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6-11

ー/ー



「グァアガッ……グォオオオオ!」

 心体増強(モジュレーション)発動から5分、広君の咆哮に苦痛の色が混ざり始める。目を大きく見開き、鼻息も荒くなり口端からは唾液が溢れた。見るに堪えないその姿が、私の胸を痛めた。

「広君……もうやめて、お願い!」

 涙ながらに必死にそう訴えるも、目の前の敵を倒すことで頭が一杯の彼に、この声が届くはずもない。
 その上、角は心体増強(モジュレーション)の制限時間を知っていたのか、広君が苦しみ始めた瞬間に『待っていました』と言わんばかりに反撃へと打って出た。大顎と左前脚は砕かれて既に失っているけど、残された脚で巧みに広君を押さえつけ、毒針での猛攻を本格化させたのだ。

「フハハハ! シネッ、シネェ!」
「グガァッ、グゴッ……!」

 角からの執拗な刺突を、苦しみ藻掻きながらも必死に回避する広君。毒針は何度も彼の体を掠めた。
 文字どおり角は〝夢中〟だ。狂った殺人鬼のように、高らかな笑い声を上げながら、組み敷いた広君を追い詰めている。

 ――チャンスは、今しかない。

 傍らに放ってあった弓矢に手を伸ばす。緊張と焦りから押し寄せる圧迫感に、呼吸することすら忘れていた。弓を構え、広君に当たらないよう慎重に照準を定める。

 そして矢尻の先端に祈りを込めて、放つ。

終幕の封じ矢(フィーネラルショット)――ッ!」

 矢は吸い込まれるように真っ直ぐと角へ向かい、彼女の胸部へ突き刺さった。瞬間、角は甲高い悲鳴を上げて青白い光に包まれた。
 でも彼女は以前の羽と同じように、封印の矢に射貫かれても最後まで諦めようとはしなかった。

「ヨクモ……! コノママ、キエルモノカッ」

 角は残された力を全て解放し、地を這う毒虫たちを大量に出現させると、広君の四肢を地面に貼り付けるように固定させて、その自由を奪った。
 そして彼女は鋭い針を高々と持ち上げ、私が援護射撃で更に奴の腹部を射たにも関わらず、容赦なく広君の腹部を貫いたのだ。

 深々と毒針が突き刺さった皮膚の表面から、白い毛に映える鮮血が滲み出る。

「ッガァアアアア!」
「いやぁああ! 広君……ッ」
「ハハハッ、シネシネ、リクチュウ! カクハ、ヤリマシタ! イトシノ、()()()サ――」

 最後に角は何か重要と思わしき一言を残し、閃光をより一層強く放ってついに姿を消した。彼女がいた場所の足元には、例によって音の小玉が寂しそうにコロリと転がっている。

 終わった、と言いたいところだけど、その余韻に浸っている暇はない。広君はヒグマ姿のまま心体増強(モジュレーション)による反動に加えて、大量の毒に侵されているのだ。早く何とかしなければ。
 そういえばソプラの姿が見えないけれど、何処へ行ったのだろうか。和矢君とテナーだって未だ意識不明で、たった一人残された私はパニック寸前だ。こんな時、いつもなら高杉君たちが何とかしてくれるのに。

 ……落ち着け。兎に角、まずは広君を元の姿へ戻さなくては。
 でも、どうやって?

「広君。もう角はいなくなったから、元の姿に戻っていいんだよ」

 とりあえず私は広君に努めて優しい口調で話しかけた。ゆっくりと近づくと、彼は俯せに丸まって荒い呼吸を繰り返していた。そして私の声を聞くと緋色の瞳が冷淡な眼光を放ち、威嚇するように小さく唸る。まるで〝触るな〟とでもいうように。

「ね、広君」

 その警戒を無視して彼に触れようとした直後、広君は大きく目を見開いて咆哮し、私の体をゴミでも払うかのように軽々と突き飛ばした。

「ガァアッ!」
「きゃああっ……!」

 地面に叩きつけられた衝撃で肩が痛む。でもそれを上回る激痛が反対側の右腕に走った。広君に突き飛ばされた時、ヒグマの刃物のような爪に切り裂かれたようだ。
 痛みに耐えながら上半身を起こすと、広君が朦朧とした目つきで乱れた呼吸のまま私の方に近づいてきていた。もはや彼は〝広君〟ではなく、完全に獰猛な〝ヒグマ〟と化してしまっているようだ。もうあの個体の中に広君の意識はないのだろうか。

 これが心体増強(モジュレーション)による脅威だとすれば、もう誰にも使ってほしくないよ。

「ぅぐっ……。お願い広君、正気に戻って」

 私の言葉が理解できない広君(ヒグマ)は、歩みを止めようとはしない。でもその間も彼は苦しそうに涎を垂らし、傷口からは血が滴り落ちている。もう毒も全身を回り、本来なら立っているのも辛いはずなのに。

