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イギリスからきたレディ

ー/ー



ヒースロー空港から東京国際空港への直行便、ブリティッシュ・エアウェイズBA七便、ボーイング七七七ー三〇〇ERの機内でシートベルト着用のサインがついた。すでに一時間半前から機内の照明が明るくなり、二回目の機内食を食べ終えた乗客は我先にラバトリーへと向かった。
 エコノミークラス最後尾の通路側に座っていたその女性は、トレイの回収を待つことなく、さっさと客室乗務員に渡してしまい、皆よりも先に手洗いをすませていた。ラバトリーやギャレーが機内後方に配置されていることが彼女に味方したようだ。あるいはそれと知って最後尾の席を選んだのかもしれない。
 優良顧客以外では最初の乗機グループだったので荷物を棚にまっさきに収めることができたし、後席を気にする必要がなく背もたれのリクライニングをフルに倒すこともできた。
 最後尾席は機の両サイドともに二列となる。それもまた、彼女がそこを指定した理由だったのかもしれない。通路側の席では、三列シートだと奥に座る二人のために席を立たねばならないことになるが、二列ならばそのリスクが減る。
 隣に座っていたビジネスマンが感に堪えたように彼女に話しかけた。
「旅なれていらっしゃいますね」
 巡航高度に達するなり、サングラスをかけてストールを巻き、自前のイアホンを終始、耳にかけて機内サービスのオーディオを聞いていた彼女にそれまで声をかけそびれていたようだ。彼女のイアホンは後部座席特有のエンジン音対策だったのだろう。
「こんなに長時間のフライトは初めてですけど」
 サングラスをはずすと、サファイアのようなブルーアイと美しいアーチを描く眉があらわれた。センター分けのブロンドの髪は軽く肩までかかる程度の長さである。
「ファーストクラスやビジネスクラスを利用するのは、まだ駄目だと父や祖父から言われているんです」
 その言葉から、彼女が裕福ではあるけれども躾の厳しい家の子女であることが察せられた。
 ビジネスマンもイギリス人なのだろう。彼女のプライベートに立ち入る質問は控えたようだ。
「日本は初めてですか」
「ええ」
 BA七便が高度を下げ始めた。空気抵抗を最大限に得るためにフラップが作動する音が機内に響く。対地速度が落ちてゆく。
「フルフラップですね」
「失礼?」
 彼女の言葉にビジネスマンが反応した。
「父と曽祖父がパイロットでしたの。二人からよく話を聞かされていたもので、飛行機が好きになってしまって」
「民間機のパイロットでいらっしゃる?」
「いいえ、曽祖父はバトル・オブ・ブリテンの戦闘機パイロットでした。退役したときは大佐だったと聞いています。父はフォークランド戦争で空母ハーミーズ搭載のシーハリアー艦上攻撃機のパイロットでした」
 第二次世界大戦のイギリス本土の制空権をかけたドイツとの航空戦に曽祖父が参加し、一九八二年のイギリスとアイルランドの紛争には父が参加したという。彼女は軍人の家系なのだ。
「お二人とも国に尽くされたのですね」
「ええ」
「もしかしたらサーの称号を?」
「はい。曽祖父は本土防衛の武勲を称えられて叙勲されたそうです」
 ビジネスマンはあらためて目の前のうら若い女性を凝視した。
 その視線に、少し居心地の悪そうな表情となった彼女は話題を変えた。
「十二時間も座りっぱなしというのは初めてなので、飛行機を降りるときにつまづきそうですわ」
「帰りはもっとかかりますよ。一時間くらい余分に。偏西風のせいですが」
 ランディングギアが下がる音がした。
 ビジネスマンが背を座席に押し付け、彼女のために窓の外の景色を提供した。雲と空ばかりの景色が海面にかわっていた。幾つもの船が白い航跡を描いている。
「東京湾です。シティなみにものすごく混雑する海です」
 ビジネスマンは渋滞で悪名高いロンドンの交通事情に例えて眼下の海の実情を伝えた。きっと何度も日本に来ているのだろう。
 海岸線に沿って連なる埋立地のような区画化された土地の先に頂を白く染めた円錐状の山が見えた。
「あれが富士山です。日本の象徴のような山です」
「BBCの日本特集で見たことがありますわ」
「標高は三千七百七十六mです。我が国の最高峰ベン・ネビスよりも二千四百mほど高いのです」
「よくご存知ですのね。日本にはビジネスで?」
「申し遅れました。私はエドワード・タイラー、保険の仕事をしています。日本には年に数回来ています。今回は三年ぶりになりますが。例の……」
「COVIDー19のせいですね」
「ええ。でも、もう大丈夫でしょう」
「マイルがたまりますね」
 タイラーはにっこりと笑った。
「映画の『マイレージ・マイライフ』みたいにね。BAのライフタイム・ゴールドメンバーシップを目指しているんです」
「頑張ってください。私はジュディス・ハモンド、ご一緒できて光栄でした」
「もう少し早くお話ができていたら、と少し残念です」
 ボーイング七七七ー三〇〇ERが着地した。ふんわりとした衝撃の少ないランディングだった。スラストリバーサー(逆推力装置)がかかり、シートベルトが二人のからだに軽く食い込んだ。
「パイロットの腕がいいみたいですね。とてもきれいな着地だった」
 ジュディスは、タイラーに微笑みながら言った。


