「まさか、記憶喪失だなんてね」
病院を出て自転車のカギを差し込むと同時に香織が口を開いた。その声はそんなマイナスの要素を気にも留めていないというように上機嫌だ。その気持ちが分からなくもない。ようやく彰が目覚めたのだ。ただ、僕も香織のように素直に喜ぶことが出来たかといえばそうではなかった。
結論から話すと、彰には僕たちの記憶がなかった。正確に言えば小五から小六のあの頃。僕らが仲良くなってからあの事故までの記憶だ。それでも昔から仲が良かったように振舞えていたのは香織たちが病室を訪れていたからだった。そこで行われた会話をもとに僕らがどういう関係だったのかというのを理解していたのだ。
「だから正直驚いたよ。僕が恵太とか康介と仲良くしていたなんてね」
彰の言葉に確かになと思う。小四のときでは全く考えられないようなことだろう。だが、その考えられないようなことを実現したのは紛れもない彰だ。そんな彼がこんな状態になろうとは、そっちの方が僕からしたら考えられないことだった。
「香織」
「なに?」
住宅地や旅館街を通って坂道を登っていく。その間は基本的に縦一列になって走っていて声なんて掛けられたものじゃない。会話に夢中になりながら道路を自転車で走るなんて不注意もいいところだ。そんなことは絶対に避けたい。
ようやく香織に話しかけたのは山を下ってきて倉石村に足を踏み入れてからだった。あのコンクリートで舗装された路をシャーッと走り抜けるのを後ろから付いてきていた香織は、僕が止まるとそれが分かっていたかのように緩やかにブレーキをかけた。ザザッとタイヤが地面を擦る音だけが耳に入り、ピタッと僕の横で自転車は止まる。一面に広がる田園風景はほとんど隠れた太陽の残光に照らされてぼんやりと草木のシルエットだけが浮かび上がり、そよ風がそれを使って音を奏でた。
「彰はさ……やっぱり覚えてないのかな?」
「なにを?」
「ほら……あれだよ」
どうして気になることを訊くときは唇が重くなるのだろう。温い空気が肌をくすぐるのも相まって耳が痒くて触ってしまう。
「……事故のこと」
「それはそうなんじゃない?逆に覚えていた方が変だよ」
「そっか……」
「なんかまだ納得してないような感じだね」
見透かしたように訊いてくるのにドキッとさせられる。香織は基本的にいつも明るくて、だからこそ本当に見透かしているのかそれとも冗談なのかが分からない。こういうことが彰と並んで上手かった。香織の上機嫌も相まって口を開くのに緊張する。
「本当に知らないのかなって気になってさ」
「どういうこと?」
「ずっと意識はあったって言ってたでしょ?だから事故のことも聞こえて知ってるんじゃないかって」
「あー……知ってたとしたらどうして触れないのか気になるってこと?」
「まあ……そんなところ」
「でも、別に触れないなら触れないでよくない?」
「そんなことないよ」
「なんで?」
「なんでって……」
「だってさ、相手が触れにくいだろうなっていうことに触れるのって結構勇気いるよ?もしかしたら拒絶されるかもしれないし。だからわざわざ触れないし、それが普通。もしあのことについて話したいなら恵太くんから話した方が良いと思うな」
「……」
自転車を押すと出るカラカラという音が沈黙を埋める。さすがの香織も気まずいのか、あるいは何かを考えているのか、視線を地面に向けて黙々と歩く。
「だけどきっと恵太くんが心配してるようなことはないと思うよ」
「え?」
「だってあの事故のこと、私たち病室で話さないようにしてたから」
「どうして!?」
「みんな思うところがあったんだよ」
そういうと香織は僕の方を向いて笑いかけた。思うところってと気になったが、その笑顔を見るとそれ以上訊くことが出来ない。この話はこれで終わりと言われているような気がしたからだ。それに、急かすように次の話題に移ると僕も安心したからかほんの少しだけ胸につっかえたなにかが取れたような気がして、僕もこの会話を終えたかったんだなというのに気付いた。
徐々に暗くなって道と田んぼの境界が曖昧になっていく。街灯もないこの道で頼りになるのは自転車の先に着いたライトだけだ。
「結構遠いよね」
「そうだね」
自転車で走るとなると村の入ってから僕らの暮らす家まではそんなに時間がかからない。だが、自転車を押して、さらに思い参考書を詰め込んだカバンをも持っているとなると話は別だ。
「昔はもっと近く感じたんだけどなあ。不思議だよね。身体は今のが大きいのに」
「それはそうだよ」
自分の口から零れ出た言葉に僕も驚いた。香織はやっぱりなという言葉が聞こえてくるかのように得意げな表情だ。
「それはそう、なんだよね」
意地悪に復唱してくる香織に僕は顔をしかめた。
「じゃあどうすればもっとこの道を短く感じれるかな?」
「自転車に乗ればいいんじゃない?」
「そういうのじゃなくて」
香織の言わんとしていることは分かっている。でもそれは僕からは口にしにくいことだし触れたいと思えないことだ。
「僕に訊くのはズルいよ。さっき自分で言ったこと忘れたの?」
「そう答えるってことはきっと考えてることは同じなんだ?」
香織は内緒話でもするときのようにクックックと肩を揺らして笑うと一呼吸おいて続けた。
「またみんなで集まりたいなってこと」