 声が届かないなら、これならどうか。
 私はずっと握りしめていた弓矢を体の前に掲げた。

復元(ダ・カーポ)

 発言をすると、弓矢は元のヴァイオリンへと姿を変える。私にできることは、もうこれしかない。
 ヒグマの中に眠っているであろう広君へ届くことを願って、私はいつもの曲を弾き始めた。

 無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第三番・第三楽章『ガヴォット』――私と、過去の私を繋ぐ曲。
 引き裂かれた右腕が悲鳴を上げるのもお構いなく、私は唯々心を込めてその曲を演奏する。一瞬広君(ヒグマ)の歩みが止まり、狂おしいほどの雄叫びが聞こえても私は演奏の手を止めなかった。日も暮れ街灯の明かりだけが照らす駅の中に、ヴァイオリンと広君(ヒグマ)の鳴き声による二重奏が響き渡る。

 苦痛のあまり暴走を始めた広君(ヒグマ)に、私は再び地面へと叩きつけられた。体中が痛み、口の中には鉄の味が広がったけれど、何事もなかったかのようにガヴォットを弾き続ける。

 目の前で再度、広君(ヒグマ)の渾身の咆哮が聞こえた。
 次の一撃を食らえば、私は只では済まない。

 ――それでも。

〝和泉様と会うために、楽器もいっぱい練習して、メストも沢山やっつけてきたのだ。……褒めてくれるのだ?〟

 あの時、私はその頑張りや苦労に何も応えられなかった。
 だからせめて広君を知った今こそは、彼の全てを受け止めたい。喜びも苦しみも、全部。

「グォオオオオッ!!」
「っ……!」

 全身に与えられるであろう強い痛みに、固く目を閉じ身を強ばらせて覚悟した。

 でも待てど暮らせど、その痛みが体を走ることはなかった。不思議に思って恐る恐る目を開くと、広君(ヒグマ)の前脚が私に届く寸前で、その動きが止まっていたのだ。
 よく見ると広君(ヒグマ)の全身を糸のようなものが巻きつき、彼の動きを拘束していたのだ。糸は私の頭上を越えた後方から伸びていて、その先を辿ると息も絶え絶えに立つ一人の少年へと繋がっていた。

