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★始まりと予兆

ー/ー



 同日の夕刻。ジェラルドは、グレアムが常連客として通っているという、ジャズバーに来ていた。昼間はカフェとして営業しているが、夕刻から深夜にかけてはバーになる。雇われのブラスバンドによる演奏が流れる中で、飲酒や軽食を楽しむ店だ。そのピアノ演者担当の面接を受ける事になったのだ。
 この数日間、グレアムと相談した結果、教養はあっても、ここで生かせる仕事は限られているとわかった。不況の今、求人も多くは無い。ジェラルドの特技がピアノと知った彼の計らいで、ここを薦められたのだった。

「……グレアムさんから聞いた時は、貴族出身の坊っちゃんがなんでまた、って思ったよ。ただ、ウチも不況で客足が遠退いててね。大した賃金は出せないけど、本当にいいのかい?」
「勿論です。構いません。有難いです」

 淡々と、だが、しっかりとした口調でジェラルドは決意を述べる。暫くの間は、ピアノを触ることすら出来ないかもしれない、と覚悟していた位だ。夜間の仕事は多少きついだろうが、彼にとっては願っても無いチャンスだった。何としてでも、この仕事を得たい。

「私には、もうあの家の家督継承権はありません。肩書きはただの家名でしかない。ここでは『ジェイド』と呼んで下さい。彼女と共に生きるため、恩人の助けを得て、ここまで逃げて来たのです。どうか宜しくお願いします」

 ジェラルドは、自分よりもかなり年長の店主に向かって、丁寧に頭を下げた。素朴なこの町にはあまりいないタイプの、どこか洒落た雰囲気の漂う、気さくな感じの男だ。

「身分違いの恋、駆け落ちってやつかい? やるねぇ」

 ヒュウッ、と冷やかすような口笛が、軽快に鳴る。

「だけど、あんた(ツラ)も良いが、身なりというか品があるねぇ。何もウチでなくても…… ここじゃ、モーツァルトやショパンは扱ってないよ?」

 からかうような口振りの中に、どこか卑屈めいたニュアンスを混じる店主の言葉に、ジェラルドは、内心少し不遜な思いを(いだ)いた。突然降ってやって来た、素性が危うくはっきりしない新参者の自分。やはり敬遠されているのだろう……

 黙ったまま、店内の小ぶりな木製のピアノの前に立ち、軽快なメロディを鳴らした。そして、静かな前奏から始まり、美しい旋律を奏でる。普遍的であり、同時にジェラルドが愛好する、ショパンの『ノクターン』だ。
 しかし、どこか印象が違う。鍵盤を叩く彼の長い指が、軽やかに踊るように、舞う。叙情的でノスタルジックなこの美しい名曲を、ジェラルドは、華麗なジャズアレンジに変化させ、盛大に弾き流したのだ。
 唖然としている店主に、軽く息を荒げながら、なるべく明るい口調で答えた。

「……ショパンもですが、ジャズも好んでるんです」
「やるじゃねぇか。兄ちゃん。いや、ジェイドさんか。これからよろしく。今晩は早めに閉めるから、歓迎会にしようぜ」

 上機嫌になった彼は、カウンターの奥からグラスを二つ手にし、ワインを勧め始めた。



「……悪い……遅くなった……」

 深夜。日付が変わる間際の刻。ふらついた足取りで、グレアム宅に帰って来たジェラルドを出迎え、支えるように部屋に招いたアンジュは驚き、心配した。仕事を探しに行っているとグレアムから聞いて、起きて待っていたのだ。

「お酒の臭い……大丈夫ですか?」
「白ワインと、ウイスキーを……」
「どうして、こんなに……?」
「……仕事が、決まった。店長が歓迎会だと言った。気の良い人だが、かなりのワイン好きで……酒は弱くはないが、呑み過ぎた……」

