朝起きて、硬いコンクリートに白いペンキで色を塗っただけの殺風景な食堂で、朝食を摂る。
焼き魚と温泉玉子。味噌汁と漬物に白飯。独身で一人暮らしの宮本には、久々のちゃんとした食事でも、続くと飽きる。
連泊なら、和洋と交互に出してくれとも言えず、黙々と箸を進めた。顔を合わさないが、一人か二人、宿泊客がいるみたいだった。宮本と同じ連泊客なのか、入れ替わっているのかまでは、分からない。
食べ終えた物を下げる時に、女将の洗った食器が濡れて並んでいるから、宮本が勝手に想像している。
夕食は、渡された地図を持って店を回るから、飽きないのが救いだった。
初日は近場を散策して、観光、釣りと、のんびりと過ごした。無自覚に罪の意識があるのか、宮本は帽子を深く被っていた。
高飛びの準備ができたら連絡をくれると言っていた青山から連絡は、まだ来ない。予定は早い段階で決まっていたのに、高飛びの準備はしていなかったのかと、疑問に思い始めていた。
貰った携帯で青山に連絡を取ろうとも思った。だが、機嫌を損ねるかもと考えると、一歩が踏み出せないし、男たちの「怒らせるなよ」の言葉が邪魔する。
気を取り直して宮本は散歩をしてから、前日に予約を入れておいたモーターボートを借りて、湖に出た。釣りの名目もあるから、竿を垂らさない訳にもいかない。
塗装の剥げたボートにいささかの不安を覚えて、適当な距離でモーターを止めた。一応は釣り竿を準備して、糸を垂らす。
真剣にするつもりがなかった宮本は、船底に座って、ぼうっと空を見上げた。出勤時間を気にする必要はないのに、長い期間に刻み込まれた習慣のせいで、七時前には目が覚める。朝食は八時からなのに、ギリギリまで寝ていたい宮本を、身体は無視をする。
身を隠している緊張感はあるが、今は受け身になっているせいか、昼食を食べると眠気に襲われる。
銀行で働いている時は、眠気に襲われるなんて全然なかった。うとうとしている暇がなかったのと、緊張感を持っていたのかと、今なら思えた。
湖は海のような波はなく、風で起こる小さな漣(さざなみ)が心地いい。青山が用意してくれる先に行けば、毎日を今みたいに過ごすのかと、嬉しいけど、堕落していきそうで怖い。
そもそも宮本には、これといった趣味がない。何か見つけないと駄目だなと、目前にある自由に悩み始めていた。
うつらうつらとしていたが、お腹が鳴り始めて体を起こした。時間はすでに昼を過ぎていた。
「もう一時かあ」と久々に声を出して気づいた。
ここに来てから、宮本は数えるほどしか声を出していない。声を出すどころか、人とほとんど会話もしていない。
ますます自由があるとはいえ、独居老人に近づいているではないか。身震いをした宮本はエンジンを吹かして湖畔に戻った。
ボートの返却手続きを済ませて、目星を付けていた蕎麦屋の暖簾(のれん)を潜(くぐ)った。
「いらっしゃいませー!」の元気な挨拶に、ビクリとする。
一人席に案内され、貰ったメニューにあった、蕎麦と茶蕎麦、天麩羅とおひたし、刺し身の乗ったランチ御膳を注文した。
店内は宮本と、近所の人らしき老人が二人、離れて座っているだけで閑散としている。温かみのある照明と、手入れが行き届いている店内は、割烹料理屋を崩した感じだった。行楽シーズンや休日は繁盛しているのかもしれないと、宮本は推測した。
手持ち無沙汰に待っている間、ぼうっとしてみたり、店内を見回してやり過ごしていると、ふいに太腿からの振動で驚いて少し腰が浮いた。携帯の振動に急かされて、ポケットの出口で引っかかった。
やっと取り出し、店員に目で合図をしながら店の外に出た。
周りに誰もいないのに、反対の手で口元を隠す仕草になった。
「宮本さん。どうもどうも。お待たせしまして。準備ができたんで、連絡させてもらいました」
飄々とした感じで、世間を騒がしている黒幕だとは思えない口ぶりだった。反対に考えると、そんな男だからこそ、なのかもしれないと宮本の頭にもたげた。
「ほんまですか? どうしたらいいんですか?」
「そのまま、関空まで移動してもらったらええんで。移動は電車で、大阪まで出てもらわなあかん。新阪急ホテルから出てる一五時四〇分発の関空行きリムジンバスに乗って下さい」
「ほんでから、どうするんですか?」
情けない質問しか頭に浮かばない。青山の言葉に集中し、同時に頭の中にある余白で色々と考えた。
「待合室に入って右奥の椅子の裏に、コインロッカーの鍵を貼り付けてあります。ロータリーにあるコインロッカーに必要なもんを入れてあるから、バッグを持ってバスに乗り込んで、空港まで行ってもらったらいいんで」
青山の語調が、あまりにも軽く、緊張がなくて宮本は拍子抜けした。
「空港まで行ったら、どうしたらいいんですか? 青山さんも、おるんですか?」
