オヤマカチャンリン
ー/ー
最後尾座席に座った報いとして、入管手続きには時間をとられた。覚悟していたジュディスは自分でも驚くほどゆったりとした気分で周囲を見渡した。
(ヒースローに比べたら、コンパクトな空港ね)
海を越えたことは何度かあったが、それは毎回ドーバー海峡越えまでで、ヨーロッパを離れるのは初めてだった。
ヨーロッパへの旅も両親と一緒ということが多かったので、極東の神秘的な島国への一人旅には多少の不安を感じてはいた。
隣席のタイラーに話したとおり、父のスタンレー・ハモンドは一九八二年のフォークランド紛争に参加した。帰国後、二男一女を授かった。ジュディスには二人の兄がいたが、父はどうしても女の子が欲しかったのだと母から聞いている。高祖父の代から四代、ハモンド家は女児にめぐまれず、四世代をかけた当主たちの宿願がやっとジュディスによって果たされたのだ。
スタンレーは、長男、次男の誕生後、懐妊のきざしを見せぬ妻とともに女児を諦めかけていた四十歳でジュディスを得た。バトル・オブ・ブリテンの英雄、曽祖父のサー・アルバート・ハモンドも存命していて、父と祖父、曽祖父、三代のハモンド家当主は、久しぶりの女児の誕生を躍り上がって喜んだという。
祖父のウィリアム・ハモンドは、第二次世界大戦のとき二十歳で、イギリス海軍の巡洋戦艦レパルスに乗艦していた。レパルスは一九四一年のマレー沖海戦で日本軍の航空機攻撃によって沈没した。当時、通信兵だったウィリアムは戦死を免れ、駆逐艦ヴァンパイアによって救出された。そのせいか彼は日本を嫌うことが甚だしい。それがジュディスにとって多少の障害となっている。
「でも、おじいちゃん、おじいちゃんたちを救出中の船を日本軍は攻撃しなかったんでしょ」
軍人一家に育ったせいか、風変わりなことに女子であるにもかかわらず戦記を読むのが好きなジュディスの反駁に祖父は、不機嫌そうに黙ってしまう。彼女はこの話が好きで、当時の日本にはイギリスと同じ騎士道精神、いや日本では武士道精神か、それが残っていたのだと思っている。
バトル・オブ・ブリテンでスピットファイヤーのパイロットだった曽祖父アルバートの父、ジュディスにとっては高祖父にあたるウォルター・ハモンドはイギリス陸軍の士官だった。ウォルターは長命だった。一八七九年生まれで一九七三年、九十四歳で永眠した。この高祖父が、ジュディスがケンブリッジ大学の日本学科で勉強することになるきっかけを作った。
ウォルターはイギリス陸軍の士官として、一九〇四年から一九〇五年にかけて、今の中華人民共和国の、当時満州と呼ばれた地で日露戦争の観戦武官として日本軍の幕営に滞在していたのだ。
第二次大戦では敵味方に分かれたが、日露戦争においてイギリスは日本と同盟を結んでいた。ジュディスはそれが、イギリスの国益のための冷徹な計算の上でのことと知ってはいたが、日露戦争は、まだ騎士道精神が残されていた時代の、最後の戦争として彼女の記憶に定着している。
ウォルターの満州における体験は、曽祖父アルバートに語り継がれ、アルバートも九十五歳までの長寿を保ったため、父もたっぷりとアルバートを通して日露戦争の話を聞かされていた。話を聞くだけではなく、ウォルターの時代、多くのイギリス人がそうであったように、公費によって外地に赴いた者として、なかば義務のように記録を残していた。ジュディスは高祖父ウォルターの日記を何度も読んでいるうちに、日本という極東の島国に興味を覚えるようになった。
ウォルターの日記には、たびたび大山巌元帥の名が登場した。
ジュディスは、大山巌が当時の日本陸軍の総司令官であることを知った。
高祖父は大山巌と接することが多く、次第にその人柄に魅了されていったようだ。その人となりを「闊達でユーモリストで、元帥という地位にありながら、いかめしい外観を見せようという気などまったくないように思われる」と書いていた。「常に身近なことを話題にして、その場の雰囲気を寛がせる社交性を持っていた」とも書かれていた。
日露戦争における観戦武官は、通常五、六名という参加各国にあって、イギリスは同盟国ということもあってか、三十三名という多数の武官を派遣していた。
