表示設定
表示設定
目次 目次




はじまり(1)

ー/ー



 魔界中心部にほど近い郊外の高層マンションに一組の夫婦が暮らしていた。
 「ねえ、ユージ。荷物届いたみたいだから取りに行って」
 妻のサクラは仕事部屋から声だけを投げた。
 「はーい」
 奥の書斎からもそもそと出てきたのが夫のユージだ。
 ユージは玄関横の宅配ボックスから届いた荷物を取り出し、箱を開けた。中には古びた本が何冊か入っている。
 「きたきた」
 それを見てユージは目を輝かせた。
 「もう、ユージ!また本を買ったの?もう置くところないわよ」
 珈琲を淹れに出てきたサクラがその様子を見つけ、棘を含んだ声を上げた。
 「これは図書館から借りたんだよ」
 「それなら『エデン』の電子図書館使えばいいのに」
 『エデン』とは魔界政府肝煎りの巨大仮想空間の名称で、魔界では大抵のことが『エデン』内で済ませられるよう整備が進められていた。
 「申し訳ないけど、あそこじゃダメなんだよ」
 本を重そうに抱えながら、ユージは真剣な面持ちで言った。
 「あそこの言葉は死んでいるんだ。研究には使えない」


 この夫婦は魔法や医術、それに科学技術の奥義を極め、一般には『全てを知る者』、魔界政府中枢からは『北極星の君』と呼ばれている、伝説の人物の弟子だ。
 二人の師匠は女性で、洒脱な赤い着物と金の刺繍の入った黒い帯がお気に入りだ。
 長い黒髪は無造作に結い上げたり、ただ後ろに垂らしたりするのが常で、『昔気質の粋な姐さん』といった風体だ。
 そして、本人曰く、左の眼の下の泣きぼくろがチャームポイント、らしい。
 
 彼女は周囲から「先生」だの「師匠」だのと呼ばれ、誰も名前で呼ぶことはなかったが、彼女自身もそれでいいと思っていたようだった。
 同時に彼女は自分自身のことは何も語らない人だった。出生地や経歴は言うに及ばず、ユージとサクラ以外に弟子が居るのか、いないのかさえも。
 
 妻のサクラは師から情報テクノロジーの分野について薫陶を受け、その叡智を受け継いだ者だ。
 但し、彼女はそのことをユージ以外には明かしていない。周りに知られると何かと面倒なことになりそうだったからだ。
 サクラは単純にシステムやそれに関する仕組みを作るのが好きなだけで、誰かに注目されるとか、何か特別なポストへの就任などは眼中にない。今のところは少し腕のいい、ただのひとりの技術者として社会に関わっていきたいと考えている。
 そんなわけで、現在は『エデン』の開発プロジェクトの一兵卒として控えめに働いている。
 
 夫のユージはサクラと違って師から特別何かを受け継いだというわけではないが、その代わりに課題をひとつ与えられていた。
 それは、
 「言葉が世界に与える影響について研究すること」
 であった。
 
 彼らの師匠はユージにこの難題を押し付けて間もなく、忽然と姿を消した。
 今でも行方はおろか、生死さえ不明な状態だ。
 報告する対象が所在不明であっても、ユージは仕事の合間を見つけては、たった一人でこのテーマにこつこつと取り組んでいる。
 そして、サクラはその様子を生活を共にしながら見守っている。妻として、同じ師を持つ弟子同士として。
 
 「それで、研究はちょっとは進んでるの?」
 昼下がり、サクラはユージと昼食を共にしながら何気なく尋ねた。
 「うーん」
 ユージはスープを一口飲んでから、
 「それが全然」
 正直に答えた。
 「どう頑張っても言葉が動き出さないんだ。正直どうしたらいいのかわからない」
 「さっきの古そうな本もダメだったってこと?」
 「まだ全部は読めてないけど、可能性薄そう。古書に何かきっかけがないかと思って借りたんだけどね。――また何か考えるよ」
 「ふーん。そうなんだ」
 サクラはサンドウィッチをほおばりながら気のない返事をした。
 正直な話、ユージが話していることがよくわからないのだ。
 
 ユージはよく「言葉が死んでる」とか「言葉が動かない」とか「言葉が意味を持たない」などというが、サクラにはそれが何なのか、どうしても理解することが出来なかった。
 最も、そのことについてユージがサクラに何か意見を求めたりすることはないのだけれども。
 
 「ユージは長いことそこで足踏みしちゃってるよね」
 「ははは、確かに。面目ない」
 苦笑いしながらユージもサンドウィッチをほおばる。
 「お、これ、旨い」
 「でしょ?今日は評判のパン屋さんのを取り寄せてみたの」
 「へえ」
 「晩御飯は久しぶりにユージのスパゲティ食べたいな」
 「ん、わかった。後で買い出しに行ってくる」
 「もー、買い物なら『エデン』で出来るのに。そんなに『エデン』使うの嫌なの?」
 サクラは不満そうに頬を膨らませた。
 「そんなことないよ。買い出しは気分転換、散歩を兼ねてだよ」
 「そう、それならいいけど」
 
