「それじゃあ、行って来るわね」
化粧をした妙子が、重信を置いて玄関から出て行った。それを重信は返事もせずに見送った。
扉の開いた玄関から見えた空は真っ暗だった。今の時刻は深夜二時、重信がまだ寝ている時間に妙子がバタバタと歩き回るので、重信は目が覚めてしまった。
また男か、これで今年に入ってから何人目だ。
重信は心の中で、妙子のことを蔑んだ。離婚してからというものの、人が変わったように男をとっかえひっかえしながら遊ぶようになってしまった。重信が一人で食事などができるようになってからそれは特に顕著で、家事を全て重信に任せて遊び惚けてばかりだ。そこには重信が幼き頃、家事に精を出していた妙子の姿はまるで見当たらなかった。
はぁ、と重信は溜息を吐く。なんとか中学二年の時に学校を復帰したはいい物の、勉強に追い付くのに時間が掛かってしまった。そのせいで、あまりいい高校に行くことができなかった。
養育費は利治が払っているらしいとだけ重信は聞かされている。大学用の費用も用意してあるとのことだった。
なので、大学受験だけは頑張ろうと必死に勉強しているのだが、どうも妙子は重信に大学へと行ってほしくないようであった。早く仕事して、お金を家に入れて欲しいと毎日のように言われ続けている。重信はその度に、お金を稼ぐならいい大学を出た方がいいと言っているのだが聞く耳を持つことはなかった。
最近、重信は子供の頃のことを思い出すことが増えた。どうしてこうなってしまったんだろう。そう思う度に、幼少期のことが頭に浮かぶのだ。記憶の中で『私に任せて』と妙子は幼き頃の自分に向けて言っていた。
胃の中が熱くなり、食道から込み上げてくる物があった。思わず吐いてぶちまけそうになる物を飲み下し、バイトに行く支度を始めた。自分が悪いからこうなったのだと、自責の念を抱えながら。
自転車にまたがり、まだ太陽が昇らない暗がりの道を重信は走る。重信が向かうさきはバイト先である工場だ。
まだ受験生の重信がバイトをしているのは金を貯めるためだった。高校を卒業したらすぐに一人暮らしをする為の金を高校一年の時から貯めている。早く母親とは縁を切りたかった。
「おはようございます」
重信はバイト先に着くなり、先輩に挨拶をした。先輩は「ああ、おはよう」と軽く会釈をするだけでそれ以上の話はなにもせずに、そのまま作業場へと向かう。あまり人と関わりたくない重信としては、この距離感がちょうどよかった。
消毒をした重信の目の前には、ベルトコンベアがあった。重信のバイトは工場での流れ作業だ。やることは流れてくる穴にプラスチックの容器を差すだけの簡単な作業。重信の家の近くで人と関わらずにできる仕事はこれしかなかった。
重信は自分が四月産まれなことに感謝をしていた。高校生三年に上がってすぐ一八歳になったたことで、深夜帯でもバイトができるようになった。これで、学校に行くまでの時間をバイトに充てることができる。学校休みの日や、学校終わりにしかできなかったバイトが深夜にもできるようになったことで時間に余裕ができたような気がした。
「松木、工場長が呼んでるぞ」
「あ、はい。教えてもらってありがとうございます」
ふぁ、と休憩時間中に大きな欠伸をしていた重信に先輩が声を掛ける。それで、重信は今日が給料日であったことを思い出した。
重信は自分の銀行口座を持っておらず給料は手渡しでもらっていた。彼は給料を全額貯金するだけなので、給料日などは特に意識していない。なので給料日って今日だったのか、とぼんやりとした思考で工場長の元へと向かった。
「松木君、今月もお疲れさま」重信が事務室に入ると、工場長が窓際にある席に座っていた。
目尻に皺があり、少し伸びた無精ひげには白い物が混じっている。柔らかい雰囲気を持つその男のことが重信は好きだった。
なんと言葉を返していいのかわからず、重信が頷くのを見て工場長も「うんうん」と頷く。そして、机の上にある給料袋を持って席から立ち上がり、重信の前まで歩いてくる。