 頭痛がするのか額を押さえ、ぼそぼそ、と呟くように説明していたが、珍しく明るい口振りだった。仕事が決まったからなのだろうか。彼の高揚が伝わり、アンジュの心も弾む。

「えっ……おめでとうございます! 何の仕事ですか?」
「ジャズバーのピアノ演者」

 ピアノの仕事だと知り、更に嬉しくなる。自分のせいで彼から大切なものを奪ってしまった事を、密かに気にしていたからだ。

「何だ?」
「いえ、嬉しくて…… 本当に、良かった……」

 頬を緩ませ、安心したように喜ぶ彼女に、ジェラルドも安堵し、更に上機嫌になった。口元がほころび、久しぶりに晴れやかな表情を見せる。
 そんな彼に見惚れながら、アンジュは提案した。自分も何かしたかったのだ。

「今日、奥様と町のご婦人方と一緒に、市場へ行きました。食材を少し買って来たので、明日、胃に優しそうなスープを、作ります……」
「……助かる。頼む」

 そう嬉しそうに呟きながら、フランネル素材の薄ピンクのネグリジェ姿でいる彼女を抱きしめた。肩に顔を埋め、頬を擦り付ける。

「……やっぱり落ち着く……日向(ひなた)の匂いがする」
「ひ、日向、ですか……?」

 確かに、昼間は皆で市場へ買い物に出たが、シャワーは浴び、身体も拭いた直後だ。意図がわからず、アンジュは困惑する。

「ああ。陽をたっぷり浴びた、野花のような香り、がする……」
「……ジェイド、さん?」
「初めて触れた時、蜂蜜のような香りがした…… ああ……そういや髪もハニーブロンドだな……」

 独り言のようにぼんやりと呟きながら、ジェラルドは彼女の髪をまとめたリボンをほどき、はらり、とこぼれ落ちた髪を一房(ひとふさ)、指に取り、かぷり、と(くわ)えた。

「……⁉」

 酔っている彼に負けない位、アンジュは真っ赤になった。借りている部屋に二人きりでいるからか、酒が入ったからか……ジェラルドはいつになく大胆で、素直に喋っている。『もっと聞いていたい』とも思ったが、恥ずかしさで参ってしまいそうだった。

「そ、んな……ジェイドさんこそ……木の、香りがします」
「……木? ああ、付けてる香水(トワレ)がウッド系だから……」
「それ、だけじゃなくて……草原のような香りがするんです。干し草みたいな……何だか懐かしくて好き、なんです」
「……誘ってるのか? シスリー」

 にや、と口角を少し上げ、悪戯を思いついた子供のような笑みを、ジェラルドは浮かべた。

「えっ……?」
「酔っ払った男……そうだ、俺以外には……絶対に、そんな口説き文句を言うな。何を、されるか……わからない……」
「口説、き、なんかじゃ……」

 真っ赤になって狼狽(うろた)えるアンジュを(とが)めながらも、彼は嬉しそうに頬を緩ませ、彼女の耳たぶから柔らかな頬にかけて、唇を押し当ててきた。
 彼の唇がたどった部分に、湿度を帯びた熱い空気と甘(がゆ)い刺激が走る。思わぬ展開に狼狽(うろた)えているアンジュを他所(よそ)に、彼女が羽織っていた厚手のガウンの腰ひもを解き、ジェラルドはずり落とした。
 ネグリジェの胸元の紐とボタンを緩めて引き下げ、(あらわ)になった首筋から鎖骨付近の素肌の感触を味わうように、唇を這わせ始める。

「……可愛い。本当に……かわいい……」
「や……ダメです。ここは……」

 色めいたリップ音が胸元で鳴る度、喜びと困惑の入り交じる心が、更にぎゅっ、と揺さぶられアンジュは慌てた。今いるのは、世話になっている恩人の家の部屋だ。こんな事をして、壁越しに自分の恥ずかしい声が聞こえないか、心配で仕方ない。

