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萱島に事務処理を任して、安立は取調室に寄った。休憩に入っていた藤井が、炭酸を一気飲みした後、大きなゲップを吐いていた。

「ふうちゃん、どうや。宮本」
「ああ、安立さん。まあ、ボチボチです。何か、バリに飛ばれへんかったんが、相当にショックみたいですわ。そろそろ、現実に戻りつつあるんで、何とかなると思います。何かあったんですか?」
「遠野が逃げよった」

安立の言葉に藤井は出っ張った腹を、二回バシッと叩いた。

「遠野さん……そうですか。遠野さん、確かに自分らを欺いてはいたけど、なんていうか、バレたら逃げも隠れもせんっていう感じがしてたんやけど。甘い考えを捨ててるはずやのに、あきませんわ」

藤井に言われて、安立も納得がした。心の奥底、自分でも把握できない場所で、遠野を被疑者扱いにしきれていなかった。

「宮本は頼むわ」

 安立は、さっき送り出したばかりの八尾に捜査の変更の連絡を入れた。

「八尾、すまんけど、高津と柏原に任せて、お前は戻って来て山崎と行動してくれ」
「何かあったんですか?」
「遠野が逃げた。だから、お前と山崎とで追ってもらう。高津と柏原で青山の件は任せる。他の二人にも伝えといてくれ」

数秒の間が空いてから八尾の返事が聞こえた。
山崎と八尾が本部に戻ってきた。二人を会議室に連れて行く時、山崎は処刑される囚人みたいな顔になっていた。

机が三台にパイプ椅子が並んでいるだけの、比較的小さな会議室で、程よく空間が狭い。三人が同時に椅子を引いたら、けたたましい音が響いた。

「山崎。もう一度、話してくれるか」

山崎は項垂れ気味だった顔を上げた。

「戻りの連絡を貰って、遠野さんにも伝えました。ほんだら腹も減ったし、先に腹ごしらえしてから戻ろかって言われたんです」
「遠野にしては、珍しいんちゃうか?」
「今やったらそう思うんですけど、めっちゃデカイ自分の腹の虫がなったから。それで、青山の事務所から本部までの間には車が駐められそうな店はないなあ、って話してたら、ちょっと迂回したらあるからって、遠野さんが道案内してくれはりました。店内の窓側と席とは反対の壁側に座って、自分がカレー、遠野さんがグリル・セットを頼んだから、えらいがっつり食べるんやって、普通に会話してました」
「それまでに、変わった様子は、なかったんか?」

山崎は何度も自問していたはず。それでも今一度、山崎は考え込んだ。

「すみません。やっぱり、いつもの遠野さんでした」

元々、遠野は表情が豊かな人間ではない。だから遠野の読み取れない表情で、被疑者が白旗を上げた事案もあった。
刑事に向いている人間だったのにと、苦い気持ちが嫌な後味として安立の中に残った。

