何かの歴史小説の一行を読んだ後の、現実との境が曖昧な感覚。そんな錯覚がアンジュの脳裏を占めた。しかし、これは今生きている世で起きた事で、確かに目にした事実上の出来事……
――とうとう、始まって……しまったの……?
フランス軍という単語を見て、フィリップの面影が脳裏に浮かんだ。彼を思い出し、安否を気にするのは久しぶりだった事に気づく。それだけ、自身も様々な出来事に翻弄されていたからか、ジェラルドと過ごす時間が幸せで、穏やかで忘れていたのか……
……いや、フィリップの存在と共に、戦争が起こっているという、目を背けたい現実から無意識に逃避していたのかもしれない。都市部であるからか、ロンドンにいた頃は、空襲監視員によるテロ対策や避難訓練があったが、こちらではそのような試みは、あまりなかった。空爆が起こった時の注意点や、避難先を指導された程度だったらしい。
だからか、戦時中という現状をリアルに感じる時が、最近のアンジュにはなかったのだ。以前の彼からの手紙には、志願したのは陸軍だとあった。今回は海軍同士の戦いだが、陸の戦闘が始まるのも、時間の問題だろう……
そう考えた瞬間、目の前が真っ暗に落ちた。軽い眩暈に、視界がぐらつく。頭の中がフリーズしたようだ。そんな思考を宥めるように、フィリップの太陽のような笑顔が、反射的に鮮やかに甦る。
――フィリップ……どうか、無事に帰って来て…… まだ、約束を果たせてないわ……
彼に命の危機が迫っている事、まともに歌う事すらできない自身の状況。改めて、そんな現実に愕然とした心境に追い撃ちをかけたのは、海上……大好きな海で殺し合いが始まった事だった。
ロンドンやカーディフより、更にずっと北にある、極寒のノルウェー海域がどんなものか、どんな景色なのか、南半球の温暖な海しか知らないアンジュには、まるで想像がつかない。
しかし、そこに砲撃が起こり、爆弾の雨が降り、兵士の遺体が浮き沈み、鮮血で染まるのは何となく想像できた。海底にいる生物が壊滅されることも……
――人間の争いなのに、海を巻き込むの……?
怒りに近いやるせなさ、憤りが、胸奥から沸き、溢れ出す。重さに堪りかね、その場に崩れ落ち、座り込んだ。
「シスリーさん⁉ 大丈夫ですか⁉」
玄関から駆け込んだグレアム夫人が、アンジュの傍に寄り添う。共に洗濯物を干す為に庭で待っていたが、なかなか来ないのを心配して来てくれたらしい。彼女が震える手で持っている朝刊を見やり、抑揚の無い声色で、呟いた。
「ついに、始まりましたね……」
「奥様、すみません……私……」
「顔が真っ青ですよ。何か……他に良くない事でも?」
スコットと同じく、過去に大戦を経験した彼女になら、フィリップのことを話せるかもしれないと、アンジュは切り出した。
「……友達が……フランスの、陸軍に……いるんです。志願したらしくて……」
弱々しく震える声で、そんな事実を告げた彼女に、少し驚いた素振りを見せた夫人だったが、落ち着いた口調で返した。
「……そうだったんですね」
「どうして、彼が志願してまで兵士になったのか……わからないんです。とても優しくて、海や自然が大好きな人だったのに……」
ロンドンで手紙を受け取ってから、ずっと胸に秘めていた疑問を、夫人に問いかける。今まで、ジェラルドには話せなかったのだ。以前、フィリップの事を話した時の、彼の反応を思うと気まずかった。今の想いを、変に誤解されるのも嫌だった。
「だからこそ、では?」
「え……?」
「その愛する自然のある故郷や、貴女のいる国を守りたかったのではないですか?」
「そんな…… 私は、そんな事、望んでないです。生きてさえくれたら……」
「前の大戦で、父が出征した時、同じように思いましたよ。命はなんとかとりとめましたが、足を悪くして帰って来ましてね……」
彼女の当時の体験談が、今では痛い程、身近に感じる。
夫人に『とりあえず、外の空気を吸いに出ましょう』と促され、アンジュは庭に出た。共に洗濯物を干し始める。見上げた空は、いつもと変わらない。少し曇りがちだが、フィリップの瞳のようなスカイブルーだ。