彰が目覚めた今、それを行うには最高のタイミングではあると思うし、そう提案するのも香織であれば当たり前のことだ。だが、僕はそれに対して気軽に賛成ということが出来なかった。
またみんなで集まる。なんて甘美な響きだろう。口で言うのはとても簡単で、想像すると懐かしさに浸って楽しみにすら感じることもある。だが、僕らがそれをするというのにはあまりに時間が空いてしまった。その原因は間違いなく僕にあるはずだ。
僕がみんなと関わるのを避けるようになってから、少しずつみんながばらばらになっていくのを見ていた。康介は部活に集中し、綾奈もまた優等生としてクラスメイトを支え、結衣も昔からは考えられないほど気が強くなって新しい友人たちと一緒にいることが増えた。そうしていくうちに関わることが減っていって、今では一緒にいるのを見ることもほぼない。強いて言うなら香織が一緒にいるときくらいだろう。彼女が話しかけているのを目にするのは何度かあった。
どうしてこの関係に拘っているのだろう。別に香織はほかに友人がいないというわけではない。だというのに僕らにもいつも話しかけてくる。もう切れかけの関係だというのに……
「でもかなり難しいんじゃないかな」
「それはそうだけどさ……だけど恵太くんだって思わない?思うでしょ?」
「……」
「私たちが疎遠になったのだって恵太くんのせいじゃないよ?」
「気を遣わなくていいよ」
「本当のことなのに……」
「なんでさ、まだ僕とかに話しかけてくるの?別の友達だっているのにさ」
「話しかけたいから、じゃダメ?」
「本当にそれだけなの?」
「それだけだよ。なにか裏でもあると思ったの?酷いなあ」
「そういうわけではないけどさ……こんなに突き放してるのになんでまだ寄ってくるんだろうって」
「その言い方のが酷い!」
香織がいじけたように言うのが面白くて思わず吹き出しそうになる。だが、すぐに真面目に話始めた香織を見るとそんな気も失せた。
「でも、本当にそれだけなんだよね。話したいから話しかけるし、会いたいから会いに行くし。それがただあの時のメンバーってだけで」
「嫌にならないの?結構拒絶してたと思うんだけど」
「別に」
「なんで?」
「なんでって……だって拒絶するのなんて普通じゃん。自分のしたいことと相手のしたいことが合わないなんて当たり前。こっちは行動するだけしてみてどうするかどうかは相手次第。ダメだったらしょうがないでまた行動するだけだよ。大事なのはしっかり自分の気持ちを伝えられたかだから」
「そっか……」
「で、恵太くんはどうなの?」
「どうって……」
「みんなと会いたい?また遊んだりとか話したりとかしたい?」
「……分からない」
「じゃあさ、彰くんのためにみんなを集めようよ!」
「どういうこと?」
「みんなでまた集まったりしたら記憶とか戻るかなって」
「そんな簡単にいかないと思うけど」
「やってみないと分からないじゃん」
「……」
「それならどうかな?恵太くんも手伝ってよ。彰くんのために、ね?」
香織の瞳は薄暗くてもキラキラと輝いて見えた。
「……分かったよ」
その瞳に後押しされるようにしてようやく吐き出せたような気がした。
県道が近くなってようやく道路照明灯の明かりが僕らを照らし出す。僕の答えを聞いた香織は満足そうに頷いていた。赤信号で僕らは立ち止まる。この信号を渡ればもうすぐ家だ。
「こんな時間まで付き合ってくれてありがとう」
道路を渡ると僕らの歩くスピードがゆっくりになった。どっちかに合わせてとかそういうのではなく自然とだ。
「こっちこそありがとう」
さっきまであんなに話していたのが嘘なんじゃないかというくらいよそよそしい。沈黙に加えて移動もゆっくりしているせいか、時間の流れを一層遅く感じさせる。それなのについ数時間前とは大きく違う。カラカラとなる車輪の音も吹き抜ける生温い風も重苦しいはずの沈黙さえ心地よく感じた。なんだかんだで久しぶりに話した香織との時間は楽しかったのだと思う。まだブランクはあったが昔のように話せていたのはその証拠だろう。いつのまにか関わらないようになんていうのを忘れてしまっていた。
ノスタルジーに浸っていた僕が現実に戻ってきたのは香織が止まったからだった。香織の家はまっすぐ、僕の家はここを右に曲がったところにある。
「じゃあ…恵太くん」
なにかを言いたげな様子の香織に僕は彰の病室から出る時を思い出した。
彰と別れるとき言うのはあの言葉だ。ただでさえ嫌いだった言葉なのに、今となってはトラウマですらある。もごもごしていると彰が尋ねてきた。
「どうしたんだ?なにか言いたげだけど」
それを見てピンと来たのか、香織が代わりに答える。
「昔はさ、彰くん別れ際のあいさつでサヨナラって言ってたんだよ」
「ふーん。なんでだろう」
思い当たる節がないようで不思議そうに上を見る。
「それをさ、私も変だなって思ってたんだよね。だけど今もそれが良いのかなって」
「なるほどね」
香織の話を聞いてうんうんと頷く。
「恵太は明日も来るんだよね?」
「まあ……」
「私もね」
「分かってるよ。でも確かに変か……だったら普通に挨拶した方がいいかな」
「どうしたのさ。小さい声で」
「いや?別に」
「そう?」
「うん」
「じゃあ……恵太と香織」
急に名前を呼ばれて背筋が伸びる。
「またね」