 本音を言うと、ユージは『エデン』が苦手だった。
 確かに『エデン』はもはや魔界で生活するにはなくてはならない環境であり、利用しないという選択肢は考えられないものだ。
 だが、ユージは『エデン』に入ると、まるで自分の精神までが本当にデジタルな存在に変換されてしまうような感覚がして薄気味悪かった。実際にはそんなことが起こるはずもないことは、頭ではわかっているのだけれど。
 加えて、『エデン』の中で表示される言葉は彼の目から見ると、ただのデータの集合体にしか見えなかった。
 それは0と1の二通り、オンとオフが積み重なって構成されているだけの存在で、それ自体には何の意味も持っていなかった。
 その状態をユージなりの言葉で表すと「言葉が死んでいる」ということになる。
 それは、ユージにとっては大変ストレスを感じるものでもあった。
 
 (俺は本当は魔界に向いてないんだろうな)
 そんなことを思ったりもするが、技術者であるサクラと共に生きるのであれば、魔界に住むしかないのもまた事実だ。
 冒頭でも紹介した通り、現世は異なる世界が3つ並立するようにして存在している。
 魔界の他にも別の世界が2つあるということだ。
 
 そのうちのひとつは天界と呼ばれる、魔法が飛躍的に発達した世界である。
 魔界では科学を発達させて様々な問題に対応してきたけれども、天界は魔法で全てを解決してきた世界だ。残念ながらここにはサクラが活躍できるステージはない。
 残る一つは中道界と呼ばれ、他の二つの世界からは何もかもが遅れている世界だ。
 天界からは魔法、魔界からは科学技術が伝えられているものの、何故か発達の度合いがとてもゆっくりだ。
 ここならばサクラの力をもってすれば色々貢献が出来そうだが、魔界政府は魔界籍の技術者が中道界で就労すること自体を禁じている。そして、その禁を破った者には苛烈な罰則が科せられることになっているのだ。
 
 (ここで何とか研究を進めたいけど)
 うーん、とユージは雄弁なため息をつく。
 
 魔界では、言葉が動かない。



スタンプを贈って作者を応援しよう!

次のエピソードへ進む はじまり(2)


みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



 魔界中心部にほど近い郊外の高層マンションに一組の夫婦が暮らしていた。
 「ねえ、ユージ。荷物届いたみたいだから取りに行って」
 妻のサクラは仕事部屋から声だけを投げた。
 「はーい」
 奥の書斎からもそもそと出てきたのが夫のユージだ。
 ユージは玄関横の宅配ボックスから届いた荷物を取り出し、箱を開けた。中には古びた本が何冊か入っている。
 「きたきた」
 それを見てユージは目を輝かせた。
 「もう、ユージ!また本を買ったの?もう置くところないわよ」
 珈琲を淹れに出てきたサクラがその様子を見つけ、棘を含んだ声を上げた。
 「これは図書館から借りたんだよ」
 「それなら『エデン』の電子図書館使えばいいのに」
 『エデン』とは魔界政府肝煎りの巨大仮想空間の名称で、魔界では大抵のことが『エデン』内で済ませられるよう整備が進められていた。
 「申し訳ないけど、あそこじゃダメなんだよ」
 本を重そうに抱えながら、ユージは真剣な面持ちで言った。
 「あそこの言葉は死んでいるんだ。研究には使えない」
 この夫婦は魔法や医術、それに科学技術の奥義を極め、一般には『全てを知る者』、魔界政府中枢からは『北極星の君』と呼ばれている、伝説の人物の弟子だ。
 二人の師匠は女性で、洒脱な赤い着物と金の刺繍の入った黒い帯がお気に入りだ。
 長い黒髪は無造作に結い上げたり、ただ後ろに垂らしたりするのが常で、『昔気質の粋な姐さん』といった風体だ。
 そして、本人曰く、左の眼の下の泣きぼくろがチャームポイント、らしい。
 彼女は周囲から「先生」だの「師匠」だのと呼ばれ、誰も名前で呼ぶことはなかったが、彼女自身もそれでいいと思っていたようだった。
 同時に彼女は自分自身のことは何も語らない人だった。出生地や経歴は言うに及ばず、ユージとサクラ以外に弟子が居るのか、いないのかさえも。
 妻のサクラは師から情報テクノロジーの分野について薫陶を受け、その叡智を受け継いだ者だ。
 但し、彼女はそのことをユージ以外には明かしていない。周りに知られると何かと面倒なことになりそうだったからだ。
 サクラは単純にシステムやそれに関する仕組みを作るのが好きなだけで、誰かに注目されるとか、何か特別なポストへの就任などは眼中にない。今のところは少し腕のいい、ただのひとりの技術者として社会に関わっていきたいと考えている。
 そんなわけで、現在は『エデン』の開発プロジェクトの一兵卒として控えめに働いている。
 夫のユージはサクラと違って師から特別何かを受け継いだというわけではないが、その代わりに課題をひとつ与えられていた。
 それは、
 「言葉が世界に与える影響について研究すること」
 であった。
 彼らの師匠はユージにこの難題を押し付けて間もなく、忽然と姿を消した。
 今でも行方はおろか、生死さえ不明な状態だ。
 報告する対象が所在不明であっても、ユージは仕事の合間を見つけては、たった一人でこのテーマにこつこつと取り組んでいる。
 そして、サクラはその様子を生活を共にしながら見守っている。妻として、同じ師を持つ弟子同士として。
 「それで、研究はちょっとは進んでるの?」
 昼下がり、サクラはユージと昼食を共にしながら何気なく尋ねた。
 「うーん」
 ユージはスープを一口飲んでから、
 「それが全然」
 正直に答えた。
 「どう頑張っても言葉が動き出さないんだ。正直どうしたらいいのかわからない」
 「さっきの古そうな本もダメだったってこと?」
 「まだ全部は読めてないけど、可能性薄そう。古書に何かきっかけがないかと思って借りたんだけどね。――また何か考えるよ」
 「ふーん。そうなんだ」
 サクラはサンドウィッチをほおばりながら気のない返事をした。
 正直な話、ユージが話していることがよくわからないのだ。
 ユージはよく「言葉が死んでる」とか「言葉が動かない」とか「言葉が意味を持たない」などというが、サクラにはそれが何なのか、どうしても理解することが出来なかった。
 最も、そのことについてユージがサクラに何か意見を求めたりすることはないのだけれども。
 「ユージは長いことそこで足踏みしちゃってるよね」
 「ははは、確かに。面目ない」
 苦笑いしながらユージもサンドウィッチをほおばる。
 「お、これ、旨い」
 「でしょ?今日は評判のパン屋さんのを取り寄せてみたの」
 「へえ」
 「晩御飯は久しぶりにユージのスパゲティ食べたいな」
 「ん、わかった。後で買い出しに行ってくる」
 「もー、買い物なら『エデン』で出来るのに。そんなに『エデン』使うの嫌なの?」
 サクラは不満そうに頬を膨らませた。
 「そんなことないよ。買い出しは気分転換、散歩を兼ねてだよ」
 「そう、それならいいけど」
 本音を言うと、ユージは『エデン』が苦手だった。
 確かに『エデン』はもはや魔界で生活するにはなくてはならない環境であり、利用しないという選択肢は考えられないものだ。
 だが、ユージは『エデン』に入ると、まるで自分の精神までが本当にデジタルな存在に変換されてしまうような感覚がして薄気味悪かった。実際にはそんなことが起こるはずもないことは、頭ではわかっているのだけれど。
 加えて、『エデン』の中で表示される言葉は彼の目から見ると、ただのデータの集合体にしか見えなかった。
 それは0と1の二通り、オンとオフが積み重なって構成されているだけの存在で、それ自体には何の意味も持っていなかった。
 その状態をユージなりの言葉で表すと「言葉が死んでいる」ということになる。
 それは、ユージにとっては大変ストレスを感じるものでもあった。
 (俺は本当は魔界に向いてないんだろうな)
 そんなことを思ったりもするが、技術者であるサクラと共に生きるのであれば、魔界に住むしかないのもまた事実だ。
 冒頭でも紹介した通り、現世は異なる世界が3つ並立するようにして存在している。
 魔界の他にも別の世界が2つあるということだ。
 そのうちのひとつは天界と呼ばれる、魔法が飛躍的に発達した世界である。
 魔界では科学を発達させて様々な問題に対応してきたけれども、天界は魔法で全てを解決してきた世界だ。残念ながらここにはサクラが活躍できるステージはない。
 残る一つは中道界と呼ばれ、他の二つの世界からは何もかもが遅れている世界だ。
 天界からは魔法、魔界からは科学技術が伝えられているものの、何故か発達の度合いがとてもゆっくりだ。
 ここならばサクラの力をもってすれば色々貢献が出来そうだが、魔界政府は魔界籍の技術者が中道界で就労すること自体を禁じている。そして、その禁を破った者には苛烈な罰則が科せられることになっているのだ。
 (ここで何とか研究を進めたいけど)
 うーん、とユージは雄弁なため息をつく。
 魔界では、言葉が動かない。