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【1】②

ー/ー



    ◇  ◇  ◇
「おい、もう星を幼稚園には行かせるな! 疑われてんだろ? ……ったく、うるせえな、センセイってやつは」
「……うん。アザや傷を見つけられちゃって。『家で暴れて転んで~』って言い訳してるけど、信じてないかも。あ、でもね(れん)。あの幼稚園しょっちゅう先生変わるし適当だから、警察とかは心配ないと思う」
 しかし両親のそのやり取り以降、星は家から出してもらえていない。
 幼い少女の目の前で母親が父親を刺殺した上、己もその場で首を切り裂き死に至った。
 (おびただ)しい血で朱に染まった凄惨な現場は、星が生まれてから今まで暮らしていた2Kアパートの一室だ。家族三人の寝室として使っていた部屋だった。
 床はもちろん、壁まで血が飛び散っている。
 
「何も娘の見てる前でなんて……。あの子、血だらけじゃないですか! 母親のすることじゃないでしょう。せめて部屋の外に出してから──」
 興奮のあまりか震える声で、まだ新米の部類だろう男性刑事がやり場のない鬱憤を上司にぶつける。

「よせ、江藤(えとう)! 星ちゃんはこの状況をよく理解してない。このままできる限り真実を知らせたくない。……いや、それは無理でもせめて知らせるのを引き伸ばしたいんだ。本当にあの子を思うなら今は抑えろ!」
 感情を制御しきれないでいる部下を、小谷野が嗜めた。

「以前法医の先生に聞いたんだ。頸動脈ってのはそんな簡単に切れるもんじゃない。皮膚のすぐ内側じゃないんだってよ。ドラマみたいに自分でスパッと、ってのは無理だってあっさり言われた。『他人がやるにも、かなり力要るよ』ってな」
「で、でも、あの女は首を切って──」
 星から引き離すように移動して、唐突に上司が披露する知識に江藤は混乱しつつも返す。

「だからさ、母親、……今野(こんの) (はな)が夫を殺したのは防衛だと俺は睨んでる。過剰かもしれんが。やっちまって動揺したのか、血を見て緊張の糸が切れたのか。たぶん掴んでた包丁が、倒れ込んだ拍子に重みで首筋に深く食い込んだってのが検死官の見立てだ」
「それは偶然が過ぎませんか?」
 江藤刑事の疑問にも、小谷野は慌てることはなかった。

「なあ江藤。もしそんな気ないのに誰か刺しちまったらどうする? お前は仮にも警官だが、一般人ならまずは現実を確かめるんじゃないか? 握った刃物を顔の前に立てて見つめるとか。まあ、即投げ捨てる場合もあるか」
「──あ、確かにあり得る、かもしれません」
 その状況を頭に描いたらしく、無意識に両手で幻の凶器を扱う動作のあとで彼は首肯する。

「いや、お前が言うこともわかる。咄嗟に首に包丁当てて切ろうとしたけど、できなくて気が遠のいたって可能性もある。所詮、推論に過ぎねえんだ。でもあれは『自力』じゃない。本人にとっては全部、想定外だったんじゃないか」
 詳しくは司法解剖待ちだがな、と言い聞かせるような小谷野が話を続けた。

「花が夫の蓮司(れんじ)を刺したのは、おそらく自分だけじゃなく娘のためだ。それこそ『母親だから』だろう」
「え?」
 現場の状況以上の事情を知る由もない江藤刑事が首を傾げる。



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    ◇  ◇  ◇
「おい、もう星を幼稚園には行かせるな! 疑われてんだろ? ……ったく、うるせえな、センセイってやつは」
「……うん。アザや傷を見つけられちゃって。『家で暴れて転んで~』って言い訳してるけど、信じてないかも。あ、でもね|蓮《れん》。あの幼稚園しょっちゅう先生変わるし適当だから、警察とかは心配ないと思う」
 しかし両親のそのやり取り以降、星は家から出してもらえていない。
 幼い少女の目の前で母親が父親を刺殺した上、己もその場で首を切り裂き死に至った。
 |夥《おびただ》しい血で朱に染まった凄惨な現場は、星が生まれてから今まで暮らしていた2Kアパートの一室だ。家族三人の寝室として使っていた部屋だった。
 床はもちろん、壁まで血が飛び散っている。
「何も娘の見てる前でなんて……。あの子、血だらけじゃないですか! 母親のすることじゃないでしょう。せめて部屋の外に出してから──」
 興奮のあまりか震える声で、まだ新米の部類だろう男性刑事がやり場のない鬱憤を上司にぶつける。
「よせ、|江藤《えとう》! 星ちゃんはこの状況をよく理解してない。このままできる限り真実を知らせたくない。……いや、それは無理でもせめて知らせるのを引き伸ばしたいんだ。本当にあの子を思うなら今は抑えろ!」
 感情を制御しきれないでいる部下を、小谷野が嗜めた。
「以前法医の先生に聞いたんだ。頸動脈ってのはそんな簡単に切れるもんじゃない。皮膚のすぐ内側じゃないんだってよ。ドラマみたいに自分でスパッと、ってのは無理だってあっさり言われた。『他人がやるにも、かなり力要るよ』ってな」
「で、でも、あの女は首を切って──」
 星から引き離すように移動して、唐突に上司が披露する知識に江藤は混乱しつつも返す。
「だからさ、母親、……|今野《こんの》 |花《はな》が夫を殺したのは防衛だと俺は睨んでる。過剰かもしれんが。やっちまって動揺したのか、血を見て緊張の糸が切れたのか。たぶん掴んでた包丁が、倒れ込んだ拍子に重みで首筋に深く食い込んだってのが検死官の見立てだ」
「それは偶然が過ぎませんか?」
 江藤刑事の疑問にも、小谷野は慌てることはなかった。
「なあ江藤。もしそんな気ないのに誰か刺しちまったらどうする? お前は仮にも警官だが、一般人ならまずは現実を確かめるんじゃないか? 握った刃物を顔の前に立てて見つめるとか。まあ、即投げ捨てる場合もあるか」
「──あ、確かにあり得る、かもしれません」
 その状況を頭に描いたらしく、無意識に両手で幻の凶器を扱う動作のあとで彼は首肯する。
「いや、お前が言うこともわかる。咄嗟に首に包丁当てて切ろうとしたけど、できなくて気が遠のいたって可能性もある。所詮、推論に過ぎねえんだ。でもあれは『自力』じゃない。本人にとっては全部、想定外だったんじゃないか」
 詳しくは司法解剖待ちだがな、と言い聞かせるような小谷野が話を続けた。
「花が夫の|蓮司《れんじ》を刺したのは、おそらく自分だけじゃなく娘のためだ。それこそ『母親だから』だろう」
「え?」
 現場の状況以上の事情を知る由もない江藤刑事が首を傾げる。