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【2】①

ー/ー



「ママも星も、いつもパパに叩かれたり蹴られたりしてたって話して」
 軽く息を切らしながら、母が星に声を掛ける。

「警察の人に訊かれたら、お酒飲んだパパがまた殴ろうとしたから、ママが(自分)を庇って脅そうとして刺しちゃった、って言うの。『ママは悪くない。パパのせい』って! わかった!?」
 廊下に出て「おまわりさん呼んで!」と叫びなさい、と娘に命令したあと。父の血に汚れた包丁を手にして、母は口を歪めた。これは笑顔?
 些細なことで激高しては暴力を振るう父から逃れるために、彼女ができることは他になかったのだろう。
 息絶えた母からの生暖かい飛沫(しぶき)をその身に浴びながら、星は母の言葉を思い出す。

「たすけて! パパが、ママがパパを! だれかたすけて! おまわりさん()んでくださ──」
 玄関に向かい、裸足で血に(まみ)れたまま廊下に出て、声を限りに叫ぶ。

 助けて。助けて! 誰かここから連れ出して!
 確かに立って、歩いて、声を発しているのに、取り巻く世界のすべてが止まったかのような不思議な空気を感じた。
 凍るほどに冷たい筈のコンクリートに直接触れている足の裏にも、何も感じない。
 何故か遠く聞こえる、誰かの悲鳴。怒号。

 気づくと星は、バスタオルに包まれて何人もに囲まれていた。

「誰か警察呼んだ!?」
「うちの旦那が110番しました! すぐ来てくれるそうです!」
「……いやだわ、こんな。今野さんとこのご主人て、いつか何かやりそうとは思ってたけど。まさか奥さんが──」
「おい、佐和子(さわこ)! やめろ、子どもが聞いてるんだぞ!」
 同じアパートだけではなく、近隣の住人も混ざっているのだろう知らない大人たちの会話も、耳から入ってそのまま流れて行くだけ。
 そもそも幼い少女にはよくわからないことばかりだ。
 しばらくしてサイレンが聞こえて来たが、星にはパトカーか救急車かも判断できなかった。


    ◇  ◇  ◇
 自由になりたかった。
 母が繰り返した『幸せ』は星にはよくわからなかったが、自由なら。

「アメリ! リフル! 引っ張んな、このバカ犬ども! 広場(ドッグラン)なら『自由』に走れるからもうちょっと待てって! ったく、なんで俺が犬コロの世話なんて……」
 幼稚園の帰り道、少し大きさの違う二頭の茶色い中型犬を連れた若い男とすれ違った。

「ほら、星。さっさと帰るよ!」
 繋がれた犬たちを怒鳴りつける彼につい立ち止まってしまい、母に叱られる。
 しかしすぐ目の前にあったドッグランで、リードを外されたその二頭が駆け回る姿に感覚で理解した。
 『自由』というものを。

 星の支配者(リード)は両親だ。
 理由もなく殴る父も、自分に矛先が向かないよう、目を逸らして守ってさえくれない母も。
 凍てついた冷たい「家庭」は、少女の未来には必要ない。
 あの犬のリードのように外してしまいたかった。
 そうすれば星はもう傷つけられない。いつも怯えて過ごさなくて良くなる。

 ……父と母がいなければ。



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みんなのリアクション

「ママも星も、いつもパパに叩かれたり蹴られたりしてたって話して」
 軽く息を切らしながら、母が星に声を掛ける。
「警察の人に訊かれたら、お酒飲んだパパがまた殴ろうとしたから、ママが|星《自分》を庇って脅そうとして刺しちゃった、って言うの。『ママは悪くない。パパのせい』って! わかった!?」
 廊下に出て「おまわりさん呼んで!」と叫びなさい、と娘に命令したあと。父の血に汚れた包丁を手にして、母は口を歪めた。これは笑顔?
 些細なことで激高しては暴力を振るう父から逃れるために、彼女ができることは他になかったのだろう。
 息絶えた母からの生暖かい|飛沫《しぶき》をその身に浴びながら、星は母の言葉を思い出す。
「たすけて! パパが、ママがパパを! だれかたすけて! おまわりさん|よ《呼》んでくださ──」
 玄関に向かい、裸足で血に|塗《まみ》れたまま廊下に出て、声を限りに叫ぶ。
 助けて。助けて! 誰かここから連れ出して!
 確かに立って、歩いて、声を発しているのに、取り巻く世界のすべてが止まったかのような不思議な空気を感じた。
 凍るほどに冷たい筈のコンクリートに直接触れている足の裏にも、何も感じない。
 何故か遠く聞こえる、誰かの悲鳴。怒号。
 気づくと星は、バスタオルに包まれて何人もに囲まれていた。
「誰か警察呼んだ!?」
「うちの旦那が110番しました! すぐ来てくれるそうです!」
「……いやだわ、こんな。今野さんとこのご主人て、いつか何かやりそうとは思ってたけど。まさか奥さんが──」
「おい、|佐和子《さわこ》! やめろ、子どもが聞いてるんだぞ!」
 同じアパートだけではなく、近隣の住人も混ざっているのだろう知らない大人たちの会話も、耳から入ってそのまま流れて行くだけ。
 そもそも幼い少女にはよくわからないことばかりだ。
 しばらくしてサイレンが聞こえて来たが、星にはパトカーか救急車かも判断できなかった。
    ◇  ◇  ◇
 自由になりたかった。
 母が繰り返した『幸せ』は星にはよくわからなかったが、自由なら。
「アメリ! リフル! 引っ張んな、このバカ犬ども! |広場《ドッグラン》なら『自由』に走れるからもうちょっと待てって! ったく、なんで俺が犬コロの世話なんて……」
 幼稚園の帰り道、少し大きさの違う二頭の茶色い中型犬を連れた若い男とすれ違った。
「ほら、星。さっさと帰るよ!」
 繋がれた犬たちを怒鳴りつける彼につい立ち止まってしまい、母に叱られる。
 しかしすぐ目の前にあったドッグランで、リードを外されたその二頭が駆け回る姿に感覚で理解した。
 『自由』というものを。
 星の|支配者《リード》は両親だ。
 理由もなく殴る父も、自分に矛先が向かないよう、目を逸らして守ってさえくれない母も。
 凍てついた冷たい「家庭」は、少女の未来には必要ない。
 あの犬のリードのように外してしまいたかった。
 そうすれば星はもう傷つけられない。いつも怯えて過ごさなくて良くなる。
 ……父と母がいなければ。