「もしかして逃げるために、わざわざグリル・セットを頼んだやと思います」

 腕を組んで聞いていた高津が山崎に質問を始めた。

「席って、店員に案内されたんか?」
「いや、遠野さんが先に歩いて、勝手に席を選びましたわ」

言い終わったと同時に、山崎が「あっ!」と声を出した。安立にも高津の考えている内容を理解した。

「そういうこっちゃ。遠野は逃げる気満々やった、ってことや」

高津は長い息を吐いて、山崎は掌を額に当てている。

「とりあえず、遠野の家に行ってもらう。奥さんには事情を話してくれて構わん」
「大丈夫ですか?」

高津が弱々しい声を出した。

「構わん。遅かれ早かれ、遠野のしでかした罪は、分かるんや」

「分かりました」と高津が答え、山崎の肩に力強く手を置いて二人は立ち上がった。
     


夜、戻った捜査員の顔は、まだ幕が上がったばかりにもかかわらず、疲れていた。
「おい! まだこれからやぞ! そんな顔しててどないすんねん」

安立は一喝を飛ばした。

「ええか。昭島を引っ張り出すんや。もっと気合い入れんか。フウちゃん、宮本の状況は?」

藤井はクーラーで冷えている部屋で、しきりに汗を流していて、ハンカチで首元を拭った。

「ポツポツ、現実を受け入れ始めた感じです。アーバネット銀行での顧客の横領については話すけど、現金強奪の辺りになると、お口にチャックになって」

藤井がジェスチャーを加えた。

「そうか。なるべく早急に、青山の名前を引っ張り出してくれ。次、八尾」

八尾の隣に座っている山崎は、いつもの表情に戻っていた。山崎と一旦アイコンタクトをした後、頷いて口を開いた。

「遠野は家には戻ってきてなかったですわ。奥さんの幸美さんに預かっている物や、ウッズ・ファイナンス、青山と麻生の名前も出して聞いたけど、何も知らん聞いてないばっかりで」
「幸美さんには、遠野の話を聞かせてたんやな?」

安立は再度、確認の質問を投げかけた。

「質問の後にしました。何度も、間違いじゃないか、って聞き返されたんですけど、最後は『そうですか』って、妙に納得してましたね」
「何で、妙に納得したんや?」

八尾は山崎とまた目で会話をした後、バトンを山崎に渡した。

「二階にある、八畳の部屋を見せられたんですけど、荷物が山積みになって置かれてました。でも、どれもこれも、封は開いてない新品がほとんどで。奥さん曰く、通販にハマってたっていうより、依存みたいになってたらしいです」

安立は、萱島と訪れた時のリビングの様子が浮かんできた。運動器具やら、ダイエット器具が部屋の隅に確かに追いやられていた。
通販に縁のない安立は首を捻った。

「でも、通販っていうても、そないに高いもんか?」
「それが、何十万もする珊瑚のネックレスやったり、数千円の物まで、色々やって聞きました。一週間で二〇万近く使ったこともあるらしく、流石にその時は喧嘩にはなったらしいです。通販の商品がなんぼするんか、奥さんは聞かされへんし、家計も遠野が握ってたと」

胸元に大きな風穴でも通されたみたいに、安立はショックだった。
遠野が罹(かか)っていたのは、買い物依存症の類だと思えた。要因は色々とあるだろうが、仕事柄、ストレスだと推測はできる。

それほどまでに追い詰められていた遠野を、安立は見抜けなかった。
物を集める行動も、身近にあると安心する。裏を返せば孤独を埋めるためではないか。ゴミ屋敷の住人も、寂しさを紛らわすために収集をしてしまうと、テレビで見た記憶がある。

遠野は、もっと自分たちと会話をしたかったのかもしれない。遠野といえば、無口で真面目の代名詞と思っていたが、あくまでも本人が言ったわけではなく、周りのイメージに過ぎない。
知らず知らずに追い詰めて、ストレスを負わせていたかと思うと、胸が痛んだ。

「携帯電話の通信は、どうやった?」
「電源が切られていて、電波からの特定は、無理でした。でも青山との通信記録はありました」

安立は、頬の皮膚が波打つほどに擦った。

「そうか。引き続き追ってくれ。次、青山は、どうやった?」
特に動きはなかったです。事務所を十九時に出て、自宅マンションに真っ直ぐ帰ってます」
「何や、それ。えらい品行方正やな」安立は毒づいた。

青山に見張りが付いているのは、遠野から連絡が入っているはず。青山が単に知っていて、日常を送る振りをしているのか、また別の思惑があるのか、気になるところではあった。

「明日一番、ウッズ・ファイナンスにガサに入る。各押収が終わり次第、山崎と八尾は遠野の行方を追え。フウさんは引き続き、宮本。他は押収物の精査。以上や。何か、あるか?」

