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入って左手には、一段上に宿泊客がチェックイン、アウトを待つためだと思われるスペース。正面には横長のカウンターがあって、フロントマンが等間隔に立っている。
廊下は大理石で、入口から真正面にあるフロントまでの廊下の幅が広かった。思わず宮本は着ている服装が見窄(みすぼ)らしくはないか、足元から服を見直した。

スニーカーとジーンズ。上はポロシャツの出で立ちは、及第点に思えた。
周りを見ると、宮本よりもラフな格好をした、短パンにTシャツの外国人や、サンダルを履いた日本人もいて、急にどうでもよくなった。
帽子を深く被り直し、大きなバッグを肩に掛けて、宮本は自分が田中祐介だと言い聞かせた。

「こんにちは」

フロントマンの爽やかな笑顔と、嫌味のない挨拶が今の宮本にはあまりに眩しくて、直視できない。

「今日、予約してるんですけど」
「かしこまりました。お名前を頂戴して、よろしいでしょうか?」

宮本はフロントマンの口元が見えるくらいまで顔を上げた。

「み、田中祐介」

さっきまで田中祐介だと繰り返し念じていたのに、本名を名乗りそうになった自分を殴りたくなった。

「ありがとうございます。では、こちらにご記入をお願い致します」

宮本の動揺など全く感知していないフロントマンは、業務用のパソコンを触りながら、宮本が書く内容を入力している。
思いつく地名と番地を、それらしく書いて、年齢は五歳サバを読んだ。

無事に部屋に入り、すぐにさっき書いた住所を携帯のメモ機能に登録しておいた。多分、聞き直されることはないが、念のためだ。
青山からもらったカバンの中身を、全部出してみた。札束の他に、通帳と印鑑と、宮本の顔写真で名前が井上忠になっている免許証。美井銀行の通帳と印鑑が、輪ゴムで一纏めになって出てきた。

通帳をを開いて、印字された金額を見て、笑いが込み上げてきた。さっき青山を疑って悪かったと、心の内で謝罪した。
次に宮本は、ギリギリに思い浮かんでタブレット・パソコンをヨドバシカメラで買っていた。箱から取り出して電源を入れる。
簡単な初期設定を済ませて、インターネットに接続した。

持っているスマホよりも画面が大きくて見やすいし、キーボードも付いているから、文字も打ちやすい。宮本はバリの通貨、平均年収、リゾート地、日本人がリタイアした移住先などを検索した。
時間はあっという間に過ぎて、夕食時間も過ぎている。部屋に置いてあるフロアガイドに目を通す。日本に戻らないかもしれないと思い、和食レストランに決めた。

翌日は、朝から肉を食べ納めしたい気分だったが、店が開く時間には宮本は飛行機の中。仕方なくビュッフェ形式のレストランにしたが、和洋中は全て揃っているし、美味しかったから良しとした。

出発時間まで、まだ時間はある。自分を追ってきている人影も確認できないが、脈拍はいつもよりも早かった。
バリについて調べている内に、前日に持っていた自由に対する不安も、幾分か和らいできている。期待感がゆっくりと膨らみ始めてきていた。
翌朝、九時半にチェックアウトをして、直結しているコンコースを歩いて第一ターミナルに向かう。

歩く宮本の前後には、スーツケースを引いた白人カップル、東洋人らしき家族連れが同じようにターミナルに向かって歩いていた。
反対に、ターミナルからホテルに向かう旅行者には、ほとんどすれ違わなかった。宮本は搭乗手続きをする前に待合椅子に座って、再度パスポートの名前、年齢旅券を確認した。

ゆっくり深呼吸をして立ち、搭乗手続きのカウンターの前に立った。
手続きが終われば、セキュリティ・チェックをして出国手続き。もう、ここまで来れば、宮本の勝利は確定していた。
カウンターの化粧の濃い女に、チケットを渡した。

「宮本正守やな」

女から、低い腹に響きそうな声を聞いて、とうとう緊張で耳がおかしくなったかと、可笑(おか)しくなって、頬が緩んだ。
しかし、急に腕に痛みが走った。皮膚が捻(ねじ)れて痛い。

振り返った宮本が見たのは、自分を見下ろす体格のいい男と若い男だった。他に四人の睨みの効いた男たちが宮本を囲んでいた。
急なことで現状を理解できないまま、宮本の腕は自由の意思を奪われていた。男が宮本に黒い手帳と紙を見せて話しているが、考えることを止めてしまった宮本の耳には、何も入ってはいなかった。ただバリには行けない事実だけは、ぼんやりと、頭に浮かんできた。



