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38

ー/ー



本部を出て、そのまま家に帰る気がなかった安立に声を掛けてきたのは。藤井だった。

「景気付けに一杯、どうです?」

「そうやな」と向かった店は海鮮居酒屋で、イカの塩辛が美味い店だった。

「ここ、たまに来ますねん。タコワサが美味いから」
「いや、ここはイカの塩辛押しやろ」
「安立さんも来たことあるんや。ここはタコワサですって」

藤井が先に暖簾(のれん)を潜(くぐ)った。店内の天井には大漁旗が何枚か貼られ、同じく壁にも飾られている。カウンターの椅子は、上蓋をクッションに改良したドラム缶で、中に荷物を入れられる構造になっている。
カウンターの端にある水槽には、狭苦しそうに魚が泳いでいた。二人はカウンター奥の一番端、壁側に座った。

平日の夜とあって、人も疎(まば)らだ。藤井が先付けの和物を持ってきた店員に「生中二つと、冷酒一つな。それと、とりあえずタコワサ四つ」と安立に聞きもせずに注文を通した。店員が無駄に元気な声で復唱して、奥に引っ込んでいった。

「何で、タコワサ四つやねん」
「安立さんが気に食わんかったら、自分が食べるから、心配無用でっせ」

藤井は惜しむように、ちまちまちまと、付き出しを突っつき始めた。

「桜子ちゃん、もう何歳になりはったんですか?」

藤井は、しきりに耳たぶを弄っている。

「今、中三になったわ」
「ええっ! こないだは小学生やって言ってませんでした?」

他人の子は早いというから、藤井の中では数週間前で桜子の成長は止まっているみたいだ。

「いつの話や。受験生やから部屋によう篭っとるわ。フウちゃんは、もう結婚せんのか?」

安立はメニューを見ながら聞いた。

「こりごりやし、一人が楽でええですわ」

酒とアテが来て、目に付いた物を注文した。タコワサの小鉢は、藤井の前に四つ置かれた。

「ほんで、何の話があんねん」

グダグダ話していても、仕方がない。安立はストレートにぶつけた。

「やっぱ分かりましたか」
「フウちゃん、何か話さなあかんと思ってる時、癖が出るからな」
「え? ほんまに? どんな癖、出てます?」

藤井が自分の体をペタペタと触ったり、捻ったりし始めた。

「教えたら面白ないないやろ。ほら、本題本題」

安立は、藤井の前からタコワサの鉢を一つ、自分に寄せた。藤井は納得いかない顔だった。

「遠野さんから電話がありましたわ」

安立の箸から、摘んだタコワサが滑り落ちた。

「遠野から電話があったって、いつや?」

藤井は呑気に小鉢に入ってるタコワサを、頬張っている。

「会議が始まる数分前です。えらい謝ってました。謝るんやったらすんな、って話やけど」
「そんなん、どうでもええ。内容は?」

かっと頭に血が上って、まだ酒も飲んでいなの安立の顔が焼けるように熱くなった。

「安立さんに伝えてくれっていわれたんやけど、何や『世界に一つだけの花で見つけて下さい』って。自分で云え! って怒ったんやけど、本当にすみませんでした! って電話が切れてしもて……」

自分ではなく、藤井に電話を架けた遠野に対しての怒りが、空気が抜けた風船みたいに急速に萎んでいく。

「世界に一つだけの花? どういう意味や」
「あれ、ちゃいます? 花は女を指してて、安立さんの再婚へのエール」

安立は藤井の後頭部を軽く叩いた。

「何でやねん。お前と一緒で、懲り懲りやっちゅうねん」

遠野からの最初で最後の安立への嫌味を藤井に言っただけなのか、それとも別に意味があるのか、判断がつかない。
 安立は一言「ああっ! 何やねん!」と叫んで、冷酒を一気に飲み干した。
     


家に戻ったのは十一時過ぎていた。家の中の電気は消え、玄関だけ灯りが点いている。
家人を起こさないように音を立てずに中に入る。そのまま台所へ入って電気を点けた。冷蔵に入っていた二リットルのミネラル・ウォーターをコップに移さずに、そのまま咥えた。