柏原が小さく挙手をして、安立は顎で指した。

「捜査本部は、どうしはるんですか? 人が足らんと思うんですけどねえ」
「釣鐘課長が根回し中や。ちょっと辛抱してくれ。以上!」

安立は強引に切り上げた。



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「ふうちゃん、どうや。宮本」
「ああ、安立さん。まあ、ボチボチです。何か、バリに飛ばれへんかったんが、相当にショックみたいですわ。そろそろ、現実に戻りつつあるんで、何とかなると思います。何かあったんですか?」
「遠野が逃げよった」

安立の言葉に藤井は出っ張った腹を、二回バシッと叩いた。

「遠野さん……そうですか。遠野さん、確かに自分らを欺いてはいたけど、なんていうか、バレたら逃げも隠れもせんっていう感じがしてたんやけど。甘い考えを捨ててるはずやのに、あきませんわ」

藤井に言われて、安立も納得がした。心の奥底、自分でも把握できない場所で、遠野を被疑者扱いにしきれていなかった。

「宮本は頼むわ」

 安立は、さっき送り出したばかりの八尾に捜査の変更の連絡を入れた。

「八尾、すまんけど、高津と柏原に任せて、お前は戻って来て山崎と行動してくれ」
「何かあったんですか?」
「遠野が逃げた。だから、お前と山崎とで追ってもらう。高津と柏原で青山の件は任せる。他の二人にも伝えといてくれ」

数秒の間が空いてから八尾の返事が聞こえた。
山崎と八尾が本部に戻ってきた。二人を会議室に連れて行く時、山崎は処刑される囚人みたいな顔になっていた。

机が三台にパイプ椅子が並んでいるだけの、比較的小さな会議室で、程よく空間が狭い。三人が同時に椅子を引いたら、けたたましい音が響いた。

「山崎。もう一度、話してくれるか」

山崎は項垂れ気味だった顔を上げた。

「戻りの連絡を貰って、遠野さんにも伝えました。ほんだら腹も減ったし、先に腹ごしらえしてから戻ろかって言われたんです」
「遠野にしては、珍しいんちゃうか?」
「今やったらそう思うんですけど、めっちゃデカイ自分の腹の虫がなったから。それで、青山の事務所から本部までの間には車が駐められそうな店はないなあ、って話してたら、ちょっと迂回したらあるからって、遠野さんが道案内してくれはりました。店内の窓側と席とは反対の壁側に座って、自分がカレー、遠野さんがグリル・セットを頼んだから、えらいがっつり食べるんやって、普通に会話してました」
「それまでに、変わった様子は、なかったんか?」

山崎は何度も自問していたはず。それでも今一度、山崎は考え込んだ。

「すみません。やっぱり、いつもの遠野さんでした」

元々、遠野は表情が豊かな人間ではない。だから遠野の読み取れない表情で、被疑者が白旗を上げた事案もあった。
刑事に向いている人間だったのにと、苦い気持ちが嫌な後味として安立の中に残った。

