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2 大家恵太②

ー/ー



 わざわざ待っていてくれたのはいいものの、学校を出てから病院に着くまでに僕らが話すことはなかった。というよりも話せなかったという方が正しいかもしれない。まず、自転車で移動するということもあって会話には向かない一列になっていたから。そして、これまで避けようと思ってきた相手に対してなにか話しかけようというのは気持ち的に難しかった。そもそもこれから彰に会いに行くというのだ。気が重くてそれどころではない。本来ならもっと時間が欲しいところではあったがそんな願いもむなしくあっという間に目的地に着いてしまった。学校から自転車で五分もかからない場所に彰がいる病院がある。
 車に轢かれたあと、すぐに近所の人が救急車を呼んでくれたおかげで彰は奇跡的に一命をとりとめた。あと少しでも病院に運ばれるのが遅ければ命がなかったそうだ。僕も意識を失っていたということもあってそこで処置を受けた。体を地面に強く打ち付けていたことで肋骨にひびが入っていたようだった。意識を取り戻したのは事故から数時間たっていたらしくて窓から見た空は黒く濁っていたのを覚えている。頭も打っていたことが原因かは分からないがいくらか記憶が曖昧だったため、念のため数日間入院する必要があったが最終的に問題ないということで無事に退院することが出来た。
 ただ、問題があったのは彰の方で僕がそれを知ることになったのは退院した後のことだった。次の日の夜、両親からその話を聞かされた。一命をとりとめたものの、塀にぶつかったとき当たり所が悪かったらしく昏睡状態に陥っている。それでもかろうじて生命維持に必要な脳幹部分は生きているようだが回復する見込みは薄いとのことだった。
 それを聞いてから僕は何をするにも大事なものが欠けたという感覚が付いて回った。ふとした瞬間に彰のことが思い出されて、こびりついたように頭の中から離れない。瞼を閉じれば曖昧だった記憶が鮮明に思い出されて血を流して地に伏せている彰の光ない瞳がこっちを見ているような気がする。香織たち四人が家までやってきて彰に会いに行こうと誘いに来てくれたが、僕なんかが行けるはずもなく何度も断った。
 それから親には気付かれないようにトイレに行って何度も吐いたし、夜になってぐっすり眠れるなんてことは一度もなくてしっかりとした睡眠ができたのは気絶するように部屋で倒れこんだ時だけだ。当然そんな生活を送っていたらやつれていくのは明らかで、体が細くなって顔色も明らかに悪くなっていった。
 そんな状態で学校に行くと学校ではあまり関わらない関係だった香織たちもさすがに心配して話しかけてきたが僕はそれを冷たく突き放した。僕のせいで彰があんなことになったのだ。とても許されることではないし、みんなに顔を見せることだって本当ならできない。本当なら恨まれてしかるべきで突き放されるべきだ。そうだというのにそんな僕を心配されて優しくされたら僕の心が苦しくて壊れてしまう。だからみんなに酷い態度をとった。
 その日、家に帰った途端僕は玄関で倒れた。ようやく眠れる。そう思っているといつもと感覚が違うことに気付く。頭の奥が焼けるように熱くて息が苦しい。どれだけ息を深く吸っても酸素が肺に届いていないようだ。手足は痺れて感覚がなく、背負っていたランドセルで体が潰されているみたいに重かった。これが僕に与えられた罰なんだろうか。これで僕は許してもらえるのだろうか。そんなことを考えて暗く沈んでいく意識の中、近くであわただしく床を蹴る音だけが僕を包んでいた。
 目が覚めるとつい最近も見上げた天井が視界に映る。起き上がろう左腕をつくとチクッと鋭い痛みが走った。ベッドの左わきには半分以上減った点滴が、右わきには琴音が腕を枕にして顔をうつ伏せていた。しばらくボーっとしていると病室の扉がガラガラと音を立て、白衣を着た見知った先生と母親が入ってきた。
 僕が起きているのを確認すると母は僕を抱きしめて泣いた。まだ完治はしていなくて肋骨のあたりが痛かったが、だからといって涙を流す母を振りほどくことは出来なくて僕はされるがままになるしかなかった。その声に反応したからか、顔を上げた琴音と目が合う。驚きと安心が混じったような瞳で僕を見た後、母と同じように僕の胸に飛びついてきた。すすり泣く母と違って琴音は泣いたり声を上げるということはなく、黙って顔を埋めている。しかし、先ほどまで琴音のうつ伏せていた辺りをよく見て見ると湿ったように色が変わっていた。