「深夜も働いてるけど、学校の方は大丈夫なの?」
「あ、はい。なんとか」
これは嘘だった。重信の睡眠時間は四時間で少しずつ学校生活にも支障が出てきている。だが、この一年を乗り切れれば自由になれると思う気持ちが重信の頑張る気力となっていた。
「そう、なにかあったら言うんだよ。はい、今月のお給料」
「……ありがとうございます」
感謝の言葉を伝えるのに、少しだけ間が空いた。
誰かを頼るということに重信は拒絶反応を示す。最後に誰かに頼ったのは不登校の時だった。それ以来、最低限の補助だけでやってきている。工場長は確かに頼れる大人かもしれないが、それはどれだけ安心できるのだろうか? 心を船に乗せた瞬間に、その船が転覆しないとも限らない。石橋もいつか崩れるかもしれない。事実、石橋だと思っていた自分の家族は粉々に砕け散ったのだ。
重信は記憶の蓋が開きそうになり、その場から逃げるように工場長に会釈をして事務室から去った。工場用の服が少し厚着だったせいか、重信の額からは汗が流れていた。
その後重信は吹っ切るかのように黙々と働いた。ガシャンガシャンと一定のペースで機械が立てる音を聞いていると、彼の頭の中が段々と真っ白になっていく。無意識に体を動かし、時間が経つのを待った。
ぽんぽんと肩を叩かれる感触に重信はハッとなった。「交代だよお疲れ様」と笑う先輩の声に今日のバイトが終わったのだと理解した。
そして、明け方のまだ空気がひんやりとした中を重信は帰る。給料袋を落とさないようにポケットを抑えながら。今日の給料袋はいつもよりも重たく感じた。
「ただいま──え」
家に着き、自転車を止めてアパートの中に入った重信は絶句した。アパートが荒らされている。
重信の心臓がバクバクと跳ねあがり。息が浅くなる。こういう時はどうすればいいのだろうか、パニックで思考が停止していた。
その時だった。──がさ。という物音が重信の耳に入ったのは。
誰かいる。
これは多分、強盗という物なのだろう。重信は咄嗟に逃げようと後ろでに玄関の扉のノブを捻った。
「あれ、しげちゃん。お帰り」
「──かあさん?」
妙子の声に、重信は思わず少しうわずった素っ頓狂な声を出してしまった。一体この人は何をしているのだろうか。重信の頭は疑心暗鬼に埋め尽くされる。やがて、それが何かを探しているということに気付き、冷や汗が出た。
「ねぇ、今まで貯めたお金どこに置いてるの?」
重信の予感は的中した。今まで自分に通帳を作らせなかった理由もそれでわかった。
妙子が寝室から玄関まで歩いてくる。そして、にっこりと笑いながら重信の正面に立つ。そして、重信としっかり目と目を合わせた。その目はやけに虚ろ気で、視点が合ってないようにも見えた。
重信が久々に見た母の顔には昔の面影がまったくなく、そこにいたのは他人だと思い重信は逃げた。
逃げた、重信は逃げた。さっき帰って来た道を引き返して逃げた。『頼ってくれ』という言葉だけが今の重信にとっては助け舟だった。
「あれ、松木君帰ったんじゃ?」
事務室にいた工場長の優し気な声に、重信は涙を溢した。そして、自分の境遇を工場長に話すと、工場長は内緒で寮の一室を重信に貸してくれた。それで、ようやく少しだけ落ち着くことができたのだ。
重信は工場長に感謝してもしきれない恩がある。だけど、工場長は重信が四十二歳の時に死んでしまった。
十二歳の時に父親と会わなくなった重信は工場長を父親だと思っている。四十八歳になった今でもだ。
もし、工場長がいなければどうなっていたのだろうかと思うこともしばしばあった。彼のお陰で、今はこの悲惨な過去も飲み込めるようになったのだと重信は感謝している。そして、後もう一人感謝をしなければいけない人がいた。
その人の名前は竹田奈津美。重信が三十六歳の時から同棲している女性の名前だ。