こんな風に普通に外に出て、当たり前のように、陽の下で洗い立てのシーツを干せる……そんな安寧の日々は、いつまで続けられるのだろう。
『僕の分まで、夢を忘れないで生きてほしいんだ』
『君の歌で、元気になれた』
あの時、彼が発した、たった一言のフレーズ…… 数分の出来事が、シャッターを切られたまま、今でもアンジュの心に息づいている。
彼の為にしたはずの約束だったが、いつの間にか、彼女が彼女である為の支柱の一つになっていた。あの頃より、より濃く、鮮やかに彩られながら……
その夜。仕事から帰って来たジェラルドに、ドイツと英仏の海戦が始まった事を、アンジュは話した。ロンドンで初めて出会った頃、彼に言った自分の言葉が、生易しい夢……絵空事に感じる。
「いつか、貴方が言った通りです。反戦を説きたくて、歌で伝えたかったけど、何もできなかった……」
親友だったという男の話を聞き、いつになく後ろ向きに落ち込んでいるアンジュが、ジェラルドは少し気になった。昔の自分が発した言葉が、あの時より重く抉り刺さる。酷な事実ではあるが、彼女が、それを口にするのは、一層、辛く感じた。
「……最後にスコットさんに会った時、『ポピーの涙』の譜面と歌詞を見せた。とても感動し……涙していた…… 少なくとも君は、彼を癒した。それは間違いない」
ジェラルド自身、このような優しい言葉を口にする事は少ない。励ますように語る彼の気持ち、自分の知らないうちに計らってくれていた事が、アンジュは嬉しかった。しかし、どこか薄暗い空虚感を拭えないでいる。
「……本当の意味では、何もわかっていなかったように思います」
「え?」
「大切な人を失って、悲しまれている方の気持ちは、解るようで……わからなかった」
悲しげに自責するような口調で、アンジュは続けた。
「大好きな自然が壊されて、何も罪の無い人が、酷い目に遭うのは想像出来ました。だから、戦争なんて始まって欲しくなかった…… でも、ずっと一人だったから…… 何かの舞台の一幕を傍観してるだけみたいで……」
彼女の濃い陰を垣間見たようで、ごくり、とジェラルドは息を呑む。自分にも思い当たる……理解できる念だった。
心の一番真ん中の部分が、ぽっかりと空洞化している。誰かの経験を見聞きしても、どこかしっくりとこない。自身とはかけ離れていて、無縁過ぎて……心が動かないのだ。
「今は、すごく……怖いです。貴方や彼がいなくなる事が、怖くて、怖くて堪らない…… けど、そんな人ができたことが、どこか嬉しくもあって…… 私……おかしい……」
「シスリー」
涙声になった彼女を、自身が名付けた名でジェラルドは呼び、そっ……と抱き寄せた。彼女が言いたいことは、よく解る。解りすぎて彼も哀しく、また……嬉しいのだ。
月日が過ぎた、一九四〇年五月。アンジュも新しい環境に慣れ始め、金が貯まってきた事もあり、来月に入ったら、彼女も働き口を探し、グレアム宅近くのアパートに引っ越そうかと、ジェラルドと相談し始めていた。
そんなある日、アンジュはグレアムから、ある場所を勧められた。カーディフから更に北東に位置するこの町は、イングランド周辺に栄える、湖水地方に近い風貌があった。彼によると、町から少し離れた場所に、そんな風合いの小さな湖畔があるらしい。
夫人から『友人が出征していてひどく気落ちしている』と聞いたグレアムは、彼女の気晴らしになる方法がないか考えてくれたのだ。
慣れないこの町で、唯一、心の拠り所であるジェラルドとは生活がすれ違い気味で、共に過ごせる時間もない状況が長く続いている。彼の演奏は、客からの評判も良いらしく、新しい仕事内容や演目を必死に覚える為、昼夜問わず慌ただしい日々を送っていた。
それでも顔を合わせたり床につく時は、どんなに疲れていても、必ずハグやキスを丁寧にしてくれる。そんな彼を案じ、またジェラルドのピアノが好きで誇らしくもあったので、とても弱音は吐けなかった。
「あんたが花や自然が好きな田舎育ちだって、ジェイドから聞いてね。大した場所じゃないが、静かでいい所さ。俺も、夏に釣りに行く場所だ」