「わかってる。今は、しない……が」

 行っている当人は、そんな事は承知だ、と言わんばかりにあっさりと返した。

「――そんな声で言われてもな……」

 悩まし気な掠れ声で呟き、柔らかな胸までをネグリジェ越しに優しく撫で上げてきた彼は、今の状況と彼女の反応を楽しんでいるようだった。
 (えん)な刺激と、意識を溶かされていく空気に()てられる。『このままでは流されてしまう……』と困ったアンジュは、必死に口元を抑えながら提示した。

「……もう、休み、ましょう…… 手伝います、から」
「君も一緒なら……さすがに疲れた。眠ろう……」

 そう言って頬や額に、ゆったりとした優しいキスをし続けてくる彼の口元から、アルコール独特のつん、とした臭いに混じり、葡萄(ぶどう)の甘酸っぱい味が伝い流れてくる。この臭いは苦手だったけど、今は嫌ではない。むしろ……素直に酔いしれていくような気がする。

 自分達の未来がずっと不安だったアンジュには、こんな他愛ない戯れが『ずっと一緒にいて良い』という、彼や神からの赦しを与えられているようで、泣きたい位に満ちていた。
 それに……ずっと感じていたが、彼と唇を重ね合わせるという行為も、自分の身体に指や掌で触れられるのも、少しずつ緊張が解けて、思った以上に心地()くなってきていた。
 そればかりか、続けているうちに安心感と共に、不可思議な甘(がゆ)い焦燥に駆られてしまう時がある。そんな自身が妙に恥ずかしく、彼にはとても言えずにいたのだ。甘い高鳴りと苦しさと共に、()()をもっと……求めてしまう……
 そんな複雑な内情を秘めつつ、ほっ……と少し安心した素振りのアンジュに、不満そうな声が返ってきた。

「……そんなに……安心しなくてもいいだろ……」

 少し拗ねたように呟き、ジェラルドは眉をひそめる。今日の彼は、甘えん坊なだだっ子のようだ。この人の、こんな姿を見られるなんて……
 泣きたいくらい幸せで、甘やかな時間。なのに、何故かやっぱり……怖い。明日には、全て消えてしまうんじゃないかと怯えてしまう。
 幸せであればある程、怖くなってしまう。自分や誰かの言動や出来事がきっかけで、呆気なく壊れてしまうのが恐ろしくて堪らない。
 こんな日々が永遠に続くのなら、これ以上何もいらない…… そんな風にさえ、切に願うアンジュだった。


 一ヶ月程の時が過ぎた。春の到来が遅い英国にも、ようやく、日中に柔らかな陽の光が射し込み、カーディフ付近のこの町にも小春日和が増える。
 新参の若い二人は、新しい生活に慣れる為に奮闘する毎日だった。ジェラルドは例のジャズバーで働き始め、貯蓄を始めた。男女二人で暮らすには、今の彼らに財産はほとんど無い。
 その間、彼にとっては生まれて初めて触れる、身分の異なる人々の生活仕様、文化に驚く毎日だった。庶民的……素朴で、飾り気のない質素な暮らし。娯楽らしい娯楽や目新しい刺激は無く、単調な労働と衣食住の営みが、惰性的に過ぎていく。『元坊っちゃんには退屈だろ?』と、酔った客にからかわれることもあった。

「君も、今までこんな風に……暮らしてきたのか?」

 昼夜問わず神経を磨り減らす、ビジネスや男女の駆け引きの渦中に無駄に揉まれ、更に冷たい視線を浴びてきた彼にとって、この生活はとても新鮮で、不可思議な事ばかりだった。
 理解し難い事もあるが、思ったより居心地は悪くない、と感じる自分に驚く。ピアノに関われているという、恩恵はあるだろうが……
 そんな彼の心理が解るようで、今一つ読めないアンジュは、