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ヒースロー空港から東京国際空港への直行便、ブリティッシュ・エアウェイズBA七便、ボーイング七七七ー三〇〇ERの機内でシートベルト着用のサインがついた。すでに一時間半前から機内の照明が明るくなり、二回目の機内食を食べ終えた乗客は我先にラバトリーへと向かった。
 エコノミークラス最後尾の通路側に座っていたその女性は、トレイの回収を待つことなく、さっさと客室乗務員に渡してしまい、皆よりも先に手洗いをすませていた。ラバトリーやギャレーが機内後方に配置されていることが彼女に味方したようだ。あるいはそれと知って最後尾の席を選んだのかもしれない。
 優良顧客以外では最初の乗機グループだったので荷物を棚にまっさきに収めることができたし、後席を気にする必要がなく背もたれのリクライニングをフルに倒すこともできた。
 最後尾席は機の両サイドともに二列となる。それもまた、彼女がそこを指定した理由だったのかもしれない。通路側の席では、三列シートだと奥に座る二人のために席を立たねばならないことになるが、二列ならばそのリスクが減る。
 隣に座っていたビジネスマンが感に堪えたように彼女に話しかけた。
「旅なれていらっしゃいますね」
 巡航高度に達するなり、サングラスをかけてストールを巻き、自前のイアホンを終始、耳にかけて機内サービスのオーディオを聞いていた彼女にそれまで声をかけそびれていたようだ。彼女のイアホンは後部座席特有のエンジン音対策だったのだろう。
「こんなに長時間のフライトは初めてですけど」
 サングラスをはずすと、サファイアのようなブルーアイと美しいアーチを描く眉があらわれた。センター分けのブロンドの髪は軽く肩までかかる程度の長さである。
「ファーストクラスやビジネスクラスを利用するのは、まだ駄目だと父や祖父から言われているんです」
 その言葉から、彼女が裕福ではあるけれども躾の厳しい家の子女であることが察せられた。
 ビジネスマンもイギリス人なのだろう。彼女のプライベートに立ち入る質問は控えたようだ。
「日本は初めてですか」
「ええ」
 BA七便が高度を下げ始めた。空気抵抗を最大限に得るためにフラップが作動する音が機内に響く。対地速度が落ちてゆく。
「フルフラップですね」
「失礼?」
 彼女の言葉にビジネスマンが反応した。
「父と曽祖父がパイロットでしたの。二人からよく話を聞かされていたもので、飛行機が好きになってしまって」
「民間機のパイロットでいらっしゃる?」
「いいえ、曽祖父はバトル・オブ・ブリテンの戦闘機パイロットでした。退役したときは大佐だったと聞いています。父はフォークランド戦争で空母ハーミーズ搭載のシーハリアー艦上攻撃機のパイロットでした」
 第二次世界大戦のイギリス本土の制空権をかけたドイツとの航空戦に曽祖父が参加し、一九八二年のイギリスとアイルランドの紛争には父が参加したという。彼女は軍人の家系なのだ。
「お二人とも国に尽くされたのですね」
「ええ」
「もしかしたらサーの称号を?」
「はい。曽祖父は本土防衛の武勲を称えられて叙勲されたそうです」
 ビジネスマンはあらためて目の前のうら若い女性を凝視した。
 その視線に、少し居心地の悪そうな表情となった彼女は話題を変えた。
「十二時間も座りっぱなしというのは初めてなので、飛行機を降りるときにつまづきそうですわ」
「帰りはもっとかかりますよ。一時間くらい余分に。偏西風のせいですが」
 ランディングギアが下がる音がした。
 ビジネスマンが背を座席に押し付け、彼女のために窓の外の景色を提供した。雲と空ばかりの景色が海面にかわっていた。幾つもの船が白い航跡を描いている。
「東京湾です。シティなみにものすごく混雑する海です」
 ビジネスマンは渋滞で悪名高いロンドンの交通事情に例えて眼下の海の実情を伝えた。きっと何度も日本に来ているのだろう。
 海岸線に沿って連なる埋立地のような区画化された土地の先に頂を白く染めた円錐状の山が見えた。
「あれが富士山です。日本の象徴のような山です」
「BBCの日本特集で見たことがありますわ」
「標高は三千七百七十六mです。我が国の最高峰ベン・ネビスよりも二千四百mほど高いのです」
「よくご存知ですのね。日本にはビジネスで?」
「申し遅れました。私はエドワード・タイラー、保険の仕事をしています。日本には年に数回来ています。今回は三年ぶりになりますが。例の……」
「COVIDー19のせいですね」
「ええ。でも、もう大丈夫でしょう」
「マイルがたまりますね」
 タイラーはにっこりと笑った。
「映画の『マイレージ・マイライフ』みたいにね。BAのライフタイム・ゴールドメンバーシップを目指しているんです」
「頑張ってください。私はジュディス・ハモンド、ご一緒できて光栄でした」
「もう少し早くお話ができていたら、と少し残念です」
 ボーイング七七七ー三〇〇ERが着地した。ふんわりとした衝撃の少ないランディングだった。スラストリバーサー(逆推力装置)がかかり、シートベルトが二人のからだに軽く食い込んだ。
「パイロットの腕がいいみたいですね。とてもきれいな着地だった」
 ジュディスは、タイラーに微笑みながら言った。