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崩壊

ー/ー




 何かの歴史小説の一行を読んだ後の、現実との境が曖昧な感覚。そんな錯覚がアンジュの脳裏を占めた。しかし、これは今生きている世で起きた事で、確かに目にした事実上の出来事……

 ――とうとう、始まって……しまったの……?

 フランス軍という単語を見て、フィリップの面影が脳裏に浮かんだ。彼を思い出し、安否を気にするのは久しぶりだった事に気づく。それだけ、自身も様々な出来事に翻弄されていたからか、ジェラルドと過ごす時間が幸せで、穏やかで忘れていたのか……
 ……いや、フィリップの存在と共に、戦争が起こっているという、目を背けたい現実から無意識に逃避していたのかもしれない。都市部であるからか、ロンドンにいた頃は、空襲監視員によるテロ対策や避難訓練があったが、こちらではそのような試みは、あまりなかった。空爆が起こった時の注意点や、避難先を指導された程度だったらしい。
 だからか、戦時中という現状をリアルに感じる時が、最近のアンジュにはなかったのだ。以前の彼からの手紙には、志願したのは陸軍だとあった。今回は海軍同士の戦いだが、陸の戦闘が始まるのも、時間の問題だろう……

 そう考えた瞬間、目の前が真っ暗に落ちた。軽い眩暈に、視界がぐらつく。頭の中がフリーズしたようだ。そんな思考を(なだ)めるように、フィリップの太陽のような笑顔が、反射的に鮮やかに甦る。

 ――フィリップ……どうか、無事に帰って来て…… まだ、()()を果たせてないわ……

 彼に命の危機が迫っている事、まともに歌う事すらできない自身の状況。改めて、そんな現実に愕然とした心境に追い撃ちをかけたのは、海上……大好きな海で()()()()が始まった事だった。
 ロンドンやカーディフより、更にずっと北にある、極寒のノルウェー海域がどんなものか、どんな景色なのか、南半球の温暖な海しか知らないアンジュには、まるで想像がつかない。
 しかし、そこに砲撃が起こり、爆弾の雨が降り、兵士の遺体が浮き沈み、鮮血で染まるのは何となく想像できた。海底にいる生物が壊滅されることも……

 ――人間の争いなのに、海を巻き込むの……?

 怒りに近いやるせなさ、憤りが、胸奥から沸き、溢れ出す。重さに(たま)りかね、その場に崩れ落ち、座り込んだ。


「シスリーさん⁉ 大丈夫ですか⁉」

 玄関から駆け込んだグレアム夫人が、アンジュの傍に寄り添う。共に洗濯物を干す為に庭で待っていたが、なかなか来ないのを心配して来てくれたらしい。彼女が震える手で持っている朝刊を見やり、抑揚の無い声色で、呟いた。

「ついに、始まりましたね……」
「奥様、すみません……私……」
「顔が真っ青ですよ。何か……他に良くない事でも?」

 スコットと同じく、過去に大戦を経験した彼女になら、フィリップのことを話せるかもしれないと、アンジュは切り出した。

「……友達が……フランスの、陸軍に……いるんです。志願したらしくて……」

 弱々しく震える声で、そんな事実を告げた彼女に、少し驚いた素振りを見せた夫人だったが、落ち着いた口調で返した。

「……そうだったんですね」
「どうして、彼が志願してまで兵士になったのか……わからないんです。とても優しくて、海や自然が大好きな人だったのに……」

 ロンドンで手紙を受け取ってから、ずっと胸に秘めていた疑問を、夫人に問いかける。今まで、ジェラルドには話せなかったのだ。以前、フィリップの事を話した時の、彼の反応を思うと気まずかった。今の想いを、変に誤解されるのも嫌だった。

「だからこそ、では?」
「え……?」
「その愛する自然のある故郷や、貴女のいる国を守りたかったのではないですか?」
「そんな…… 私は、そんな事、望んでないです。生きてさえくれたら……」
「前の大戦で、父が出征した時、同じように思いましたよ。命はなんとかとりとめましたが、足を悪くして帰って来ましてね……」

 彼女の当時の体験談が、今では痛い程、身近に感じる。

 夫人に『とりあえず、外の空気を吸いに出ましょう』と促され、アンジュは庭に出た。共に洗濯物を干し始める。見上げた空は、いつもと変わらない。少し曇りがちだが、フィリップの瞳のようなスカイブルーだ。
 こんな風に普通に外に出て、当たり前のように、陽の下で洗い立てのシーツを干せる……そんな安寧の日々は、いつまで続けられるのだろう。