 そのあと先生から受けた説明によると四十度を超える熱が出ていて体も痙攣していたとのことだ。もしかしたら死んでいたかもしれない。そういった状況が先ほどの母や妹の反応を生んだのだった。
 当たり前のことだが僕には家族がいる。自分を支えてくれる存在だ。自分にも何か起こったら悲しむ人がいる。それを実感したことが少しだけ僕の心を落ち着かせて、吐いたりすることもなくなっていった。それでも未だに彰のことを夢に見るし、誰かと深く関わろうという気はなくなったが……
 僕が病院を訪れたのはその時が最後で、結局彰に会うということも一度もなかった。
 建物は比較的新しく、清潔感のある病棟はどこからともなく薬品の独特の香りが漂っている。すれちがう患者は僕らに比べると年齢層がかなり高くて、もしかしたら僕らのことは祖父母を見舞いに来た思いやりのある孫のように見えているのかも、なんて考えたりした。そんなどうでもいいことを考えたり目がいったりしているのは今までに感じたことないほど緊張して気が重いからかもしれない。その証拠にさっきから香織が時折なにか話しかけてくるが内容が全然頭に入らず空返事ばかりしていた。
 行き慣れたように次々と病室を通り過ぎていく香織についていくと一番端にあった病室の前で立ち止まった。それなりに賑わっていた受付と比べると同じ建物内とは思えないほど静かな空間の中、速くなる鼓動の音がうるさい。
「大丈夫?」
 声の主の方を向くと心配そうな目をした香織が顔だけこちらに向けていた。その手はしっかりドアノブに手をかけていていつでも開けれるように準備している。一呼吸おいて静かに頷くと、顔を体と同じ方向に戻してドアを静かにスライドさせた。
 白を基調とした部屋の中央にはベッドが置かれていて、それを入口からは隠すようにクリーム色のカーテンが引いてある。奥にあって見えないもののピッピッと一定の間隔で鳴る機械音がその存在感を感じさせていた。
 香織に続いて病室に入ると気のせいかというくらいほんの少しする花の甘い匂いに出迎えられた。カーテンで見えなかったが、窓から差し込む日光が壁やらベッドやらに反射して眩しくて、若干小麦色に焼けていた僕らを異物のように切り取った。
 六年ぶりに会う彰はあの頃と何も変わっていないように思えた。勿論、体は小六から高三に成長していて全然違う。それでも一目で彰だと分かるほど面影が残っていて、その顔は懐かしさすら感じさせた。
 想像していた通りの彰だということ以外にも驚くことがある。それは想像以上に健康的だったということだ。ずっと寝たきりだということで僕は勝手にやせ細った姿をイメージしていた。しかし、意外にも布団から覗いている彰の顔はつい最近入院したんじゃないかというくらい肉付きがよく、赤みがかった頬が今にも起きだすんじゃないかと錯覚させるほどだった。
 最初は驚きが心を埋めて見つめていたが、しばらくすると直視できなくなって香織の方を見た。香織は彰よりも窓際に置かれたフラワーアレンジメントに気をとられていたようで、背を向けてそれを眺めていた。僕の視線に気づいて照れるように笑うとそれを手にしてベッドの横に置かれた来客用の椅子に腰かける。僕もそれに倣って隣に座った。
「花がどうかした?」
 避けるように香織のしていた行動について話題を振る。
「いや……昨日はなかったからびっくりしてさ」
「昨日も来たの?」
「もちろん。なるべく毎日来るようにはしてるよ」
 自慢げだったり棘があったりとかそういうのではなく、それがさも普通のことであるかのように答える。気まずさを感じたがそういう態度を自分からとるのは良い手ではないというのは高校生にもなれば身に付く思考だ。
「じゃあ誰なんだろうな。心当たりとかないの?」
「さあ?少なくとも綾奈ちゃんじゃないってことは確かだよ。ここにはいないしね」
 綾奈は高校一年生の時に学校を自主退学した。詳しいことは知らないが夢だった写真家になるからだそうだ。今ではすっかりその世界では有名人になって色々な場所を飛び回っているらしい。香織の言っていることはそういうことだろう。
