「ただいま」
重信の落ち着いた声が玄関に響いた。小学六年生になった重信の体は大きくなり、身長もクラスで後ろから三番目になるほどまで伸びていた。だが、顔には二年生の頃の生気はない。小学生らしからぬ倦怠感のような物が全身から滲みでている。
今日は二学期最後の日で明日から冬休みだった。学校に物を置きっぱなしにすると先生に怒られるので、ランドセルに詰められるだけ詰めてある。そのせいで、重信のランドセルはいつもより重たくなっていた。
「おかえりなさい」
妙子の声が居間のほうから聞こえてくる。だけど、昔のように妙子が重信に顔を見せることはなかった。
きっと、体を休めるために横になっているのだろう。そう重信は思った。重信が利治を殴ったあの日から、利治は酒を飲む度に重信に対して暴力を振るうようになった。それを妙子がかばっているせいで、妙子の体にはいくつもの痣ができ、暑い日でもその痣を隠すために長袖を着るようになった。
前まで精力的に家事をしていたが、今では最低限の活動しかしなくなってしまった。重信は妙子に申し訳なくなり、ご飯時以外はあまり顔を合わせないようにすることにしていた。
今日も居間を通らずに自室へともどろうとした時だった。
「しげちゃん、ちょっとお話があるの。こっちにいらっしゃい」
その言葉に、重信の足はぴたりと止まった。妙子の普段あまり聞かない真剣な声。自身の代わりに殴られている時でさえ、笑って穏やかにしていた妙子が出すいつもとは違う雰囲気に、重信は生唾を飲んだ。
居間へは左手にある襖を開くだけだ。だけど、なぜか嫌な予感がして開ける気にはなれなかった。
しかし、母が呼んでいるのだから行かなければいけない。重信は意を決して襖を開ける。
「どうしたの、母さん」
今の中心では妙子が正座をして重信の帰りを待っていた。重信を見るその目は、いつもと違い細められている。重信は、その目をみて燕の巣を見てもらった時のことを思い出した。
「座りなさい」
妙子は重信の言葉に答えず、自分の目の前に座るように促した。重信は恐る恐るといった感じでランドセルを畳の上に置き妙子の前に座る。
こんな妙子を見たのは重信が生まれて初めてのことだった。
「いい、しげちゃん。よく聞いてね」
「うん」
重信は心で嫌な予感をひしひしと感じていた。心臓の鼓動が早くなる。何を言われるのだろうか、不安でたまらない。
「お母さんね、お父さんと離婚することにしたの」
「……え」
妙子の言葉に重信は絶句した。重信は口をパクパクとさせ何か言葉を発しようとしているが、何を言っていいのかわからずにいた。そんな重信に、妙子は言葉を続ける。
「今から新しいアパートに行くから準備しなさい」
妙子は前から準備をしていたのだろう。だが、重信は今初めて聞いたばかりで状況を把握できていない。離婚という言葉、テレビで聞いたことはあったが、実際に自分の家族がなるとは思ってもいなかった。
これからどうなるのか、という未来への不安が一気に重信の心に押し寄せた。「離婚って、これからどうなるの?」思わず口をついて出てしまった言葉に妙子は重信を抱き締めた。
「大丈夫よ、しげちゃん。私がなんとかするから」
そう言った妙子の顔は何かを堪えている顔だった。重信が痛みを感じる程ぎゅっと力強く抱き締められた腕を重信はじっと見ていた。
重信に選択肢はない。ただ海に漂うくらげのように、周りの環境に左右されることしかできない。だから、重信が妙子に言えることはただ一つだった。
「わかった」
こうして重信の小学生時代は幕を閉じた。
冬休みを明けても重信は学校に行かなかった。転校した学校に馴染めるかどうかが不安で仕方なかったのだ。それに、もう少ししたら卒業だ。そんな時に、自分のような異物が入ってしまえば周りも気を遣うだろう。重信は自分に自信が持てず、そんなことばかりを考えるようになっていた。
もし、今の重信が過去に戻れたとしてもこの時の自分に掛ける言葉なんてない。安易な慰めが逆効果なのは自分が良く知っている。
妙子が、毎日重信を慰めていたが、それに対しても罪悪感が心に募るようになっていたからだ。
ごめんなさい、ごめんなさい。
毎日、起きる度に自責の念が心を傷つける。そして、どうして僕はこんなことをしているのだろうかと自分を卑下する毎日だ。
それが終わりを向かえたのは中学二年生に上がった時だった。妙子の関心は既に重信から離れ、新しい男へと移っていた。
やがて、妙子と男は重信をそっちのけでアパートに居座るようになった。家に逃場がなくなった重信は、学校を逃げ場にするようになった。