「おいオッサン、何やっとんねん」

驚いて水が気管に詰まった安立は、盛大に咽(む)せた。

「さ、桜子。起こしたか?」

スェットのパンツにTシャツ姿の桜子が、睨みを利かして立っていた。

「親に向かって、オッサンはあかんやろ」

やや親の威厳を持たせつつ、桜子を叱った。

「はあ? 皆の飲み物を口飲みするとか、ありえへんやろ」

親の威厳どころか、知捜を仕切っている影すら今の安立にはなかった。

「そ、そうやな。ほんだら、これはお父さん専用にするわ」
「当たり前やろ」

桜子はサイドボードの抽斗(ひきだし)からマジックを取り出して、ペットボトルをひったくると、『父』と大きな字で書いて、冷蔵庫にしまった。

「どうしたんや? 起きてきて」下手に出ている自分の姿が、虚しくなる。
「――勉強してたから」

機嫌が直ったのか、通常の桜子の口調だった。

「あんまり遅そうまで起きてたら、肌に悪いんとちゃうんか?」
「まだ十代やで。それに、受験勉強してる娘に、もっと何か……ええわ」

笑顔の桜子を見て、生きている意味を実感した。

「そうや。桜子にとって世界に一つだけの花って何や?」

キョトンとしたあと、少し首を傾げた桜子が「桜、かな。名前にも付いてるし、日本の象徴って感じやし。でも、アイドル曰く、自分らしいけど」

「そんなこと言うてるアイドルが、おるんか」

安立は冷蔵庫から『父』と書かれたペットボトルを、もう一度、取り出して、椅子に腰を下ろした。

「ちゃうちゃう。歌がそんな歌詞やねん」

安立は水を流し込んで、喉を三回ごくごく鳴らした。

「CD持ってるか?」
「持ってへん。ファンちゃうし。ネットで探せば出てくるで。携帯、貸して」

安立はポケットから携帯を取り出して、桜子に渡した。

「これこれ。一時期、めっちゃ流行ってたで」

携帯から聞こえてくる音楽は、確かに何処かで耳にしたメロディーだった。遠野はこの歌詞で何か、メッセージでも送ってきているのかと、バカバカしい考えが浮かんでは、すぐ消えた。

もう少し勉強してから寝ると言って、桜子は二階の部屋に戻っていった後も、安立は音楽を何度も聞き返した。でも耳に聞くだけでは、歌詞が覚えられない。
そのまま歌詞検索をして、サイトを開いた。しかし読めば読むほど遠野からの嫌味か、実は遠野には女がいたのかもしれない疑惑しか浮かんでこない。

「アホらし。そもそもや。何の意味もないやろう」と独り言を発して、安立は風呂に入った。



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本部を出て、そのまま家に帰る気がなかった安立に声を掛けてきたのは。藤井だった。

「景気付けに一杯、どうです?」

「そうやな」と向かった店は海鮮居酒屋で、イカの塩辛が美味い店だった。

「ここ、たまに来ますねん。タコワサが美味いから」
「いや、ここはイカの塩辛押しやろ」
「安立さんも来たことあるんや。ここはタコワサですって」

藤井が先に暖簾(のれん)を潜(くぐ)った。店内の天井には大漁旗が何枚か貼られ、同じく壁にも飾られている。カウンターの椅子は、上蓋をクッションに改良したドラム缶で、中に荷物を入れられる構造になっている。
カウンターの端にある水槽には、狭苦しそうに魚が泳いでいた。二人はカウンター奥の一番端、壁側に座った。

平日の夜とあって、人も疎(まば)らだ。藤井が先付けの和物を持ってきた店員に「生中二つと、冷酒一つな。それと、とりあえずタコワサ四つ」と安立に聞きもせずに注文を通した。店員が無駄に元気な声で復唱して、奥に引っ込んでいった。