「結衣とかは?」
「どうだろう。結衣ちゃんももうそういう感じしないけど」
 なんで、という言葉が喉元まで出かかったが押さえつけた。
「康介くんっていうふうには思わないんだ?」
「花を手向けるなんてガラじゃないよ。まだラケットを持ってくる方が想像つく」
 考えてみて面白くなったのか、お腹を押さえて声を出さないように香織が笑う。乱れた息を整えるとふうっと深呼吸をした。
「念の為に訊くけど、恵太くんじゃないんだよね?」
「うん」
「そっか……」
 花に少し目線をやると立ち上がってもとあった場所にそっと置いた。スカートの皺を伸ばしてもう一度深く座りなおす。
「それで、どう?彰くんと会ってみて」
「どうって言われても……」
「難しいよね。六年ぶりだし」
 それだけではない。いざ目の前にすると色々な感情が湧き出て整理がつかないのだ。考えがまとまらない、どうすればいいか分からないという状況が一周まわって表面上の落ち着いた様子を作り出していた。
「香織は結構頻繁に来てるんだよね?」
「そうだよ」
「どんなこと話したりしてるの?」
「そうだなあ……その日あったこととかかな。授業でこんなことがあったよ、とか。あとみんなのことも少し話したりね。一人じゃそれくらいが限界」
 肩をすくめて背もたれに身を任せる姿はおどけているように見えてどこか寂しそうだ。
「だからこうして恵太くんが来てくれたのは本当に嬉しかったんだ。私だけかもしれないけど久しぶりにあの頃に近づけた気がして」
 その言葉に肯定することも否定することもしなかった。わざわざ嘘をつくのも気が引けたし、かといって認めるというのも出来ない。僕にできる最大の抵抗が無言を貫くことだった。それをどうとらえたのか分からないが、香織はその様子を見るとなにかを察したように口を開いた。
「ちょっとのど乾いたから飲み物買ってくる。なにかいる?」
「僕も行くよ」
「大丈夫!せっかく来てもらったのに病室から出ちゃ意味ないでしょ?」
 立ち上がろうとした僕を押さえつける。
「分かったよ」
「水でいい?」
「うん」
「じゃあゆっくりしてて」
 ドアの閉まる音と共に静けさを取り戻した病室はまるで嵐が過ぎ去った後のようで、展開の速さにあっけにとられた。ゆっくりしてと言われたものの、急に二人きりにされて落ち着くはずもなく、椅子から立ち上がると病室をうろうろして最終的に窓の外を眺めた。
 香織が戻ってくるまでこうして時間を潰しているのも悪くない。だが、そんな態度で香織の頼みに向き合ったと胸を張れるとは全く思えるはずもなく、徒に時間を潰すことである種罪悪感のようなものが僕の心を蝕んだ。それにこれは香織がくれたチャンスだ。六年経ってようやく巡ってきたあの頃と向き合う機会をこうしていいものか。焦燥感が僕を振り返らせた。
 二度目の彰の顔だというのに言葉を忘れてしまったかのようになにも口から出ない。とにかくなにか話しかけたかった。そうすることでなにか変わるんじゃないか。
「久しぶりだね」
 ようやく口にした言葉がそれか、という自己嫌悪を感じることになるがそれよりも先に安堵を感じて目頭が熱くなった。すぐに上を向いて場にそぐわないそれを仕舞うと、もう一度彰の方を向いた。
 それからは色々話した。自分から見たみんなの話、それから中学や高校の話。それが届いているかは分からない。しかし、分からないからこそ良かった。
 前からもし病院に行くことがあっても自分のことは話さないと決めていた。四人の話しかしないと。
 飲み物を買ってくると言っていたが香織はまだ戻ってこない。本当に買ってくるだけならとっくに戻ってきていてもいいころだ。寄り道でもしていらぬ気づかいでもしているのだろう。もう話すことはなくなっていて僕のすることといえば彰のことを見続けることくらいだった。
 話している間は楽しいとすら思っていた。久しぶりに彰に会って話しをするということもあって変な高揚感を感じていたのだと思う。それが罪悪感や苦しいという気持ちさえ上回っていた。むしろ上回るようにできているのかもしれない。
 それも終わると一気に反動が来た。静かでいるといやでもあの時のことを思い出してしまう。なにか言わないと。そう思ってこぼれ出た言葉は今口にするつもりのないものだった。