聞きたいことは沢山あるのに、気だけが焦る。
「いや、宮本さんとは、もう会うことはないと思います。バッグに飛行機のチケットと偽造パスポート、逃亡先の住所、現金が入った通帳が入ってるんで、確認してください。出発は、明日の午前十一時の関空発やから、隣接する日航ホテルに泊まってもらいます。田中(たなか)裕介(ゆうすけ)で予約してます。そのへんも、バッグの中に入れてある紙に書いてありますんで」
親の庇護の元でしか生きてこなかった子供が、何の知識もなく社会に放り出されてしまったような、とてつもない孤独と恐怖感が宮本を襲った。
「ちょ、ちょっと待って下さい。逃亡先って、どこですか? あっちで、どうやってお金を下ろしたらええんですか? そこでどうやって生活したらええのか、教えてもらえないんですか?」
青山のこれ見よがしな溜息が聞こえてきた。
「逃亡先はバリですよ。言ってなかったですわ。すんません。でも、それ以外は、ネットで調べられるでしょうに。子供ちゃうねんから。一応、空港に監視役を待機させてますけど、バッグに入ってる紙で、こと足りるはずですから。とにかく関空に向かってもらえます?」
青山の声色が、面倒くさそうになって、見捨てられると咄嗟に浮かび、宮本は慌てた。
「あ、はい。分かりました。また何かあったら、電話します」
宮本は、青山の返事を勢い任せに封じて、電話を切った。
店の中に戻ると、宮本が座っていたテーブに豪華なランチ御膳が配膳されていた。せっかくの贅沢な昼食も、これから逃亡する緊張と、今後の不安で、全く味を感じなかった。
昼食を掻き込んで急いで民宿に戻り、関西空港まで道順を携帯で確認する。
民宿から近江舞子駅までは、歩いて五分もかからない。駅から京都行の電車に乗り、途中で新快速に乗り換えて大阪駅まで出る。予定通りでいけば、三時過ぎにはバスターミナルに着いているはず。
急いで脱ぎ散らかったままの衣服を纏めて、鞄に詰めた。そのまま宮本はバッグを持って一階玄関まで下りる。受付には人の気配がなく、カウンター隅に置いてある呼び鈴を鳴らした。
「はいはい。あら、お帰りですか?」
「ええ。ちょっと仕事の予定が早まったしもて。すみませんが、チェックアウトお願いします」
会計を済ませて、駅のホームに入ったのは、電車が来る五分前だった。
予定通りの時間に大阪に着いて、直ぐさまバスターミナルに向かう。
待合室の真ん中の椅子に、一人のスーツを来た中年男が座っていた。タブレットを持っていて、宮本が入ってきたのも気づいていない様子。
さり気なく宮本は、奥の椅子に座る。指示された通り、椅子の裏には鍵がテープで貼り付けてあった。
宮本は不謹慎だと考えながら、スパイみたいで少し心が弾んだ。携帯を触りながら数分の時間を空けてから、待合室を出た。
鍵に付いた番号のロッカーは、縦長の大荷物用だった。鍵を差し込むと、クルッと簡単に回った。
ゆっくり扉を開けてみると、子供一人が入れるほどの黒いバッグが入っていた。ロッカーから取り出すと、中にほとんど物が入っていないせいか、情けない形になっている。
高架下で薄暗くて、バッグの中身をハッキリと確認できない。宮本はしゃがみこんで、半ば手探りで、中に入っていたクリア・ファイルを取り出した。
青山から聞いたとおり、パスポートなどの必要な物が一式、揃っている。まだ何かあるのに気づいた宮本は、深いバッグ底に手を突っ込んで何かの塊を掴んだ。
伝わってきたのは宮本がよく知る感触だった。そっとチャックの縁まで持ち上げると、やはり一〇〇万円の束だった。ただ、万札ではなく、ヨレヨレのカラフルな海外の札束だった。もう一つの束は、ドルと円が輪ゴムで縛られている。
ふと濁流のように不安が宮本を飲み込んだ。残りの金の影がない。まんまと青山に乗せられて、自分の手元にはバッグの中に入っている分だけで終わりなのではないか。
利用するだけ利用されたのか。思う一方で、ちゃんと逃亡の段取りをしてくれているし、手段は不明だが、約束を守ってくれるはずだと、気持ちの振れ幅で船酔いしたみたいに気持ち悪くなってきた。
とにかく、まだバスの出発まで時間はある。すぐ近くのイングスと、ヘップファイブで手早く衣料品などを買い足すために走った。
手早く買い物を済ませ、ターミナルに戻ったのは、出発の五分前だった。バスに乗り込んだ宮本は、緊張していた糸が切れたのか、直ぐに瞼が重くなってきた。
次に目を覚ましたのは運転手の声だった。
ぼんやりした頭でバスを下りた宮本に、バスのエアーの音が耳に入ってくる。音に合わせて宮本の足から力が抜けていきそうになり、何とか踏ん張り直す。
日航ホテルのロビーに入ると、いささか圧倒された。