「何で、タコワサ四つやねん」
「安立さんが気に食わんかったら、自分が食べるから、心配無用でっせ」

藤井は惜しむように、ちまちまちまと、付き出しを突っつき始めた。

「桜子ちゃん、もう何歳になりはったんですか?」

藤井は、しきりに耳たぶを弄っている。

「今、中三になったわ」
「ええっ! こないだは小学生やって言ってませんでした?」

他人の子は早いというから、藤井の中では数週間前で桜子の成長は止まっているみたいだ。

「いつの話や。受験生やから部屋によう篭っとるわ。フウちゃんは、もう結婚せんのか?」

安立はメニューを見ながら聞いた。

「こりごりやし、一人が楽でええですわ」

酒とアテが来て、目に付いた物を注文した。タコワサの小鉢は、藤井の前に四つ置かれた。

「ほんで、何の話があんねん」

グダグダ話していても、仕方がない。安立はストレートにぶつけた。

「やっぱ分かりましたか」
「フウちゃん、何か話さなあかんと思ってる時、癖が出るからな」
「え? ほんまに? どんな癖、出てます?」

藤井が自分の体をペタペタと触ったり、捻ったりし始めた。

「教えたら面白ないないやろ。ほら、本題本題」

安立は、藤井の前からタコワサの鉢を一つ、自分に寄せた。藤井は納得いかない顔だった。

「遠野さんから電話がありましたわ」

安立の箸から、摘んだタコワサが滑り落ちた。

「遠野から電話があったって、いつや?」

藤井は呑気に小鉢に入ってるタコワサを、頬張っている。

「会議が始まる数分前です。えらい謝ってました。謝るんやったらすんな、って話やけど」
「そんなん、どうでもええ。内容は?」

かっと頭に血が上って、まだ酒も飲んでいなの安立の顔が焼けるように熱くなった。

「安立さんに伝えてくれっていわれたんやけど、何や『世界に一つだけの花で見つけて下さい』って。自分で云え! って怒ったんやけど、本当にすみませんでした! って電話が切れてしもて……」

自分ではなく、藤井に電話を架けた遠野に対しての怒りが、空気が抜けた風船みたいに急速に萎んでいく。

「世界に一つだけの花? どういう意味や」
「あれ、ちゃいます? 花は女を指してて、安立さんの再婚へのエール」

安立は藤井の後頭部を軽く叩いた。

「何でやねん。お前と一緒で、懲り懲りやっちゅうねん」

遠野からの最初で最後の安立への嫌味を藤井に言っただけなのか、それとも別に意味があるのか、判断がつかない。
 安立は一言「ああっ! 何やねん!」と叫んで、冷酒を一気に飲み干した。
     


家に戻ったのは十一時過ぎていた。家の中の電気は消え、玄関だけ灯りが点いている。
家人を起こさないように音を立てずに中に入る。そのまま台所へ入って電気を点けた。冷蔵に入っていた二リットルのミネラル・ウォーターをコップに移さずに、そのまま咥えた。

「おいオッサン、何やっとんねん」

驚いて水が気管に詰まった安立は、盛大に咽(む)せた。

「さ、桜子。起こしたか?」

スェットのパンツにTシャツ姿の桜子が、睨みを利かして立っていた。

「親に向かって、オッサンはあかんやろ」

やや親の威厳を持たせつつ、桜子を叱った。

「はあ? 皆の飲み物を口飲みするとか、ありえへんやろ」

親の威厳どころか、知捜を仕切っている影すら今の安立にはなかった。

「そ、そうやな。ほんだら、これはお父さん専用にするわ」
「当たり前やろ」

桜子はサイドボードの抽斗(ひきだし)からマジックを取り出して、ペットボトルをひったくると、『父』と大きな字で書いて、冷蔵庫にしまった。

「どうしたんや? 起きてきて」下手に出ている自分の姿が、虚しくなる。
「――勉強してたから」

機嫌が直ったのか、通常の桜子の口調だった。

「あんまり遅そうまで起きてたら、肌に悪いんとちゃうんか?」
「まだ十代やで。それに、受験勉強してる娘に、もっと何か……ええわ」

笑顔の桜子を見て、生きている意味を実感した。

「そうや。桜子にとって世界に一つだけの花って何や?」

キョトンとしたあと、少し首を傾げた桜子が「桜、かな。名前にも付いてるし、日本の象徴って感じやし。でも、アイドル曰く、自分らしいけど」

「そんなこと言うてるアイドルが、おるんか」

安立は冷蔵庫から『父』と書かれたペットボトルを、もう一度、取り出して、椅子に腰を下ろした。

「ちゃうちゃう。歌がそんな歌詞やねん」

安立は水を流し込んで、喉を三回ごくごく鳴らした。

「CD持ってるか?」
「持ってへん。ファンちゃうし。ネットで探せば出てくるで。携帯、貸して」

安立はポケットから携帯を取り出して、桜子に渡した。

「これこれ。一時期、めっちゃ流行ってたで」

携帯から聞こえてくる音楽は、確かに何処かで耳にしたメロディーだった。遠野はこの歌詞で何か、メッセージでも送ってきているのかと、バカバカしい考えが浮かんでは、すぐ消えた。

もう少し勉強してから寝ると言って、桜子は二階の部屋に戻っていった後も、安立は音楽を何度も聞き返した。でも耳に聞くだけでは、歌詞が覚えられない。
そのまま歌詞検索をして、サイトを開いた。しかし読めば読むほど遠野からの嫌味か、実は遠野には女がいたのかもしれない疑惑しか浮かんでこない。

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