「ごめんなさい」
 ハッと息をのむと口元に片手を覆うようにして触れる。と同時に扉の開く音がしてそっちに視線を移すと香織が両手にペットボトルを持って立っていた。自分の顔から血の気が引いて体が冷えていくのが分かった。
 香織は彰の方を見て一瞬目を見開いたような気がする。僕が差し出されたペットボトルを受け取ると、香織はさっきと同じように椅子に座り込む。
「で、どうだった?」
 水を一口飲んで窓際にペットボトルを置くと覗き見るように僕を見上げた。
「どうって言われてもな……」
 触れられなかったことに安堵すると、今度は体が熱くなっていく感覚があった。なんであんなことを言ったんだ。もし聞かれていたらどうしよう。今すぐにでもここから逃げ出したい。だが、手に感じる水の冷たい感触が僕を引き止めた。
「なにか話してたでしょ?違うの?」
 潰れない程度にペットボトルを強く握る。
「みんなのこととか話したよ……」
「そっか。じゃあ私のこととかなんて伝えたのか教えてよ」
「え!?」
「隠すようなことじゃないし良いじゃん!その手に持ってるやつだって買ってきてあげたんだから」
 お金を返せば済みそうな話だがそれですんなり終わるとは思えない。
「変わらないって話したんだ。ずっと明るくて……少なくとも僕にはそう感じたからね」
「ふーん」
 ジーッと目を細めて僕を見るとニヤッと笑って彰の方を見た。
「本当に恵太くんはそう言ってた?」
 当然返事があるはずもないがそれにも慣れた様子だ。
「じゃあそろそろ帰るよ」
 寄り掛かっていたからか、少し潰れたカバンを手に取って香織に告げた。
「もう!?まだ早いんじゃない?」
 ポケットからスマホを取りだして時間を確認すると、慌てたように立ち上がった。確かにまだ十分いたとはいえないし多少不自然な気もする。それでも少し一人になりたかったし、それが叶うなら口に出すことはないがまた来たっていいとさえ思った。
「ごめん……」
 待って、という香織の声を無視して足早に去ろうとする。しかし次の瞬間、聞き慣れない男の声が僕の動きを止めた。
「待ちなよ」
 振り返るとカーテン越しに体を起こすグレーのシルエットが瞳に映る。両手で口元を隠して驚いている香織が見えたが気にせずに一目散にカーテンの向こうが見える位置まで戻った。
「……彰」
「僕を見舞いに来たんじゃないの?」
 待ち望んだ笑顔が低くなった陽の光に照らされてもっと眩しい。色々な感情が湧き上がる中、僕の頭は真っ白だった。


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 車に轢かれたあと、すぐに近所の人が救急車を呼んでくれたおかげで彰は奇跡的に一命をとりとめた。あと少しでも病院に運ばれるのが遅ければ命がなかったそうだ。僕も意識を失っていたということもあってそこで処置を受けた。体を地面に強く打ち付けていたことで肋骨にひびが入っていたようだった。意識を取り戻したのは事故から数時間たっていたらしくて窓から見た空は黒く濁っていたのを覚えている。頭も打っていたことが原因かは分からないがいくらか記憶が曖昧だったため、念のため数日間入院する必要があったが最終的に問題ないということで無事に退院することが出来た。
 ただ、問題があったのは彰の方で僕がそれを知ることになったのは退院した後のことだった。次の日の夜、両親からその話を聞かされた。一命をとりとめたものの、塀にぶつかったとき当たり所が悪かったらしく昏睡状態に陥っている。それでもかろうじて生命維持に必要な脳幹部分は生きているようだが回復する見込みは薄いとのことだった。
 それを聞いてから僕は何をするにも大事なものが欠けたという感覚が付いて回った。ふとした瞬間に彰のことが思い出されて、こびりついたように頭の中から離れない。瞼を閉じれば曖昧だった記憶が鮮明に思い出されて血を流して地に伏せている彰の光ない瞳がこっちを見ているような気がする。香織たち四人が家までやってきて彰に会いに行こうと誘いに来てくれたが、僕なんかが行けるはずもなく何度も断った。
 それから親には気付かれないようにトイレに行って何度も吐いたし、夜になってぐっすり眠れるなんてことは一度もなくてしっかりとした睡眠ができたのは気絶するように部屋で倒れこんだ時だけだ。当然そんな生活を送っていたらやつれていくのは明らかで、体が細くなって顔色も明らかに悪くなっていった。