「やり方は、似てるかもしれないです、けど…… 子供の頃や楽団にいた時とは、私も違います。今が一番穏やかで……温かいです」

 そう、精一杯の彼への感謝と好意を込め、告げた。


 目まぐるしい日々が過ぎていったが、イギリスとドイツ、イタリアが戦争を始めたなど、何かの間違いだったのではないかと錯覚する位、凡庸で穏やかだった。
 だが、町中の空気は、やはり不安定でどこか落ち着かない。水面下では何かが動いているらしい、油断はできない、と住人は話している。海の向こうの国々は、相変わらず容赦ない攻撃や、残虐な侵略行為に遭っているというのに、敵は何を企んでいるのだろう……と不気味な思いを皆、(いだ)いていた。
 そんな時、英国には現在『良心的兵役拒否権』というものがあるのを、ジェラルドは客同士の会話と、グレアムからの情報で知った。申請して条件が合い、通れば兵隊として戦地へ行かずに済む、というものらしい。
 ただその為には、この町の住人として申請しなければならない。一刻も早く、二人で生活を安定させたい。こちらでの呼び名……偽名は使えないが、ロンドンから脱出して一ヶ月以上経つ今でも、何も起こらない。だいぶほとぼりが冷めたのだろう、と考えていた。
 その事を彼から聞いたアンジュは、以前、ロンドンで世話になったクリスが、そんな話をしていたのを思い出し、伝えた。もしかしたら、ジェラルドは戦地に行かなくて済むかもしれない、と、少し安堵する。
 ようやく明るい未来が、手の届きそうなところまで来た。そんな淡い希望が見えた、春の始まり――