『僕の分まで、夢を忘れないで生きてほしいんだ』
『君の歌で、元気になれた』

 あの時、彼が発した、たった一言のフレーズ…… 数分の出来事が、シャッターを切られたまま、今でもアンジュの心に息づいている。
 彼の為にしたはずの()()だったが、いつの間にか、彼女が()()である為の支柱の一つになっていた。あの頃より、より濃く、鮮やかに彩られながら……


 その夜。仕事から帰って来たジェラルドに、ドイツと英仏の海戦が始まった事を、アンジュは話した。ロンドンで初めて出会った頃、彼に言った自分の言葉が、生易(なまやさ)しい夢……絵空事に感じる。

「いつか、貴方が言った通りです。反戦を説きたくて、歌で伝えたかったけど、何もできなかった……」

 親友だったという男の話を聞き、いつになく後ろ向きに落ち込んでいるアンジュが、ジェラルドは少し気になった。昔の自分が発した言葉が、あの時より重く(えぐ)り刺さる。酷な事実ではあるが、()()()、それを口にするのは、一層、辛く感じた。

「……最後にスコットさんに会った時、『ポピーの涙』の譜面と歌詞を見せた。とても感動し……涙していた…… 少なくとも君は、彼を癒した。それは間違いない」

 ジェラルド自身、このような優しい言葉を口にする事は少ない。励ますように語る彼の気持ち、自分の知らないうちに計らってくれていた事が、アンジュは嬉しかった。しかし、どこか薄暗い空虚感を拭えないでいる。

「……本当の意味では、何もわかっていなかったように思います」
「え?」
「大切な人を失って、悲しまれている方の気持ちは、解るようで……わからなかった」

 悲しげに自責するような口調で、アンジュは続けた。

「大好きな自然が壊されて、何も罪の無い人が、酷い目に遭うのは想像出来ました。だから、戦争なんて始まって欲しくなかった…… でも、ずっと一人だったから…… 何かの舞台の一幕を傍観してるだけみたいで……」

 彼女の濃い陰を垣間見たようで、ごくり、とジェラルドは息を呑む。自分にも思い当たる……理解できる念だった。
 心の一番真ん中の部分が、ぽっかりと空洞化している。誰かの経験を見聞きしても、どこかしっくりとこない。自身とはかけ離れていて、無縁過ぎて……心が動かないのだ。

「今は、すごく……怖いです。貴方や彼がいなくなる事が、怖くて、怖くて堪らない…… けど、そんな人ができたことが、どこか嬉しくもあって…… 私……おかしい……」
「シスリー」

 涙声になった彼女を、自身が名付けた名でジェラルドは呼び、そっ……と抱き寄せた。彼女が言いたいことは、よく解る。解りすぎて彼も哀しく、また……()()()のだ。


 月日が過ぎた、一九四〇年五月。アンジュも新しい環境に慣れ始め、金が貯まってきた事もあり、来月に入ったら、彼女も働き口を探し、グレアム宅近くのアパートに引っ越そうかと、ジェラルドと相談し始めていた。
 そんなある日、アンジュはグレアムから、ある場所を勧められた。カーディフから更に北東に位置するこの町は、イングランド周辺に栄える、湖水地方に近い風貌があった。彼によると、町から少し離れた場所に、そんな風合いの小さな湖畔があるらしい。
 夫人から『友人が出征していてひどく気落ちしている』と聞いたグレアムは、彼女の気晴らしになる方法がないか考えてくれたのだ。
 慣れないこの町で、唯一、心の拠り所であるジェラルドとは生活がすれ違い気味で、共に過ごせる時間もない状況が長く続いている。彼の演奏は、客からの評判も良いらしく、新しい仕事内容や演目を必死に覚える為、昼夜問わず慌ただしい日々を送っていた。
 それでも顔を合わせたり床につく時は、どんなに疲れていても、必ずハグやキスを丁寧にしてくれる。そんな彼を案じ、またジェラルドのピアノが好きで誇らしくもあったので、とても弱音は吐けなかった。