各国観戦武官中、イギリス陸軍イアン・ ハミルトン中将が年齢的にも階級的にも筆頭で、高祖父のウォルターは中将の下で陸軍少佐として満州の地に赴いた。二十五歳のときだ。
ウォルターは上官のハミルトンが残した大山巌元帥評には、あまり賛同していなかったようだ。
ハミルトンの大山評が「大山元帥は、殿様のようだった」とか、その容貌について「好男子とは言えない」などといった表層的表現に終始したことに反発を感じていたのかもしれない。それに反してウォルターの手記には元帥大山巌の内面についての記載が多かった。
日記にウォルターの筆跡ではない言葉が記されているのを発見したジュディスは、当初、それが日本語であることがわからず、東洋の魔法の呪文、おまじないかなにかだと思っていた。ジュディスが見た東洋の呪文はこう書かれていた。
「オヤマカチャンリン」
それは、ウォルターが大山元帥に頼み込んで書いてもらった文字だということだった。
ウォルターは、その文字のあとに言葉の意味を書き加えていた。それは大山元帥の若かりし頃にさかのぼる話だ。
日英同盟よりもはるか以前、日本が統一国家として世界史に登場する前夜ともいえる江戸時代末期において、イギリスは大山元帥の故国、薩摩という日本の一公国と戦争をした。その局地戦は勝敗がつかず引き分けとなったが、大英帝国は東南アジアの小さな島国に、それまで見てきたアジア的民族とは別種の、武士と呼ばれる支配階級を見つけた。
ジュディスは、日本の武士がヨーロッパのノーブレスオブリージュを体現する貴族などの高い身分の者が持つ高潔な精神性と同じ価値観を保有していることを知ることになる。
当時、フランスがすでに幕府という各公国の盟主に近づいていたため、イギリスは対抗上、薩摩に肩入れをした。薩摩は、反幕府の旗幟が鮮明な長州という公国と同盟し、幕府と戦闘状態になる。内乱であった。戦争中イギリスは表面上局外中立の立場をとっていたが、新時代の趨勢を読み、新政権をいちはやく承認した。
その頃、大山巌は大山弥助と呼ばれていた。
弥助は自分を抜擢してくれた西郷隆盛という指導者の薫陶をうけ、そのもとで武器の買い付けもすれば、戦場で砲隊長として各地に転戦もした。自らの名がついた弥助砲という大砲も作った。計数に明るく、非常に有能な実務担当者だったのだ。同時にユーモリストでもあった。仲間から「また大山がチャリば言う」と親しまれていたそうだ。「チャリ」とは「冗談」ということらしい。彼の生国の言葉だとウォルターは書いていた。
「オヤマカチャンリン」とは「また大山がチャリば言う」という彼の若かりし頃の同僚たちの親しみをこめた人物評がその底流にあったらしい。同時に、彼の参加する戦役では、彼がチャリを言うときは戦況が芳しくないときが多かったため、大山が冗談を言う時(オヤマカチャンリン)は、戦地情報に気を配る必要があると部下たちに注意喚起を促す働きをしたそうだ。上意下達で部下を使うのではなく、やんわりとしたユーモアで、それとなく気づかせる手法が大山流だった。
高祖父のウォルターは、大山巌を戦場における指揮官として、勝ちにあっては奥にひっこみ、功を部下に委ね、窮地にあっては皆の緊張を和らげるユーモリストとなり、抜擢した有能な部下に自由な仕事をさせ、すべての責任を一身に背負う人だったと書いている。
ジュディスは、ウォルターの手記の中に、人の上にたつ者がもつべき特性を見事なまでに体現した人物を見いだした。そして、遥かな極東の地、日本への憧憬と、大山巌という人物への尊崇の念が胸の内に宿ったことを自覚した。それは母国のチャーチルや、サッチャーという政治家以上に彼女にとって理想的な指導者として刻み込まれることになった。
ジュディスは日本の歴史をさらに深く学ぶことにした。ケンブリッジ大学に進学したのもそこに日本学科があったからだ。彼女は大山巌の生きた江戸時代末期から明治時代末期までを深く学んだ。そしてその過程で彼女は大山巌の哀しみも知ることになる。