 そんなある朝。グレアム宅に届いた、朝刊を目にしたアンジュは、思わず持っていた洗濯かごを落とした。血の気が引き、痛い程に心臓が縮み上がる。

『我が国、英国海軍とフランス海軍、ドイツ軍と激突‼ ノルウェー海域にて、戦闘開始‼』

 かじり付くように手にした新聞には、目にしたくなかった文章が、見出し一面を飾っていた。


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 同日の夕刻。ジェラルドは、グレアムが常連客として通っているという、ジャズバーに来ていた。昼間はカフェとして営業しているが、夕刻から深夜にかけてはバーになる。雇われのブラスバンドによる演奏が流れる中で、飲酒や軽食を楽しむ店だ。そのピアノ演者担当の面接を受ける事になったのだ。
 この数日間、グレアムと相談した結果、教養はあっても、ここで生かせる仕事は限られているとわかった。不況の今、求人も多くは無い。ジェラルドの特技がピアノと知った彼の計らいで、ここを薦められたのだった。
「……グレアムさんから聞いた時は、貴族出身の坊っちゃんがなんでまた、って思ったよ。ただ、ウチも不況で客足が遠退いててね。大した賃金は出せないけど、本当にいいのかい?」
「勿論です。構いません。有難いです」
 淡々と、だが、しっかりとした口調でジェラルドは決意を述べる。暫くの間は、ピアノを触ることすら出来ないかもしれない、と覚悟していた位だ。夜間の仕事は多少きついだろうが、彼にとっては願っても無いチャンスだった。何としてでも、この仕事を得たい。
「私には、もうあの家の家督継承権はありません。肩書きはただの家名でしかない。ここでは『ジェイド』と呼んで下さい。彼女と共に生きるため、恩人の助けを得て、ここまで逃げて来たのです。どうか宜しくお願いします」
 ジェラルドは、自分よりもかなり年長の店主に向かって、丁寧に頭を下げた。素朴なこの町にはあまりいないタイプの、どこか洒落た雰囲気の漂う、気さくな感じの男だ。
「身分違いの恋、駆け落ちってやつかい? やるねぇ」
 ヒュウッ、と冷やかすような口笛が、軽快に鳴る。
「だけど、あんた|面《ツラ》も良いが、身なりというか品があるねぇ。何もウチでなくても…… ここじゃ、モーツァルトやショパンは扱ってないよ?」
 からかうような口振りの中に、どこか卑屈めいたニュアンスを混じる店主の言葉に、ジェラルドは、内心少し不遜な思いを|抱《いだ》いた。突然降ってやって来た、素性が危うくはっきりしない新参者の自分。やはり敬遠されているのだろう……
 黙ったまま、店内の小ぶりな木製のピアノの前に立ち、軽快なメロディを鳴らした。そして、静かな前奏から始まり、美しい旋律を奏でる。普遍的であり、同時にジェラルドが愛好する、ショパンの『ノクターン』だ。
 しかし、どこか印象が違う。鍵盤を叩く彼の長い指が、軽やかに踊るように、舞う。叙情的でノスタルジックなこの美しい名曲を、ジェラルドは、華麗なジャズアレンジに変化させ、盛大に弾き流したのだ。
 唖然としている店主に、軽く息を荒げながら、なるべく明るい口調で答えた。
「……ショパンもですが、ジャズも好んでるんです」
「やるじゃねぇか。兄ちゃん。いや、ジェイドさんか。これからよろしく。今晩は早めに閉めるから、歓迎会にしようぜ」
 上機嫌になった彼は、カウンターの奥からグラスを二つ手にし、ワインを勧め始めた。
「……悪い……遅くなった……」
 深夜。日付が変わる間際の刻。ふらついた足取りで、グレアム宅に帰って来たジェラルドを出迎え、支えるように部屋に招いたアンジュは驚き、心配した。仕事を探しに行っているとグレアムから聞いて、起きて待っていたのだ。
「お酒の臭い……大丈夫ですか?」
「白ワインと、ウイスキーを……」
「どうして、こんなに……?」
「……仕事が、決まった。店長が歓迎会だと言った。気の良い人だが、かなりのワイン好きで……酒は弱くはないが、呑み過ぎた……」
 頭痛がするのか額を押さえ、ぼそぼそ、と呟くように説明していたが、珍しく明るい口振りだった。仕事が決まったからなのだろうか。彼の高揚が伝わり、アンジュの心も弾む。
「えっ……おめでとうございます! 何の仕事ですか?」
「ジャズバーのピアノ演者」