「あんたが花や自然が好きな田舎育ちだって、ジェイドから聞いてね。大した場所じゃないが、静かでいい所さ。俺も、夏に釣りに行く場所だ」

 初夏になったら、ラベンダーなどの花も咲く、美しい光景が見られるという。そんな彼らの温かい心遣いがありがたく、早速、一人でその場所に行った。


 教えられたその湖畔は、白樺(しらかば)の高い樹木に囲まれ、人気(ひとけ)は無く、静寂に満ちていた。辺りは薄曇りでどこか寂しげだが、枝から若葉色の新芽が芽吹き始めている。
 見上げた木々の隙間からこぼれてくる、柔らかな陽光が、アンジュを淡く照らしていた。深呼吸すると、涼やかで新鮮な空気と共に、草木の良い香りが胸いっぱいに沁みていく。初めて来たのに、何故かひどく懐かしく、安心できる場所……

 ――()()ジェイドさんに包まれてるみたい……
 ――ここでなら、また歌えるかもしれないわね。子供の頃みたいに……

 久しぶりに心が軽くなった気がした。今夜、彼が帰って来たら話してみようか…… 笑ってくれるだろうか。

 ――いつか、一緒に来たい

 ささやかだが、新しく生まれた希望。だけど、今は束の間の夢……シャボンのようなお伽噺(とぎばなし)に感じる…… そんなシニカルな心境になっていた。


 そんな彼女の予感が当たったのか、数日後に届いた新聞は、『我が国の同盟国、フランス陸軍、ドイツ陸軍と戦闘開始!!』という、彼女が最も見たくなかった、最悪のフレーズで埋まっていた。
 目にした瞬間、堪らない衝動が襲いかかり、アンジュは、反射的に駆け出した。無意識に()()場所に向かって、全力で走る。湖の側に着くなり力が抜け、膝をつき、崩れ落ちた。
 ()()という時は、どろどろした様々な感情がもっと吹き出すと思っていた。が、何も出てこない。今の現状を受け入れられない。信じたくない、何かの間違いであって欲しいという、自己防衛的な逃避だろうか。
 フィリップが配属された部隊はどこか、どの前線に配置されたのは知らない。だが、志願したという以上、少なくとも安全な場所ではないだろう……

「……ラ、ラ……ララ……」

 ようやく、唇から掠れ声で自然にこぼれたのは、()()メロディだった。ロンドンで初めて作った、反戦と鎮魂の想いを込めた、(あか)く可憐な花の歌。歌詞は出なかった。戦場で散り()く情景なんてリアル過ぎて、今は歌いたくない。
 しかし、自身を慰める術がそれしか無いアンジュは、すがるように思い出の楽曲を暫く口ずさんでいた。

 春を迎えたばかりの草原には、黄水仙などの花が、ちらほら咲き始めている。眼前に広がる清涼な湖には、解け残った薄氷が、きらきら、と反射して瞬き、儚くも美しい。大きく割れ目の入った、頼りなげなガラスのような地盤だ。もっと温かくなれば、いずれ溶けて無くなるだろう。
 そんな道でも、先に見えない暗闇でも、ジェラルドと二人なら歩いて行ける。()()という時は……その時も()()だと考えていた。が、片方だけ失うなんて可能性は、考えていなかった。
 ……いや、考えたくなかったのだ。想定しないで前に進む事だけが、危うくも、確かな唯一の拠り所だったから。


 六月に入り、アンジュとジェラルドは、グレアム夫妻にこれまでの礼を深々と述べ、ようやく、彼らの自宅近くにある二人住まいのアパートに引っ越した。不安も数多くあるが、ようやく二人の新しい生活が始められるという、淡い希望が灯る。
 そんな矢先……フランスがドイツに敗北したという重大ニュースが、霹靂(へきれき)の如く、国内を駆け巡った。仏軍は壊滅状態で、事実上、完全降伏という事らしい。容赦ない侵略行為がフランスでも始まり、民間人も危機に曝されるという事になる。
 挙げ句、ドイツの同盟であるイタリアが、この機に本格的に参戦した。つまり、我が国イギリスは、欧州から孤立状態に陥ったという危機的な状況――

 新居となる部屋で一人、荷ほどきと掃除をしていたアンジュは、ラジオから機械的に流れてくる、そんな無情な知らせを聞いた。一瞬、耳を疑ったが、次第に意識が遠退き、よろめく。

 ――……フィリップ? 嘘でしょう?

