幸せというものを人は認知することができない。
例えば、大好きな家族とただ過ごすだけの日々が幸せだったのだと誰が気付くのだろう。それを人は当たり前だと享受する。
不幸なできごとが起きても、その当たり前の日々が幸せな物だったのだと気付くのは稀だ。大抵の人は、それを何も考えずに受け入れて前に進む。
だけど、重信だけは過去を思い出しては、その日々が幸せだったのだと思い、自分が沼の底に沈んでいく気持ちを味わうことがあった。その時に、一番強く思い出すのは利治の言葉だった。
『燕が巣をかけると幸せになる』
それが後に重信の中で呪いの言葉へと変わることとなる。しかし、それはまだこの時の重信にはわかりようもなかった。
五月四日、世の中はゴールデンウィークという名前の長期休暇に入っていた。休みで何もすることがなく、利治は昼間から居間でテレビでビールを飲み、妙子は外で草刈りをしていた。そのまったりとした空気を、重信の泣き出しそうな声が切り裂いた。
「お父、ツバメがおらんようになった!」
重信の顔は悲しみに歪んでいる。その重信に視線だけチラリとやり、利治はビールの缶に口を付け喉ぼとけを二回上下させる。
「なんや、またか。そのうち戻ってくるやろ」そう言い、テレビへと視線を戻す。
「もう四日も見てへんのや!」
利治はテレビに向けていた顔を重信の方に向け「はぁ……」と溜息を吐いた。その顔には面倒臭いという気持ちがありありと浮かんでいる。
「しげ、お父さん疲れてるんや。お母さんに言いや」
そう言って、テレビに視線を向けた。その態度は重信のことを拒否しているようにも見え、重信はそれ以上声を出すことをやめ、母親の方へと向かった。
「あら、しげちゃんどうしたの?」
「お母、ツバメがおらんようになった」
「あれ? さっきお父さんに言ってなかった?」
「お母さんに言えって言われた」
重信の言葉に妙子は普段の穏やかな顔を少しだけ崩し、目付きを鋭くさせた。
「……そうなんだね。じゃあ、お母さんが見てあげる」
妙子の言葉に、重信は何も言わずにこくりと大きく頷いた。
妙子は納屋から脚立を取り出し、壁に掛けて昇り始めた。
「……お母、どう?」
巣の中を覗く妙子に重信は声を掛ける。だが、妙子からは何の言葉も返ってこなかった。
「お母?」無言のまま脚立から降りてくる母親に、重信は不安そうに声を掛ける。彼は、心のどこかで嫌な予感を感じ取っていた。
脚立から降りた妙子の表情は目が細められていた。これは妙子が困ったときにする癖だった。
「お母、どうやったん?」
心配そうな声を出して、自分の名前を呼ぶ重信に妙子はしゃがみ、目線を合わせる。そして、「しげちゃん、燕さんね、どこかに行っちゃったの」と言った。
「……え」
少し間が空き、重信はかろうじて声を出す。妙子の言葉が一瞬だけ理解できなかったのだ。
わかったのは、もうあの可愛らしい姿をした鳥をこの家で見ることができないということだけだった。
「なんでなん? お父、ずっとここに居てくれる言うてたやん!」
震える声で重信は妙子に聞く。
これでは話が違う、なぜなら、父の言うことは正しいのだと重信は思っていたのだ。だから、このことは何かの間違いじゃないのかと思っていた。だけど、返ってきたのは無言で首を横に振る姿だけだった。
「しげちゃん、燕さんね、ここじゃないところがいいんだって」
なんとか息子を納得させるために妙子は精一杯の言い訳を考えてみたが、重信はそれで納得できるはずなかった。
「お父に聞いてくる!」
「あ、しげちゃん! 待って!」
重信は母の制止を振り切った。今、彼の心は嘘を吐いた利治への怒りで燃え上がっていた。燕と一緒に過ごすことを夢見ていたが、その夢が唐突に終わってしまったことが虚しくて寂しくて、それが父への怒りになってしまった。
「お父!」
「お、どうしたしげ。燕さんおったか?」
相変わらずビールを飲み、利治は頬を赤く染めていた。机の上には三本の缶ビールが置かれている。
「なんで、嘘ついたんや!」
「嘘?」
なんで息子が怒っているのかわからない利治は、オウム返しのように呟く。それが重信の怒りに更なる燃料をくべることとなる。
「お母がツバメさんどこか行ったって言った! ずっとおってくれるんちゃったんか!」
「あー、燕おらんようになったんか。蛇にでも食べられたんかもな」
利治は淡々と理由を告げるが、重信が聞きたいのはそんな言葉じゃなかった。ただ、なんで嘘を吐いたのか、それが納得できるものなのかを聞きたかったのだ。決して燕がいなくなった理由を聞きたいわけではない。
「なんでおらんようになったんや!」
「だから言うたやろ、燕にも事情があるん」
利治が最後まで言い切らない内に、重信の拳が利治の顔に打ち込まれた。だが、利治は座ったまま、即座に足で重信を蹴り飛ばす。重信は机に背中からぶつかり、空のビール缶がガチャンと大きな音を立て居間に散らばる。
「何するんや!」
息ができなくてうずくまる重信に、利治はアルコールの物とは違う真っ赤な顔で怒声を飛ばす。そして、気がすまないとばかりにもう一度腹の方から蹴りを入れた。
あまりの痛さに重信はひっ、ひっと小さな声を出しながらうずくまる。頬からは涙が零れていた。
勢いに任せてとんでもないことをやってしまった、という後悔が彼の頭の中にはあった。妙子が間に入って制止をするまで、利治は重信に対してたまに蹴りを入れながら暴言を吐き続ける。重信は丸くなりながら泣くことしかできなかった。
これが、この一家の仲に亀裂が入るきっかけとなった。きっかけは至るところに転がっている。これはたまたま重信がきっかけとなってしまっただけだ。例えば、休みの日は居間で酒を飲んでいるだけの利治に妙子が愛想を尽かす可能性もあった。
いずれ来るはずの家庭の崩壊、それが重信の手によってほんの少し早まっただけとも言える。だが、重信は自分が家族の仲を壊してしまったのだと抱え込むこととなる。
このことは、重信の中でも特に苦い思い出だった。父を殴ってしまったという後悔と、酒を飲んだ父が他人のように見え、その他人に暴力を振るわれたという事実が重信の中でトラウマとなり残ってしまった。今でも暴力の現場をみると気分が悪くなる。
これが原因で重信はしばらくの間、誰に対しても強く踏み込めない人間となってしまった。誰に対しても信用できない、父親にこっぴどくやられたことが、重信の心に深く刺さり込んでしまった。これは、成人してある人と出会うまで続くこととなる。
燕さえ居てくれればこんなことにはならなかったに違いない。と、彼は燕に対して責任転換をした。僕の幸せを運んでくれるはずの燕は一体どこへ行ってしまったのか。燕は幸せを運んできてくれない、運んできたのは不幸だ、不幸だけを置いてどこかに飛んでいった。
重信は、自身の苦い記憶を燕と結び付けた。これが、重信が燕を嫌いになった理由だった。