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最後尾座席に座った報いとして、入管手続きには時間をとられた。覚悟していたジュディスは自分でも驚くほどゆったりとした気分で周囲を見渡した。
(ヒースローに比べたら、コンパクトな空港ね)
海を越えたことは何度かあったが、それは毎回ドーバー海峡越えまでで、ヨーロッパを離れるのは初めてだった。
ヨーロッパへの旅も両親と一緒ということが多かったので、極東の神秘的な島国への一人旅には多少の不安を感じてはいた。
隣席のタイラーに話したとおり、父のスタンレー・ハモンドは一九八二年のフォークランド紛争に参加した。帰国後、二男一女を授かった。ジュディスには二人の兄がいたが、父はどうしても女の子が欲しかったのだと母から聞いている。高祖父の代から四代、ハモンド家は女児にめぐまれず、四世代をかけた当主たちの宿願がやっとジュディスによって果たされたのだ。
スタンレーは、長男、次男の誕生後、懐妊のきざしを見せぬ妻とともに女児を諦めかけていた四十歳でジュディスを得た。バトル・オブ・ブリテンの英雄、曽祖父のサー・アルバート・ハモンドも存命していて、父と祖父、曽祖父、三代のハモンド家当主は、久しぶりの女児の誕生を躍り上がって喜んだという。
祖父のウィリアム・ハモンドは、第二次世界大戦のとき二十歳で、イギリス海軍の巡洋戦艦レパルスに乗艦していた。レパルスは一九四一年のマレー沖海戦で日本軍の航空機攻撃によって沈没した。当時、通信兵だったウィリアムは戦死を免れ、駆逐艦ヴァンパイアによって救出された。そのせいか彼は日本を嫌うことが甚だしい。それがジュディスにとって多少の障害となっている。
「でも、おじいちゃん、おじいちゃんたちを救出中の船を日本軍は攻撃しなかったんでしょ」
軍人一家に育ったせいか、風変わりなことに女子であるにもかかわらず戦記を読むのが好きなジュディスの反駁に祖父は、不機嫌そうに黙ってしまう。彼女はこの話が好きで、当時の日本にはイギリスと同じ騎士道精神、いや日本では武士道精神か、それが残っていたのだと思っている。
バトル・オブ・ブリテンでスピットファイヤーのパイロットだった曽祖父アルバートの父、ジュディスにとっては高祖父にあたるウォルター・ハモンドはイギリス陸軍の士官だった。ウォルターは長命だった。一八七九年生まれで一九七三年、九十四歳で永眠した。この高祖父が、ジュディスがケンブリッジ大学の日本学科で勉強することになるきっかけを作った。
ウォルターはイギリス陸軍の士官として、一九〇四年から一九〇五年にかけて、今の中華人民共和国の、当時満州と呼ばれた地で日露戦争の観戦武官として日本軍の幕営に滞在していたのだ。
第二次大戦では敵味方に分かれたが、日露戦争においてイギリスは日本と同盟を結んでいた。ジュディスはそれが、イギリスの国益のための冷徹な計算の上でのことと知ってはいたが、日露戦争は、まだ騎士道精神が残されていた時代の、最後の戦争として彼女の記憶に定着している。
ウォルターの満州における体験は、曽祖父アルバートに語り継がれ、アルバートも九十五歳までの長寿を保ったため、父もたっぷりとアルバートを通して日露戦争の話を聞かされていた。話を聞くだけではなく、ウォルターの時代、多くのイギリス人がそうであったように、公費によって外地に赴いた者として、なかば義務のように記録を残していた。ジュディスは高祖父ウォルターの日記を何度も読んでいるうちに、日本という極東の島国に興味を覚えるようになった。
ウォルターの日記には、たびたび大山巌元帥の名が登場した。
ジュディスは、大山巌が当時の日本陸軍の総司令官であることを知った。
高祖父は大山巌と接することが多く、次第にその人柄に魅了されていったようだ。その人となりを「闊達でユーモリストで、元帥という地位にありながら、いかめしい外観を見せようという気などまったくないように思われる」と書いていた。「常に身近なことを話題にして、その場の雰囲気を寛がせる社交性を持っていた」とも書かれていた。
日露戦争における観戦武官は、通常五、六名という参加各国にあって、イギリスは同盟国ということもあってか、三十三名という多数の武官を派遣していた。