 連絡先がわからない今、彼の安否を知る手段は無い。もし生きていたとしても、これから始まる侵略行為によって、彼を含む国民も国土もどうなるかわからない。フランスという国全てが、まるごと奪われ、潰されるカウントが……始まったのだ。


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 ――とうとう、始まって……しまったの……?
 フランス軍という単語を見て、フィリップの面影が脳裏に浮かんだ。彼を思い出し、安否を気にするのは久しぶりだった事に気づく。それだけ、自身も様々な出来事に翻弄されていたからか、ジェラルドと過ごす時間が幸せで、穏やかで忘れていたのか……
 ……いや、フィリップの存在と共に、戦争が起こっているという、目を背けたい現実から無意識に逃避していたのかもしれない。都市部であるからか、ロンドンにいた頃は、空襲監視員によるテロ対策や避難訓練があったが、こちらではそのような試みは、あまりなかった。空爆が起こった時の注意点や、避難先を指導された程度だったらしい。
 だからか、戦時中という現状をリアルに感じる時が、最近のアンジュにはなかったのだ。以前の彼からの手紙には、志願したのは陸軍だとあった。今回は海軍同士の戦いだが、陸の戦闘が始まるのも、時間の問題だろう……
 そう考えた瞬間、目の前が真っ暗に落ちた。軽い眩暈に、視界がぐらつく。頭の中がフリーズしたようだ。そんな思考を|宥《なだ》めるように、フィリップの太陽のような笑顔が、反射的に鮮やかに甦る。
 ――フィリップ……どうか、無事に帰って来て…… まだ、|約《・》|束《・》を果たせてないわ……
 彼に命の危機が迫っている事、まともに歌う事すらできない自身の状況。改めて、そんな現実に愕然とした心境に追い撃ちをかけたのは、海上……大好きな海で|殺《・》|し《・》|合《・》|い《・》が始まった事だった。
 ロンドンやカーディフより、更にずっと北にある、極寒のノルウェー海域がどんなものか、どんな景色なのか、南半球の温暖な海しか知らないアンジュには、まるで想像がつかない。
 しかし、そこに砲撃が起こり、爆弾の雨が降り、兵士の遺体が浮き沈み、鮮血で染まるのは何となく想像できた。海底にいる生物が壊滅されることも……
 ――人間の争いなのに、海を巻き込むの……?
 怒りに近いやるせなさ、憤りが、胸奥から沸き、溢れ出す。重さに|堪《たま》りかね、その場に崩れ落ち、座り込んだ。
「シスリーさん⁉ 大丈夫ですか⁉」
 玄関から駆け込んだグレアム夫人が、アンジュの傍に寄り添う。共に洗濯物を干す為に庭で待っていたが、なかなか来ないのを心配して来てくれたらしい。彼女が震える手で持っている朝刊を見やり、抑揚の無い声色で、呟いた。
「ついに、始まりましたね……」
「奥様、すみません……私……」
「顔が真っ青ですよ。何か……他に良くない事でも?」
 スコットと同じく、過去に大戦を経験した彼女になら、フィリップのことを話せるかもしれないと、アンジュは切り出した。
「……友達が……フランスの、陸軍に……いるんです。志願したらしくて……」
 弱々しく震える声で、そんな事実を告げた彼女に、少し驚いた素振りを見せた夫人だったが、落ち着いた口調で返した。
「……そうだったんですね」
「どうして、彼が志願してまで兵士になったのか……わからないんです。とても優しくて、海や自然が大好きな人だったのに……」
 ロンドンで手紙を受け取ってから、ずっと胸に秘めていた疑問を、夫人に問いかける。今まで、ジェラルドには話せなかったのだ。以前、フィリップの事を話した時の、彼の反応を思うと気まずかった。今の想いを、変に誤解されるのも嫌だった。
「だからこそ、では?」
「え……?」
「その愛する自然のある故郷や、貴女のいる国を守りたかったのではないですか?」
「そんな…… 私は、そんな事、望んでないです。生きてさえくれたら……」
「前の大戦で、父が出征した時、同じように思いましたよ。命はなんとかとりとめましたが、足を悪くして帰って来ましてね……」
 彼女の当時の体験談が、今では痛い程、身近に感じる。
 夫人に『とりあえず、外の空気を吸いに出ましょう』と促され、アンジュは庭に出た。共に洗濯物を干し始める。見上げた空は、いつもと変わらない。少し曇りがちだが、フィリップの瞳のようなスカイブルーだ。
