奈津美に食卓へと案内された重信は席に着く。小さなテーブルの上には重信と奈津美、二人用の料理が用意されていた。
「なつ、まだ食べてなかったのか?」
「そりゃあ、重信が帰ってくるまで食べないでしょ。久々に帰ってきたんだし二人で食べたいじゃない」
奈津美の言葉に、そういう物なのかと重信は思った。
重信の目の前には奈津美の得意な料理である味噌煮込みハンバーグが置かれている。もう既に温めてあるのか、湯気が上がっていた。久々の妻の手料理に重信はすぐにでも手を付けてしまいたくなったが、自分を待っていた妻を置いてそれはできないと我慢した。さながらお預けをくらった犬のように。
「なに変な顔してるのよ」
クスクスと笑い、奈津美は重信の向かいの席に座る。それを見て、重信は「いただきます」と言い手を合わせた。重信は、前まで食べる時に手を合わせることはなかったが、奈津美と同棲してからは毎回食事の度に手を合わせるようにした。食材に対する感謝の為と重信は言うが、本当は奈津美に対する感謝のためだ。海外では食事の前に祈りを捧げると聞き、重信も奈津美に感謝の祈りを捧げることにしていた。
「はい、どうぞ。私もいただきますね」
笑みを含んだまま、奈津美も手を合わせる。そして、食事が始まった。
「今回の出張はどうだった?」
「何もないところで参ったよ。まるで刑務所みたいだった。なにせ近所にコンビニもなかったからさ」
食事を口に運びながら、二人は会話をしている。出張中、LINEでやり取りはしていたが細かいところまでは話せずにいた。主なやり取りはおはよう、おやすみ、ちゃんとご飯食べてる? と言った物だ。奈津美は重信がすぐカップラーメンを食べることを知っていたので、ちゃんとご飯食べているかどうかが気になっていた。重信は健康診断で肝臓の数値が悪く、ちゃんとした食生活を心がけるように医者から念押しされていた。だけど一人暮らしになると、どうしても手抜きの料理になりがちになるのは男の性とも言える。それでも、今回はコンビニが寮の近くになかったおかげか、重信はちゃんと料理を作って食べることにしていた。一日の終わりに食べる物はたまごかけ納豆ご飯など手抜きな物ではあったが。
「奈津美は何か変わったことなかった?」
重信の言葉に、奈津美は「んー」と宙に視線をさ迷わせて考えた。ただ二文字「ない」と答えるのは簡単だが、その答え方をすると重信が傷つくのを知っているからだ。
「あ、そういえば」そこまで言って一拍間を空けた後、「燕がウチに巣を作り始めたよ」と言った途端、さっきまで止まらずに食事を口に運んでいた重信の手が止まった。
「燕の巣?」
「うん、裏の軒下にね。多分潮風から巣を守るためにあそこにかけたんだと思う」
奈津美は重信の言葉に、自分の意見を返した。奈津美の視線は自身の料理に注がれているので、重信の異変には気付いていない。重信は目を見開き、奈津美を見ていた。
「私、燕の巣を見るの初めてでさ。嬉しいんだよ。それに、燕が巣をかけた家は幸せになるって言い伝えもあるそうだし」
「ならないよ」
明るかったはずの空気を重信の一言が切り裂いた。奈津美は「え?」と呆気に取られたような声をあげる。それでようやく、奈津美は重信の異変に気付いた。
「どうしたの?」
「燕が家に巣をかけても幸せになんかならないんだ。だって──」自分の家族は壊れたのだから、という言葉を重信は口から出しそうになったが、無理矢理飲み下した。そんなこと、今言うべきことじゃないと重信は自覚している。これが若い時なら、吐き出していただろう。だけど、今の歳を取った重信は空気を読んで「ごめん。ちょっと昔のことを思い出して」と言い、無理矢理顔に笑みを作ってごまかした。
「……家族のこと?」
「うん、そう」重信は誤魔化さずに頷いた。
重信は、奈津美にだけは隠しごとをしないと心に決めている。それは、こんな自分を好きになってくれた人に不信感を抱かせたくないという気持ちからだ。重信の言葉を聞いた奈津美は「そっか」とだけ口にした。奈津美は重信の境遇をまだ聞いてはいなかった。だが、時折滲み出る言動の節々に過去になにがあったのかを薄々感じていた。それは、籍を入れる前に両親への挨拶を済ませなかったところから始まっている。
だけど、奈津美は重信が自分から言い出すまで聞くことはしないと決めていた。何かあるなら自分に言ってくれるだろうと、重信を信頼している。この信頼を少しでも崩してしまえば、お互い一緒にはいられないと彼女は考えていた。それほどまでに、出会った頃の重信は心が病んでいたのだ。
何かをしてしまう度に、額を地面に擦りつける勢いで奈津美に謝っていた。普段はそんな素振りも見せないのに、突然癇癪を起こしたかのように急変する。それを奈津美は怖く感じていた。だが、長く過ごすうちにそれが愛情表現の裏返しなのだと気付き今に至っている。
「そういえば、このハンバーグどう? 味付けをちょっと変えてみたんだけど」
「やっぱり? コクがあって美味しいと思ったんだ。どこを変えたの?」
奈津美が話題を変えると、重信はそれに食いついた。
「少しワインを入れてみたんだけど」
「ワインか」
重信はチラリとワインの置いてある棚を見た。そこには封の開いてない瓶が置かれている。今は奈津美から飲酒を禁止されているため重信はワインを開けたくても我慢するしかなかった。
「だめよ?」奈津美は重信がワインを見ていることを知って釘を刺す。「い、一杯だけ」と懇願する重信を無視してハンバーグを食す。
「この美味しい煮込みハンバーグには絶対ワインが合うから、一杯だけお願いします!」
料理を褒められた奈津美は仕方ないなぁ、といった感じで席から立ち上がり、ワインが置かれている棚へと向かった。
「本当に一杯だけよ?」きっちりと釘を刺して、ワイングラスに注ぎ重信の元へと持ってくる。
ワインの甘く濃厚な葡萄の香りを嗅いで、重信はうっとりとした表情を浮かべては奈津美に感謝の言葉を述べた「ありがとう、なつ」。
「どういたしまして」と奈津美も笑顔で重信に応える。その後も、楽しく食事は続いた。二人の会話が途切れたのは、重信が家に帰ってきてから二時間後のことであった。
本当は奈津美と一緒に散歩をしたかったことを重信は伝えると、奈津美は笑みを浮かべて「明日行こ」とだけ言い、重信にバスタオルを渡した。
風呂に入り、寝間着に着替えた重信はベッドに横になる。久々の自分のベッドはすぐに重信に微睡へと引き込んでいく。お日様の匂いに重信は気がつく。自分が帰ってくる日に合わせて奈津美がお布団を干してくれたのだと気付いた。
「お疲れさま。ゆっくり休んでね」奈津美の優し気な声に、重信は目蓋を閉じる。
「うん……ありがとう、なつ」
重信は温かい感謝の気持ちを胸に抱き、意識を夢の中に落とすのだった。