグは逃げるように布団を被ってしまい、その手が握り返されることはなかった。
「……おやすみ、ルグ」
キョウはゆっくりと立ち上がると、部屋の明かりを落とした。ドアが閉まり、ぱたぱたと足音が遠ざかっていく。
(ザラメ…)
少し湿ったままの布団。ルグはその中で、青年の姿とホットミルクの温もりを思い返していた。