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入って左手には、一段上に宿泊客がチェックイン、アウトを待つためだと思われるスペース。正面には横長のカウンターがあって、フロントマンが等間隔に立っている。
廊下は大理石で、入口から真正面にあるフロントまでの廊下の幅が広かった。思わず宮本は着ている服装が見窄(みすぼ)らしくはないか、足元から服を見直した。

スニーカーとジーンズ。上はポロシャツの出で立ちは、及第点に思えた。
周りを見ると、宮本よりもラフな格好をした、短パンにTシャツの外国人や、サンダルを履いた日本人もいて、急にどうでもよくなった。
帽子を深く被り直し、大きなバッグを肩に掛けて、宮本は自分が田中祐介だと言い聞かせた。

「こんにちは」

フロントマンの爽やかな笑顔と、嫌味のない挨拶が今の宮本にはあまりに眩しくて、直視できない。

「今日、予約してるんですけど」
「かしこまりました。お名前を頂戴して、よろしいでしょうか?」

宮本はフロントマンの口元が見えるくらいまで顔を上げた。

「み、田中祐介」

さっきまで田中祐介だと繰り返し念じていたのに、本名を名乗りそうになった自分を殴りたくなった。

「ありがとうございます。では、こちらにご記入をお願い致します」

宮本の動揺など全く感知していないフロントマンは、業務用のパソコンを触りながら、宮本が書く内容を入力している。
思いつく地名と番地を、それらしく書いて、年齢は五歳サバを読んだ。

無事に部屋に入り、すぐにさっき書いた住所を携帯のメモ機能に登録しておいた。多分、聞き直されることはないが、念のためだ。
青山からもらったカバンの中身を、全部出してみた。札束の他に、通帳と印鑑と、宮本の顔写真で名前が井上忠になっている免許証。美井銀行の通帳と印鑑が、輪ゴムで一纏めになって出てきた。

通帳をを開いて、印字された金額を見て、笑いが込み上げてきた。さっき青山を疑って悪かったと、心の内で謝罪した。
次に宮本は、ギリギリに思い浮かんでタブレット・パソコンをヨドバシカメラで買っていた。箱から取り出して電源を入れる。
簡単な初期設定を済ませて、インターネットに接続した。

持っているスマホよりも画面が大きくて見やすいし、キーボードも付いているから、文字も打ちやすい。宮本はバリの通貨、平均年収、リゾート地、日本人がリタイアした移住先などを検索した。
時間はあっという間に過ぎて、夕食時間も過ぎている。部屋に置いてあるフロアガイドに目を通す。日本に戻らないかもしれないと思い、和食レストランに決めた。

翌日は、朝から肉を食べ納めしたい気分だったが、店が開く時間には宮本は飛行機の中。仕方なくビュッフェ形式のレストランにしたが、和洋中は全て揃っているし、美味しかったから良しとした。

出発時間まで、まだ時間はある。自分を追ってきている人影も確認できないが、脈拍はいつもよりも早かった。
バリについて調べている内に、前日に持っていた自由に対する不安も、幾分か和らいできている。期待感がゆっくりと膨らみ始めてきていた。
翌朝、九時半にチェックアウトをして、直結しているコンコースを歩いて第一ターミナルに向かう。

歩く宮本の前後には、スーツケースを引いた白人カップル、東洋人らしき家族連れが同じようにターミナルに向かって歩いていた。
反対に、ターミナルからホテルに向かう旅行者には、ほとんどすれ違わなかった。宮本は搭乗手続きをする前に待合椅子に座って、再度パスポートの名前、年齢旅券を確認した。

ゆっくり深呼吸をして立ち、搭乗手続きのカウンターの前に立った。
手続きが終われば、セキュリティ・チェックをして出国手続き。もう、ここまで来れば、宮本の勝利は確定していた。
カウンターの化粧の濃い女に、チケットを渡した。

「宮本正守やな」

女から、低い腹に響きそうな声を聞いて、とうとう緊張で耳がおかしくなったかと、可笑(おか)しくなって、頬が緩んだ。
しかし、急に腕に痛みが走った。皮膚が捻(ねじ)れて痛い。

振り返った宮本が見たのは、自分を見下ろす体格のいい男と若い男だった。他に四人の睨みの効いた男たちが宮本を囲んでいた。
急なことで現状を理解できないまま、宮本の腕は自由の意思を奪われていた。男が宮本に黒い手帳と紙を見せて話しているが、考えることを止めてしまった宮本の耳には、何も入ってはいなかった。ただバリには行けない事実だけは、ぼんやりと、頭に浮かんできた。



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