 こんな風に普通に外に出て、当たり前のように、陽の下で洗い立てのシーツを干せる……そんな安寧の日々は、いつまで続けられるのだろう。
『僕の分まで、夢を忘れないで生きてほしいんだ』
『君の歌で、元気になれた』
 あの時、彼が発した、たった一言のフレーズ…… 数分の出来事が、シャッターを切られたまま、今でもアンジュの心に息づいている。
 彼の為にしたはずの|約《・》|束《・》だったが、いつの間にか、彼女が|彼《・》|女《・》である為の支柱の一つになっていた。あの頃より、より濃く、鮮やかに彩られながら……
 その夜。仕事から帰って来たジェラルドに、ドイツと英仏の海戦が始まった事を、アンジュは話した。ロンドンで初めて出会った頃、彼に言った自分の言葉が、|生易《なまやさ》しい夢……絵空事に感じる。
「いつか、貴方が言った通りです。反戦を説きたくて、歌で伝えたかったけど、何もできなかった……」
 親友だったという男の話を聞き、いつになく後ろ向きに落ち込んでいるアンジュが、ジェラルドは少し気になった。昔の自分が発した言葉が、あの時より重く|抉《えぐ》り刺さる。酷な事実ではあるが、|彼《・》|女《・》|が《・》、それを口にするのは、一層、辛く感じた。
「……最後にスコットさんに会った時、『ポピーの涙』の譜面と歌詞を見せた。とても感動し……涙していた…… 少なくとも君は、彼を癒した。それは間違いない」
 ジェラルド自身、このような優しい言葉を口にする事は少ない。励ますように語る彼の気持ち、自分の知らないうちに計らってくれていた事が、アンジュは嬉しかった。しかし、どこか薄暗い空虚感を拭えないでいる。
「……本当の意味では、何もわかっていなかったように思います」
「え?」
「大切な人を失って、悲しまれている方の気持ちは、解るようで……わからなかった」
 悲しげに自責するような口調で、アンジュは続けた。
「大好きな自然が壊されて、何も罪の無い人が、酷い目に遭うのは想像出来ました。だから、戦争なんて始まって欲しくなかった…… でも、ずっと一人だったから…… 何かの舞台の一幕を傍観してるだけみたいで……」
 彼女の濃い陰を垣間見たようで、ごくり、とジェラルドは息を呑む。自分にも思い当たる……理解できる念だった。
 心の一番真ん中の部分が、ぽっかりと空洞化している。誰かの経験を見聞きしても、どこかしっくりとこない。自身とはかけ離れていて、無縁過ぎて……心が動かないのだ。
「今は、すごく……怖いです。貴方や彼がいなくなる事が、怖くて、怖くて堪らない…… けど、そんな人ができたことが、どこか嬉しくもあって…… 私……おかしい……」
「シスリー」
 涙声になった彼女を、自身が名付けた名でジェラルドは呼び、そっ……と抱き寄せた。彼女が言いたいことは、よく解る。解りすぎて彼も哀しく、また……|嬉《・》|し《・》|い《・》のだ。
 月日が過ぎた、一九四〇年五月。アンジュも新しい環境に慣れ始め、金が貯まってきた事もあり、来月に入ったら、彼女も働き口を探し、グレアム宅近くのアパートに引っ越そうかと、ジェラルドと相談し始めていた。
 そんなある日、アンジュはグレアムから、ある場所を勧められた。カーディフから更に北東に位置するこの町は、イングランド周辺に栄える、湖水地方に近い風貌があった。彼によると、町から少し離れた場所に、そんな風合いの小さな湖畔があるらしい。
 夫人から『友人が出征していてひどく気落ちしている』と聞いたグレアムは、彼女の気晴らしになる方法がないか考えてくれたのだ。
 慣れないこの町で、唯一、心の拠り所であるジェラルドとは生活がすれ違い気味で、共に過ごせる時間もない状況が長く続いている。彼の演奏は、客からの評判も良いらしく、新しい仕事内容や演目を必死に覚える為、昼夜問わず慌ただしい日々を送っていた。
 それでも顔を合わせたり床につく時は、どんなに疲れていても、必ずハグやキスを丁寧にしてくれる。そんな彼を案じ、またジェラルドのピアノが好きで誇らしくもあったので、とても弱音は吐けなかった。
「あんたが花や自然が好きな田舎育ちだって、ジェイドから聞いてね。大した場所じゃないが、静かでいい所さ。俺も、夏に釣りに行く場所だ」