「もしかして逃げるために、わざわざグリル・セットを頼んだやと思います」

 腕を組んで聞いていた高津が山崎に質問を始めた。

「席って、店員に案内されたんか?」
「いや、遠野さんが先に歩いて、勝手に席を選びましたわ」

言い終わったと同時に、山崎が「あっ!」と声を出した。安立にも高津の考えている内容を理解した。

「そういうこっちゃ。遠野は逃げる気満々やった、ってことや」

高津は長い息を吐いて、山崎は掌を額に当てている。

「とりあえず、遠野の家に行ってもらう。奥さんには事情を話してくれて構わん」
「大丈夫ですか?」

高津が弱々しい声を出した。

「構わん。遅かれ早かれ、遠野のしでかした罪は、分かるんや」

「分かりました」と高津が答え、山崎の肩に力強く手を置いて二人は立ち上がった。
     


夜、戻った捜査員の顔は、まだ幕が上がったばかりにもかかわらず、疲れていた。
「おい! まだこれからやぞ! そんな顔しててどないすんねん」

安立は一喝を飛ばした。

「ええか。昭島を引っ張り出すんや。もっと気合い入れんか。フウちゃん、宮本の状況は?」

藤井はクーラーで冷えている部屋で、しきりに汗を流していて、ハンカチで首元を拭った。

「ポツポツ、現実を受け入れ始めた感じです。アーバネット銀行での顧客の横領については話すけど、現金強奪の辺りになると、お口にチャックになって」

藤井がジェスチャーを加えた。

「そうか。なるべく早急に、青山の名前を引っ張り出してくれ。次、八尾」

八尾の隣に座っている山崎は、いつもの表情に戻っていた。山崎と一旦アイコンタクトをした後、頷いて口を開いた。

「遠野は家には戻ってきてなかったですわ。奥さんの幸美さんに預かっている物や、ウッズ・ファイナンス、青山と麻生の名前も出して聞いたけど、何も知らん聞いてないばっかりで」
「幸美さんには、遠野の話を聞かせてたんやな?」

安立は再度、確認の質問を投げかけた。

「質問の後にしました。何度も、間違いじゃないか、って聞き返されたんですけど、最後は『そうですか』って、妙に納得してましたね」
「何で、妙に納得したんや?」

八尾は山崎とまた目で会話をした後、バトンを山崎に渡した。

「二階にある、八畳の部屋を見せられたんですけど、荷物が山積みになって置かれてました。でも、どれもこれも、封は開いてない新品がほとんどで。奥さん曰く、通販にハマってたっていうより、依存みたいになってたらしいです」

安立は、萱島と訪れた時のリビングの様子が浮かんできた。運動器具やら、ダイエット器具が部屋の隅に確かに追いやられていた。
通販に縁のない安立は首を捻った。

「でも、通販っていうても、そないに高いもんか?」
「それが、何十万もする珊瑚のネックレスやったり、数千円の物まで、色々やって聞きました。一週間で二〇万近く使ったこともあるらしく、流石にその時は喧嘩にはなったらしいです。通販の商品がなんぼするんか、奥さんは聞かされへんし、家計も遠野が握ってたと」

胸元に大きな風穴でも通されたみたいに、安立はショックだった。
遠野が罹(かか)っていたのは、買い物依存症の類だと思えた。要因は色々とあるだろうが、仕事柄、ストレスだと推測はできる。

それほどまでに追い詰められていた遠野を、安立は見抜けなかった。
物を集める行動も、身近にあると安心する。裏を返せば孤独を埋めるためではないか。ゴミ屋敷の住人も、寂しさを紛らわすために収集をしてしまうと、テレビで見た記憶がある。

遠野は、もっと自分たちと会話をしたかったのかもしれない。遠野といえば、無口で真面目の代名詞と思っていたが、あくまでも本人が言ったわけではなく、周りのイメージに過ぎない。
知らず知らずに追い詰めて、ストレスを負わせていたかと思うと、胸が痛んだ。

「携帯電話の通信は、どうやった?」
「電源が切られていて、電波からの特定は、無理でした。でも青山との通信記録はありました」

安立は、頬の皮膚が波打つほどに擦った。

「そうか。引き続き追ってくれ。次、青山は、どうやった?」
特に動きはなかったです。事務所を十九時に出て、自宅マンションに真っ直ぐ帰ってます」
「何や、それ。えらい品行方正やな」安立は毒づいた。

青山に見張りが付いているのは、遠野から連絡が入っているはず。青山が単に知っていて、日常を送る振りをしているのか、また別の思惑があるのか、気になるところではあった。

「明日一番、ウッズ・ファイナンスにガサに入る。各押収が終わり次第、山崎と八尾は遠野の行方を追え。フウさんは引き続き、宮本。他は押収物の精査。以上や。何か、あるか?」

柏原が小さく挙手をして、安立は顎で指した。

「捜査本部は、どうしはるんですか? 人が足らんと思うんですけどねえ」
「釣鐘課長が根回し中や。ちょっと辛抱してくれ。以上!」

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