 毒に侵され気を失っていたはずの、和矢君の指先に。



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「グァアガッ……グォオオオオ!」
 |心体増強《モジュレーション》発動から5分、広君の咆哮に苦痛の色が混ざり始める。目を大きく見開き、鼻息も荒くなり口端からは唾液が溢れた。見るに堪えないその姿が、私の胸を痛めた。
「広君……もうやめて、お願い!」
 涙ながらに必死にそう訴えるも、目の前の敵を倒すことで頭が一杯の彼に、この声が届くはずもない。
 その上、角は|心体増強《モジュレーション》の制限時間を知っていたのか、広君が苦しみ始めた瞬間に『待っていました』と言わんばかりに反撃へと打って出た。大顎と左前脚は砕かれて既に失っているけど、残された脚で巧みに広君を押さえつけ、毒針での猛攻を本格化させたのだ。
「フハハハ! シネッ、シネェ!」
「グガァッ、グゴッ……!」
 角からの執拗な刺突を、苦しみ藻掻きながらも必死に回避する広君。毒針は何度も彼の体を掠めた。
 文字どおり角は〝夢中〟だ。狂った殺人鬼のように、高らかな笑い声を上げながら、組み敷いた広君を追い詰めている。
 ――チャンスは、今しかない。
 傍らに放ってあった弓矢に手を伸ばす。緊張と焦りから押し寄せる圧迫感に、呼吸することすら忘れていた。弓を構え、広君に当たらないよう慎重に照準を定める。
 そして矢尻の先端に祈りを込めて、放つ。
「|終幕の封じ矢《フィーネラルショット》――ッ!」
 矢は吸い込まれるように真っ直ぐと角へ向かい、彼女の胸部へ突き刺さった。瞬間、角は甲高い悲鳴を上げて青白い光に包まれた。
 でも彼女は以前の羽と同じように、封印の矢に射貫かれても最後まで諦めようとはしなかった。
「ヨクモ……! コノママ、キエルモノカッ」
 角は残された力を全て解放し、地を這う毒虫たちを大量に出現させると、広君の四肢を地面に貼り付けるように固定させて、その自由を奪った。
 そして彼女は鋭い針を高々と持ち上げ、私が援護射撃で更に奴の腹部を射たにも関わらず、容赦なく広君の腹部を貫いたのだ。
 深々と毒針が突き刺さった皮膚の表面から、白い毛に映える鮮血が滲み出る。
「ッガァアアアア!」
「いやぁああ! 広君……ッ」
「ハハハッ、シネシネ、リクチュウ! カクハ、ヤリマシタ! イトシノ、|ア《・》|ン《・》|リ《・》サ――」
 最後に角は何か重要と思わしき一言を残し、閃光をより一層強く放ってついに姿を消した。彼女がいた場所の足元には、例によって音の小玉が寂しそうにコロリと転がっている。
 終わった、と言いたいところだけど、その余韻に浸っている暇はない。広君はヒグマ姿のまま|心体増強《モジュレーション》による反動に加えて、大量の毒に侵されているのだ。早く何とかしなければ。
 そういえばソプラの姿が見えないけれど、何処へ行ったのだろうか。和矢君とテナーだって未だ意識不明で、たった一人残された私はパニック寸前だ。こんな時、いつもなら高杉君たちが何とかしてくれるのに。
 ……落ち着け。兎に角、まずは広君を元の姿へ戻さなくては。
 でも、どうやって?
「広君。もう角はいなくなったから、元の姿に戻っていいんだよ」
 とりあえず私は広君に努めて優しい口調で話しかけた。ゆっくりと近づくと、彼は俯せに丸まって荒い呼吸を繰り返していた。そして私の声を聞くと緋色の瞳が冷淡な眼光を放ち、威嚇するように小さく唸る。まるで〝触るな〟とでもいうように。
「ね、広君」
 その警戒を無視して彼に触れようとした直後、広君は大きく目を見開いて咆哮し、私の体をゴミでも払うかのように軽々と突き飛ばした。
「ガァアッ!」
「きゃああっ……!」
 地面に叩きつけられた衝撃で肩が痛む。でもそれを上回る激痛が反対側の右腕に走った。広君に突き飛ばされた時、ヒグマの刃物のような爪に切り裂かれたようだ。
 痛みに耐えながら上半身を起こすと、広君が朦朧とした目つきで乱れた呼吸のまま私の方に近づいてきていた。もはや彼は〝広君〟ではなく、完全に獰猛な〝ヒグマ〟と化してしまっているようだ。もうあの個体の中に広君の意識はないのだろうか。
 これが|心体増強《モジュレーション》による脅威だとすれば、もう誰にも使ってほしくないよ。
「ぅぐっ……。お願い広君、正気に戻って」
 私の言葉が理解できない|広君《ヒグマ》は、歩みを止めようとはしない。でもその間も彼は苦しそうに涎を垂らし、傷口からは血が滴り落ちている。もう毒も全身を回り、本来なら立っているのも辛いはずなのに。
 声が届かないなら、これならどうか。
 私はずっと握りしめていた弓矢を体の前に掲げた。
「|復元《ダ・カーポ》」
 発言をすると、弓矢は元のヴァイオリンへと姿を変える。私にできることは、もうこれしかない。
 ヒグマの中に眠っているであろう広君へ届くことを願って、私はいつもの曲を弾き始めた。
 無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第三番・第三楽章『ガヴォット』――私と、過去の私を繋ぐ曲。
 引き裂かれた右腕が悲鳴を上げるのもお構いなく、私は唯々心を込めてその曲を演奏する。一瞬|広君《ヒグマ》の歩みが止まり、狂おしいほどの雄叫びが聞こえても私は演奏の手を止めなかった。日も暮れ街灯の明かりだけが照らす駅の中に、ヴァイオリンと|広君《ヒグマ》の鳴き声による二重奏が響き渡る。
 苦痛のあまり暴走を始めた|広君《ヒグマ》に、私は再び地面へと叩きつけられた。体中が痛み、口の中には鉄の味が広がったけれど、何事もなかったかのようにガヴォットを弾き続ける。
 目の前で再度、|広君《ヒグマ》の渾身の咆哮が聞こえた。
 次の一撃を食らえば、私は只では済まない。
 ――それでも。
〝和泉様と会うために、楽器もいっぱい練習して、メストも沢山やっつけてきたのだ。……褒めてくれるのだ?〟
 あの時、私はその頑張りや苦労に何も応えられなかった。
 だからせめて広君を知った今こそは、彼の全てを受け止めたい。喜びも苦しみも、全部。
「グォオオオオッ!!」
「っ……!」
 全身に与えられるであろう強い痛みに、固く目を閉じ身を強ばらせて覚悟した。
 でも待てど暮らせど、その痛みが体を走ることはなかった。不思議に思って恐る恐る目を開くと、|広君《ヒグマ》の前脚が私に届く寸前で、その動きが止まっていたのだ。
 よく見ると|広君《ヒグマ》の全身を糸のようなものが巻きつき、彼の動きを拘束していたのだ。糸は私の頭上を越えた後方から伸びていて、その先を辿ると息も絶え絶えに立つ一人の少年へと繋がっていた。
 毒に侵され気を失っていたはずの、和矢君の指先に。