 そんな状態で学校に行くと学校ではあまり関わらない関係だった香織たちもさすがに心配して話しかけてきたが僕はそれを冷たく突き放した。僕のせいで彰があんなことになったのだ。とても許されることではないし、みんなに顔を見せることだって本当ならできない。本当なら恨まれてしかるべきで突き放されるべきだ。そうだというのにそんな僕を心配されて優しくされたら僕の心が苦しくて壊れてしまう。だからみんなに酷い態度をとった。
 その日、家に帰った途端僕は玄関で倒れた。ようやく眠れる。そう思っているといつもと感覚が違うことに気付く。頭の奥が焼けるように熱くて息が苦しい。どれだけ息を深く吸っても酸素が肺に届いていないようだ。手足は痺れて感覚がなく、背負っていたランドセルで体が潰されているみたいに重かった。これが僕に与えられた罰なんだろうか。これで僕は許してもらえるのだろうか。そんなことを考えて暗く沈んでいく意識の中、近くであわただしく床を蹴る音だけが僕を包んでいた。
 目が覚めるとつい最近も見上げた天井が視界に映る。起き上がろう左腕をつくとチクッと鋭い痛みが走った。ベッドの左わきには半分以上減った点滴が、右わきには琴音が腕を枕にして顔をうつ伏せていた。しばらくボーっとしていると病室の扉がガラガラと音を立て、白衣を着た見知った先生と母親が入ってきた。
 僕が起きているのを確認すると母は僕を抱きしめて泣いた。まだ完治はしていなくて肋骨のあたりが痛かったが、だからといって涙を流す母を振りほどくことは出来なくて僕はされるがままになるしかなかった。その声に反応したからか、顔を上げた琴音と目が合う。驚きと安心が混じったような瞳で僕を見た後、母と同じように僕の胸に飛びついてきた。すすり泣く母と違って琴音は泣いたり声を上げるということはなく、黙って顔を埋めている。しかし、先ほどまで琴音のうつ伏せていた辺りをよく見て見ると湿ったように色が変わっていた。
 そのあと先生から受けた説明によると四十度を超える熱が出ていて体も痙攣していたとのことだ。もしかしたら死んでいたかもしれない。そういった状況が先ほどの母や妹の反応を生んだのだった。
 当たり前のことだが僕には家族がいる。自分を支えてくれる存在だ。自分にも何か起こったら悲しむ人がいる。それを実感したことが少しだけ僕の心を落ち着かせて、吐いたりすることもなくなっていった。それでも未だに彰のことを夢に見るし、誰かと深く関わろうという気はなくなったが……
 僕が病院を訪れたのはその時が最後で、結局彰に会うということも一度もなかった。
 建物は比較的新しく、清潔感のある病棟はどこからともなく薬品の独特の香りが漂っている。すれちがう患者は僕らに比べると年齢層がかなり高くて、もしかしたら僕らのことは祖父母を見舞いに来た思いやりのある孫のように見えているのかも、なんて考えたりした。そんなどうでもいいことを考えたり目がいったりしているのは今までに感じたことないほど緊張して気が重いからかもしれない。その証拠にさっきから香織が時折なにか話しかけてくるが内容が全然頭に入らず空返事ばかりしていた。
 行き慣れたように次々と病室を通り過ぎていく香織についていくと一番端にあった病室の前で立ち止まった。それなりに賑わっていた受付と比べると同じ建物内とは思えないほど静かな空間の中、速くなる鼓動の音がうるさい。
「大丈夫?」
 声の主の方を向くと心配そうな目をした香織が顔だけこちらに向けていた。その手はしっかりドアノブに手をかけていていつでも開けれるように準備している。一呼吸おいて静かに頷くと、顔を体と同じ方向に戻してドアを静かにスライドさせた。
 白を基調とした部屋の中央にはベッドが置かれていて、それを入口からは隠すようにクリーム色のカーテンが引いてある。奥にあって見えないもののピッピッと一定の間隔で鳴る機械音がその存在感を感じさせていた。
 香織に続いて病室に入ると気のせいかというくらいほんの少しする花の甘い匂いに出迎えられた。カーテンで見えなかったが、窓から差し込む日光が壁やらベッドやらに反射して眩しくて、若干小麦色に焼けていた僕らを異物のように切り取った。