 ピアノの仕事だと知り、更に嬉しくなる。自分のせいで彼から大切なものを奪ってしまった事を、密かに気にしていたからだ。
「何だ?」
「いえ、嬉しくて…… 本当に、良かった……」
 頬を緩ませ、安心したように喜ぶ彼女に、ジェラルドも安堵し、更に上機嫌になった。口元がほころび、久しぶりに晴れやかな表情を見せる。
 そんな彼に見惚れながら、アンジュは提案した。自分も何かしたかったのだ。
「今日、奥様と町のご婦人方と一緒に、市場へ行きました。食材を少し買って来たので、明日、胃に優しそうなスープを、作ります……」
「……助かる。頼む」
 そう嬉しそうに呟きながら、フランネル素材の薄ピンクのネグリジェ姿でいる彼女を抱きしめた。肩に顔を埋め、頬を擦り付ける。
「……やっぱり落ち着く……|日向《ひなた》の匂いがする」
「ひ、日向、ですか……?」
 確かに、昼間は皆で市場へ買い物に出たが、シャワーは浴び、身体も拭いた直後だ。意図がわからず、アンジュは困惑する。
「ああ。陽をたっぷり浴びた、野花のような香り、がする……」
「……ジェイド、さん?」
「初めて触れた時、蜂蜜のような香りがした…… ああ……そういや髪もハニーブロンドだな……」
 独り言のようにぼんやりと呟きながら、ジェラルドは彼女の髪をまとめたリボンをほどき、はらり、とこぼれ落ちた髪を|一房《ひとふさ》、指に取り、かぷり、と|咥《くわ》えた。
「……⁉」
 酔っている彼に負けない位、アンジュは真っ赤になった。借りている部屋に二人きりでいるからか、酒が入ったからか……ジェラルドはいつになく大胆で、素直に喋っている。『もっと聞いていたい』とも思ったが、恥ずかしさで参ってしまいそうだった。
「そ、んな……ジェイドさんこそ……木の、香りがします」
「……木? ああ、付けてる|香水《トワレ》がウッド系だから……」
「それ、だけじゃなくて……草原のような香りがするんです。干し草みたいな……何だか懐かしくて好き、なんです」
「……誘ってるのか? シスリー」
 にや、と口角を少し上げ、悪戯を思いついた子供のような笑みを、ジェラルドは浮かべた。
「えっ……?」
「酔っ払った男……そうだ、俺以外には……絶対に、そんな口説き文句を言うな。何を、されるか……わからない……」
「口説、き、なんかじゃ……」
 真っ赤になって|狼狽《うろた》えるアンジュを|咎《とが》めながらも、彼は嬉しそうに頬を緩ませ、彼女の耳たぶから柔らかな頬にかけて、唇を押し当ててきた。
 彼の唇がたどった部分に、湿度を帯びた熱い空気と甘|痒《がゆ》い刺激が走る。思わぬ展開に|狼狽《うろた》えているアンジュを|他所《よそ》に、彼女が羽織っていた厚手のガウンの腰ひもを解き、ジェラルドはずり落とした。
 ネグリジェの胸元の紐とボタンを緩めて引き下げ、|露《あらわ》になった首筋から鎖骨付近の素肌の感触を味わうように、唇を這わせ始める。
「……可愛い。本当に……かわいい……」
「や……ダメです。ここは……」
 色めいたリップ音が胸元で鳴る度、喜びと困惑の入り交じる心が、更にぎゅっ、と揺さぶられアンジュは慌てた。今いるのは、世話になっている恩人の家の部屋だ。こんな事をして、壁越しに自分の恥ずかしい声が聞こえないか、心配で仕方ない。
「わかってる。今は、しない……が」
 行っている当人は、そんな事は承知だ、と言わんばかりにあっさりと返した。
「――そんな声で言われてもな……」
 悩まし気な掠れ声で呟き、柔らかな胸までをネグリジェ越しに優しく撫で上げてきた彼は、今の状況と彼女の反応を楽しんでいるようだった。
 |艶《えん》な刺激と、意識を溶かされていく空気に|充《あ》てられる。『このままでは流されてしまう……』と困ったアンジュは、必死に口元を抑えながら提示した。
「……もう、休み、ましょう…… 手伝います、から」
「君も一緒なら……さすがに疲れた。眠ろう……」
 そう言って頬や額に、ゆったりとした優しいキスをし続けてくる彼の口元から、アルコール独特のつん、とした臭いに混じり、|葡萄《ぶどう》の甘酸っぱい味が伝い流れてくる。この臭いは苦手だったけど、今は嫌ではない。むしろ……素直に酔いしれていくような気がする。
 自分達の未来がずっと不安だったアンジュには、こんな他愛ない戯れが『ずっと一緒にいて良い』という、彼や神からの赦しを与えられているようで、泣きたい位に満ちていた。
