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重信 四十八歳。

ー/ー



「次は──」
 重信は体をびくりと震わせ目を開いた。彼は思い出に浸っている最中に寝てしまっていた。今日は長期の出張からの帰宅途中で、長い時間電車に揺られているせいか彼の体には疲れが溜まっていた。
 彼は電車のアナウンスを聞き、目的の駅まで後二駅であることを知りホッとする。寝過ごしてしまえば家に着く時間が更に延びてしまう。それでは、待ってくれている同居人に申しわけが立たないと彼は思っていた。
 重信はスマートフォンを取り出し寝ている間に連絡が来ていなかったかを確認す    る。そこには、同居人──奈津美(なつみ)からメッセージが来たとの通知が入っていた。彼はLINEを開き、届いたメッセージを読む。
「出張お疲れさま! 今日は重信の好きなハンバーグを用意してるから期待しててね!」奈津美からのいつもと変わらぬメッセージに重信はほくそ笑んだ。
 さて、どう返そうか。顎に手を当て、重信は奈津美への返信を悩み始めた。無難に返すべきか、それとも面白い返しをするべきか。そこまで考えた後、重信はにやりと意地悪な笑いを浮かべる。それは、子供時代にも浮かべていた笑いだった。
「俺的にはハンバーグなんかより君の方がもっと好きなんだけどね」重信はここまで文字を打ち込んだが、内容があまりにも気持ち悪いと気付き急いで文字を消した。
 そして、打っては消し、打っては消しを繰り返し、最後は無難に「ありがとう、もうニ十分くらいで着くから」と簡潔な文を打って送信した。
 送ってすぐ、自分が送った文字の横に既読の文字が浮かび、了解というスタンプが送られてきたのを見て重信はポケットにスマートフォンをしまう。顔に他人には見られたくない笑みが浮かんでいるのに気付き、思わず腕で顔を隠した。
 重信は早く家に帰って奈津美の顔が見たくてたまらなくなっていた。まだかまだかとソワソワしながら、急く気持ちを必死で落ち着かせる。
 他人を信用できなかった人間は、三十年近くという月日を経てようやく誰かを信用できるようになっていた。

 やがて、目的の駅に着き、電車は空気が抜けたような音を立てて扉を開いた。重信は、誰もいない無人の駅に降りるなり胸いっぱいに空気を吸い込み、そして吐き出した。そして、彼はきょろきょろと辺りを見回す。少し寂れた駅のホーム、ここまで漂ってくる潮の香りにようやく帰ってこれたのだという実感を持った。
 重信は海沿いの道を歩く。日は落ち切り空は墨色になっていた。真っ白な色の半円がぽつんと浮かび、無数のきらめく光が空を覆い尽くしている。重信の住む場所は灯りが少なく、星を綺麗に見ることができた。この綺麗な世界では潮鳴りが響いている。ざざん、ざざんという音を聞き、重信はふと、今日の夜は奈津美と散歩にでも行こうかなと考えた。重信が家に着いたのは、電車から降りて十五分後のことであった。

「おかえりなさい!」
 重信は玄関のチャイムを押すのと同時に玄関の扉が開いたことに驚いた。
 奈津美は、驚いた重信の顔を見て笑っている。それはいたずらが成功した子供のような笑みだった。奈津美は重信が帰ってくるのを扉の向こうで待っていた。チャイムが鳴った瞬間に驚かしてやろうと思っていたのだ。
 奈津美は歳に似合わず、子供らしい一面を持っていた。それが満足に子供時代を過ごせなかった重信としてはありがたかった。家の中では童心に戻ってもいいのだと思えるからだ。
「ただいま」重信は満面の笑みを浮かべてそう言った。たった四文字の言葉に愛しているという気持ちを込めて。
 今すぐにでも目の前にいる奈津美を抱き締めたかったが、それは自重した。同棲を始めた当初ならばしていたかもしれないが、これだけ歳を取ると感情を素直に伝えるということが難しくなるのだと重信は理解していた。
「さあ、中に入って」奈津美の後を重信は付いていく。そして、ああ、ようやく帰ってこれたのだと安堵した。