各国観戦武官中、イギリス陸軍イアン・ ハミルトン中将が年齢的にも階級的にも筆頭で、高祖父のウォルターは中将の下で陸軍少佐として満州の地に赴いた。二十五歳のときだ。
ウォルターは上官のハミルトンが残した大山巌元帥評には、あまり賛同していなかったようだ。
ハミルトンの大山評が「大山元帥は、殿様のようだった」とか、その容貌について「好男子とは言えない」などといった表層的表現に終始したことに反発を感じていたのかもしれない。それに反してウォルターの手記には元帥大山巌の内面についての記載が多かった。
日記にウォルターの筆跡ではない言葉が記されているのを発見したジュディスは、当初、それが日本語であることがわからず、東洋の魔法の呪文、おまじないかなにかだと思っていた。ジュディスが見た東洋の呪文はこう書かれていた。
「オヤマカチャンリン」
それは、ウォルターが大山元帥に頼み込んで書いてもらった文字だということだった。
ウォルターは、その文字のあとに言葉の意味を書き加えていた。それは大山元帥の若かりし頃にさかのぼる話だ。
日英同盟よりもはるか以前、日本が統一国家として世界史に登場する前夜ともいえる江戸時代末期において、イギリスは大山元帥の故国、薩摩という日本の一公国と戦争をした。その局地戦は勝敗がつかず引き分けとなったが、大英帝国は東南アジアの小さな島国に、それまで見てきたアジア的民族とは別種の、武士と呼ばれる支配階級を見つけた。
ジュディスは、日本の武士がヨーロッパのノーブレスオブリージュを体現する貴族などの高い身分の者が持つ高潔な精神性と同じ価値観を保有していることを知ることになる。
当時、フランスがすでに幕府という各公国の盟主に近づいていたため、イギリスは対抗上、薩摩に肩入れをした。薩摩は、反幕府の旗幟が鮮明な長州という公国と同盟し、幕府と戦闘状態になる。内乱であった。戦争中イギリスは表面上局外中立の立場をとっていたが、新時代の趨勢を読み、新政権をいちはやく承認した。
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弥助は自分を抜擢してくれた西郷隆盛という指導者の薫陶をうけ、そのもとで武器の買い付けもすれば、戦場で砲隊長として各地に転戦もした。自らの名がついた弥助砲という大砲も作った。計数に明るく、非常に有能な実務担当者だったのだ。同時にユーモリストでもあった。仲間から「また大山がチャリば言う」と親しまれていたそうだ。「チャリ」とは「冗談」ということらしい。彼の生国の言葉だとウォルターは書いていた。
「オヤマカチャンリン」とは「また大山がチャリば言う」という彼の若かりし頃の同僚たちの親しみをこめた人物評がその底流にあったらしい。同時に、彼の参加する戦役では、彼がチャリを言うときは戦況が芳しくないときが多かったため、大山が冗談を言う時(オヤマカチャンリン)は、戦地情報に気を配る必要があると部下たちに注意喚起を促す働きをしたそうだ。上意下達で部下を使うのではなく、やんわりとしたユーモアで、それとなく気づかせる手法が大山流だった。
高祖父のウォルターは、大山巌を戦場における指揮官として、勝ちにあっては奥にひっこみ、功を部下に委ね、窮地にあっては皆の緊張を和らげるユーモリストとなり、抜擢した有能な部下に自由な仕事をさせ、すべての責任を一身に背負う人だったと書いている。
ジュディスは、ウォルターの手記の中に、人の上にたつ者がもつべき特性を見事なまでに体現した人物を見いだした。そして、遥かな極東の地、日本への憧憬と、大山巌という人物への尊崇の念が胸の内に宿ったことを自覚した。それは母国のチャーチルや、サッチャーという政治家以上に彼女にとって理想的な指導者として刻み込まれることになった。
ジュディスは日本の歴史をさらに深く学ぶことにした。ケンブリッジ大学に進学したのもそこに日本学科があったからだ。彼女は大山巌の生きた江戸時代末期から明治時代末期までを深く学んだ。そしてその過程で彼女は大山巌の哀しみも知ることになる。