 六年ぶりに会う彰はあの頃と何も変わっていないように思えた。勿論、体は小六から高三に成長していて全然違う。それでも一目で彰だと分かるほど面影が残っていて、その顔は懐かしさすら感じさせた。
 想像していた通りの彰だということ以外にも驚くことがある。それは想像以上に健康的だったということだ。ずっと寝たきりだということで僕は勝手にやせ細った姿をイメージしていた。しかし、意外にも布団から覗いている彰の顔はつい最近入院したんじゃないかというくらい肉付きがよく、赤みがかった頬が今にも起きだすんじゃないかと錯覚させるほどだった。
 最初は驚きが心を埋めて見つめていたが、しばらくすると直視できなくなって香織の方を見た。香織は彰よりも窓際に置かれたフラワーアレンジメントに気をとられていたようで、背を向けてそれを眺めていた。僕の視線に気づいて照れるように笑うとそれを手にしてベッドの横に置かれた来客用の椅子に腰かける。僕もそれに倣って隣に座った。
「花がどうかした?」
 避けるように香織のしていた行動について話題を振る。
「いや……昨日はなかったからびっくりしてさ」
「昨日も来たの?」
「もちろん。なるべく毎日来るようにはしてるよ」
 自慢げだったり棘があったりとかそういうのではなく、それがさも普通のことであるかのように答える。気まずさを感じたがそういう態度を自分からとるのは良い手ではないというのは高校生にもなれば身に付く思考だ。
「じゃあ誰なんだろうな。心当たりとかないの?」
「さあ?少なくとも綾奈ちゃんじゃないってことは確かだよ。ここにはいないしね」
 綾奈は高校一年生の時に学校を自主退学した。詳しいことは知らないが夢だった写真家になるからだそうだ。今ではすっかりその世界では有名人になって色々な場所を飛び回っているらしい。香織の言っていることはそういうことだろう。
「結衣とかは?」
「どうだろう。結衣ちゃんももうそういう感じしないけど」
 なんで、という言葉が喉元まで出かかったが押さえつけた。
「康介くんっていうふうには思わないんだ?」
「花を手向けるなんてガラじゃないよ。まだラケットを持ってくる方が想像つく」
 考えてみて面白くなったのか、お腹を押さえて声を出さないように香織が笑う。乱れた息を整えるとふうっと深呼吸をした。
「念の為に訊くけど、恵太くんじゃないんだよね?」
「うん」
「そっか……」
 花に少し目線をやると立ち上がってもとあった場所にそっと置いた。スカートの皺を伸ばしてもう一度深く座りなおす。
「それで、どう?彰くんと会ってみて」
「どうって言われても……」
「難しいよね。六年ぶりだし」
 それだけではない。いざ目の前にすると色々な感情が湧き出て整理がつかないのだ。考えがまとまらない、どうすればいいか分からないという状況が一周まわって表面上の落ち着いた様子を作り出していた。
「香織は結構頻繁に来てるんだよね?」
「そうだよ」
「どんなこと話したりしてるの?」
「そうだなあ……その日あったこととかかな。授業でこんなことがあったよ、とか。あとみんなのことも少し話したりね。一人じゃそれくらいが限界」
 肩をすくめて背もたれに身を任せる姿はおどけているように見えてどこか寂しそうだ。
「だからこうして恵太くんが来てくれたのは本当に嬉しかったんだ。私だけかもしれないけど久しぶりにあの頃に近づけた気がして」
 その言葉に肯定することも否定することもしなかった。わざわざ嘘をつくのも気が引けたし、かといって認めるというのも出来ない。僕にできる最大の抵抗が無言を貫くことだった。それをどうとらえたのか分からないが、香織はその様子を見るとなにかを察したように口を開いた。
「ちょっとのど乾いたから飲み物買ってくる。なにかいる?」
「僕も行くよ」
「大丈夫!せっかく来てもらったのに病室から出ちゃ意味ないでしょ?」
 立ち上がろうとした僕を押さえつける。
「分かったよ」
「水でいい?」
「うん」
「じゃあゆっくりしてて」
 ドアの閉まる音と共に静けさを取り戻した病室はまるで嵐が過ぎ去った後のようで、展開の速さにあっけにとられた。ゆっくりしてと言われたものの、急に二人きりにされて落ち着くはずもなく、椅子から立ち上がると病室をうろうろして最終的に窓の外を眺めた。