 それに……ずっと感じていたが、彼と唇を重ね合わせるという行為も、自分の身体に指や掌で触れられるのも、少しずつ緊張が解けて、思った以上に心地|好《よ》くなってきていた。
 そればかりか、続けているうちに安心感と共に、不可思議な甘|痒《がゆ》い焦燥に駆られてしまう時がある。そんな自身が妙に恥ずかしく、彼にはとても言えずにいたのだ。甘い高鳴りと苦しさと共に、|何《・》|か《・》をもっと……求めてしまう……
 そんな複雑な内情を秘めつつ、ほっ……と少し安心した素振りのアンジュに、不満そうな声が返ってきた。
「……そんなに……安心しなくてもいいだろ……」
 少し拗ねたように呟き、ジェラルドは眉をひそめる。今日の彼は、甘えん坊なだだっ子のようだ。この人の、こんな姿を見られるなんて……
 泣きたいくらい幸せで、甘やかな時間。なのに、何故かやっぱり……怖い。明日には、全て消えてしまうんじゃないかと怯えてしまう。
 幸せであればある程、怖くなってしまう。自分や誰かの言動や出来事がきっかけで、呆気なく壊れてしまうのが恐ろしくて堪らない。
 こんな日々が永遠に続くのなら、これ以上何もいらない…… そんな風にさえ、切に願うアンジュだった。
 一ヶ月程の時が過ぎた。春の到来が遅い英国にも、ようやく、日中に柔らかな陽の光が射し込み、カーディフ付近のこの町にも小春日和が増える。
 新参の若い二人は、新しい生活に慣れる為に奮闘する毎日だった。ジェラルドは例のジャズバーで働き始め、貯蓄を始めた。男女二人で暮らすには、今の彼らに財産はほとんど無い。
 その間、彼にとっては生まれて初めて触れる、身分の異なる人々の生活仕様、文化に驚く毎日だった。庶民的……素朴で、飾り気のない質素な暮らし。娯楽らしい娯楽や目新しい刺激は無く、単調な労働と衣食住の営みが、惰性的に過ぎていく。『元坊っちゃんには退屈だろ?』と、酔った客にからかわれることもあった。
「君も、今までこんな風に……暮らしてきたのか?」
 昼夜問わず神経を磨り減らす、ビジネスや男女の駆け引きの渦中に無駄に揉まれ、更に冷たい視線を浴びてきた彼にとって、この生活はとても新鮮で、不可思議な事ばかりだった。
 理解し難い事もあるが、思ったより居心地は悪くない、と感じる自分に驚く。ピアノに関われているという、恩恵はあるだろうが……
 そんな彼の心理が解るようで、今一つ読めないアンジュは、
「やり方は、似てるかもしれないです、けど…… 子供の頃や楽団にいた時とは、私も違います。今が一番穏やかで……温かいです」
 そう、精一杯の彼への感謝と好意を込め、告げた。
 目まぐるしい日々が過ぎていったが、イギリスとドイツ、イタリアが戦争を始めたなど、何かの間違いだったのではないかと錯覚する位、凡庸で穏やかだった。
 だが、町中の空気は、やはり不安定でどこか落ち着かない。水面下では何かが動いているらしい、油断はできない、と住人は話している。海の向こうの国々は、相変わらず容赦ない攻撃や、残虐な侵略行為に遭っているというのに、敵は何を企んでいるのだろう……と不気味な思いを皆、|抱《いだ》いていた。
 そんな時、英国には現在『良心的兵役拒否権』というものがあるのを、ジェラルドは客同士の会話と、グレアムからの情報で知った。申請して条件が合い、通れば兵隊として戦地へ行かずに済む、というものらしい。
 ただその為には、この町の住人として申請しなければならない。一刻も早く、二人で生活を安定させたい。こちらでの呼び名……偽名は使えないが、ロンドンから脱出して一ヶ月以上経つ今でも、何も起こらない。だいぶほとぼりが冷めたのだろう、と考えていた。
 その事を彼から聞いたアンジュは、以前、ロンドンで世話になったクリスが、そんな話をしていたのを思い出し、伝えた。もしかしたら、ジェラルドは戦地に行かなくて済むかもしれない、と、少し安堵する。
 ようやく明るい未来が、手の届きそうなところまで来た。そんな淡い希望が見えた、春の始まり――
 そんなある朝。グレアム宅に届いた、朝刊を目にしたアンジュは、思わず持っていた洗濯かごを落とした。血の気が引き、痛い程に心臓が縮み上がる。
『我が国、英国海軍とフランス海軍、ドイツ軍と激突‼ ノルウェー海域にて、戦闘開始‼』
 かじり付くように手にした新聞には、目にしたくなかった文章が、見出し一面を飾っていた。