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「次は──」 重信は体をびくりと震わせ目を開いた。彼は思い出に浸っている最中に寝てしまっていた。今日は長期の出張からの帰宅途中で、長い時間電車に揺られているせいか彼の体には疲れが溜まっていた。
 彼は電車のアナウンスを聞き、目的の駅まで後二駅であることを知りホッとする。寝過ごしてしまえば家に着く時間が更に延びてしまう。それでは、待ってくれている同居人に申しわけが立たないと彼は思っていた。
 重信はスマートフォンを取り出し寝ている間に連絡が来ていなかったかを確認す    る。そこには、同居人──奈津美《なつみ》からメッセージが来たとの通知が入っていた。彼はLINEを開き、届いたメッセージを読む。
「出張お疲れさま! 今日は重信の好きなハンバーグを用意してるから期待しててね!」奈津美からのいつもと変わらぬメッセージに重信はほくそ笑んだ。
 さて、どう返そうか。顎に手を当て、重信は奈津美への返信を悩み始めた。無難に返すべきか、それとも面白い返しをするべきか。そこまで考えた後、重信はにやりと意地悪な笑いを浮かべる。それは、子供時代にも浮かべていた笑いだった。
「俺的にはハンバーグなんかより君の方がもっと好きなんだけどね」重信はここまで文字を打ち込んだが、内容があまりにも気持ち悪いと気付き急いで文字を消した。
 そして、打っては消し、打っては消しを繰り返し、最後は無難に「ありがとう、もうニ十分くらいで着くから」と簡潔な文を打って送信した。
 送ってすぐ、自分が送った文字の横に既読の文字が浮かび、了解というスタンプが送られてきたのを見て重信はポケットにスマートフォンをしまう。顔に他人には見られたくない笑みが浮かんでいるのに気付き、思わず腕で顔を隠した。
 重信は早く家に帰って奈津美の顔が見たくてたまらなくなっていた。まだかまだかとソワソワしながら、急く気持ちを必死で落ち着かせる。
 他人を信用できなかった人間は、三十年近くという月日を経てようやく誰かを信用できるようになっていた。
 やがて、目的の駅に着き、電車は空気が抜けたような音を立てて扉を開いた。重信は、誰もいない無人の駅に降りるなり胸いっぱいに空気を吸い込み、そして吐き出した。そして、彼はきょろきょろと辺りを見回す。少し寂れた駅のホーム、ここまで漂ってくる潮の香りにようやく帰ってこれたのだという実感を持った。
 重信は海沿いの道を歩く。日は落ち切り空は墨色になっていた。真っ白な色の半円がぽつんと浮かび、無数のきらめく光が空を覆い尽くしている。重信の住む場所は灯りが少なく、星を綺麗に見ることができた。この綺麗な世界では潮鳴りが響いている。ざざん、ざざんという音を聞き、重信はふと、今日の夜は奈津美と散歩にでも行こうかなと考えた。重信が家に着いたのは、電車から降りて十五分後のことであった。
「おかえりなさい!」
 重信は玄関のチャイムを押すのと同時に玄関の扉が開いたことに驚いた。
 奈津美は、驚いた重信の顔を見て笑っている。それはいたずらが成功した子供のような笑みだった。奈津美は重信が帰ってくるのを扉の向こうで待っていた。チャイムが鳴った瞬間に驚かしてやろうと思っていたのだ。
 奈津美は歳に似合わず、子供らしい一面を持っていた。それが満足に子供時代を過ごせなかった重信としてはありがたかった。家の中では童心に戻ってもいいのだと思えるからだ。
「ただいま」重信は満面の笑みを浮かべてそう言った。たった四文字の言葉に愛しているという気持ちを込めて。
 今すぐにでも目の前にいる奈津美を抱き締めたかったが、それは自重した。同棲を始めた当初ならばしていたかもしれないが、これだけ歳を取ると感情を素直に伝えるということが難しくなるのだと重信は理解していた。
「さあ、中に入って」奈津美の後を重信は付いていく。そして、ああ、ようやく帰ってこれたのだと安堵した。