初夏になったら、ラベンダーなどの花も咲く、美しい光景が見られるという。そんな彼らの温かい心遣いがありがたく、早速、一人でその場所に行った。
教えられたその湖畔は、白樺の高い樹木に囲まれ、人気は無く、静寂に満ちていた。辺りは薄曇りでどこか寂しげだが、枝から若葉色の新芽が芽吹き始めている。
見上げた木々の隙間からこぼれてくる、柔らかな陽光が、アンジュを淡く照らしていた。深呼吸すると、涼やかで新鮮な空気と共に、草木の良い香りが胸いっぱいに沁みていく。初めて来たのに、何故かひどく懐かしく、安心できる場所……
――今のジェイドさんに包まれてるみたい……
――ここでなら、また歌えるかもしれないわね。子供の頃みたいに……
久しぶりに心が軽くなった気がした。今夜、彼が帰って来たら話してみようか…… 笑ってくれるだろうか。
――いつか、一緒に来たい
ささやかだが、新しく生まれた希望。だけど、今は束の間の夢……シャボンのようなお伽噺に感じる…… そんなシニカルな心境になっていた。
そんな彼女の予感が当たったのか、数日後に届いた新聞は、『我が国の同盟国、フランス陸軍、ドイツ陸軍と戦闘開始!!』という、彼女が最も見たくなかった、最悪のフレーズで埋まっていた。
目にした瞬間、堪らない衝動が襲いかかり、アンジュは、反射的に駆け出した。無意識にあの場所に向かって、全力で走る。湖の側に着くなり力が抜け、膝をつき、崩れ落ちた。
いざという時は、どろどろした様々な感情がもっと吹き出すと思っていた。が、何も出てこない。今の現状を受け入れられない。信じたくない、何かの間違いであって欲しいという、自己防衛的な逃避だろうか。
フィリップが配属された部隊はどこか、どの前線に配置されたのは知らない。だが、志願したという以上、少なくとも安全な場所ではないだろう……
「……ラ、ラ……ララ……」
ようやく、唇から掠れ声で自然にこぼれたのは、あのメロディだった。ロンドンで初めて作った、反戦と鎮魂の想いを込めた、朱く可憐な花の歌。歌詞は出なかった。戦場で散り逝く情景なんてリアル過ぎて、今は歌いたくない。
しかし、自身を慰める術がそれしか無いアンジュは、すがるように思い出の楽曲を暫く口ずさんでいた。
春を迎えたばかりの草原には、黄水仙などの花が、ちらほら咲き始めている。眼前に広がる清涼な湖には、解け残った薄氷が、きらきら、と反射して瞬き、儚くも美しい。大きく割れ目の入った、頼りなげなガラスのような地盤だ。もっと温かくなれば、いずれ溶けて無くなるだろう。
そんな道でも、先に見えない暗闇でも、ジェラルドと二人なら歩いて行ける。いざという時は……その時も一緒だと考えていた。が、片方だけ失うなんて可能性は、考えていなかった。
……いや、考えたくなかったのだ。想定しないで前に進む事だけが、危うくも、確かな唯一の拠り所だったから。
六月に入り、アンジュとジェラルドは、グレアム夫妻にこれまでの礼を深々と述べ、ようやく、彼らの自宅近くにある二人住まいのアパートに引っ越した。不安も数多くあるが、ようやく二人の新しい生活が始められるという、淡い希望が灯る。
そんな矢先……フランスがドイツに敗北したという重大ニュースが、霹靂の如く、国内を駆け巡った。仏軍は壊滅状態で、事実上、完全降伏という事らしい。容赦ない侵略行為がフランスでも始まり、民間人も危機に曝されるという事になる。
挙げ句、ドイツの同盟であるイタリアが、この機に本格的に参戦した。つまり、我が国イギリスは、欧州から孤立状態に陥ったという危機的な状況――
新居となる部屋で一人、荷ほどきと掃除をしていたアンジュは、ラジオから機械的に流れてくる、そんな無情な知らせを聞いた。一瞬、耳を疑ったが、次第に意識が遠退き、よろめく。
――……フィリップ? 嘘でしょう?
連絡先がわからない今、彼の安否を知る手段は無い。もし生きていたとしても、これから始まる侵略行為によって、彼を含む国民も国土もどうなるかわからない。フランスという国全てが、まるごと奪われ、潰されるカウントが……始まったのだ。