 香織が戻ってくるまでこうして時間を潰しているのも悪くない。だが、そんな態度で香織の頼みに向き合ったと胸を張れるとは全く思えるはずもなく、徒に時間を潰すことである種罪悪感のようなものが僕の心を蝕んだ。それにこれは香織がくれたチャンスだ。六年経ってようやく巡ってきたあの頃と向き合う機会をこうしていいものか。焦燥感が僕を振り返らせた。
 二度目の彰の顔だというのに言葉を忘れてしまったかのようになにも口から出ない。とにかくなにか話しかけたかった。そうすることでなにか変わるんじゃないか。
「久しぶりだね」
 ようやく口にした言葉がそれか、という自己嫌悪を感じることになるがそれよりも先に安堵を感じて目頭が熱くなった。すぐに上を向いて場にそぐわないそれを仕舞うと、もう一度彰の方を向いた。
 それからは色々話した。自分から見たみんなの話、それから中学や高校の話。それが届いているかは分からない。しかし、分からないからこそ良かった。
 前からもし病院に行くことがあっても自分のことは話さないと決めていた。四人の話しかしないと。
 飲み物を買ってくると言っていたが香織はまだ戻ってこない。本当に買ってくるだけならとっくに戻ってきていてもいいころだ。寄り道でもしていらぬ気づかいでもしているのだろう。もう話すことはなくなっていて僕のすることといえば彰のことを見続けることくらいだった。
 話している間は楽しいとすら思っていた。久しぶりに彰に会って話しをするということもあって変な高揚感を感じていたのだと思う。それが罪悪感や苦しいという気持ちさえ上回っていた。むしろ上回るようにできているのかもしれない。
 それも終わると一気に反動が来た。静かでいるといやでもあの時のことを思い出してしまう。なにか言わないと。そう思ってこぼれ出た言葉は今口にするつもりのないものだった。
「ごめんなさい」
 ハッと息をのむと口元に片手を覆うようにして触れる。と同時に扉の開く音がしてそっちに視線を移すと香織が両手にペットボトルを持って立っていた。自分の顔から血の気が引いて体が冷えていくのが分かった。
 香織は彰の方を見て一瞬目を見開いたような気がする。僕が差し出されたペットボトルを受け取ると、香織はさっきと同じように椅子に座り込む。
「で、どうだった?」
 水を一口飲んで窓際にペットボトルを置くと覗き見るように僕を見上げた。
「どうって言われてもな……」
 触れられなかったことに安堵すると、今度は体が熱くなっていく感覚があった。なんであんなことを言ったんだ。もし聞かれていたらどうしよう。今すぐにでもここから逃げ出したい。だが、手に感じる水の冷たい感触が僕を引き止めた。
「なにか話してたでしょ?違うの?」
 潰れない程度にペットボトルを強く握る。
「みんなのこととか話したよ……」
「そっか。じゃあ私のこととかなんて伝えたのか教えてよ」
「え!?」
「隠すようなことじゃないし良いじゃん!その手に持ってるやつだって買ってきてあげたんだから」
 お金を返せば済みそうな話だがそれですんなり終わるとは思えない。
「変わらないって話したんだ。ずっと明るくて……少なくとも僕にはそう感じたからね」
「ふーん」
 ジーッと目を細めて僕を見るとニヤッと笑って彰の方を見た。
「本当に恵太くんはそう言ってた?」
 当然返事があるはずもないがそれにも慣れた様子だ。
「じゃあそろそろ帰るよ」
 寄り掛かっていたからか、少し潰れたカバンを手に取って香織に告げた。
「もう!?まだ早いんじゃない?」
 ポケットからスマホを取りだして時間を確認すると、慌てたように立ち上がった。確かにまだ十分いたとはいえないし多少不自然な気もする。それでも少し一人になりたかったし、それが叶うなら口に出すことはないがまた来たっていいとさえ思った。
「ごめん……」
 待って、という香織の声を無視して足早に去ろうとする。しかし次の瞬間、聞き慣れない男の声が僕の動きを止めた。
「待ちなよ」
 振り返るとカーテン越しに体を起こすグレーのシルエットが瞳に映る。両手で口元を隠して驚いている香織が見えたが気にせずに一目散にカーテンの向こうが見える位置まで戻った。
「……彰」
「僕を見舞いに来たんじゃないの?」
 待ち望んだ笑顔が低くなった陽の光に照らされてもっと眩しい。色々な感情が湧き上がる中、僕の頭は真っ白だった。