 初夏になったら、ラベンダーなどの花も咲く、美しい光景が見られるという。そんな彼らの温かい心遣いがありがたく、早速、一人でその場所に行った。
 教えられたその湖畔は、|白樺《しらかば》の高い樹木に囲まれ、|人気《ひとけ》は無く、静寂に満ちていた。辺りは薄曇りでどこか寂しげだが、枝から若葉色の新芽が芽吹き始めている。
 見上げた木々の隙間からこぼれてくる、柔らかな陽光が、アンジュを淡く照らしていた。深呼吸すると、涼やかで新鮮な空気と共に、草木の良い香りが胸いっぱいに沁みていく。初めて来たのに、何故かひどく懐かしく、安心できる場所……
 ――|今《・》|の《・》ジェイドさんに包まれてるみたい……
 ――ここでなら、また歌えるかもしれないわね。子供の頃みたいに……
 久しぶりに心が軽くなった気がした。今夜、彼が帰って来たら話してみようか…… 笑ってくれるだろうか。
 ――いつか、一緒に来たい
 ささやかだが、新しく生まれた希望。だけど、今は束の間の夢……シャボンのようなお|伽噺《とぎばなし》に感じる…… そんなシニカルな心境になっていた。
 そんな彼女の予感が当たったのか、数日後に届いた新聞は、『我が国の同盟国、フランス陸軍、ドイツ陸軍と戦闘開始!!』という、彼女が最も見たくなかった、最悪のフレーズで埋まっていた。
 目にした瞬間、堪らない衝動が襲いかかり、アンジュは、反射的に駆け出した。無意識に|あ《・》|の《・》場所に向かって、全力で走る。湖の側に着くなり力が抜け、膝をつき、崩れ落ちた。
 |い《・》|ざ《・》という時は、どろどろした様々な感情がもっと吹き出すと思っていた。が、何も出てこない。今の現状を受け入れられない。信じたくない、何かの間違いであって欲しいという、自己防衛的な逃避だろうか。
 フィリップが配属された部隊はどこか、どの前線に配置されたのは知らない。だが、志願したという以上、少なくとも安全な場所ではないだろう……
「……ラ、ラ……ララ……」
 ようやく、唇から掠れ声で自然にこぼれたのは、|あ《・》|の《・》メロディだった。ロンドンで初めて作った、反戦と鎮魂の想いを込めた、|朱《あか》く可憐な花の歌。歌詞は出なかった。戦場で散り|逝《ゆ》く情景なんてリアル過ぎて、今は歌いたくない。
 しかし、自身を慰める術がそれしか無いアンジュは、すがるように思い出の楽曲を暫く口ずさんでいた。
 春を迎えたばかりの草原には、黄水仙などの花が、ちらほら咲き始めている。眼前に広がる清涼な湖には、解け残った薄氷が、きらきら、と反射して瞬き、儚くも美しい。大きく割れ目の入った、頼りなげなガラスのような地盤だ。もっと温かくなれば、いずれ溶けて無くなるだろう。
 そんな道でも、先に見えない暗闇でも、ジェラルドと二人なら歩いて行ける。|い《・》|ざ《・》という時は……その時も|一《・》|緒《・》だと考えていた。が、片方だけ失うなんて可能性は、考えていなかった。
 ……いや、考えたくなかったのだ。想定しないで前に進む事だけが、危うくも、確かな唯一の拠り所だったから。
 六月に入り、アンジュとジェラルドは、グレアム夫妻にこれまでの礼を深々と述べ、ようやく、彼らの自宅近くにある二人住まいのアパートに引っ越した。不安も数多くあるが、ようやく二人の新しい生活が始められるという、淡い希望が灯る。
 そんな矢先……フランスがドイツに敗北したという重大ニュースが、|霹靂《へきれき》の如く、国内を駆け巡った。仏軍は壊滅状態で、事実上、完全降伏という事らしい。容赦ない侵略行為がフランスでも始まり、民間人も危機に曝されるという事になる。
 挙げ句、ドイツの同盟であるイタリアが、この機に本格的に参戦した。つまり、我が国イギリスは、欧州から孤立状態に陥ったという危機的な状況――
 新居となる部屋で一人、荷ほどきと掃除をしていたアンジュは、ラジオから機械的に流れてくる、そんな無情な知らせを聞いた。一瞬、耳を疑ったが、次第に意識が遠退き、よろめく。
 ――……フィリップ? 嘘でしょう?
 連絡先がわからない今、彼の安否を知る手段は無い。もし生きていたとしても、これから始まる侵略行為によって、彼を含む国民も国土もどうなるかわからない。フランスという国全てが、まるごと奪われ、潰されるカウントが……始まったのだ。